2019年1月13日日曜日

Kはその時、何をしていたか 7 第4の仮説

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 筆者に、このエピソードの解釈についてのまったく新しい視点を示してくれたのはある年の授業における生徒の発言である(しかも、はからずも同じ年に別のクラスの生徒からそれぞれ同じ見解が提出されたのだった)。
 彼らは、Kはこの夜、「私」に声をかけるまで遺書を書いていたのだ、と言うのである。もちろんそれは四十八章で「私」が読むことになる遺書そのものである。今回の連載の最初の回に示した解釈である。
 筆者にとってこの解釈はまったく盲点であった。これは、そのように小説中に明示されてはいないから、確かにひとつの「解釈」である。管見によればこうした解釈は諸氏の論考で目にしたことがない。だが、この晩にでもKは自殺を実行に移す可能性があったと考える先のa「今晩自殺するつもりで、隣室の友人の睡眠の状態を確かめようとした」説を採る論者は、明らかにそのような言及をしていないというだけで、当然この晩のうちに遺書も書かれていると考えているのだろうか。そしてそれは次の週の土曜日の晩に発見されることになるその遺書そのもののことなのだろうか。それはわざわざ言明するまでもなく自明のことなのだろうか。それとも、この晩には遺書を書かずに自殺しようとしたのであり、遺書はやはり自殺を決行した土曜の晩に書かれたものだと考えているのだろうか。
 あるいはb説のように、いずれ実行する自殺のために様子をうかがっただけだと考えると、遺書はまだ書かれていなくともかまわないが、それが自殺の準備の一環である以上、この晩に遺書だけは書かれている可能性もやはりあるのである。
 一方、この晩にKが自殺しようとしていたとは考えない筆者には、当然、実際に決行された「土曜の晩」に遺書が書かれたと、特に考えるまでもなく自然に思われていた。だから最初にこの解釈を生徒が提示したときには、それが突飛なものに聞こえた。しかもそれはただaを補強するために考えられた強引な解釈に過ぎないように思われ、賛成はできない、と答えた。
 だが、その後考えているうちに、次第に別の可能性に思い至ってこの解釈について再検討することになった。

 さて、ここから先の考察は、授業という場で、生徒と共に進めていこう。
 筆者の授業では図らずも仮説1の検討の時点で既に生徒からこの解釈が提示されたのだが、そうでない場合、いわば人為的にこの新しい解釈の可能性に生徒を誘導しなければならない。そのためには、どのような問いを投げかけたらいいだろか。
 今回の実践では、仮説3への疑問を提示した後、考察を先に進めるというタイミングで次のように問うてみた。

 問   「私」に声をかけるまでKは何をしていたか。


 「何をしていたか」という問いに対して、生徒は何を考えるか。まずは本文を見る。「便所へ行った」というのがKの言明である。だがこれが本当かどうかは疑わしいし、本当だとしても、宵の口から声をかけるまでの間、ではない。声をかける直前であるに過ぎない。さらに想像を促すために次の問いを投げる。

 問   「私」に声をかけるまでKは起きていたか。起きていたとすると、そのように考えられる根拠は何か。


 読者は、Kが眠りから覚めて便所へ行き、そのついでに「私」に声をかけたのだとは考えない。Kはその時まで起きていたのだと感じられる。なぜか。
 「Kはいつでも遅くまで起きている男でした。」を根拠として挙げる生徒もいる。もちろんそれも傍証の一つだが、それよりも注目すべきは次のような描写だ。

 見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室(へや)には宵のとおりまだ灯火(あかり)がついているのです。

