2019年12月15日日曜日

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』-どこもかしこも芳しい

 最初の方を観て、一人で観るのが惜しくなって家人を誘って観た。
 老いて認知症になったサッチャーの現在と、若い頃から首相時代までの彼女の人生が並行して描かれる。
 大いに満足してネットで見ると日本人には必ずしも評価が高くない。確かにサッチャーの伝記映画としては食い足りないんだろう。
 だがそこではないのだ。メリル・ストリープの演技と、映画としての描写力で、どこもかしこも芳しい。若き日の、夫からのプロポーズの場面やら、ラストの別れは大いに泣かせるし、政治家としての決断の厳しさも孤独も、老いの孤独も心に迫る。映画を観ることの素晴らしさに溢れている。
 その中で考えていたことを二つ。
 フォークランド紛争の戦闘命令について、アメリカから苦言を呈される。大使は「自分は戦争に行ったことがある」というが、それに対してサッチャーは「自分もずっと戦ってきた。男達の中で。」と返すのだが、女性の社会進出にともなう困難と戦争の悲惨を同列に並べて、サッチャーの決断を勇気あるもののように描くのは違う、と感じた。まさかサッチャーさん本人がそんなことは言ってはいないだろうから、これは映画的な演出の失敗だと思う。

 もう一つ、気になったこと。冒頭から画面に登場して主人公と会話をする夫が、本人にしか見えない幻想であることが観客にわかる展開は、以前書いたことがある映画的映像トリックだが、これが全体を通して重要な構造なのだった。ずっと以前に死んでいる夫がそこにいるかのような主人公の振る舞いは、単なる認知症による妄想というだけではなく、半ばわかっていてそうしているようにも見える。夫の遺品の整理がなかなかできないでいる、という現実は認識されているようだからだ。
 映画の結末は、想像の中の夫に別れを告げて遺品を整理することで、残された日々に前向きになる、ということなのだろう。これはすこぶる感動的なのだが、この転換がどうして訪れたのかが一度観てもわからなかった。そうなると単なるご都合主義的ハッピーエンドに見えかねない。何らかの必然性を納得させて欲しい。
 夫の妄想は、老境の孤独の慰めであると共に、そうした現実を受け容れ難いことへの桎梏を表現しているようにも見える。中盤で、想像の夫を必死に否定しようとしているからだ。
 これが結末の夫との別れに至る転換点は、若い頃からの人生の回想が首相を辞めた時点まできたときだ。伝記的な回想と映画としての物語の終わりをシンクロさせている、というだけなのだろうか。もう一つ、必然性のようなものは見出せるのか。
 様々な立場の対立が政治にはある。それは単なる正誤の対立ではなく、別の価値や方策の対立なのだからやむを得ない。そうした対立に基本的には勝ち続けてきたサッチャーが、最終的には支持を減らして首相を逐われるのだが、そうした敵対する相手を想像の中で、想像の夫と共に「臆病者」と繰り返し罵倒する勢いのまま、遺品の整理へとなだれ込む。
 この展開はどういう必然性なのだろう。
 妄想とはいえ、そうした思いを他人に向けて言葉にして表すことで自分自身が納得したからだ、というのが家人の解釈だが、これはつまり言うことを言ってすっきりしたから、ということなのだろうか。
 対抗してこちらも無理に理屈をつければ、政治的対立者を「臆病者」と罵って後、さて、夫は既にこの世になく、自分もまた老いさらばえていることを認めない自らこそ「臆病者」だと気づくことで、一歩を踏み出したのだ、という解釈はどうだろう。
 遺品の整理のカットは勢いもあって高揚感があり、その終わりに夫の妄想が消えていく場面は切ない。そして翌朝の彼女は何歳かは確実に若返ったように見える。結婚時には「皿洗いをして終わるような女にはならない」と言っていたのと対応して、紅茶のカップを洗う姿に朝の小鳥の鳴き声がかぶる。
 すこぶる感動的だ。

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