2019年12月7日土曜日

『JOKER』-予想を超えない

 娘の希望で映画館で。2時間あまりの映画体験を集中するには居間のテレビよりやはり映画館。
 前評判どおり、良かった。
 が、前評判の予想を超えなかった。
 もともとは心優しい男が、絶望が募って、ついには狂気に至る、という流れはレビューでわかっていた。そしてそれはうまく描かれている。
 虐げられた者の暴発は、一方ではカタルシスでもあり、一方では絶望の相互作用の悪循環にも転落する。だが、それは予想の範囲内でもある。快感と不快感のない交ぜになった混沌のまま物語は進んでいくが、もっと予想外の、しかし緻密に組み立てられた展開にならないかと、高望みしながら観ていて、そして結局そうはならないまま終わったのだった。
 もちろん、同じアパートの住人である黒人女性との関係が、どこからか妄想であるらしいことが示され、結局どこからかがわからないといった描写や、最後の病院のシーンも、そこまでの展開が妄想なのかもしれないという可能性を示唆するから、これは作劇上の大いなる工夫ではある。
 だが主演のホアキン・フェニックスの演技のレベルに匹敵する程の物語の起伏とは思えず、つまりはホアキン・フェニックスだのみになっている、と感じたのだった。
 もちろんホアキン・フェニックスは素晴らしかった。あの不気味な体型とダンスは、何だかわからない感情で心をざわめかせる。
 だが感情のありかたは「絶望と暴発」という以上の複雑なものとは感じられなかった。その意味で「わかる」。
 のだが。

 ところで、どういうわけか、主人公の行為が社会に伝染していく過程が描かれないのは大いなる不満だった。不全感がある。社会が主人公の意図を曲解しつつ、結局は同じ不満によって暴発していく過程は、相似形のはずである。言葉だけ「支持者がいる」と語られるが、街角にピエロは映されるが、それが社会的な狂気として描かれるカットが挿入されるわけでもなく、だがクライマックスでいきなり大規模な暴動として描かれるのは、まるでテレビ放送でカットでもされたのかと思うくらいの不全感だった。

P.S.
 途中の展開全てが妄想だったという解釈もあるというネット評を見て、なるほど、街角で見るピエロもまた妄想なのかもしれず、そういう意味で途中の小規模暴動は描かれないのだ、という可能性もあるかと再考。

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