2026年9月9日水曜日

『俺とマコトと終わらない昼休み』

 今年度の文化祭で演劇を選んだのは2クラス。3年生の舞台は観るタイミングがとれなくて残念だったが、2年生のクラスは縁があるので意識して機会を作った。

 最初にこれをやると聞いたときには、そういえば何年か前の全国高校演劇大会に出てた演目だったなと思い出した。NHKでその一部が紹介された時にも、昼休みがループするという設定に惹かれたものだが、ここで観る機会が得られることになるとは。

 「昼休み」という設定から舞台は教室だが、このクラスが発表したのも特別教室ではない普通教室だった(特別教室は抽選に負けたとのこと)。教室の窓側半分を舞台、廊下側半分を客席とするのは、教室を発表場所とする時の常套手段だが、その「舞台」には教室用の机椅子が並べられている。舞台監督の前口上に続く暗転の間にキャストが着席している音がして、明転すると授業の一場面から物語は始まる。クラスの半数以上の生徒がキャストとして、そのまま普段の「教室」を再現する。無論この授業の教師の話もまた物語のテーマにまつわる伏線なのだが、ほどなく授業が終わって問題の昼休みになる。思い思いに席を移っていつものグループで集まると雑然とした「昼休み」が再現される中でいくつものドラマの断片らしきものが観客の前に提示されていく。

 そうするうちに、突然アラートの音が響いてみんながスマホを見る。一人の生徒が立ち上がって周りを見回し、観客席側の窓の方を指さして大声でミサイルの襲来を告げる。キャストの生徒たちが一斉に観客席側に詰め寄って窓の上方を指さしてそれをみとめ、直後に一斉に反対側にしゃがみ込んで叫ぶ。暗転と共に点される赤い不穏なフットライトに、観客席から遠い側の席で一人の女生徒だけが立ち尽くしているのを観客は見る。この一連の、身体的にも音響的にも激しい動きは、観客の強い動揺を誘発して、会場全体に、ただ事ではないこの舞台の緊張を生む。

 一瞬おいてフットライトの消えた暗転下、ドラムのビートによるSEが鳴り始めると、みんなの移動の気配がして、明転すると生徒たちは元の席に戻って4限の終わりが再現され、チャイムとともに同じような昼休みが始まる。なるほど、ここまでがループするのだ。4限の終わりから、ミサイル襲来までの8分間。

 同じ繰り返しの中で、少しずつ違った情報が提示される。観客の注意を集めるために、あるグループの会話が殊更に声を大きくして、それ以外の生徒はサイレントで演技をする。そうして徐々に人間関係やそれぞれの生徒の立ち位置が観客に把握されていく。

 今が文化祭のエントリーの締め切り間際であり、クラスがそれに対して積極的でない空気が示される。冷笑と諦念が支配する教室の中で、委員長が必死に(義務的に?)呼びかけをするが、教室の空気は変わらない。そうした空気をやがてミサイルが破壊し、昼休みがループする。

 繰り返される中で、物語の中心となる二人のドラマが次第に明らかになってくる。

 これは平和な日常が、実は常に戦争の脅威にさらされていることを暴いている物語でもあるが、それをも隠喩として、登場人物たちにとっての日常に潜む脅威、すなわち冷笑と諦念が支配する教室の空気が、毎日「繰り返される」物語でもある。ループは、そうした空気の支配が常態化していることを示してもいる。

 スクールカーストを前提とする人間関係と、そこで起こる「いじめ」という「脅威」に対するミサイルの襲来による破壊は、日常に潜む不安の隠喩であると同時に、そこからの解放の願望でもある。

 SFにおけるディストピアは、戦後には科学の進歩した未来に対する不安の表現であったが、高度経済成長を越えてからはむしろ日常の破壊願望を表してもいる。人類消滅やゾンビ蔓延といったディストピアに対する奇妙な憧憬は、宮台真司が90年代に言った「終わりなき日常」に対する絶望感の裏返しでもある。ロメロの名作「ゾンビ(Dawn of the Dead)」は明確にそのことに対する批評となっていた。我々は確かに文明の終末を望んでいたし、しかしゾンビはゾンビになってもショッピングモールに集まって「終わりなき日常」を「生きて」いたのだ。それは繰り返される代わりばえのしない日常こそがグロテスクなディストピアでもあることの透かし絵でもあった。

 だが、高校生の物語が終末を目指してはならない。「終わりなき日常」は「成長」という変化によって打ち破られなければならない。それが観客によって期待された「物語」のはずだ。

