承前 3「行為の必然性」の謎
「こころ」について語られる言説に「エゴイズム」という言葉の登場しないことが稀であるように、「羅生門」について語るときに必ず登場する言葉が「極限状況」だ。それはなんだか、自明な、疑ってはならない前提と考えられているように見える。
もちろん論者の言う「極限状況」が何を指しているかはわかる。「おれもそう(引剥)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた下人の状況である。都は荒れ果て、羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。下人は行くあてもない。こうした状況を誰もが「極限状況」と称する。
だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。これのどこが「極限状況」なのか。
昔から「羅生門」がわからないと感じていたのも、「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかったからだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。読者としては、物語を受け取る上で登場人物が不道徳な行為をすることに対する抵抗のハードルは低い。引剥をした、だからどうした。
したがって「羅生門」を読んでも「飢え死にか盗人か」が問題として設定されているようには感じない。それなのに「羅生門」を論ずる上で法律概念である「緊急避難」などを持ち出すのは見当外れである。
小説は読者にとって一つの体験である。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、すべての要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。上記の主題把握はそうした違いを無視して、観念的に設定されている。極限状況における悪は許されるか? もしもそれをしなければ死んでしまうという状況で悪いことをするのは許されるでしょうか? そんな問いはこの小説の読者に提示されてはいない。読者は極限状況だと説明されるだけで、極限状況を生きることはない。現に飢えていない下人はまるで「極限状況」に置かれてなどいない。論者がそうした問題設定を観念的に創作しているだけである。
「生きるためには悪をなすことがゆるされるのか」という「緊急避難」的問いを主題とするためには、大岡昇平の「野火」や武田泰淳の「ひかりごけ」のような「極限状況」を読者に「体験」させなければならない。
だが下人がそれをすることの前で迷っていたのも事実である。「極限状況」は、肉体的には描かれていないが、確かに下人の行為を動機付けるものとして意識されてはいる。
だが、意識されてはいるものの、確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「必然性」を支えるほどの論理的強度を持たない。下人がなぜそんなことをするのか分からないと読者が感ずるのはそれゆえである。
それはすなわち、作者が下人にそれをさせることによって何を言っているのか分からないということである。つまりは小説の主題がわからないのである。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を晒すはずである。「極限状況」を体験させるはずである。それをしていない以上、「極限状況に露呈される人間存在のもつエゴイズム」などと大仰に言われても、そんなものはこの小説を読んだ実感とはかけはなれているのである。
吉田精一、三好行雄に始まる従来の主題把握は、「羅生門」という小説を読むという体験に相応した感触がまるでしない。そのような主題把握によって「羅生門」を教材として、授業で読解することが価値あることだとは思えない。読解の先にそのような主題が浮上してくるという見通しが立たないからである。
では「羅生門」の主題として「自我の覚醒」「自我の解放」を読み取るのはどうか。ここには可能性がありそうな感触があって、一時期はそうした方向で授業することが魅力的に思えていた時期もあった。
だが結局こうした主題把握にも納得できない。現在我々の目にする末尾の一文「下人の行方は、誰も知らない。」が、そのような主題と齟齬をきたすからである。「黒洞々たる夜があるばかり」の「下人の行方」に「覚醒」だの「解放」だのといった肯定的な(あるいは脳天気な)主題を読むことはできない。
そもそも「盗人になる」ことを「覚醒」だの「解放」だのという小説を、どうして高校生に読ませたいのか。そんな、にわかに「道徳」的な疑問を筆者が抱いてしまうのも、それが小説の読解として抽出された主題ではなく、観念的に構成された主題だからである。
では、そもそも「引剥をする」ことは「盗人になる」ことではないと考えてはどうか。老婆の着物を剥ぎ取るという行為は、老婆の論理をそのまま老婆に投げ返すことを意味しているのであって、それは下人が盗人になることを決意したのではない、という解釈である。だからこそ下人は、原話にあるように老婆の抜いた死人の髪や死人の着物には手をつけることなく、老婆の着物だけを剥ぎ取ったのである。
だがそれでは、結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。これでは、物語の主人公が老婆になってしまう。自らの利己的論理、詭弁によって自らが被害者になる物語。星新一や「ドラえもん」によくある因果応報譚。
引剥ぎという反社会的な行為を敢えて肯定的に描いているのだとか、実はこれは老婆の物語なのだとか、アクロバットが楽しいのはそれが見事だと思えるうちであって、腑に落ちなければ与太話に過ぎない。
結局、「極限状況」を認めることができない以上、従来の理解では「行為の必然性」はわからず、したがって主題もわからない。
次節 5「老婆の論理」の論理的薄弱さ
2017年9月7日木曜日
2017年9月5日火曜日
「羅生門」とはどんな小説か 3 -「行為の必然性」の謎
承前 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性
「羅生門」がどんな小説なのか、何を言っている小説なのかがわからないと感ずる最大のポイントは、物語の最後で下人がなぜ老婆の着物を剥ぎ取ったかがわからないという点である。
この「わからない」は、下人がそんなことをした心理がわからないということでもあるが、同時に、作者が下人にそれをさせることによって、何を言いたいのかがわからない、ということでもある。この行為の必然性を、物語の論理―つまり「主題」―として語れることが「羅生門」を理解することであるように思える。
といって、常に登場人物の特定の行為の必然性こそ物語の「主題」だというわけではない。事件ではなく、淡々とした日常の描写こそを目的とした小説はあるだろうし、物語を流れる時間や空間の感触を描出することが目的の小説もあろう。あるいは行為における必然性の欠如こそが「実存」であるなどと言いたい小説もあるかもしれない。
だが「羅生門」がそうした小説だとは思えない。下人が「きっと、そうか」と言って老婆の着物を剥ぎ取るには、何か納得できる必然性がありそうである。冒頭に、行為に対する迷いが提示され、結末で行為の実行があるという構成は、そこに必然性を見出さないまま読み終えることはできない力を読者にもたらしている。にもかかわらず、その「必然性」がわからない。
それに比べてこの小説のもとになっている『今昔物語』の一編「羅城門登上層見死人盗人語」には、そのような感触はない。老婆の着物を剥ぎ取る男は最初から「盗人」と形容されているし、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。となると、なぜそんな話を伝えたいのか(それが「主題」だ)がわからない、ということになるのだが、「羅城門登上層見死人盗人語」の主題は、盗人の行為にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という事実そのものを読者に伝えることなのである。
一方の「羅生門」では、明らかに下人の行為の意味にこそ主題を読み取るべきなのだろうと思われる。
問題は、この、「行為の必然性」と「主題」の論理的な連続である。なぜ剥ぎ取ったかを納得することは、すなわちこの小説をどのような小説として読むかということである。それが筆者にはわからない。
もちろん、引剥という行為の必然性は、序盤に置かれた「飢え死にをするか盗人になるか」という問題に決着をつけたということだと理解することはできる。そして迷いを抜けて行為することができたのは、老婆の論理を得たからだ。そしてここから導かれる主題は、「極限状況における悪の肯定」「悪を選ぶエゴイズム」「悪を選ばざるをえない人間の弱さ」「人間存在そのものの悪」…などということになろうか。伝統的な「羅生門」の主題である。
だがそれがどうしたというのか。そのように読む「羅生門」は何か面白い小説なのか。そういう小説を読むという体験は、何か国語学習に資するところがあるのか。
別にそうした主題が不道徳的だとか倫理に反するなどと言うつもりはない。倫理に反することが描かれることが読者に感銘を与えることはあるだろう。あるいは教室で道徳に反する小説を扱ってはならないとも思わない。読解の過程でそのような主題が抽出されるなら、それも文学の可能性として教室で享受してもいい。
