2025年10月13日月曜日

『SMILE』-いまいち

 以前パイロット・フィルムを見たのだが、長編としてはどうなるのやらと。そのパターンは『ライト/オフ』でがっかりしているのだが、本作も同じだった。長編は、短編の鮮烈さほどの満足を与えてはくれない。

 呪いが伝染していくという設定は『リング』『イット・フォローズ』の先例があるから斬新というわけではない(最近も『真・鮫島事件』があった)。敵が誰かに化けるというのもそれほど珍しいわけではない。

 だからホラーとしては単に演出の問題として面白くなるかどうかなのだが、怖いところは単純なジャンプスケアだったり、陰鬱な雰囲気の多くは主人公の過去のトラウマが原因だったりして、ホラーとしてはいささか筋違い。いや、ホラーがトラウマと結びつくことは、ホラーが単なる対化物のバトルにならないために必要な設定でもあるはずなのに、最後に敵が手足の長いクリーチャーになるところは実に残念だった。そういう風に「化物」を期待しているわけではないはずなのに。自殺者がなぜか不気味な笑顔になるとか、呪いが伝染するとかいった設定は、恐怖の対象がクリーチャーになるようなタイプの怖さを期待しているのとは違うはずだ。

 何より、怖さを優先しているつもりか、ラストがハッピーエンドにならないエンタテインメントを求めてはいない。必ずしも映画の怖さは映画で完結してほしいと言っているわけではない。怖さが映画を超えて現実に侵食してくるような設定ではないのだ。ならば完結してほしい。でないとカタルシスがない(ここも『真・鮫島事件』と同じ)。


2025年10月4日土曜日

『Last Letter』-弱い

 9年前の公開の時にも映画館に行こうかどうしようかと迷いはしたのだが行かずじまいで、結局アマプラの見放題終了間近におされて。

 岩井俊二は、あるときはわかりにくいがあるときはわかりやすい。どういう発想で作られているのかわからないカットや台詞があったりもするのに、本人が喋るとわかりやすいことばかり言う。そのまま作品もそうだったりする。

 そして本作はきわめてわかりやすい映画だった。そして、薄かった。密度が低かった。これがアンサーになっているのは明白な劇場映画第一作『Love  Letter』は、比べてみれば濃い。色んな要素が詰め込まれている。エピソードの数も、そこで企図されている映画的面白さの要素も。

 それに比べてこれはなんと平板なのか。代筆による文通という設定は『Love  Letter』ゆずりだが、あちらがその設定からさまざまな展開を描いていたのに比べ、本作はいくらもそうした展開をしない。主人公が姉に代わって書いている手紙と、娘達が母親に代わって書いている手紙の2系統が進行するという工夫をするなら、それらがどう干渉してどんな事件を巻き起こすかと期待される。していると、何も起こらない。それぞれに、実は我々が書いていましたと明かされる平板な展開があるだけ。


 大人になることの喪失感が描かれるのは岩井自身の年齢を感じさせて、それは大いに描いてほしかった。生徒会長で絶世の美少女の広瀬すずが、悪い男につかまって零落した挙げ句に自死する設定も、森七菜にとっての「ヒーロー」たる神木隆之介が、書けない小説家で貧しいアパートに一人暮らしという設定も、胸の痛む話ではあるが、それはリアルに描かれれば映画の強さではある。「悪い男」に豊川悦司、「書けない小説家」に福山雅治という配役も皮肉が効いている。ここに、いかにもな悪い男や冴えない中年を置いては興ざめだ。

 だがこれを映画の強さと感じさせるには、広瀬すずと神木隆之介の高校生時代がもっと輝いていなければならない。まるっきり不足していたと思う。あれでは零落の喪失感は弱い。

