2015年6月15日月曜日

the band apartとTHE BAWDIES

 久しぶりにTUTAYAへ行ってみて探してみると、ウワノソラとかルルルズとかChouchouとか、やっぱりない。インディーズはどこまで置くんだろ。ceroがあったが、あれはメジャーなのか。
 で、the band apartとTHE BAWDIESを数枚。


2015年6月13日土曜日

『アパリション-悪霊-』

 時折、無性にホラー映画を観たくなる。どういう欠如に対する欲求なのかわからないので、どういう法則性があるのかはわからない。岸田秀あたりに言わせると、ホラー映画を観たがるのは、自我をわざと不安定にさせないと退屈だからだ、ということなのだが、安定しすぎて退屈な時に観たくなっているのかどうかは、点検したことがないので、とりあえず不明。
 で、そういう時用にと、深夜に放送されていた「戦慄のホラー」とかいう惹句の『アパリション-悪霊-』を録画しておいたのだが、気になって観てしまった。「そういう」時だとも言えないタイミングで。
 だめだった。『王様ゲーム』ほど、作り手の正気を疑うような出来ではないのだが、『パラノーマル・アクティビティ』とどこが違うのかまったくわからない。『パラ』の方が、ビデオ撮影による悪霊の存在確認という新味があって良かったくらいだ。
 悪霊の存在について、いやに大げさな大風呂敷を広げるのも印象が悪い。理屈も強引だし、黒沢清の『回路』っぽい、こちら側の世界が変わってしまったかのようなラストも、言葉でそういうほど、画としては感じられない。
 ジャンクな食べ物をとりあえず食べたい時用にやはりとっておくべきだったか。

2015年6月7日日曜日

『王様ゲーム』(監督:鶴田法男)

 この間の『人狼ゲーム』つながりで、観てみたくなった。好物のSSSではあるが、この出来は到底容認できない。
 アイドルの一人や二人は拒否するものではないが、グループが総出演ということから予想されるレベルというものがある。
 だが、それさえ下回る劣悪な作品だった。こういうのが小説や漫画ならまだわかる。ましてケータイ小説なら不思議はない。コストがかからなければ、どれほど劣悪な作品だって、世に送り出される可能性があることに不思議はない。だが、映画となれば、関わっている人間の数も費やされる金もケータイ小説に比べると桁違いに莫大なもののはずだ。それが、どうしてこのように劣悪なままで完成まで至ってしまうのかは本当に不思議だ。
 誰が観たって、それこそ中学生が観たって、突っ込みどころ満載の、そこら中が破綻しまくった設定・展開・演出のオンパレード。なぜ誰かがどうにかしようと言い出さないのか。言い出していくらかは食い止めてそれでもこの噴出なのだろうか。脚本家は投げ出してしまったのだろうか。プライドも評価も。何が彼をそれほどに自暴自棄にしてしまったのだろう。
 一方で、いくら破綻があったって、面白ければいいのだ、というポリシーも、それはそれで認める。だがどこだ? どこに面白さがあるのだ?
 たぶん、もともと出演者を知っている必要はあるのだろう。キャラクターの掘り下げがまるでないことが、ドラマを全く感じさせない原因なのだが(だからサスペンスも喜びも悲しみもない)、画面に映った姿が、おなじみのアイドルであると感じられる観客ならば、その重ね合わせと、そのギャップとで、キャラクターを把握できるのだろう。つまり一見さんお断りなのだ。
 それにしても、アイドル映画でありながら、とりわけ主演の二人にこれほど魅力がないのもまた不思議だった。どうしてこんなに不自然に濃いメイクをして撮ってしまうんだろう。そういうキャラクターがどこかのファンには求められているとしても、それはどうみても高校生の役ではないはずだ。
 脚本がひどいことは言うまでもないが、映画の責任は監督が負うものだ。どういうわけで黒沢清や清水崇が鶴田法男を評価しているのかわからないが、とりあえず今までも感心できる鶴田作品を観ていないものの、といってそれほどひどい映画だとも思わなかった。だが、こんなにひどいものは初めてだ。これを消せない汚点だとは思っていないのだろうか。本人は。
 もちろん現場には一人ではどうにもならない空気だの流れだの情勢だのがあるかもしれない。どうしたって「面白く」はならないかもしれないし、時としてしょうがないかと諦めも妥協もする場面もあるだろう。だが、これは誰もが看過してしてしまっていいレベルの破綻か?