だが、単にそうした読み方で「羅生門」が作品としてあるいは教材として価値あるものとは思えないのである。そのように「行為の必然性」を措定して、そこから導かれる「主題」をそのように措定し、さてそれが面白い小説だとは思えない。面白さのわからない小説の「主題」が信じられない。そんな小説をどうして書きたいのか、納得できないからだ。となると結局、教材としての価値もわからない。
さらに、わからないという前にまず、そのようには読めない。それは、上記の論が前提する「極限状況」が、そもそもこの小説には描かれてはいないからである。
次節 4「極限状況」の嘘
「羅生門」がどんな小説なのか、何を言っている小説なのかがわからないと感ずる最大のポイントは、物語の最後で下人がなぜ老婆の着物を剥ぎ取ったかがわからないという点である。
この「わからない」は、下人がそんなことをした心理がわからないということでもあるが、同時に、作者が下人にそれをさせることによって、何を言いたいのかがわからない、ということでもある。この行為の必然性を、物語の論理―つまり「主題」―として語れることが「羅生門」を理解することであるように思える。
といって、常に登場人物の特定の行為の必然性こそ物語の「主題」だというわけではない。事件ではなく、淡々とした日常の描写こそを目的とした小説はあるだろうし、物語を流れる時間や空間の感触を描出することが目的の小説もあろう。あるいは行為における必然性の欠如こそが「実存」であるなどと言いたい小説もあるかもしれない。
だが「羅生門」がそうした小説だとは思えない。下人が「きっと、そうか」と言って老婆の着物を剥ぎ取るには、何か納得できる必然性がありそうである。冒頭に、行為に対する迷いが提示され、結末で行為の実行があるという構成は、そこに必然性を見出さないまま読み終えることはできない力を読者にもたらしている。にもかかわらず、その「必然性」がわからない。
それに比べてこの小説のもとになっている『今昔物語』の一編「羅城門登上層見死人盗人語」には、そのような感触はない。老婆の着物を剥ぎ取る男は最初から「盗人」と形容されているし、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。となると、なぜそんな話を伝えたいのか(それが「主題」だ)がわからない、ということになるのだが、「羅城門登上層見死人盗人語」の主題は、盗人の行為にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という事実そのものを読者に伝えることなのである。
一方の「羅生門」では、明らかに下人の行為の意味にこそ主題を読み取るべきなのだろうと思われる。
問題は、この、「行為の必然性」と「主題」の論理的な連続である。なぜ剥ぎ取ったかを納得することは、すなわちこの小説をどのような小説として読むかということである。それが筆者にはわからない。
もちろん、引剥という行為の必然性は、序盤に置かれた「飢え死にをするか盗人になるか」という問題に決着をつけたということだと理解することはできる。そして迷いを抜けて行為することができたのは、老婆の論理を得たからだ。そしてここから導かれる主題は、「極限状況における悪の肯定」「悪を選ぶエゴイズム」「悪を選ばざるをえない人間の弱さ」「人間存在そのものの悪」…などということになろうか。伝統的な「羅生門」の主題である。
だがそれがどうしたというのか。そのように読む「羅生門」は何か面白い小説なのか。そういう小説を読むという体験は、何か国語学習に資するところがあるのか。
別にそうした主題が不道徳的だとか倫理に反するなどと言うつもりはない。倫理に反することが描かれることが読者に感銘を与えることはあるだろう。あるいは教室で道徳に反する小説を扱ってはならないとも思わない。読解の過程でそのような主題が抽出されるなら、それも文学の可能性として教室で享受してもいい。
だが、単にそうした読み方で「羅生門」が作品としてあるいは教材として価値あるものとは思えないのである。そのように「行為の必然性」を措定して、そこから導かれる「主題」をそのように措定し、さてそれが面白い小説だとは思えない。面白さのわからない小説の「主題」が信じられない。そんな小説をどうして書きたいのか、納得できないからだ。となると結局、教材としての価値もわからない。
さらに、わからないという前にまず、そのようには読めない。それは、上記の論が前提する「極限状況」が、そもそもこの小説には描かれてはいないからである。
2017年9月3日日曜日
「羅生門」とはどんな小説か 2 -教材としての価値、「主題」を設定する必要性
承前 ○ ブログ的前置き
「羅生門」とは何を言っている小説なのか。それは何か自明なことなのだろうか。
教材としての「羅生門」をめぐる言説の中でいつも奇妙に思うのは、この小説が、つまるところ「どんな小説か」についての一致した見解の存在が疑わしいにもかかわらず、教材としての価値は決して疑われていないらしいという点である。いわく「完成度が高い」、「緊密な世界を構成している」…。それは認める。だがつまるところ何を言っているのかを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
わからなくても読んで面白い小説はある。また「完成度が高い」ことは、それだけで鑑賞に値する。読者としては小説が何を言っているかがわかることは必須ではない。「檸檬」は長いこと、何を言っているかわからないが、好きだし、何か凄いことはわかる、という小説だった。村上春樹だって基本的にいつもわからない。
問題は「教材として」である。
「どんな小説か」というのは、いわゆる「主題/テーマ」のことだ。「羅生門」の主題とは何か。この小説は何を言っているのか。それがわからなくて、どうやって授業でそれを扱うことができるのか。
といって授業で小説を扱うことは小説の主題を教えることだ、などと考えているのでは毛頭ない。
国語の授業としての教材の意義は、それを「読む」こととそれについて「議論する」ことの中にしかない。主題の提示が授業の目的ではない。小説の主題そのものは学習内容などではなく、そんなものはテストの「正解」などにもなりえない。といってテストの「正解」になりそうなことを教えるのが国語の授業でもない。
だが、少なくともそうした読みや議論の決着点についてはそれなりの見通しがなければ、それを授業で展開することはできない。
むろん、ともかく「授業」という形を成立させるだけなら、どこへ向かうべきかがわからずに、とりあえず内容を追うことに時間を費やすことはできる。あるいはこれまでに提言されているいくつもの切り口はある。「状況設定を描写の中から把握する」「下人の人物造型についてまとめる」「下人の心理の推移を追う」「動物比喩について考察する」「作品の世界観を味わう」…。
だが、結局のところそれらが有益であるためには、なんらかの主題を設定するしかない。「羅生門」がどんな小説であるかという見通しがなければ、さまざまな授業過程の意義、適切さが判断できないからである。
そうでなければそれは「作品」の読解ではなく、文法問題など、「例文」を使った言語技術の習得のための学習に過ぎなくなる。もちろん小説だろうが詩だろうが評論だろうが、教科書所収の教材文をそのように使う自由はある。だがそうした使い方で済ますのは惜しい。そうした文章が連なった「作品」そのものを読解するところまで教科書教材を使いたい。そのためには主題の想定が必要なのである。授業という場が最終的にそれを特定する必要はない。だが、読みはそこを目指さざるをえない。
もちろん、世間で「羅生門」がどのように語られているかは知っている。だがそこには次のような問題がある。
だから、筆者は最近まで、何度となく機会のあった一学年国語授業の担当時において「羅生門」の授業をまともにしたことがなかった。「羅生門」が何を言っている小説かわからなかったからだ。ただ「日本人の教養として」と言って読むだけである。せいぜいが「にきび」のもつ象徴性についてと、それこそ主題について若干の考察をし、それでもみんなであれこれと考えていると楽しくなるものの、結局「とにかくわからない」といって終わる。せいぜいが2時限程度である。
やはり、どんな教材であれ、考えるべきテーマがあってこその読解である。
明示的に書かれていて、当然のように読み取れる情報は、こちらが指示しなくても生徒も読み取る。生徒がそれをするかどうかは、それを生徒自身がする必要があるように授業を設定するかどうかという問題で、こちらがそれを「教える」必要があるわけではない。それ以上の、ただ読んだだけではわからないはずの情報を「読み込む」ことを企図するならば、授業者にそうした見通しがなければならない。それがなければ授業は成立しない。
一方で、世にあふれる「羅生門」論は、それぞれに「羅生門」の主題を語っている。「羅生門」について論じるということは、「羅生門」が「どんな小説か」を言うことにほかならない。それは教材としての「羅生門」ではなく、「作品」としての「羅生門」について語る研究なり批評なりに課せられた使命であり自由である。だがそれらの提示する「羅生門」像は「一つにしぼるのは困難」なのである。
「しぼる」べきだと言いたいわけでは無論ない。繰り返すが、主題の提示が授業の意味だと考えてはいない。