 そうなると、最後に描かれる希望も弱い。

 思えば『Love  Letter』の中学生時代は豊かな物語的色彩に溢れていた。あれを描くには、単に作家の体力が足りないということなのだろうか。

 ただ広瀬すずの涙だけは強かった。


2025年9月30日火曜日

2025年第3クール(7-9)のアニメ

『追放者食堂へようこそ!』

 なろう系の異世界物もクールにいくつかを見るようになってしまっているが、これも、特にどうということもないのだが結局最後まで見通してしまった。実にどうということもないので、本当に、溜めずに録画した翌日くらいにいつも見ていた。作画が良いわけでもないし、人物やストーリーに特段面白みもないのだが。

 敢えて言えば、強くて頼りになる主人公が料理人であるところか。


『ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される』

 『追放者』同様、どうということもないが、虐待されていた少女が報われていくという構造自体はそれ自体が快感なのだから、観て不快でなければ、という感じで見通してしまった。それにしても設定自体は『わたしの幸せな結婚』とあまりに似ている。が、あちらを、それでもアニメの質の高さで1クール見通してしまった挙げ句に結局、主人公の内向きな性格と「王子様」のパターナリズムにいささかうんざりしたのに比べると、本作の「王子様」の、万能ぶりと裏腹な馬鹿っぽさと、ヒロインのいたずらに憐憫を誘うではない健気さはそれなりに楽しく観られる条件を備えているとはいえる。


『その着せ替え人形は恋をする』

 前シーズンに変わらず、作画のレベルは終始高く、これが可愛い物語を楽しむことに必要なのだと思わされた。作画や演出の質が低いと「可愛い」はむしろ不快感を感じさせる。それもなく、登場人物たちの感情の機微に共感することができた。


『青春ブタ野郎はサンタクロースの夢を見ない』

 3話ごとに原作小説を消費していくという贅沢な構成で、前シリーズに負けずに面白い。描かれる感情の強さも、展開の起伏も。

 そして、ものすごく気になる終わり方をして、劇場版公開の宣伝をする劇的胸熱展開は『ハルヒの消失』『夢見る少女の』同様の衝撃だった。


『薫る花は凛と咲く』 

 少女マンガ的に見えるのだが、『マガジンポケット』の読者層というのはどんな感じなんだろう。お嬢様学校の生徒と工業高校の金髪ピアス男子生徒の恋愛というのは、誰の需要なのか。

 作画と演出が実に丁寧な仕事をしていて感心した。CloverWorks作品は『着せ替え人形』『青春ブタ野郎』と、1クールに三つもコンプリートする作品があってすごい。

 1話を、視点を変えて最終話でもう一度描き直す構成は素晴らしかった。


『光が死んだ夏』

 アニメには珍しいホラーというジャンルの原作を、精密な作画で見せる。時として背景は実写を加工しているようでもある。基本的な設定が「ぼぎわんが来る」に似すぎてないか、というのが気になるが、こちらは青春物でもある。それが何を中心にしているかというとBL的な承認欲求のぶつかりあいなところがいささかついていけない。

 もうひとつは人外のキャラクターをどう描くかという問題がここでも。AIを描くことが、ほとんどの物語で成功していないように、ここでも人外がどうにも人間過ぎる。一応説明としては、そのような「精」のようなものが人間の器に入ったからだという理屈があるようだが、それでもにじみ出す人間でなさをどう描くかが興味ではあるのだが、そこは残念。この分野ではやはり『寄生獣』が、そこを真っ当に考えていたのだな。


『ブスに花束を。』

 主人カップルの善人ぶりが、ばかばかしいと感じることもなく爽やかでよかった。この感じは『スキップとローファー』だな。あれほどの強さはないが、途中でやめようとも思わずに微笑ましく見続けた。


『フェルマーの料理』

 アニメーションの質は低かったが、毎回の引きの強さは恐ろしく強く、娘と毎回大盛り上がりで見続けた。


『転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます』

 第2シーズンで、前回に続いて1クール見続けた(第1シーズンは書き落としている)。登場人物一人一人にスポットを当てるエピソードの積み重ねが、それなりにそれぞれドラマチックで悪くない。

