2015年1月31日土曜日

『ツーリスト』

 「アンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップ2大スター共演の極上のサスペンス」とかいう情報しかない状態で観る。空撮のベネツィアの街並みが綺麗で、何やら秘密捜査をしているらしい国際警察の捜査の様子を描写する演出もそつがない。うまいなあ、こういうのって、ほんと邦画では見られないテイストだよなあ、とは思うが、映画が進むにつれ、どうも気持が盛り上がらないことは否めないぞと内心思いつつ、それを認めたくないとも思いつつ、「大ドンデン返し」という結末を予想していると、結局その通りになる。
 これ、面白い映画なの? と不審に思ってネットの評を観ると、なんだ、みんなそう思ってんだ。
 とりわけ宇多丸の「週刊映画時評『ザ・シネマハスラー』」での酷評は、ぼーっと観て「なんか面白くない」とか言ってる腑抜けた私の感想とは大違いの緻密な批評だった。その脚本の構成の根本的な不整合を的確について、実に納得の批判だった。
 こういうの、先に評価を調べてから観た方がハズレを避けられるよなあ、とは思うが、他人の評価と自分の好みが食い違うことも多いし、思いがけない出会いもあったりして、とりあえず観てみるか、となる。この映画も、映画としてはちゃんとハリウッド大作のレベルを満たしていると思う。ただ、脚本がだめなことをどうしても誰も何とかしようとしないのだろう。宇多丸も「どうしてこの映画、作られちゃったんだろう」というような言い方をしていたが。こういうのって、どうして誰も太平洋戦争を止められなかったんだろう、みたいな「コンコルドの誤り」なんだろうか。

2015年1月29日木曜日

『TRICK 劇場版 ラストステージ』

 テレビシリーズから劇場版まで、ほとんどのシリーズ作品を観ているから、いわば決着をつけるつもりで観る。時を追ってどんどんつまらなくなっているから、期待はしていない。
 だがこれだけの人気シリーズの完結編として作られているのだ。最後くらい気合い入れて作っているのかもしれないと(しないといいつつ)微かに期待もしてしまう。
 だが結局つまらなかった。むろんあちこちに相変わらずのギャグが利いているのは認める。だがそれだけだ。初期シリーズでは、ちゃんと「トリック」に感心したりもした。だがここまできて、金のかかった劇場版で最終作だというのに、このばかばかしい、トリックとも言えない謎の真相は何事だ? じゃあ、上田と山田のシリアスな恋物語が切なく描かれたりするか? まあ最後はそれなりに感慨もあるんだろうが、まあそれなりだ。他にどんな面白さがある? 無論、強引に途上国開発を進める日本人への批判とかいう真面目なテーマが、観るに値する程の深まりを見せるなどということはありえない。一体何を面白がればいいのか?
 なぜこういう期待作の脚本がこれほどチャチいまま制作が進んでしまうのか? それこそ謎だ。

2015年1月26日月曜日

土日二日間で観たテレビ

 土日二日間で観たテレビあれこれ。

 NHK教育の「岩井俊二のMOVIEラボ」の第2・3回。この手の番組としては坂本龍一の「schola(スコラ)」と亀田誠治の「亀田音楽専門学校」同様、毎回面白いとは言い切れないが、観ないでいるのも勿体ない気がして録画しておく。若者がスマホで撮った1分間の短編映画「1分スマホ映画ロードショー」などはとりわけ気になる。やるな、と思ったり、この程度? と思ったり。雑駁な映画談義といった風のお喋りも悪くない。

 「テストの花道」は小論文特集で、気になったので。標準的で有用な内容だったが例えば息子との小論文指導バトルの時にそういう指導をしたかといえば完全にNOだな。全く書けない状態の生徒に対する指導としては必要だが、その先の指導についてはこういう番組で扱うのは難しいのだろうし。

 「SWITCHインタビュー 達人達」の「田村淳×猪子寿之」は、先週も途中からチャンネルを回したら、そのまま終わりまで観てしまったのだが、今週も同じ轍を踏んだ。猪子よりもすごいのは田村淳だ。どんな時間の使い方をしてこれだけの仕事やら遊びやらをこなしてるんだ。