だが、上記のような指導書の言説に見られる「主題」論が、まっとうな正論であるにもかかわらず奇妙に言い訳じみて見えるのは、そうして提出されるさまざまな「主題」が、結局多くの読者を納得させていないにもかかわらず、それでも教材としての価値を疑ってはならないことが前提されているからである。
あるいは百出する主題論についてはこんな言い方もある。さまざまな主題が想定できることこそ「羅生門」がすぐれた作品であり、すぐれた教材であることの証なのだ…。
だがこれも詭弁にしか聞こえない。そうした多面性に価値があるとすれば、それぞれの「主題」がそれぞれに説得力があると思えればこそだ。設定される主題に応じて一つの作品がさまざまに見えてくる、というような多面性が認められれば、それは芸術作品として、また教材として価値あると納得できる。だが繰り返すが、筆者は、これまでに納得できる「羅生門」論を見たことがない。
いささか駄言を弄した。次回からもうちょっと具体的な読解に踏み込む。
次節 3 「行為の必然性」の謎
「羅生門」とは何を言っている小説なのか。それは何か自明なことなのだろうか。
教材としての「羅生門」をめぐる言説の中でいつも奇妙に思うのは、この小説が、つまるところ「どんな小説か」についての一致した見解の存在が疑わしいにもかかわらず、教材としての価値は決して疑われていないらしいという点である。いわく「完成度が高い」、「緊密な世界を構成している」…。それは認める。だがつまるところ何を言っているのかを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
わからなくても読んで面白い小説はある。また「完成度が高い」ことは、それだけで鑑賞に値する。読者としては小説が何を言っているかがわかることは必須ではない。「檸檬」は長いこと、何を言っているかわからないが、好きだし、何か凄いことはわかる、という小説だった。村上春樹だって基本的にいつもわからない。
問題は「教材として」である。
「どんな小説か」というのは、いわゆる「主題/テーマ」のことだ。「羅生門」の主題とは何か。この小説は何を言っているのか。それがわからなくて、どうやって授業でそれを扱うことができるのか。
といって授業で小説を扱うことは小説の主題を教えることだ、などと考えているのでは毛頭ない。
「羅生門」の内容は以上のようであるが、これから、主題はなどと教師が押しつけるのはやめたほうがよさそうだ。主題は、などとまとめたり論じたりするのは、教師ではなく学習者たちでなければならないように思われる。各人がそれぞれ読みとり、それらが対比され、より高次元の主題が、話し合いのうちにまとまれば、それは最も望ましい姿であろう。そこで、ここでは主題はなどと論ずるのはひかえておく。(筑摩書房「国語Ⅰ 学習指導の研究」より「主題と構成」鈴木醇爾・猪野謙二)正論である。
「羅生門」の主題は、作品を「どう読むか」「どのような角度からとらえるか」によって、見解がさまざまに分かれることだろう。(略)いずれにせよ、「どの主題が正しいか」ではなく、大切なのは「どのような〈読み〉に基づいて、そのような主題が見いだせたのか」という、その〈読み〉のプロセスなのである。(三省堂「国語Ⅰ 指導資料」長谷川達哉)
国語の授業としての教材の意義は、それを「読む」こととそれについて「議論する」ことの中にしかない。主題の提示が授業の目的ではない。小説の主題そのものは学習内容などではなく、そんなものはテストの「正解」などにもなりえない。といってテストの「正解」になりそうなことを教えるのが国語の授業でもない。
だが、少なくともそうした読みや議論の決着点についてはそれなりの見通しがなければ、それを授業で展開することはできない。
むろん、ともかく「授業」という形を成立させるだけなら、どこへ向かうべきかがわからずに、とりあえず内容を追うことに時間を費やすことはできる。あるいはこれまでに提言されているいくつもの切り口はある。「状況設定を描写の中から把握する」「下人の人物造型についてまとめる」「下人の心理の推移を追う」「動物比喩について考察する」「作品の世界観を味わう」…。
だが、結局のところそれらが有益であるためには、なんらかの主題を設定するしかない。「羅生門」がどんな小説であるかという見通しがなければ、さまざまな授業過程の意義、適切さが判断できないからである。
そうでなければそれは「作品」の読解ではなく、文法問題など、「例文」を使った言語技術の習得のための学習に過ぎなくなる。もちろん小説だろうが詩だろうが評論だろうが、教科書所収の教材文をそのように使う自由はある。だがそうした使い方で済ますのは惜しい。そうした文章が連なった「作品」そのものを読解するところまで教科書教材を使いたい。そのためには主題の想定が必要なのである。授業という場が最終的にそれを特定する必要はない。だが、読みはそこを目指さざるをえない。
もちろん、世間で「羅生門」がどのように語られているかは知っている。だがそこには次のような問題がある。
これまで三十年以上、日本中のほとんどの高校生に読まれ、高校教師が必ずといっていいほど授業で扱ってきたこの作品は、しかしその主題がまだ確定していない。(桐原書店「探求 国語総合 指導資料」)だからこそ、先の「正論」がある。いろいろに考えられるから、限定するのはやめよう、生徒に考えさせよう、そのことにこそ価値がある…。正論ではあるが、欺瞞的でもある。そんなことが本当にできるのか。それを理念通り実施している授業がどれほどあるだろう。実際に、生徒からどのような「主題」が提出されるというのだろう。
「羅生門」の主題は、一見明解なようだが、実はかなり幅があり、一つにしぼるのは困難のように思われる。(第一学習社「新訂国語総合 指導と研究」)
だから、筆者は最近まで、何度となく機会のあった一学年国語授業の担当時において「羅生門」の授業をまともにしたことがなかった。「羅生門」が何を言っている小説かわからなかったからだ。ただ「日本人の教養として」と言って読むだけである。せいぜいが「にきび」のもつ象徴性についてと、それこそ主題について若干の考察をし、それでもみんなであれこれと考えていると楽しくなるものの、結局「とにかくわからない」といって終わる。せいぜいが2時限程度である。
やはり、どんな教材であれ、考えるべきテーマがあってこその読解である。
明示的に書かれていて、当然のように読み取れる情報は、こちらが指示しなくても生徒も読み取る。生徒がそれをするかどうかは、それを生徒自身がする必要があるように授業を設定するかどうかという問題で、こちらがそれを「教える」必要があるわけではない。それ以上の、ただ読んだだけではわからないはずの情報を「読み込む」ことを企図するならば、授業者にそうした見通しがなければならない。それがなければ授業は成立しない。
一方で、世にあふれる「羅生門」論は、それぞれに「羅生門」の主題を語っている。「羅生門」について論じるということは、「羅生門」が「どんな小説か」を言うことにほかならない。それは教材としての「羅生門」ではなく、「作品」としての「羅生門」について語る研究なり批評なりに課せられた使命であり自由である。だがそれらの提示する「羅生門」像は「一つにしぼるのは困難」なのである。
「しぼる」べきだと言いたいわけでは無論ない。繰り返すが、主題の提示が授業の意味だと考えてはいない。
だが、上記のような指導書の言説に見られる「主題」論が、まっとうな正論であるにもかかわらず奇妙に言い訳じみて見えるのは、そうして提出されるさまざまな「主題」が、結局多くの読者を納得させていないにもかかわらず、それでも教材としての価値を疑ってはならないことが前提されているからである。
あるいは百出する主題論についてはこんな言い方もある。さまざまな主題が想定できることこそ「羅生門」がすぐれた作品であり、すぐれた教材であることの証なのだ…。
だがこれも詭弁にしか聞こえない。そうした多面性に価値があるとすれば、それぞれの「主題」がそれぞれに説得力があると思えればこそだ。設定される主題に応じて一つの作品がさまざまに見えてくる、というような多面性が認められれば、それは芸術作品として、また教材として価値あると納得できる。だが繰り返すが、筆者は、これまでに納得できる「羅生門」論を見たことがない。
次節 3 「行為の必然性」の謎
2017年9月1日金曜日
「羅生門」とはどんな小説か 1 -ブログ的前置き
これから数回、授業で扱う「羅生門」について論ずる。
呆れたことだ。今更「羅生門」について語ることがあるのか。これだけ多くの目にさらされ、論じ尽くされているこの小説について、まだ何か言うか。
我ながらそう思わないでもないが、これまでさんざん書いた「こころ」についてだって、同じくらい日本人のほとんどが読んでいると思われるのに、みんなそうは読んでいないと思うから、言うのだ。
いやもちろんどこかで誰かが同じことを言ってるのかもしれないが、少なくともとりあえず広く人々の耳目に触れる場所にはそうした見解がごろごろと転がっているわけではない。「こころ」であれば、語られる紋切り型は相変わらず「エゴイズム」だ。それは「私」の目からそう見えているに過ぎないのに。あるいは「恋か友情か」だ。そんなこと「こころ」のどこにも書いてないのに。
「羅生門」も同じように、どこを見ても「極限状況」だ。どうしてそんな大仰なお題目にみんな納得しているのだ。あれのどこに「極限状況」が描かれているのだ。そしてまたしてもこちらも「エゴイズム」である。そんなわかりきったことが露呈する小説を、どうして有り難がって読む価値があると思えるのだ。