 なんか、主人公の無敵ぶりがワンパンマンなみだな。


『ダンダダン』

 前シリーズ同様、アニメの質の高いのに引っ張られて見続けたが、1クール最後まで観て、ああ面白かった、とはならないのは残念。キャラクター、ストーリーテリング、怪異の造型、どれもいまいち。


『サイレント・ウィッチ 沈黙の魔女の隠しごと』

 ヒロインの二つ名「沈黙の魔女」は、人見知りで口下手だからなのだが、自信なげに口ごもる口調に聞き覚えがあるなあと思っていたら、そのうち『ノブタをプロデュース』の堀北真希だと気づいた。

 ドジっ娘を主人公にしたアニメは多くの場合うんざりしてやめてしまうのだが、これは単に可愛らしさとか可笑しさをねらってあざとくドジっ娘を描いているようにも思えず、むしろその健気さと、周囲の真面目な応対が心地よい人間関係を作っていた。

 まだまだ謎の設定が保留なのだが、2期があるのだろうか。羊文学がOPとEDに使われるくらいに気合いの入ったアニメのようなのだが。


『ガチアクタ』

 録り溜めて見ないまま2クール連続放送。


2025年9月22日月曜日

『僕達はまだその星の校則を知らない』ー愛おしい

 学校ドラマといえば今年に入って『御上先生』にがっかりしたが、これはどうか。

 最初のうち、登場人物がカメラ目線で状況を説明したりするメタな演出などにハシリ、これはどうなの、と思ったが、全校集会で壇上に上がった生徒会長(男子)がスカートをはいていて、翌日から休み続けるという謎の展開で見せるのは、これはなかなかうまいぞと思わされた。結局良い話におさまって良かったと思ったのだが、この1話、終盤で見直したら大感動してしまった。表現されているのは「友情」の一つのありようなのだが、これを安っぽかったり暑苦しかったりせずに、切実で抑制が効いていて深慮に支えられながら純真だと感じさせる脚本の力と役者陣の仕事に敬意を表したい。

 その後も、とりわけ若手俳優陣の熱演に支えられて感動的なエピソードが描かれるのは『最高の教師』以来だ。

 学校という空間を好きになれない子供はいる、という至極真っ当な事実を誠実に描いていて、一方でいたずらに学校を悪者にすることなく、といって青春の幻想にまみれた聖域として描くでもない。『御上先生』のように、教育問題を描くと振りかぶりながら完全に肩すかしになっているドラマと違って、とても愛おしいドラマだった。


2025年9月21日日曜日

『何者』-いたい

 どこでやら高評価だったので。

 原作は途中まで読んだ覚えがあるが、映画を観ながらも、まったく記憶がよみがえらなかった。一方で就職活動をする大学生の話、という枠組みからは、全く意外性のない展開ではある。

 展開はともかく、語り口は実にうまい。就職活動に奔る周囲の大学生を見下しながら、自分は何か価値のあることをやろうとしていると思っている登場人物の語ることなど、実にそれらしい。これは明らかに言葉の力のあることがわかる芸で、おそらく原作の小説からもってきたものだろう。どういう言葉遣いに、バランスの悪い過剰な自意識が表れるか、それをいかにもな例で示してみせる。

 就職活動に対する取り組み方に、それぞれの価値観が表れる。実際はどういうふうに合否が決まるのかはもうちょっと不明なはずだが、物語では必然性のある形で合否が決まっていく。それがそれぞれの心のどんな波紋を広げていくか、静かなサスペンスに満ちた描写で描かれ、それがいくつかの局面で噴出する。いたい。いわゆるイタい人物ではない誰もが、同様にいたい。それはとてもリアルだ。


2025年9月20日土曜日

『地震のあとで』-モヤモヤ

 村上春樹原作のドラマ。録画してから4話全部を観るまでに半年くらいかかった。

 評価は難しい。画面も音楽も、なんだか高級そうではある。演出の井上剛は『クライマーズハイ』『いだてん』だし、脚本の大江崇允は『ドライブ・マイ・カー』の共同脚本だ。演出が弛緩したところがあるわけではないし、出演陣は岡田将生に堤真一に佐藤浩市と超一流。