 「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」のシリーズをここのところ頑張って観ている。丸山真男、司馬遼太郎、吉本隆明と観て、土曜日の三島由紀夫も途中から観てしまった。中学生の国語の時間に、三島が割腹自殺したことなどを聞いて、何という感慨もなかったことを思い出したりして。個人の命よりも大事なものがあるんだ、それが日本だ、という考えを仮に認めたとして、そのために三島が命を投げ出したことが彼の言う「日本」をどのように守る(生かす?)ことになるのかはわからなかった。もちろん戦後が、個人の命より大切な国体という幻想への反動として「命」を何より最優先すべき価値としたことが日本人の堕落を生んでいるという議論はわかる。が、堕落であれ「命」が最優先というのは相当にラジカルな思想だと思う。疑う余地は残して良いが、否定するのは惜しい思想だと思う。

 以上NHK教育。

 民放では「NNNドキュメント’14 マザーズ 特別養子縁組と真実告知」。第10回日本放送文化大賞のグランプリを受賞したというドキュメンタリーだが、この間、平成26年度の文化庁芸術祭の結果を調べたときに、テレビ・ドラマ部門で優秀賞を受賞した「マザーズ」というのも、このドキュメンタリーを元にしているものと思われる。制作は同じ中京テレビ。養子縁組で結ばれた親子にとって、養子という真実の告知は避けるべきではないのか? 関係者の経験に拠ればこれは避けない方が良いのだそうだ。では、暴行による妊娠によって生まれた子供を養子に出した場合、その事実を告知すべきか?
 問題の難しさもさることながら、性的被害者である高校生が葛藤の末に養親に赤ん坊を預けるまでの過程に胸が詰まる思いだった。そして何より、養子縁組みが(少なくとも番組の中では)養親と生みの親のどちらをも救っているように見える結末が感動的だった。

 年末にテレビ朝日系列で「松本清張二夜連続ドラマスペシャル」の第一夜として放送された「坂道の家」は、脚本:池端俊策、監督:鶴橋康夫という「おやじの背中」での仕事の評価に確信をもちたくて観ようと思っていた。結局一ヶ月以上経ってからようやく観た。
 つまらなかった。「ウェディング・マッチ」で奇跡のようなカメラ・ワークを見せた鶴橋の演出は、ここでもそれなりに意識して観ると職人芸なのだが、いかんせん物語がつまらない。予想される設定で、まったく予想される展開と結末。「情念」とやらを描きますという狙いがあからさまに見えて、うんざり。「おやじの背中」では第8話の「駄菓子」で大泉洋をまるで生かせなかった池端の脚本は、ここでは柄本明の老残の嫌らしさを生かし切っている(というか柄本がうますぎる)のだが、そもそもこちらがそういう「情念」を観たいと思っていないのだった。尾野真千子の悪女ぶりも、どうにも型にはまって、今更こうした人物造型を、どんな受け手が希求していると思って作っているのか。

 一方「ウェディング・マッチ」の脚本の坂元裕二の『問題のあるレストラン』は第二回も申し分なく面白かった。「このままだと神ドラマの予感だな」とは息子の弁。

 まだなんかありそうな気もする。いや、よく観た。

2015年1月25日日曜日

「おのずから」を感じ取る(内山節) 2

承前

  昨日の記事のような授業展開は、まあこちらは面白かったのだが、最初のクラスだけでやめた。大多数の生徒には要求が高すぎることが明らかであり、もっとなだらかな道筋に気づいたからである。先に次のページから読むのである。次のページは以下の通り。
 私たちが何気なく使っている「仕事」という言葉には、異なった二つの意味合いがあるのだと思う。一つは自分の役割をこなすということであり、もう一つは自分の目的を実現するための働きである。例えば、「それは私の仕事です。」と言う時の「仕事」は、自分の役割を指している。それに対して、「自分の能力を生かせる仕事」と言った時の「仕事」は、自分の目的をかなえられる労働を意味している。
 私にはこの違いは、日本の伝統的な仕事観と、近代以降の仕事観との相違からきているという気がする。伝統的な日本の仕事観は、自分の役割をこなすことの中にあったのではないか、と。だから、夏の村の仕事が山積みになっている時、私は伝統的な仕事観に基づいて、村の人間としての役割がこなせていないという罪悪感を抱く。ところが、自分の目的を実現するという近代以降の仕事観に立てば、村の夏の仕事が遅れているからといって恥じることはなくなる。私の畑仕事など、趣味でしかないということになるだろう。
  これなら、「文中から対比を挙げよ」は無理な要求ではない。生徒もすぐに指摘する。
   自分の役割をこなす/自分の目的を実現するための働き
  日本の伝統的な仕事観/近代以降の仕事観
これら二つの「対比」は、はっきりと意識的に対比されて文中に明示されている。読む方は、今度はそうした対比を思考の枠組みとして意識しておいて文章のあちこちを読んでみるのである。そうすると、それぞれの部分の文言をどちらかに配置することで「わかる」ようになる(「わかる」とは、以前書いたように、情報を位置付けることができるということだ)。遡って冒頭1ページも、今度はすっきり読めるようになる。例えば2ページ目と1ページ目を見比べて、同じことの言い換えになっているのはどこか、と問う。「罪悪感を抱く」と「よくないことをしているような気分になってくる」の類似に気づく。どちらも秋になったのに「夏の仕事が山積みになっている」ことに対して抱く感情/気分である。そこまでいけば、それよりはわかりにくいものの、「恥じることはなくなる」「趣味でしかないということになる」が「しなくてもよい仕事ばかりである」の言い換えであることにも気づく。対比を対置する目印となる、先に傍線を付した「といっても」「それなのに」などの接続語が、ここでは「ところが」(傍線部)に対応しているのである。
 したがって、ここまでの対比三組を並べてみると
      村の人間として/経済の合理性から見る
   自分の役割をこなす/自分の目的を実現するための働き
日本の伝統的な仕事観/近代以降の仕事観
というふうに変奏していることが理解される。
 1ページ目の対比は「村の人間/経済の合理性」ではない。「村の人間として/経済の合理性から見る」とする必要があるのは、「として」「から見る」が2ページ目の「(仕事)観」同様、ある観点を意味しているからである。