そう、さらにわからないのは、これが教材として価値ある小説だと、誰もが疑わないらしいことだ(まあ実際には疑っている教師も多いんだろうけど、誰もあからさまには言わない)。それどころか、これをすばらしい教材だと本気で考えているという発言を直に聞いたことも少なくない。
もうこれを高校一年生に読ませることはお約束になっていて、どこの出版社も教科書から外すわけにはいかなくなっている「国民」教材として、今更その教材価値が問われない。
どうしてなのだろう。みんな、あの小説が何だと思っているのか。どうして高校生に読ませる価値があると思うのか。
なのにそのことを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
面白い「羅生門」論はある。だが、これが教材として優れていることを納得できたことはない。作品として面白くないというのはまあ個人的な好みだから殊更に言い立てなくとも良いが、少なくとも、これが何を言っている小説なのか、誰か納得できるように教えてほしい。それがわからないのに、教室でどう読めというのか。読解の果てにどこに行けるという見通しもないのに、どうして教材として価値あるものだと信じられるのか。
そんなことを言いながら書き出すのは、最近、ひょんなことから、この小説についての「納得」が不意に訪れたからだ。最初に読んだ高校一年生の時から40年近く経って。そして商売柄、30年来、さんざん読み返したというのに。今更。
誰も(目につくところでは)言っていないと思うので、書く。
題名はとりあえず「『羅生門』とはどんな小説か-なぜ『勇気が生まれてきた』のか」ということにしておく。
次節 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性
呆れたことだ。今更「羅生門」について語ることがあるのか。これだけ多くの目にさらされ、論じ尽くされているこの小説について、まだ何か言うか。
我ながらそう思わないでもないが、これまでさんざん書いた「こころ」についてだって、同じくらい日本人のほとんどが読んでいると思われるのに、みんなそうは読んでいないと思うから、言うのだ。
いやもちろんどこかで誰かが同じことを言ってるのかもしれないが、少なくともとりあえず広く人々の耳目に触れる場所にはそうした見解がごろごろと転がっているわけではない。「こころ」であれば、語られる紋切り型は相変わらず「エゴイズム」だ。それは「私」の目からそう見えているに過ぎないのに。あるいは「恋か友情か」だ。そんなこと「こころ」のどこにも書いてないのに。
「羅生門」も同じように、どこを見ても「極限状況」だ。どうしてそんな大仰なお題目にみんな納得しているのだ。あれのどこに「極限状況」が描かれているのだ。そしてまたしてもこちらも「エゴイズム」である。そんなわかりきったことが露呈する小説を、どうして有り難がって読む価値があると思えるのだ。
そう、さらにわからないのは、これが教材として価値ある小説だと、誰もが疑わないらしいことだ(まあ実際には疑っている教師も多いんだろうけど、誰もあからさまには言わない)。それどころか、これをすばらしい教材だと本気で考えているという発言を直に聞いたことも少なくない。
もうこれを高校一年生に読ませることはお約束になっていて、どこの出版社も教科書から外すわけにはいかなくなっている「国民」教材として、今更その教材価値が問われない。
どうしてなのだろう。みんな、あの小説が何だと思っているのか。どうして高校生に読ませる価値があると思うのか。
なのにそのことを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
面白い「羅生門」論はある。だが、これが教材として優れていることを納得できたことはない。作品として面白くないというのはまあ個人的な好みだから殊更に言い立てなくとも良いが、少なくとも、これが何を言っている小説なのか、誰か納得できるように教えてほしい。それがわからないのに、教室でどう読めというのか。読解の果てにどこに行けるという見通しもないのに、どうして教材として価値あるものだと信じられるのか。
そんなことを言いながら書き出すのは、最近、ひょんなことから、この小説についての「納得」が不意に訪れたからだ。最初に読んだ高校一年生の時から40年近く経って。そして商売柄、30年来、さんざん読み返したというのに。今更。
誰も(目につくところでは)言っていないと思うので、書く。
題名はとりあえず「『羅生門』とはどんな小説か-なぜ『勇気が生まれてきた』のか」ということにしておく。
次節 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性
「羅生門」の解釈について関心のある方はこちらをお読みください。→
2017年8月27日日曜日
『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』-制作者たちの罪は重い
あるとき突然、テレビから「Forever Friend」が流れてきて、何事かと思ったら『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』がアニメ化されるという。しかもシャフトで、新保が総監督となれば『物語』シリーズだ。「まどマギ」にはまるでノれなかったが、ある程度の品質は期待していいだろうと、映画館に観に行くことにした。
で、見始めこそ、そのアニメーションの品質にワクワクしたが、見続けていると、あれっ、という感じになった。観ていて、映画の先行きにちっともワクワクしてこない。話はわかっていて、先の展開が知りたいということではないから、その先に起こるであろう感情の揺れを追体験することに対する期待があってもよさそうなのに、そうならない。今、特に感情が揺れていないからだ。
どうも会話のテンポがタルい。キャラクターに魅力がない。
不満は後半にいくにつれ、どんどん増大していった。そして最後まで、その不満を解消するに足るプラス要素がないまま映画は終わった。
いったいこの人たちは何を考えているのだろう。脚本家も監督もプロデューサーも。
がっかりというより、はっきりと怒りさえ覚えたのは、もちろん原作を知っているからだ。
少なくとも期待していたアニメーションの魅力も、テレビの情報番組の紹介で観た、花火のCGの平板さに不安を感じていたとおり、後へ行くほどがっかりだった。
「まどマギ」の異空間も、その場面が現れる度、違和感で冷めたものだが、この映画でも、例えば題名の「打ち上げ花火」がとてつもなくチャチい。いきなり映画の中の空間と別な層でCGの花火が画面いっぱいに重なる。しかもそれが特に綺麗だと感じられるような作りになっているわけでもなく、ただ機械的で平板なCGが作品のリアリズムを台無しにするのだ。
あるいは人間を描くことについても、リアリズムはまるで保障されない。なずなの母の再婚相手が、ホームで典道を殴り倒す。体の小さな中学生がホームに倒れているのに、それに一顧だにせずに立ち去る大人がいるものか。こんなふうに、いるはずもない記号的「ひどい大人」を描かないと典道の試練が描けないと考えてしまう制作者たちが、まともなドラマを描けるわけがない。
原作のある作品をどう別メディア作品として再話するか。原作に愛着のある人に不満を感じさせない再話をすることは、もちろん難しい。それはほとんど成功しない。その作品の魅力が、そのメディアの特性によっているならば、そもそも再話が成功するはずはない。
それにしても、だ。それが、創作というものに対する志に何ら関係のない商売であるならば、動機はわかる。どういう見通しであれ、話題になってしまえば商品価値は見込める。メディアミックスは宣伝と販売、回収がセットになった効率的な戦略だ。
だが、何かしらそれが作品として意味あるものになるはずだと考えるならば、そのメディアによってのみ生まれる魅力を、その原作に付け加えることを意図しないで、なぜ再話などするのか。
せめて魅力が加わらなくても、改悪をすることはなかろう、といつも思う。どうして「そこ」を変えるのか。それは元の作品の魅力のなにがしかを支えている要素ではないのか。あるいはあらたな魅力を付け加えるべく、企図されているのか。
残念ながらこのアニメ化にあたって、原作から変更された要素に、成功しているものはほとんど見あたらなかった。
わずかに、坂の多い銚子の街並みの古めかしい佇まいと、そこに不自然に存在する近未来的校舎の違和感が、世界観として面白かったが、それ以上にそれが何か作品全体の魅力につながっているという感じはしなかった。
それ以外には失敗している改変ばかりなのだが、とりわけ許せない点を三つ。
主人公たちを中学生にすることの意味をどう考えるか。
原作の小学生ではできない恋愛要素を盛り込める、それはそうだろう。だがそのことで失われてしまうものをどう考えるのか。
原作は、もちろん友達連中もそうだが、なんといっても山崎裕太と奥菜恵の、あの歳の魅力失くしては成立しない。
いつもふてくされたように生意気に喋る山崎裕太の典道は、先に大人っぽく振る舞うことを覚えた女の子に振り回されても、結局はカラッとしていられる。
そもそも女の子との絡みにドキドキしてはいるものの、はっきりとそれが恋愛であるような描き方はされていない。二人が最初のうち、好きあっていたのかどうかも怪しい。最後だって、どうみても「恋人」のように描かれてはいない。
だがそれがいいのだ。そのイノセンスと、微かに垣間見える大人の世界とのバランスが切ないのだ。