 ここでは、「Kの黒い影」ばかりが不気味な印象で読者の視線を捉えるが、ふと視線を逸らせてみればKの室内には「灯火がついている」。「灯火」は言わば「黒い影」の背景に過ぎないように見える。「Kの黒い影」は「黒い影法師のようなK」と繰り返されて読者の注目を誘導するが、一方「灯火」も「洋灯(ランプ)」と繰り返される。
 例えばこれが「間の襖が二尺ばかり開いて、そこに彼の部屋の灯りを背に、Kの黒い影が立っています。」などといった表現ならば焦点はあくまで「黒い影」に当たっている。だがわざわざ「そうして彼の室には宵のとおりまだ灯火がついている」と言及されることの意味を考えると、にわかにそれが、そこでKが「宵」から過ごした時間を暗示しているとも思えてくる。Kは暗闇で沈思黙考していたのではなく、ランプの下で何事かしていたのである。Kは何をしてそれまで起きていたのか?
 ここまで誘導すれば、生徒の中にも「遺書を書いていた」という答えが浮かぶ。可能性と言うだけなら平生の通り学問をしていても、ただ考え事をしていてもかまわない。だがこの場面で「Kは何をしていたか」という問いに対する答えとして、答えるに値すると感じられる答えは「遺書を書いていた」しかない。
 だがこの思いつきは、誘導に従って発せられたものであり、まだそれがどのような意味を持つかについて、答えた生徒自身も何らかの確信を得ているわけではない。

 問   Kがこのとき遺書を書いていたという解釈について検討せよ。


 この解釈を積極的に認めるべきか、否か。またそこから派生してどのようなことが考えられるか。
 そもそもこの「遺書」とは何のことか。
 無論、まさしくあの「手紙」のことである。まず生徒同士の検討の中で、ここでいう「遺書」が、物語の背後で人知れず反故にされ破り捨てられた下書きなどのことではなく、四十八章で読者の前に提示されるあの遺書のことだと確認される必要がある。
 つまりこのアイデアは、問①の「エピソードの意味」を次のように考えることを意味しているのである。

 ①の仮説4 Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す。


 この解釈の妥当性について考える重要な論点は、物語に直截描かれていない「事実」をどこまで認めるか、という問題である。すなわちここでは、「私」が目を覚ますまで、つまりKが襖を開けて「私」に声をかけるまでの間、Kは何をしていたのか、という想像である。語り手の「私」から見ればKが襖を開けてこちらに声をかけるまでの時間は存在しない。これは「私」だけでなく読者にとってもそうなのである。その時間のことをどこまで考える必要があるか。
 一般に、物語にとってのあらゆる展開の可能性の中で、直接描かれていない場面・時間は、とりあえずまだ存在はしていない。そしてそれについて想像しなければならない必要が常にあるわけではない。登場人物は、観客の目の前に登場する直前にスイッチを入れられて舞台に登場するロボットのようなものに過ぎない、とも言える。
 だが物語によっては、書かれていない時間・場所で起きた出来事について想像することが読者に要請される場合もある。推理小説などは語られている場面の裏で何が起こっていたかという想像こそが物語享受の作法の核心である。そうしたジャンル的特性に限らず、書かれていない時間について読者に想像を促す力学的必然性をもった物語は、それだけ豊かなものになりうるはずだ(もっとも、推理小説では結局物語内で語られてしまうのだが)。
 このエピソードにおいて、この想像は要請されているのだろうか。Kの「その時間」は物語にとって存在したのだろうか。
 そうした想像の要請を受け入れるためには何が必要か。何をもってそれを小説世界にとっての「事実」と見做すか。
 作者がそれを想定していたと考えるためには、わざわざ言及する必要のないほど当然と思われる「常識」以外は、その解釈につながるサインを文中に書き込んで読者に提示していることを納得する必要がある。
 文中で否定されていない解釈、というだけなら、相当程度の突飛な解釈でも明らかに文中で否定されるわけではないし、整合的に成立するというだけでも解釈の幅はかなり広く確保される。
 だが小説は現実ではないのだから、読者が解釈すべき物語世界の限界については、作者が文中に何らかのサインを書き込んでいることによって保証されると考えるべきなのである。この「遺書は上野公園の散歩の晩に書かれたものだ」という、文中で明示されていない「真相」を読者に伝えるべく漱石が残したサインが見つからないことには、こうした解釈を採る必然性はない(いわゆる「二次創作」をするのでなければ)。
 Kが遺書を書いていたという、小説に書かれていない時間を読者に想像させるべく作者が書き込んだサインは見つかるのか。

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