  ここまでくれば後半の2ページも読める。
 かつての日本の人々は、「おのずから」を感じ取りながら「みずから」生きることを理想としていた。このような視点から見れば、今日の私たちの仕事の多くは、「おのずから」を感じ取れない仕事になってしまった。そこにあるのは「みずから」だけである。ここに、自分のために働く時代が展開する。
  この部分から「かつての日本の人々/今日の私たち」という道標を目印に次の対比を抽出する。
「おのずから」を感じ取りながら「みずから」生きる/「おのずから」を感じ取れず、自分のために(「みずから」)働く
  これで読解はほぼ終了である。あとは最初に戻って、筆者の問題提起を疑問文で表現し、それに対応する結論をまとめれば終わりである。だが、文章の集結部は次のようになっている。
 「おのずから」の世界が無事であるためには、自分は何をしなければならないのかを考えながら、「みずから」働く、この仕事観を失うことは、果たして私たちを幸せにしたのだろうか。
最後の最後に疑問文が置かれている。これは自問自答であるとともに、読者に対する問いかけでもあるのだろうが、もちろん筆者がそれにどう答えるのかは、既に読者には自明だ。これは疑問文というよりは反語文である。「(私たちを幸せにしたのだろうか?)いや、幸せにはしていない。」と続くのである。結論はこれである。だからこれをもって最初の課題の答えとしてもかまわないとは言える。
 だが、読み始めた最初の段階でこうした問題提起とそれに対する結論を並べても、それで何かがわかった気になったりはしないはずだ。だから、対比の整理による論理構造の理解を通して、再度同じ問いを投げかけたとき、同じ答えをするならばそれも良い。だが適切な理解を進めてきた生徒は違った疑問文を「問題提起」として掲げる。次のようにである。
今日の我々の仕事観はかつての日本人の仕事観とどのように変わったか?
この文章に潜む「問題」が生徒の手によってこうしたかたちで抽出できることは、まあそうだよなとも思いつつ、同時に深く満足もする。最初の段階ではやはりこうした筆者の問題意識は、自明のことではないのだ。だがこうして抽出されてしまえばあとは自明である。結論は例えば次のように表現される。
  かつての日本人のように「おのずから」を感じ取らず、「みずから」のためだけに働くようになっている。
こうした「問題提起」&「結論」というセットと、先の「仕事観の変化は私たちを幸せにしたか?」(問題提起)&「いや、幸せにはしていない」(結論)というセットを合わせて、初読の段階ではつかみどころのなかった内山の文章は、何程か明確な手応えを露わにしたように思える。

 だが繰り返すが、こうした「まとめ」を教えることには全く意味はない。こうした結論が生徒にとって意味ある教訓だと言うつもりもない。ただ、最初の段階での「わからなさ」が、何程かの「わかる」に変化すればいいのであり、そうした変化は、上記のような作業を生徒自身がこなすことによってしか生じないのである。

 さらに、上記の「まとめ」を形にできたとしても、それが「わかった」ということになるとも限らない。「おのずから」など、この文章で読む限りではベタな自然賛美でしかないようにも読める。そこから環境保護について訴えるというのならともかく、仕事観とどう関わるのか、具体的には想像できているとは言い難い。
 こういった「腑に落ちない」感触は、次の内田樹との読み比べによっていくらかなりと解消する可能性がある。だからここまではまだこの一連の学習の五合目でしかない。