2015年6月5日金曜日

『おとなのけんか』(監督:ロマン・ポランスキー)

 ロマン・ポランスキーだというので観始めると、面白い、面白い。止まらずに一気に観てしまった(ま、それが普通だ)。
 観始めてすぐに娘が「たぶん原作が舞台劇だ」と言うのだが、調べてみるとはたしてそうなのであった。映画化するだけの価値のある戯曲を、ジョディ・フォスターとケイト・ウィンスレットというアカデミー女優を揃えて、ロマン・ポランスキーが映画化するというのだから、面白くないわけがない。
 圧倒的な奇想を見せつけられるといった体の物語ではないが、ひたすら室内で繰り広げられる会話劇は、そこここに感情の波立つ微妙な瞬間が連続して、実に見事だ。一部には、ここは笑うとこなのかなあ、居心地の悪い思いをするところなのかなあ、などと迷うところもあったが。テーブルの上に置かれて「高かった」などと話題に上がるチューリップは、あんまりきれいじゃないよなあ、と思っていると、やはり滑稽だと感じるべき代物であるらしいことが展開の中でわかったりする。
 ネットでは「オチがない」とかいう批判もあるが、最後のエンドロールのバックで、「おとなのけんか」を余所に、そもそもの原因となった「けんか」の主の子供たちはもうすっかり仲良くなっているらしい姿が映されているじゃないか。

2015年6月2日火曜日

映画を批評するサイト

 とりあえず映画を観たことだけは欠かさず書き留めるというのがこのブログのルールだが、「観た」だけではあまりに愛想がないので感想じみたものも書き加えることになる。そうなるとそもそも監督だの出演者だのについても調べなくてはならなくなる。結構な時間がかかる。
 肝心の映画の評価についても、やはり他人の意見が気になってみてしまう。世の中にはなんと熱心な(あるいは暇な)人がいっぱいいるのだろうと驚嘆してしまうのだが、映画レビューのサイトは、どれもまずあらすじの紹介をするところから始めるのである。その点はまったく不親切きわまるこのブログでは、そもそもレビューをする気がないのである。
 レビューのための心遣いと共に、やはり見巧者が多いのにも感心させられる。信じがたいほどの熱心さで、観た映画を批評する。このサイトが珍しく気合いを入れた『見えないほどの遠くの空を』『そして父になる』のような記事を、ずらりと並べたサイトも珍しくない。
 今日は、まったく別のリンクからたどって、ずいぶん凄い記事を並べたサイトだなあと感心していたら、それがつい前回の記事でリンクを貼っておいた『はじまりのみち』をとりあげた「k-onoderaの映画批評」というサイトであったことに、途中で気づいた。なんたる偶然。
 『借りぐらしのアリエッティ』 脅威!不毛の煉獄アニメーション
などは、そのあまりの毒舌ぶりを痛快に思いつつ、その批判には実に納得させられ爽快でさえあった。
 ところがこの筆者が『かぐや姫の物語』についてはえらく高評価なのだった。
『かぐや姫の物語』生命を吹き込む魔法
これと、前回リンクした「新玖足手帖が、まったく逆の評価をしているにもかかわらず、そのどちらもに納得させられるところが面白い。アマゾンのカスタマー・レビューなどでも、高評価と低評価のどちらにも説得的なレビューが見出せることがある。面白い。

2015年5月31日日曜日

『はじまりのみち』(監督:原恵一)