それが中学生として描かれると、すっかり台無しなのだった。主人公はとたんにウジウジと思い悩む少年に見えてきて、鬱陶しいことこのうえない。この感じは「碇シンジ」だ。またしても。ウンザリ。
そのわりに菅田将暉の声は低くて、あの声であまりに子供っぽい中学生を演じられると、違和感ばかりが甚だしくて、気持ち悪かった。下手だというわけではなく、単なるミスキャスト。といって、声の合うキャストで中学生らしく見えても、キャラクター造形が鬱陶しいのにかわりはないが。
一方の広瀬すずは悪くないが、中学生のなずなは、やたらと謎めいた前半に比べて、後半の子供っぽさが違和感ありすぎる。小学生には許せるものが、中学生には許せない。
奥菜恵のなずなは、最初から本心が読めないのを「謎めいている」といえばそうだが、それも所詮小学生の背伸びに見えるし、だから母親に引き戻されるところで泣いたって構わない。そして後半は、あの、典道をおいてけぼりにして「かけおち」なんかなかったことにしてしまう呆気にとられる展開にしても、過剰にウェットになりそうな予感を軽やかに裏切って典道を翻弄する。恐ろしく魅力的なキャラクターになっていた。
観ながら、あ、これは駄目だ、と思ったのは(そういうのは何か所もあるのだが)列車の中でなずなが「瑠璃色の地球」を歌うシーン。
広瀬すずは思いのほか良い声で、悪くない、と一瞬思ったのも束の間、伴奏が入り始める。あれよという間にディズニーランドもどきの(これもまたチャチな)CGのファンタジー空間が現れる。主人公が空中を飛ぶ車に乗る。オーケストラをバックに「瑠璃色の地球」が歌い上げられる。
この映画は、こんなふうにして、印象的になりそうなシーンを台無しにしてしまう。夜の列車の中でアカペラの歌を聴くというシチュエーションにこそ価値があるのに、それをわけのわからないミュージカルにしてしまう。
『La La Land』も、冒頭のハイウェイの場面が素晴らしいのは、それが現実のハイウェイ(らしく見える)空間で繰り広げられていたからで、天文台のシーンは妙なファンタジー空間に入ってしまってがっかりした。
それでも、実写映画でそれをすることの意味はある。生身の人間が、現実に存在するどこかのロケ地かスタジオで撮影しているのだ。そこからファンタジー空間へ移行することには、相応の意志を認めることができる。
大根仁でいえば『モテキ』だ。あれも実写映画であればこそだ。街中がそのままミュージカルの舞台に接続してしまう眩暈のような感覚に価値があったのだ。
だがアニメーションは、そもそも現実の空間を撮影してはいない。リアリティを感じさせる方に労力が向かうべきところに、それを全く放棄したかのようなファンタジー空間に移行したからといってどんな異化効果があるというのか。
そうではないはずだ。夜の列車内の、二人しか乗っていない車両で、これから東京へ「かけおち」しようとしている少女が歌い、引きまわされる少年が、わけのわからないままそれを聞くことになる時間の魅力こそ描くべきではないのか。歌の最中は、様々な現実的(車内の、車窓外の、あるいはそれぞれの登場人物たちの)カットバックがコラージュされるべきではないのか。
アニメだからこそ安易にできるファンタジー描写が、ドラマを根こそぎにしてしまう逆効果をどうして自覚しないのか。
もう一つ。上の不満とも通ずるのだが、全体として、SFともいえないファンタジー要素を入れることの意味をどう考えるか。
原作では、ストーリーが分岐するパラレル・ワールド設定的な枠組みがあるものの、それぞれのストーリー内にファンタジー要素はない。非現実的なことは起こらないという枠組みで描かれている。
一方、映画版ではパラレル・ワールドではなく、タイム・リープによる時間の巻き戻しだ。ただし、記憶は保持されていて、主人公たちは意識的に選択のやり直しをする。
タイム・リープ要素を取り入れるのはいい。だがそこに灯台のレンズを思わせるあの不思議な玉を導入すると、上記の花火の描写の薄っぺらさにも通ずるCG合成の違和感が甚だしくて、まず萎える。
だが問題は、繰り返されるうちに世界が非現実的な異世界になっていくことに、何か良くなるような要素があるのか、という点だ。
タイム・リープ設定が非現実的であることは構わない。だがそこで繰り返される物語が、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』や『シュタインズ・ゲート』のように、物語の可能性の展開として示されるのならいいのだが、この作品では、奥行きが増すような(たとえばそこで二人の絆が強まっていくような)感触ではなく、ただひたすらに拡散して、薄くなっていくような印象しかないのだ。
タイム・リープは典道にとって、諦めないことの意思表示のはずだ。うまくいかなかったある場面を、創意工夫と意志の力で乗り越えていく試練の連続があのタイム・リープ設定の可能性ではないのか。
それが、繰り返されるうちにわけのわからないファンタジー世界に迷い込んでいったのでは、どんな創意工夫のしようがあるのか。ただ翻弄されていくばかりだ。「成長」の要素を敢えて描かないことも、制作者の意図だというつもりなのか。
そしてこれも灯台のレンズのイメージを応用したものか、最後の世界の空の描写はいったい何だ? 何かすごいものを見せられたというような映像的な美しさがあるわけでも、世界観があるわけでもなく、ただそんな風に描かれることの意味がわからない、という当惑だけがある。にもかかわらず、それは、わざわざそうしているのだ。原作を改変して。
そして原作の、あの奇跡のような夜のプールの場面を、わざわざ海に置き換えて、まるでそこに何の魅力も見いだせないような場面として描きながら、極めつけは例の「今度はどんな世界で会えるかな」だ。
原作の「今度会えるの、二学期だね」は、二学期には転校して会えないことを知っているなずなが、そのことをまだ知らない典道に言う科白だ。この切なさが、夏休みという、終わることを約束された、限界を持った掛けがえのない時空間の愛おしさとともに胸に迫るのがこの科白なのだ。それを作品から消し去ってしまうことの意味を、脚本家も監督も、いったいどう考えているのか。
制作者たちの罪は重い。
で、見始めこそ、そのアニメーションの品質にワクワクしたが、見続けていると、あれっ、という感じになった。観ていて、映画の先行きにちっともワクワクしてこない。話はわかっていて、先の展開が知りたいということではないから、その先に起こるであろう感情の揺れを追体験することに対する期待があってもよさそうなのに、そうならない。今、特に感情が揺れていないからだ。
どうも会話のテンポがタルい。キャラクターに魅力がない。
不満は後半にいくにつれ、どんどん増大していった。そして最後まで、その不満を解消するに足るプラス要素がないまま映画は終わった。
いったいこの人たちは何を考えているのだろう。脚本家も監督もプロデューサーも。
がっかりというより、はっきりと怒りさえ覚えたのは、もちろん原作を知っているからだ。
少なくとも期待していたアニメーションの魅力も、テレビの情報番組の紹介で観た、花火のCGの平板さに不安を感じていたとおり、後へ行くほどがっかりだった。
「まどマギ」の異空間も、その場面が現れる度、違和感で冷めたものだが、この映画でも、例えば題名の「打ち上げ花火」がとてつもなくチャチい。いきなり映画の中の空間と別な層でCGの花火が画面いっぱいに重なる。しかもそれが特に綺麗だと感じられるような作りになっているわけでもなく、ただ機械的で平板なCGが作品のリアリズムを台無しにするのだ。
あるいは人間を描くことについても、リアリズムはまるで保障されない。なずなの母の再婚相手が、ホームで典道を殴り倒す。体の小さな中学生がホームに倒れているのに、それに一顧だにせずに立ち去る大人がいるものか。こんなふうに、いるはずもない記号的「ひどい大人」を描かないと典道の試練が描けないと考えてしまう制作者たちが、まともなドラマを描けるわけがない。
原作のある作品をどう別メディア作品として再話するか。原作に愛着のある人に不満を感じさせない再話をすることは、もちろん難しい。それはほとんど成功しない。その作品の魅力が、そのメディアの特性によっているならば、そもそも再話が成功するはずはない。
それにしても、だ。それが、創作というものに対する志に何ら関係のない商売であるならば、動機はわかる。どういう見通しであれ、話題になってしまえば商品価値は見込める。メディアミックスは宣伝と販売、回収がセットになった効率的な戦略だ。
だが、何かしらそれが作品として意味あるものになるはずだと考えるならば、そのメディアによってのみ生まれる魅力を、その原作に付け加えることを意図しないで、なぜ再話などするのか。
せめて魅力が加わらなくても、改悪をすることはなかろう、といつも思う。どうして「そこ」を変えるのか。それは元の作品の魅力のなにがしかを支えている要素ではないのか。あるいはあらたな魅力を付け加えるべく、企図されているのか。
残念ながらこのアニメ化にあたって、原作から変更された要素に、成功しているものはほとんど見あたらなかった。
わずかに、坂の多い銚子の街並みの古めかしい佇まいと、そこに不自然に存在する近未来的校舎の違和感が、世界観として面白かったが、それ以上にそれが何か作品全体の魅力につながっているという感じはしなかった。
それ以外には失敗している改変ばかりなのだが、とりわけ許せない点を三つ。
主人公たちを中学生にすることの意味をどう考えるか。