2015年1月24日土曜日

「おのずから」を感じ取る(内山節) 1

 長くなりそうなので分けて投稿する。

 新学期の授業について少々書く。だが扱っているのは「こころ」のように汎用性のある教材ではない。一学期の「ミロのヴィーナス」(清岡卓行)の頃はまだブログを開設していなかった。だが今の時点でそれを授業で扱っていたときの豊穣が記録できるかどうか怪しい。一方最近展開したばかりの授業の感触ならばいくらか表現することができるが、それがどれほど意味のあることかは心許ない。だが意味など求めずに書き出してしまおう。
 内山たかしの「『おのずから』を感じ取る」という随想である。

 内山節の文章は、どれを読んでもいつもぼんやりと印象がない。そのわりには好きな人がいるらしく(と言うか案外多いらしく)、教科書の常連ではある。面白いと思ったことはないので、かつて授業で扱ったことがないのだが、現在使用中の教科書はそもそも教材の選択肢がなく、さらに面白くない姜 尚中かん さんじゅんの文章よりはマシであり、かつ実に面白い内田たつるのとある文章と読み比べることができると見当を付けて読み出した。
 だが、読んで面白いかどうかということと、授業で扱って面白いかどうかは別である。吉本ばななの「みどりのゆび」は作為の透けて見える、安っぽい小説だと思って取り上げてこなかったが、やはり他の選択肢がさらに魅力に乏し過ぎて仕方なく今年授業で扱ってみると、実に面白い発見が相次ぐ、宝の山のような教材だったことがわかった。作為が見えるのも、その作為を敢えて探るという考察が可能になるという意味で、学習教材としては丁度よいとも言えるのである。だがそうした楽しい授業を通して作品の感興が増したかといえば、結局そうでもない。
  ともあれ内山節である。最初の1ページはこんな文章である。
 「おのずから」を感じ取る
 立秋の便りが届いたというのに、群馬県上野村の私の家では、まだ夏の仕事が山積みになっている。畑仕事、夏の山の手入れ、草刈り、木の剪定、こういう状態が続くと、村の人間としては、よくないことをしているような気分になってくる。
 といっても、それらはいずれも、経済の合理性から見れば、しなくてもよい仕事ばかりである。自分で畑を作るよりは、作物をもらったり買ったりしたほうが効率的だし、山の手入れをしなければ困る経済的な理由が、私にあるわけでもない。私の仕事の遅れが、環境や社会に負担を与えていることもないだろう。それなのに、村の人間としては、そう簡単に開き直ってしまう気分にはなれないのである。

 読んでいて「わからない」と感じる部分はないのに、この調子で最後まで読んでも、さて結局何を言っていたのかと考えるとちっとも思い出せない、といういつもの内山ぶしである。
 国語科現代文の授業は生徒に教材となる文章の内容を理解させることを目差しているわけではない。だから教師が文章の内容を説明することには意味がない。だが、仮にそれを目差すとしても、「わからなさ」の構造がどうなっているのかの見当がつかなければ授業の構想が成り立たないはずだ。そもそも自分自身がこの文章を「わからない」と感じている理由が俄には「わからない」。扱われている話題に知らないことがあるとか、論理が難しいとか、抽象性の高い表現がどのような具体例に対応するのか見当がつかないとか、「わからなさ」の要因は様々である。だが、内山の文章はそのような自覚しやすい構造をもった「わからなさ」ではない。まして他人である生徒がどのように「わかる/わからない」のかはなおさら見当がつかない。
 授業で実現しようとしているのは、「わからない」が「わかる」に変化する実感を生徒自身の裡に生じさせることである。わかった内容に価値があるのではない。変化の実感と、そのための生徒自身の思考にのみ意味がある(というのはまあ大げさだが、文章の内容に価値があるかどうかはいわば「余禄」である)。変化を起こすための仕掛けとは、つまり読解の技術である。技術は自覚的に使用できるに越したことはないが、使ったという体験自体に既に意味がある。

