2019年1月8日火曜日

Kはその時、何をしていたか 4 仮説1に対する疑義

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 話し合いの中で、反対する者の意見を取り上げるのは無論のこと、敢えて仮説1(「自殺の準備」説)に対する反論を考えさせるのも意味がある。

 問   仮説1に根拠を挙げて反論せよ。


 まずは、この晩から実際にKの自殺が決行されるまでの十日あまりの空白をどう考えればいいのか、という点である。この間、Kの自殺の意志はどうなっていたのか。Kがこれ以降の数日間に、たびたび隣室の「私」の眠りの深さをうかがっていたという様子もない。名を呼んだこの晩に「私」が目を覚ましたというのに、遂に自殺を決行した土曜日の晩には結局隣室で、しかも襖を開けて事に及んだのでは、この「偵察」が無意味になってしまう。
 そもそも、この晩にでも自殺しようと考えている者が、わざわざ襖を開けて、隣室で眠っている者の名を呼ぶのは不自然である。襖を閉めたままでも確認はできる(三十八章では「私」とKは襖越しに会話を交わしている)。
 この反論に対しては、Kの自殺の決行が、「私」が目を覚ますかどうかに拠っていること自体に、Kの迷いを見る解釈が新たに提出される。つまり、目を覚まさなかったら決行していたが、むしろKは「私」が目を覚ますことで決行を延期することを(つまり「私」に止めてもらうことを)どこかで望んでいた、というのである。
 だがこの解釈は「覚悟」という言葉の強さと、先のA、Kの声が「普段よりもかえって落ち着いていた」という形容との間で不整合を生ずる。
 そこで解釈に微妙な修正を加えて「いずれ自殺するための準備として、まずは隣人の睡眠状態を確かめた」という解釈を提示する者が現れる。これならばこの夜の訪問が自殺と関係のあるエピソードでありうるし、訪問がこの晩のみのものだった理由もつく。Kは「私」が簡単に目を覚ますことを確認して、しばらくは決行を延期したのだ。翌朝の「近頃は熟睡ができるのか」とかえって向こうから問う意味ありげなやりとりとも符合する。
 ただしこの解釈を支持するならば、もしも「私」が目を覚まさなかったらKはこの晩のうちにでも自殺を決行していたのだ、という魅力的な想像を諦めることになる。
 いずれにせよ、Kが「私」の睡眠の深さを、自殺の完遂のために必要な条件だと考えていたとすると、実際にKが自殺した晩にKが襖を開けたままにしている理由がわからない。また、わざわざ熟睡の程度を確認してまで、それが障害になるかもしれないと考えるくらいなら、そもそも「私」の寝ている隣室で自殺などしなければいいのである。
 つまり、このエピソードを「自殺」に関連させて解釈するだけでなく、むしろ四十八章でKがなぜ襖を開けたまま自殺したのかという問題を、四十三章の解釈と関連させて考えなければならないのである。そのとき、四十三章で襖を開けて「私」の名を呼ぶKの心理を「隣室の友人の眠りの深さを確かめた」ものだと解釈することの妥当性が問われる。
 仮説1「自殺の準備」説に対する疑義は、この段階では以上のように詳論しなくてもかまわない。生徒の意見も、仮説1しか挙がらないわけではない。議論の展開の頃合いをみて、問②の解として例えば以下のように選択肢を提示する。

a 今晩自殺するつもりで、隣室の友人の睡眠の状態を確かめようとした。
b いずれ自殺をするつもりで、隣室の友人の睡眠の状態を確かめようとした。
c 何らかの話をしたかった(が話し出せずにやめた)。
d Kの言葉通り、特別な意味はない。

