2019年5月7日火曜日

『蜘蛛の瞳』-結局妄想なのか?

 借り物のBDを予備知識なしに観始めると、なんとなく演出やら編集やらのリズムに覚えがある。なんだこれは、と思って途中で止めて調べてみるとやっぱり黒沢清だった。とはいえ、寺島進やら大杉漣やらの出てくるヤクザ映画だから、北野武的でもある。ダンカンも重要な役どころだし。
 というか、場面とか物語的な展開の唐突さが北野的でもあり、黒沢的なのだった。映画中何度も、あ、結局殺しちゃうのか、となる。この唐突さが北野映画の「映画的」なところではあるのだろう。異化効果と言ってしまえば何でもありという感じでもあるが。
 さて、面白かったかというと微妙なところではある。この違和感がどのように自分にとって必要な感覚なのか。多分、割り切れる解釈を可能にしてはいないのだろうから、あんまり考察してもしょうがないのだろうと思うのだが、ではこの訳のわからなさをどこまで受け止めるべきか。よく考えられたうえでそのように描かれているのなら考える甲斐もあるのかもしれないが、たぶんそれほど意味はない。
 冒頭で主人公が、娘を殺された復讐のために誘拐犯を拉致して拷問し、殺して埋めたらしい様子が描かれるが、人体らしき、布を被せた人体大のテルテル坊主様の物体が、主人公を脅かすようにしばしば画面に登場する。それ以降の悲惨な展開も、この潜在的不安が導因となっているように見える。
 ところがあらかたの登場人物が死ぬと、主人公は日常に(以前とは違う形ではあれ)復帰するように見え、それとともに、殺して埋めたはずの、娘の誘拐犯が生きていることが示され、テルテル坊主の布がはずれて中から棒杭が表れる。
 これはそこまでの展開が妄想だったことを示しているように見えるのだが、途中の展開が、振り返ってみればそう描かれていると思えるようには描かれていない。結局なんなんだ?

 主人公の哀川翔ありきの企画なのかも知れないが、何をやっても哀川翔にしか見えないこの演技力のなさをどう評価すればいいのか。浅野忠信が評価されるのがわからないのと同様のわからなさ。演技の「うまさ」とは別の存在感というのだろうが、わかったようなわからんような。

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