 まずはミサイルの脅威から逃げる可能性が試行される。だがループする8分という時間は、ミサイルから逃げるには短すぎることが示される。

 ではどうするか。

 ミサイルの襲来に象徴される政治や世界情勢といった大状況を高校生が変える展開を描いてしまえば安易になる。だがこれはそもそもの「終末」が高校生たちの日常によって要請されたものだから、この日常の変化、すなわちループからの脱出がミサイルの襲来を阻止することになるのは物語の因果律としては必然だ(高校生たちの成長が描かれながらなおミサイルによる終末が描かれるような物語ももちろんありうる。それは現代の日常に潜む脅威に焦点を当てることになる)。

 ループから脱出しなくてはならない。それははどのような契機によってなされるのか。

 すなわち高校生の「成長」はどのように描かれるのか。


 高校生たちの痛みとそれに対する抵抗に、劇中で何度かこみあげそうになる場面があるのだが、その一つは主人公の「8分あれば、逃げることはできなくても、告ることはできる。」という台詞だった。

 終末が迫っているのに何を暢気な、と言うことはできない。そもそも戦争の阻止もミサイルからの逃走もできないという設定の中でできることを探ろうとしているのだ。それが、主人公の試みる「クラスメートのことを知ろうと努める」であり、「告白」なのだった。ループの中心にいるヒロインは、主人公の奮闘に「そんなことして、なんになるんだ?」と苛立つが、なるほど、ミサイルもループも、クラスの空気の隠喩なのだとすればその空気を変えるための手段は、素朴にいえばコミュニーションしかない。

 一つ目の告白がコメディとして描かれるのはもちろん楽しく、これは冷笑的なクラスの空気を変える第一歩にはなるが、むしろ物語としては、こうした空気に潜むもう一つの「脅威」が観客に示されるのはその後である。ヒロインを務める生徒の圧倒的な演技によって、その絶望が、ミサイルによる破壊願望の切実さが、明らかになる。

 それを変えるのが二つ目の告白だ。机の上に立つというのが「ここから見ると世界が変わって見える」という言葉ほど意味のある振る舞いであることに今ひとつ納得はできないが、狭い会場で高低差をつける演出は、観客の視線を大きく上下させるダイナミズムがあって効果的だった。

 ともあれこの告白によってループを抜けた5時間目が初めて描かれ、また象徴的な英文の朗読の後、主人公とヒロインが互いに向けたピースサインによって締めくくられるラストシーンは、多幸感が満ちていた。


 「告ることはできる」とともに感動的だったのは、クラスでのいじめ=「シカト」が明らかになる場面で、教室から出て行くヒロインを追おうとする主人公を一人の女生徒が制止する「わかってやんなよ。あの子だって気ぃ遣って出て行ったんだから」という台詞だった。この生徒は優等生的な委員長の友人として、クラスでは上位グループにいる。そうした立場でこの台詞を言うならば、たとえば青臭い主人公を諫める傍観者的上から目線で、クールな口調で言う、という選択もありうる。だがこの劇中では、台詞の後半に向けて叫ぶように発せられたことで、単に主人公の行動に対する諫止や非難ではなく、この生徒自身の痛みを聞く者に感じさせた。理想主義的な主人公の行動に対する共感と、だがそれを止めることでクラスの現状のバランスを維持したいと考える矛盾、ヒロインが出て行かざるを得ない状況に自分自身が加担しているという自覚、自らの無力さへの苛立ちとヒロインに対する罪悪感。

 原作では別の生徒が言う台詞として設定されているから、これもまたこのクラスの舞台において生じた独自の輝きの一つなのだろう(この台詞を言う配役生徒自身のキャラクターのせいでもある)。


 クラスの作り上げた舞台の感動には不足ない。成功の要因に脚本の選定があることは間違いないが、その可能性を実現したのは裏方も含めたクラス全体の力だった。

 だがそれだけに、さらにこの物語の持っている可能性について、ない物ねだりをしたくもなった。

 原作は高校演劇だから規定の60分をなるべく目一杯使っているはずだが、今回の上演では原作のシナリオにあったいくつかの会話がカットされ、50分ちょっとにおさまっている。この処理は上手い。面白くならなさそうな会話をカット(あるいはサイレント芝居に隠して)、物語にとって重要な会話を際立たせている。