 選択肢を整理して、一度、どれを支持するか全員に挙手などで聞いてみても面白い。その上でそれぞれの説について、賛否の根拠を挙げて話し合う。
 cのような意見も生徒から挙がる。これも厳密には「私に何か言いたかった」と「私から何か聞きたかった」と分かれるのだが、abのように分けずに「話したかった」とまとめてしまってもいい(分けてもいい)。cについては、では何を話したかったのか、そしてなぜ話すのをやめたのか、といった当然の疑問に答える必要がある。
 dという選択肢も今後の授業展開のために挙げておく。そもそも皆がdに納得できないからこそ、こうした授業展開が可能なのだが、といってdの解釈が否定されているわけではない。他の選択肢について、明確に納得しがたい理由が挙がるのなら、やはりdを認め、その上でこのエピソードの「意味」を考えるという方向もある。
 だがやはり生徒の支持はabに集まるし、議論はabをめぐって行われるだろう。実際に「こころ」論者の多くもaかbを、あまり明確には区別せずに支持しているように思われる。
 だがabについての筆者の見解を言えば、冒頭に述べたとおり筆者はこれを支持していない。筆者も「覚悟」を「自己処決の覚悟」と解釈しているが、だからといってKがこの晩にそれを実行に移そうとしていたとは考えない。右に挙げたような疑問が解消されないという理由もあるが、その最大の理由は、この段階でKが自殺しようとしていたと考えるのは、物語がこの後、お嬢さんとの婚約の事実を知ってからKが自殺するという展開にいたるドラマツルギーと整合しないと考えるからである。Kがこの晩すでに自殺を実行に移そうとしていたのだと考えることは、その後の「私」の裏切りにいたる物語の展開の意味を無効にしてしまう。
 だからといって、それはKの自殺の動機を、友人の裏切りによる失恋だと想定しているということでは毛頭ない。Kの自殺の基本的な動機は、上野公園でKの口から語られる自らの「弱さ」への絶望だろうし、だからKがこの時点で「自殺の覚悟」を口にする必然性はある。ただ、Kがこの晩にそれを実行に移そうとしていたと考えるのは物語の因果律に則していない。これではKの自殺は単に「現実と理想の衝突」ということになってしまう。だがそうでないことは、教科書には収録されていない五十三章に「それ(「現実と理想の衝突」)でもまだ不充分でした」と明言されている。Kの自殺は「たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に」決行されたものだと考えなければならない。つまり自殺が決行された土曜日に初めてその条件が整ったのである。したがって、この晩にKが自殺しようとしていた(a)と考えるのは物語の論理からいって無理である。
 それでは、これが「覚悟」=「自己処決の覚悟」という言葉がKの口から語られた晩のエピソードであるという展開上の必然をどう考えればいいのか。
 確かに、Kの声が「落ち着いていた」のは、Kが自身の懊悩の決着の行方について、〈覚悟〉を宣言することで(あるいは自覚することで)、今現在の迷いにとりあえず決着をつけたことを意味しているのだと考えられる。
 ならばそのまま、Kはこの晩にでも自殺をしようとしていたのだと考えるべきだろうか。そうではない。「覚悟」とは、自己矛盾にけりを付けるために自己処決という手段を胸に秘めているという自覚を語った言葉であって、ただちに実行するつもりだ、と言っているわけではない。ただちに実行に移す「決意」や条件が整い次第実行に移す「予定」ではない。Kはこの時点ではまだそれを実行するに至る契機を得ていないのである。
 「覚悟」はこの日のうちにKの中で確認されている。だがそれを決行するには、Kが奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の件を聞き、なおかつその後「二日あまり」沈黙のまま過ごすことが契機として必要なのである(この「二日あまり」の重要性については別稿にゆずる)。
 ではb説はどうか。Kが襖を開けて声をかけるのは、隣室の友人の眠りの深さを確かめるためであり、それはやがて実行に移すつもりの自殺の障害の有無を確認するためである、という解釈は、先に挙げた反論にもまして、何より理に落ちすぎていて、かえってこの晩のKの「心理」として腑に落ちない。それこそ「この時のKの気持ちを考えてみよう」とでも言いたくなる。
 ではcdの両説のいずれを採るか。いずれも、積極的に支持することが難しいのは、それらの解釈が魅力的でないという以上に、それではこのエピソードの意味が、結局はっきりしないからである。

0 件のコメント:

コメントを投稿