原作の小学生ではできない恋愛要素を盛り込める、それはそうだろう。だがそのことで失われてしまうものをどう考えるのか。
原作は、もちろん友達連中もそうだが、なんといっても山崎裕太と奥菜恵の、あの歳の魅力失くしては成立しない。
いつもふてくされたように生意気に喋る山崎裕太の典道は、先に大人っぽく振る舞うことを覚えた女の子に振り回されても、結局はカラッとしていられる。
そもそも女の子との絡みにドキドキしてはいるものの、はっきりとそれが恋愛であるような描き方はされていない。二人が最初のうち、好きあっていたのかどうかも怪しい。最後だって、どうみても「恋人」のように描かれてはいない。
だがそれがいいのだ。そのイノセンスと、微かに垣間見える大人の世界とのバランスが切ないのだ。
それが中学生として描かれると、すっかり台無しなのだった。主人公はとたんにウジウジと思い悩む少年に見えてきて、鬱陶しいことこのうえない。この感じは「碇シンジ」だ。またしても。ウンザリ。
そのわりに菅田将暉の声は低くて、あの声であまりに子供っぽい中学生を演じられると、違和感ばかりが甚だしくて、気持ち悪かった。下手だというわけではなく、単なるミスキャスト。といって、声の合うキャストで中学生らしく見えても、キャラクター造形が鬱陶しいのにかわりはないが。
一方の広瀬すずは悪くないが、中学生のなずなは、やたらと謎めいた前半に比べて、後半の子供っぽさが違和感ありすぎる。小学生には許せるものが、中学生には許せない。
奥菜恵のなずなは、最初から本心が読めないのを「謎めいている」といえばそうだが、それも所詮小学生の背伸びに見えるし、だから母親に引き戻されるところで泣いたって構わない。そして後半は、あの、典道をおいてけぼりにして「かけおち」なんかなかったことにしてしまう呆気にとられる展開にしても、過剰にウェットになりそうな予感を軽やかに裏切って典道を翻弄する。恐ろしく魅力的なキャラクターになっていた。
観ながら、あ、これは駄目だ、と思ったのは(そういうのは何か所もあるのだが)列車の中でなずなが「瑠璃色の地球」を歌うシーン。
広瀬すずは思いのほか良い声で、悪くない、と一瞬思ったのも束の間、伴奏が入り始める。あれよという間にディズニーランドもどきの(これもまたチャチな)CGのファンタジー空間が現れる。主人公が空中を飛ぶ車に乗る。オーケストラをバックに「瑠璃色の地球」が歌い上げられる。
この映画は、こんなふうにして、印象的になりそうなシーンを台無しにしてしまう。夜の列車の中でアカペラの歌を聴くというシチュエーションにこそ価値があるのに、それをわけのわからないミュージカルにしてしまう。
『La La Land』も、冒頭のハイウェイの場面が素晴らしいのは、それが現実のハイウェイ(らしく見える)空間で繰り広げられていたからで、天文台のシーンは妙なファンタジー空間に入ってしまってがっかりした。
それでも、実写映画でそれをすることの意味はある。生身の人間が、現実に存在するどこかのロケ地かスタジオで撮影しているのだ。そこからファンタジー空間へ移行することには、相応の意志を認めることができる。
大根仁でいえば『モテキ』だ。あれも実写映画であればこそだ。街中がそのままミュージカルの舞台に接続してしまう眩暈のような感覚に価値があったのだ。
だがアニメーションは、そもそも現実の空間を撮影してはいない。リアリティを感じさせる方に労力が向かうべきところに、それを全く放棄したかのようなファンタジー空間に移行したからといってどんな異化効果があるというのか。
そうではないはずだ。夜の列車内の、二人しか乗っていない車両で、これから東京へ「かけおち」しようとしている少女が歌い、引きまわされる少年が、わけのわからないままそれを聞くことになる時間の魅力こそ描くべきではないのか。歌の最中は、様々な現実的(車内の、車窓外の、あるいはそれぞれの登場人物たちの)カットバックがコラージュされるべきではないのか。
アニメだからこそ安易にできるファンタジー描写が、ドラマを根こそぎにしてしまう逆効果をどうして自覚しないのか。
もう一つ。上の不満とも通ずるのだが、全体として、SFともいえないファンタジー要素を入れることの意味をどう考えるか。
原作では、ストーリーが分岐するパラレル・ワールド設定的な枠組みがあるものの、それぞれのストーリー内にファンタジー要素はない。非現実的なことは起こらないという枠組みで描かれている。
一方、映画版ではパラレル・ワールドではなく、タイム・リープによる時間の巻き戻しだ。ただし、記憶は保持されていて、主人公たちは意識的に選択のやり直しをする。
タイム・リープ要素を取り入れるのはいい。だがそこに灯台のレンズを思わせるあの不思議な玉を導入すると、上記の花火の描写の薄っぺらさにも通ずるCG合成の違和感が甚だしくて、まず萎える。
だが問題は、繰り返されるうちに世界が非現実的な異世界になっていくことに、何か良くなるような要素があるのか、という点だ。
タイム・リープ設定が非現実的であることは構わない。だがそこで繰り返される物語が、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』や『シュタインズ・ゲート』のように、物語の可能性の展開として示されるのならいいのだが、この作品では、奥行きが増すような(たとえばそこで二人の絆が強まっていくような)感触ではなく、ただひたすらに拡散して、薄くなっていくような印象しかないのだ。
タイム・リープは典道にとって、諦めないことの意思表示のはずだ。うまくいかなかったある場面を、創意工夫と意志の力で乗り越えていく試練の連続があのタイム・リープ設定の可能性ではないのか。
それが、繰り返されるうちにわけのわからないファンタジー世界に迷い込んでいったのでは、どんな創意工夫のしようがあるのか。ただ翻弄されていくばかりだ。「成長」の要素を敢えて描かないことも、制作者の意図だというつもりなのか。
そしてこれも灯台のレンズのイメージを応用したものか、最後の世界の空の描写はいったい何だ? 何かすごいものを見せられたというような映像的な美しさがあるわけでも、世界観があるわけでもなく、ただそんな風に描かれることの意味がわからない、という当惑だけがある。にもかかわらず、それは、わざわざそうしているのだ。原作を改変して。
そして原作の、あの奇跡のような夜のプールの場面を、わざわざ海に置き換えて、まるでそこに何の魅力も見いだせないような場面として描きながら、極めつけは例の「今度はどんな世界で会えるかな」だ。
原作の「今度会えるの、二学期だね」は、二学期には転校して会えないことを知っているなずなが、そのことをまだ知らない典道に言う科白だ。この切なさが、夏休みという、終わることを約束された、限界を持った掛けがえのない時空間の愛おしさとともに胸に迫るのがこの科白なのだ。それを作品から消し去ってしまうことの意味を、脚本家も監督も、いったいどう考えているのか。
制作者たちの罪は重い。
2017年8月25日金曜日
この1年の映画 -3年目
ブログ開設3年目は、転勤で忙しくなったというような理由もないではないが、なによりブログの記事を書くことが負担になって、次の映画を観られないというような悪循環が続いた。どれもこれも、観てから記事を書いてアップするまでに2週間くらい経っているものばかり。観た日とアップの日付もズレまくっている。
さて、この1年で観たのは次の50本。
初年度は75本、2年目は60本だから、さらにペースダウン。
『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの
『オブリビオン』 -どこかで見たSF映画
『ある子供』 -何が欠けているのか
『セッション』 -とにかく上手い
『エバー・アフター』 -「シンデレラ」のアナザー・ストーリー
『セルラー』 -巻き込まれ型サスペンスの佳品
『大脱出』 -考えるのが億劫な
『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界
『レクイエム』 -ヴァン・ダム映画として充分、でも残念
『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する
『ER~救急救命室』 -映画作りの層の厚さ
『首吊り気球』 -奇想の現前は遥か
『ツイスター』 -悪くはない娯楽作品ではあるが
『グラスハウス』 -質の低いサスペンス
『アパートの鍵貸します』 -すごいのに楽しめない
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作
『人造人間13号』 -軽く、軽く、ゾンビ物を
『バイオハザードⅣ アフターライフ』
『バイオハザードⅤ リトリビューション』 -不全感の残る大作化
『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容
『君の名は』 -IMAXの力か
『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画
『シカゴ』 -ミュージカル仕様
『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化
『スティーブ・ジョブズ』 ー狂気と演説
『ハーモニー』 ーアニメが不自然を描く困難
『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス
『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画
『アクロイド殺し』 -映画における叙述トリック
『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作
『クローバー・フィールド』 -完成度の高い怪獣映画
『グエムル』 -奇妙なバランスの傑作怪獣映画
『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景
『龍の歯医者』 -初舞城王太郎は
『La La Land』 -圧倒的な演出力
『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画
『パーティクル・フィーバー』 -楽しくもドラマチックな科学ドキュメンタリー
『パーフェックト・ストレンジャー』 -面白さの想定が空振りしている
『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程はマル
『アフター・アース』 -作られる必然性がわからない
『ある日どこかで』 -ロマンチックなタイムトラベルものだが
『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻
『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い
『心が叫びたがってるんだ』 -あんな逃避に納得できるのか?
『ジュラシック・ワールド』 -テレビで見たんじゃなぁ…
『ザ・ドア 交差する世界』 -拾い物のドイツ映画
『クライムダウン』 -山岳風景の美しいサスペンス映画
『羊たちの沈黙』-「アメリカ的」なもの
『アルゴ』 -過不足ない娯楽作
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して
『ER』『アクロイド殺し』『龍の歯医者』はそれぞれテレビ用に作られたもので、劇場公開作品ではないが、それも含めてようやく50本か。
そういえば独立した記事として書いてないが『博士の愛した数式』を見直して、あらためてそのひどさに呆れたりもしたんだっけ。
例によってベスト10を選ぼう。
『セッション』 -とにかく上手い
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作
『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容
『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画
『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化
『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画
『La La Land』 -圧倒的な演出力
『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画
『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻
『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い
このうち3本は映画館で観たもの。1年目の最初の『マレフィセント』以来、2年目までは映画館に行っていなかったのだが、2年半ぶりの『君の名は』からこっち、この先はぼちぼち映画館での鑑賞も復活かもしれない。
さて、上記は観た順で、評価順ではない。どれか突出しているかと見直しても、ベスト1は選べない。
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』『ドント・ブリーズ』のサスペンスも、『LIFE!』『La La Land』『あの頃ペニー・レインと』の多幸感と切なさも、『セッション』『アメリカン・ビューティー』『告白』『コラテラル』の上手さも大いに満足だが、もろもろの思い入れも含めると、この1年間では『この世界の片隅に』の年、と考えるのが良いのかもしれない。
以下はベスト20で、上記と迷った作品。
『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの
『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界
『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する
『君の名は』 -IMAXの力か
『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス
『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作
『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景
『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程は丸
『アルゴ』 -過不足ない娯楽作
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して
名作の評価の高いものが多くて、それぞれさすがではある。あとはこちらとの相性。
それぞれ、多幸感では『ヒット・パレード』より『LIFE!』『La La Land』『あの頃ペニー・レインと』だとか、上手さでは『ジャッカルの日』『天国と地獄』よりも『セッション』や『コラテラル』だったのだ。
さて、この1年で観たのは次の50本。
初年度は75本、2年目は60本だから、さらにペースダウン。
『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの
『オブリビオン』 -どこかで見たSF映画
『ある子供』 -何が欠けているのか
『セッション』 -とにかく上手い
『エバー・アフター』 -「シンデレラ」のアナザー・ストーリー
『セルラー』 -巻き込まれ型サスペンスの佳品
『大脱出』 -考えるのが億劫な
『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界
『レクイエム』 -ヴァン・ダム映画として充分、でも残念
『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する
『ER~救急救命室』 -映画作りの層の厚さ
『首吊り気球』 -奇想の現前は遥か
『ツイスター』 -悪くはない娯楽作品ではあるが
『グラスハウス』 -質の低いサスペンス
『アパートの鍵貸します』 -すごいのに楽しめない
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作
『人造人間13号』 -軽く、軽く、ゾンビ物を
『バイオハザードⅣ アフターライフ』
『バイオハザードⅤ リトリビューション』 -不全感の残る大作化
『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容
『君の名は』 -IMAXの力か
『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画
『シカゴ』 -ミュージカル仕様
『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化
『スティーブ・ジョブズ』 ー狂気と演説
『ハーモニー』 ーアニメが不自然を描く困難
『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス
『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画
『アクロイド殺し』 -映画における叙述トリック
『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作
『クローバー・フィールド』 -完成度の高い怪獣映画
『グエムル』 -奇妙なバランスの傑作怪獣映画
『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景
『龍の歯医者』 -初舞城王太郎は
『La La Land』 -圧倒的な演出力
『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画
『パーティクル・フィーバー』 -楽しくもドラマチックな科学ドキュメンタリー
『パーフェックト・ストレンジャー』 -面白さの想定が空振りしている
『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程はマル
『アフター・アース』 -作られる必然性がわからない
『ある日どこかで』 -ロマンチックなタイムトラベルものだが
『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻
『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い
『心が叫びたがってるんだ』 -あんな逃避に納得できるのか?