 しかしなんともモヤモヤした挙げ句に原作を読んでみた。

 原作もおんなじだった。まったく同じモヤモヤが村上春樹の小説にもある。そういう意味ではとてもよくできた映像化であり、舞台を30年後の現在に移しているからどうだということもなく、多くの人の手を借りて世に出ることの意味があるのやら。

 何がモヤモヤと言って、ひたすらに意味ありげ、なのだ。そして意味は結局確定されない。村上春樹はずっとそうだ。何かを指し示していそうな象徴やらガジェットやら言葉やら展開やら形容やらが、簡単には意味を明らかにしてはくれず、だからといって意味などないのだと棄てておけない実に微妙なバランスでちりばめられている。全編にわたって。

 それを何事かと解釈することが村上春樹の楽しみでもある。ゲーム的に、ということではなく、解釈できないこととできることの間で引き裂かれるコンプレックスに翻弄されることが。

 だがなんというか、現状は、めんどくさい。ゲームにもコンプレックス・ゲームにも。


 さて、とりわけモヤモヤするのは『かえるくん、東京を救う』だ。のんのテレビドラマ出演は喜ばしいが、この設定には大いに疑問がある。まるで『ミミズの戸締まり』ではないか。ということは、同じようにここでも、この設定には納得できない。東京で大地震が起こっていないことは、かえるくんと片桐の死闘のおかげだということになっている。ということは、阪神・淡路や東北では、誰かが仕事をサボったのだ。あるいはミミズが地震を起こすのは人々の悪意の蓄積のせいであるように言われるが、それなら、震災の犠牲者はそれらの悪意の犠牲者なのか。なぜその人々が?

 この話は片桐の選民意識的優越感をくすぐるという意味で、きわめてラノベの心性に似ている。

 いいのか。ノーベル賞候補になろうって人の小説が。

 だが一方で、この作品に引きつけられる人が多いという話も聞く。なぜだ。


『メイキング・オブ・モータウン』-アメリカ現代音楽史

 モータウンレコードについての基礎知識をこの際だから仕入れようと、…などというさもしい期待をはるかに超えて面白い映画だった。

 創始者のベリー・ゴーディが、盟友スモーキー・ロビンソンと、豊富な逸話を面白く語っていくのだが、それだけでなくドキュメンタリー映画としての構成が実に見事だった。歴史を語りつつ、そこに起こる出来事が生き生きと語られていくだけでなく、モータウンレコードの果たした役割がアメリカ現代史として語られる。もちろん現代音楽史でもあるが、人種問題としてのアメリカ現代史だ。

 そして、モータウンの成功がそのシステムにあると語られるところが面白い。ベリー・ゴーディはフォードの自動車工場に勤めていた経験を活かして、音楽制作に、確固たるシステムを構築しようと意図する。利益を追求する効率重視の制作体制。

 だがもちろん、そこに個人の才能が不可欠であることも、同時にいたいほど感じられる。スモーキー・ロビンソンはもちろん、マービン・ゲイにスティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソンといった天才が、しかもとびきりのパフォーマンスで画面に登場する。

 日本の音楽制作では、しばしば、レコード会社対、良い音楽のために、音楽のわからない会社員の硬直した体制と闘うアーティストという構図が語られるが、本作では才能を持った集団が、良い物を作るという目的のためにしのぎを削りつつも集団として力を発揮していく姿が語られ、なおかつそこから飛び出ようとする巨大な才能のありようも語られる。制作が単なる個人の芸術的発露にとどまらない。そうした「場」の力が印象づけられる。

 ドキュメンタリーとしては、ベリー・ゴーディとダイアナ・ロスの恋愛が、危機からのロマンスとして劇的に語られるところも実にうまい。 

 モータウンの曲をライブでやりたくなった。