 録画されているこれを、例によって何の映画だかわからずに最後まで早送りしてみて、なんだかつまらなさそうだぞとは思ったが最後のエンドロールに、原恵一が監督だとある。消すのはやめて観てみる。
 だがつまらないのだった。観るのが不快なほどではない。というか手堅くも好印象、といった感じではある。だが、面白かったとはいえない。
 だが世評は好意的だという。宇多丸が褒めてる。
 それはもちろん『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』『アッパレ!戦国大合戦』が名作であることは言を俟たない。
 だが『河童のクゥと夏休み』は、期待が大きかっただけにいささか肩すかしの感があったのは否めないし、『カラフル』は、もうはっきりとつまらなかった。アニメーションの技術も演出も手堅く高レベルでまとめてくるのに、面白くはない(とはいえ『カラフル』は下記のような理由で「つまらない」というよりも、納得できない演出に違和感を覚えたのだった。それは「しんちゃん」映画では看過してもよく、それ以外の部分で感動させるから瑕疵とはならないのだが、リアリティを追求するタイプのこういった映画では致命的になる、といった違和感だった)。
 『はじまりのみち』も、浜田岳のキャラクターは良かったとか、主人公が母の顔の泥を拭うシーンは感動的だったとか、そこを褒めるなら異論はない、といった感じではある。だが全体として面白いとは言いかねる。どこを面白さとして提示するつもりなのかがわからん。脚本の段階で、どこかが面白くなりそうだという自信があったのだろうか。
 おそらく、リヤカーで病人を運ぶという「試練」と、木下恵介の映画監督としての再生を重ね合わすという狙いにその期待が担わされているのだろう。だが、どちらもまったく予想の範囲を下回る盛り上がり具合で、だからどうだということもなかったのだった。例えばキリストがゴルゴダの丘まで自らの掛かる十字架を運ぶ、ただそれだけの映画である『パッション』の、そこに込められた熱量などまったく感じられない。そもそも比較が無茶か?
 そうでなくとも、はっきりと意図してこれでもかと引用される木下作品が、どれもこれも本編よりも魅力的なのも困ったものだった。
 というわけで
三角締めでつかまえて
には共感しがたく、
『はじまりのみち』は敗北の映画である
に納得したのだった。

2015年5月27日水曜日

『かぐや姫の物語』高畑勲

 時間ができて、ようやく。
 だが『風立ちぬ』同様、書けない。観ながら、悪くない、場面によっては感動的でもある、さすがにアニメ技術は高い、などと思いながら、やはり端的に「面白い」とは思えなかった。そこら中のシーンに、見覚えのある「物語」の感触ばかりを感じてしまうばかりで。
 手間をかけずにああだこうだと言うよりも、世の中には異常な情熱でそうしたことを考察している人がいるから、素直にリンクをはる。
「新玖足手帖」
かぐや姫の物語 感想その二 高畑勲監督は原作の良さを自己中心的に曲げたダメ映画
このブログ主が繰り返し言う「雑」という表現は実に腑に落ちる。あれほど丁寧なアニメーションをつくりながら、物語はかくも「雑」なのだ。
 同時に、あの丁寧で恐ろしく手間のかかっているであろうアニメーションも、例えば最近観ている「響け ユーフォニアム」の京都アニメーションの仕事を観ていると感じる感嘆と、さほど変わりはしないのだ。制作費8年、50億円とかいう劇場映画と、深夜テレビの週刊アニメの仕事が、同程度の感銘を与えるくらいだってのは、いったいどういうわけだ。
 それくらい京アニが良い仕事をしているともいえるが、一方で高畑勲の自然描写や人物描写が、それほどまでに古いということでもある。凝って凝って、金も時間もかけて、それは確かに良いものができているのだが、何か圧倒的なものを見せられたという感嘆もない。山野や草木や動物などの自然描写も、人間の描写も、実に予定調和的なそれに終わっているのだ。
 
 だが、もう一度観ることがあれば、違った感想になるかも知れないという予感もある。もしかしたら、何か違った感情移入の仕方を、主人公のかぐや姫に対してしてしまうかもしれない(だが間違った予感かも知れない)。
 ただとりあえず初見の感想としてふたつほど。
 オリジナル・キャラの幼なじみ「捨丸」と、ラスト近くで再会する場面、捨丸は大人になって妻子もいる身なのだが、これは惜しい展開だと思われた。あっさりと妻子を捨ててしまうかのうような捨丸には、むろん、オイオイとつっこみたくなるが、それよりも、設定自体が惜しい。都で成人したかぐや姫が久しぶりに幼なじみ「捨丸兄ちゃん」に再会すると、彼はまだ青年で、自分の方がもう彼の年齢を超えてしまっていた…という展開を期待してしまったのだが。かぐやの成長が早いという設定からは、そうした展開が可能だったはずで、それはすなわち、都に出て、田舎での「人間らしい(生き物らしい)」生活から隔てられてしまった哀しみ、というこの物語の描きたいらしいテーマに合うような気がするのだが。
 そういえばこの物語は「鄙/都」という対立が「人間界/天上界」という対立の入れ子になっているのだと思われるのだが、このあたりがうまく処理されていたのかどうかがどうももやもやとすっきりしないのだった。

 もう一つ。ラストカットの、天上の人々が去っていく満月に、赤ん坊のかぐやが重なる構図の、あまりのダサさは何事だ? 巨匠のコンテには誰も正直な感想を口にできなかったのか?