『ジュラシック・ワールド』 -テレビで見たんじゃなぁ…
『ザ・ドア 交差する世界』 -拾い物のドイツ映画
『クライムダウン』 -山岳風景の美しいサスペンス映画
『羊たちの沈黙』-「アメリカ的」なもの
『アルゴ』 -過不足ない娯楽作
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して
『ER』『アクロイド殺し』『龍の歯医者』はそれぞれテレビ用に作られたもので、劇場公開作品ではないが、それも含めてようやく50本か。
そういえば独立した記事として書いてないが『博士の愛した数式』を見直して、あらためてそのひどさに呆れたりもしたんだっけ。
例によってベスト10を選ぼう。
『セッション』 -とにかく上手い
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作
『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容
『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画
『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化
『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画
『La La Land』 -圧倒的な演出力
『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画
『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻
『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い
このうち3本は映画館で観たもの。1年目の最初の『マレフィセント』以来、2年目までは映画館に行っていなかったのだが、2年半ぶりの『君の名は』からこっち、この先はぼちぼち映画館での鑑賞も復活かもしれない。
さて、上記は観た順で、評価順ではない。どれか突出しているかと見直しても、ベスト1は選べない。
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』『ドント・ブリーズ』のサスペンスも、『LIFE!』『La La Land』『あの頃ペニー・レインと』の多幸感と切なさも、『セッション』『アメリカン・ビューティー』『告白』『コラテラル』の上手さも大いに満足だが、もろもろの思い入れも含めると、この1年間では『この世界の片隅に』の年、と考えるのが良いのかもしれない。
以下はベスト20で、上記と迷った作品。
『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの
『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界
『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する
『君の名は』 -IMAXの力か
『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス
『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作
『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景
『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程は丸
『アルゴ』 -過不足ない娯楽作
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して
名作の評価の高いものが多くて、それぞれさすがではある。あとはこちらとの相性。
それぞれ、多幸感では『ヒット・パレード』より『LIFE!』『La La Land』『あの頃ペニー・レインと』だとか、上手さでは『ジャッカルの日』『天国と地獄』よりも『セッション』や『コラテラル』だったのだ。
2017年8月17日木曜日
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して
『時間(原題「The Hours)』では題名として素っ気なさ過ぎるのはわかる。だからといってそれだけでは意味不明な邦題でもある。
時代の異なった三つの物語が並行して描かれながら時折それらの関連が示される。関連があるから「めぐりあう」なのか。だが、そもそも「時間」がテーマになっているというのが、どうも腑に落ちない。
だがとりわけ、三つの物語が提示される映画の冒頭の朝の場面で、三つのそれぞれの場面を連続するようにカットインする編集はうまかった。一つの物語の主人公が顔を洗って、顔を上げると鏡に映るのは別の物語の主人公。ある物語でテーブルに置かれた花瓶が、同じ画角で別の花瓶に重なったと思うと別の物語に入れ替わっている。
さてこうした編集も、そもそもおそらく原作がそうなのだろうが、複数の物語を関連させて描くという手法に何の意味があるのか。それを採用しさえすればもう物語の成功は約束されているのか。そうであるようにも思う。「タイムマシン物(タイムトラベル・タイムリープ・パラレルワールド…)」が、それだけである一定の魅力を約束されるように。
だがでは、どれか一つの物語ではいけないのか。それぞれの物語の、ドラマとしての強度は充分であるようにも感じられる。そしてそれぞれの物語が互いを照らし合うことで別な意味を帯びてくるような仕掛けがしてあるようにも思われない。例えば、1951年編のあの人物が2001年編のあの人物なのかとわかる瞬間の驚きはあるが、それで物語がどんなふうに読み直されるのか。考えなければ、にわかにはその効果がわかるようにはなっていない。
ならばこの「手法」はたんに「ためにする」手法でしかないのではないか。
それでもこうした手法が採用されていることによる魅力はいかんともしがたく、ある。一言で言えば物語が重層的に感じられる、ということだ。
創作物が「よくできている」というのは、それだけである種の満足を見る者に与えてくれる。複雑さと拡がりの感触。
だがそれだけなのか。『クラウド・アトラス』では、その複数の物語の重層が、何か複雑な干渉を見せそうな感触があって、途中に強い期待感を感じさせて、結局最後までその期待が満たされずに終わった。
もちろんSFではない『めぐりあう』はそんなふうに物語同士が干渉しなくてもいい。途中で、そうか、それぞれのヒロインの苦悩に共通性があるということなのだなと気づくくらいで、この構成についてのある程度の納得はある。
だが、どれか一つの物語で完結するという可能性は、その物語の価値を下げるのだろうか。そうかもしれない。どれか一つでも十分な強度をもつそれら3編の物語は、しかし『めぐりあう』ほどの特別さをもたないかもしれない。
それがなぜなのかは、いずれ観直して再考しよう。とりあえず感情を揺さぶられたことは間違いない。
時代の異なった三つの物語が並行して描かれながら時折それらの関連が示される。関連があるから「めぐりあう」なのか。だが、そもそも「時間」がテーマになっているというのが、どうも腑に落ちない。
だがとりわけ、三つの物語が提示される映画の冒頭の朝の場面で、三つのそれぞれの場面を連続するようにカットインする編集はうまかった。一つの物語の主人公が顔を洗って、顔を上げると鏡に映るのは別の物語の主人公。ある物語でテーブルに置かれた花瓶が、同じ画角で別の花瓶に重なったと思うと別の物語に入れ替わっている。
さてこうした編集も、そもそもおそらく原作がそうなのだろうが、複数の物語を関連させて描くという手法に何の意味があるのか。それを採用しさえすればもう物語の成功は約束されているのか。そうであるようにも思う。「タイムマシン物(タイムトラベル・タイムリープ・パラレルワールド…)」が、それだけである一定の魅力を約束されるように。
だがでは、どれか一つの物語ではいけないのか。それぞれの物語の、ドラマとしての強度は充分であるようにも感じられる。そしてそれぞれの物語が互いを照らし合うことで別な意味を帯びてくるような仕掛けがしてあるようにも思われない。例えば、1951年編のあの人物が2001年編のあの人物なのかとわかる瞬間の驚きはあるが、それで物語がどんなふうに読み直されるのか。考えなければ、にわかにはその効果がわかるようにはなっていない。
ならばこの「手法」はたんに「ためにする」手法でしかないのではないか。
それでもこうした手法が採用されていることによる魅力はいかんともしがたく、ある。一言で言えば物語が重層的に感じられる、ということだ。
創作物が「よくできている」というのは、それだけである種の満足を見る者に与えてくれる。複雑さと拡がりの感触。
だがそれだけなのか。『クラウド・アトラス』では、その複数の物語の重層が、何か複雑な干渉を見せそうな感触があって、途中に強い期待感を感じさせて、結局最後までその期待が満たされずに終わった。
もちろんSFではない『めぐりあう』はそんなふうに物語同士が干渉しなくてもいい。途中で、そうか、それぞれのヒロインの苦悩に共通性があるということなのだなと気づくくらいで、この構成についてのある程度の納得はある。
だが、どれか一つの物語で完結するという可能性は、その物語の価値を下げるのだろうか。そうかもしれない。どれか一つでも十分な強度をもつそれら3編の物語は、しかし『めぐりあう』ほどの特別さをもたないかもしれない。
それがなぜなのかは、いずれ観直して再考しよう。とりあえず感情を揺さぶられたことは間違いない。
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