問① このエピソードの意味は何か。
問② Kは何のために「私」に声をかけたのか。
ここまでの、問①「エピソードの意味」、問②「Kの行動の意図」についての考察結果を通観してみる。
①の仮説1 Kがこの晩既に自殺しようとしていたことを示す。
②の仮説1 自殺の準備として「私」眠りの深さを確かめようとした。
①の仮説2 物語を展開させるはたらきをする。
②の仮説2 Kの言葉通り、特別な意味はない(d)。
①の仮説3 自殺する際に襖を開けたKの心理を推測させる手掛かりを与える。
②の仮説3 「私」に対して心のつながりを求めている(cd)。
①の仮説4 Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す。
先述の通り、①②ともに仮説1は採らない。①については仮説23をいずれも認めたうえで、仮説4こそが最も重要な「意味」だと考えている。②については仮説3のような表現が適当だろうか。
以上、仮説1から4までの授業展開は、必ずしもこの順に展開するわけではない。最初の検討の段階で既に生徒たちの間では1以外の説も同時に検討されている。実際に筆者が授業で最初に4を知った時にも、その生徒は授業の最初期に1と4を合わせた形で提示してきたのだった。生徒の発言に応じて授業は形を変える。こちらで用意している様々な検討事項も、適宜提示するしかない。だが少なくとも仮説3「襖の象徴性」については、こちらから参照すべき記述を提示しない限り発想されないはずだし、4については生徒からの自主的な発想がなかったら誘導するしかない。
その際に、仮説1の否定も、仮説2~4も、それぞれ「正解」であるかのように教えるつもりはない。解釈の一つの可能性として、生徒とテキストを「読む」のである。
実は「近頃は熟睡ができるのかとかえって向こうから私に問うのです。」についてどう考えるべきかについては今のところ確信がない。
これが最も整合的に解釈できるのは、Kが自殺の機会を得るために「私」の睡眠の状況を確かめているのだという解釈(仮説1)だが、それは先に述べたとおり、採らない。これは、単に懊悩のあまり眠れない自分の状況に対して「私」はどうなのだろうという素朴な疑問を口にしているのだという、つまりこれも、Kにとってはそれほど裏のある言葉ではないのに、「私」が殊更にそこに意味を見出してしまっているという解釈を仮説23ではしていた。
だが、前の晩に遺書を書いたのだという仮説4の解釈を採るならば、その晩に自殺を決行しようとしていたとは考えなくとも、またその決行がいつになるにせよ、その可能性を視野に入れて隣室の状況が気になってきたのだとは考えられるかもしれない。
上野公園の散歩のエピソードにおいて、Kが自己処決の「覚悟」をしていたこと確認することは、欠かしてはならない授業過程である。さらに四十三章の夜のエピソードは、右の解釈を採るならば、Kが自殺した後に「私」が(そして読者が)読むことになる手紙が、実は死の十日以上前の晩に既に書かれたものであることを示唆することで、お嬢さんとの婚約という「私」の裏切りがKを死に追いやったという、ありうべき誤解から読者を救うことが期待されているという役割を負ったものであることを確認することは重要な授業過程である。
だが一方で、奥さんから婚約の件について聞かされることは、Kが自殺を決行するための契機として必須であり、あくまでこの晩の自殺決行の可能性をこのエピソードに見てはならないというのが筆者の主張である。
そしてこの解釈は、小説中に直接的には描かれていない時間について読者が想像することの妥当性を試す。
果たして「私」が目を覚ますまでKは何をしていたのか。
これは自殺の直前にKが「私」の部屋との間を隔てる襖を開けて、「私」の顔を見下ろしていたであろう時間や、奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の話を聞いてからの「二日あまり」の時間のKについて想像することの必要性と同程度の必要性をもっているであろうか。それについて右にようにあえて想像することは妥当だろうか。
その妥当性に納得できたとき、読者は、小説の中で直接的には描かれていない時間の存在を想像することが許されるのである。
Kはその時、確かに生きていた。
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