 なくてもいい要素はなくてもいい。だが「クラスの空気が変わるとループから抜けられる」という物語の大きな因果律を支えるのに、一つの告白に頼るというのは単純すぎる、とも感じた。

 教室を再現したこの物語は、もっと群像劇であってほしい。

 もちろんそうなってもいる。だが十分かと言えば納得しかねる。クラスの演技も演出も申し分ないから、これはシナリオに対する期待だ。

 主人公がヒロインに対して「一緒にいる」と言うことでヒロインがなにがしか救われるとして、主人公の他の足掻きはクラスに何をもたらしているのか。昨日のやりとりから小さなわだかまりを作っているらしい女子生徒二人や、一人で本を読んでいる生徒、一人奮闘する委員長の状況はどんなふうに変化するのか。そして何より最大の「脅威」であるクラス全体からの無視という「いじめ」に対しても、小さな変化の片鱗を見せてもいいのではないか。

 もちろんそれらを安易に描くことはできない。それを変えることの困難は、わずかな変化としてのみ描かれるべきではある。だがそれらを描くことが、群像劇としてのこの物語の厚みはさらに増すであろうと夢想してしまう。

 例えば上記の二人の女生徒のエピソードを、Queerの「問題」として、少ない情報量で示すのは唐突にすぎる。だからそれは高校生にありがちな小さな諍いとその和解として描かれるか、そうでなければしかるべき一つの「物語」としてちゃんと描かれてほしいと思う。それがまた「告白」の一つの系列に連なるように描かれる可能性さえ考えてしまう。教室の中の多くの「物語」が、それぞれの小さな「告白」によって「空気」を変えていく可能性を。

 もちろんそれは物語の構成上はとても難しい。主人公二人の物語に集約して一気にラストに向かうスピード感があの高揚感をもたらしているのも確かだ。

 だが例えば、ラスト5時間目の授業で、ヒロインにプリントを渡す女生徒の変化は、そうした小さな「告白」の形として、物語の一つの意味ある要素となっていた。こうした変化としての「告白」がもっと教室のあちこちで起こる群像劇を見たい、と思った。


 余談1

 途中で押井守の「ビューティフルドリーマー」の挿入曲が流れたのにびっくりして、後で、あれは誰が選曲したのかと尋ねると、原作のシナリオに指定されているという。なるほど、作者は同年代だからあれを知っているのかと腑に落ちた。

 「ビューティフルドリーマー」もまたループ物の名作だった。本作中で言及される「時をかける少女」や「君の名は」が単なるタイムリープものであってループ物ではないのに比べて、完全なるループ物であり、やはりそこからの脱出がテーマだった。ただし高校の文化祭前夜が繰り返す、かの物語では、はっきりとそれが終わってほしくないというヒロインの願望が生み出したループだったのに比べ、本作でヒロインがそれを願望しているはずがないのに繰り返すのは、脱出できない絶望の隠喩としてのループである。

 それでも問題のその曲が流れるのは、高校生活の断片に対する愛おしさが語られるくだりだから、そうした意味では共通した面があるともいえる。


 余談2

 クラスの方で撮影の予定がなかったそうで、「公式」撮影を買って出た。集大成たる最終公演が狙いではあったが、何たることか、この公演の途中でSDカードの容量がいっぱいになって撮影が止まってしまった。急遽SDを換えて撮影を再開したのだが、予定の「公式」映像の一部は永遠に欠けてしまったのだった。

 幸い二日目の第一公演は全部撮ってある。第二公演も現場にいなかったがカメラは回しておいてもらってある。そこで最終公演を基本としながら、途中を第一公演と第二公演でつなぐことを考えた。暗転でつなぐのが一番楽だが、そうはいかない部分もあり、演者が振り返るところでカットを変えるなどという荒技も駆使した。

 そのうちにもうちょっとやりようがあることに気づいた。第一公演は上手から、最終公演は下手から撮っていたから、場面によって芝居が近い方、顔が見える方の映像を使った方が観客に訴える映像になる。

 そういうわけで校内公開の「公式」映像は計三回の公演の場面が継ぎ接ぎになっている。これが可能なのは、毎回の演技が、台詞の間や動作、周囲のキャストの動きまで正確に再現されているからだ。

 それだけでなく、どの公演も同じように観客を動かす力を持ち得ていたことの証明でもある。

 とはいえさすがに最終公演が終わって観客に挨拶した後のキャストの退場シーンだけは、二日間の舞台をやり終えた満足感が感じられる、かけがえのない場面を使っている。


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