 去年から何度か使っているのが、その文章で筆者がとりあげている問題(テーマ)を「~か?」という疑問形で表現し、それに対する筆者自身の結論を簡潔にまとめる、という方法である。この課題に対する「答え」が重要なのでは無論ない。この課題に答えようとする思考が、生徒自身に文章を読ませるのである。上の文章で内山は何を考察すべき問題としてとりあげているのか?
 「問題」は、文章に明示されている場合もある。「~とはなんだろうか。」「なぜ~なのだろうか。」などの疑問文が文中にあれば候補となる。その問いが文章全体のテーマとして取り立てるに値するかを、その結論部とともに検討するのである。だがそうした疑問文が文中にない文章ももちろんある。疑問文が、文章全体のテーマとはつり合わない場合もある。上の内山の文章には疑問文がない。だからどこを目差して文章が綴られているのか「わかならい」。その場合は筆者の結論/主張から遡って、それを導き出した「問題」を読者の方で想定するのである。もちろんこの課題は容易ではない。だがそれができないときに解答を教師が提示するべきではなく、別の迂回路をたどるしかない。ここでも、性急にこの課題の考察に進むことなく、課題の提示だけして先に進む。

 次に別の読解技術を試してみる。「対比」である。
 文中から「対比」を読み取る、という読解方法は、評論の読解においてきわめて汎用性の高い方法である。人間の思考は不可避的に何かと何かを比較することで展開するからである。「二項対立」という言い方をされることも多いが、稀に二項でない場合もある(柄谷行人「場所と経験」の場合は三項対立だった)し、「対立」ではとりあげるべき二項の関係が限定されすぎている。実際には多項が「対立」だったり「並列」だったり「類比」だったりすることもあることを想定して、それらを含むつもりで「対比」といっておく。
 これも、実際に適用するに容易な文章とそうでない文章がある。二項が明示されていない文章があるのである。たとえば上の文章では何と何が対比されているか。明示はされていない。読み取るしかない。読み取ろうとする思考が読解を促す。
 こちらの想定する対比は「村の人間として/経済の合理性から見る」である。これが対比であると感じられるのはたぶん相当に高度な読解力が必要である。最初のクラスでは、無作為に指名しても徒労であることは必至だから、はじめから期待できる生徒しか指名しなかった。だがある生徒が見事にこれを言い当てた(「こころ」において、Kが遺書を書いたのは上野公園の散歩の晩ではないかという説を唱えた生徒である。むべなるかな)。だがどうしてこれが「対比」なのか?
  読解の成立事情を自覚することは、読解自体にとって必ずしも必要ではない。なぜそう読み取れるのか、は、思考のネタとしては面白い場合もある、というくらいのことではある。だが「『こころ』の曜日を特定する」でも、どうして「二、三日」と「五、六日」が重なっていると読めるのかという読みの生成する機制は、自覚できた方が面白いというだけでなく、見解の違う人との議論を可能にするという効用もあるのである。
 上記の対比の場合は、「といっても」「それなのに」という接続が逆接として機能しているから、その前後に何らかの「対比」要素を含んでいることを感じさせ、それが「よくないことをしている」と「しなくてもよい」「困る理由があるわけでもない」といった反対方向のベクトルをもった表現によって支持されることによって読者に「対比」として読み取れるようになっているのである。だがその「対比」要素を引き受けた表現が「村の人間として/経済の合理性から見る」であるところがこの文章の「わからなさ」を生む要因となっている。名詞句や動詞句、形容句、などといった文法的な型の統一もなく、「村/都市」とか「文化/経済」とか「環境倫理/経済の合理性」とかいったわかりやすい名詞で表される概念の対比で明示されているわけでもないからである。
 試みに傍線を付して再掲してみる。
 立秋の便りが届いたというのに、群馬県上野村の私の家では、まだ夏の仕事が山積みになっている。畑仕事、夏の山の手入れ、草刈り、木の剪定、こういう状態が続くと、村の人間としては、よくないことをしているような気分になってくる。
 といっても、それらはいずれも、経済の合理性から見れば、しなくてもよい仕事ばかりである。自分で畑を作るよりは、作物をもらったり買ったりしたほうが効率的だし、山の手入れをしなければ困る経済的な理由が、私にあるわけでもない。私の仕事の遅れが、環境や社会に負担を与えていることもないだろう。それなのに村の人間としては、そう簡単に開き直ってしまう気分にはなれないのである。
やはり長い。後半は次回

2015年1月21日水曜日

『PARTY7』(監督:石井克人)

 確か以前レンタル屋で気になっていたのだが、借りて観たのかどうかの記憶が定かでなかったので録画してみた。始まると、何だか観たような気もする。だが映画が進んでも、はっきりそうだとも言い切れないほど記憶がおぼろである。こういうのが面白い訳がない。半分を過ぎて、ほとんど観るのが苦痛なほどにつまらない。レンタルなのかテレビ放送の録画なのかも忘れたが、たぶん観てる。たぶんというしかないくらい、もしかしたら跳ばし飛ばしの鑑賞だったのかもしれない。今回も途中で4分の1くらい早送りした。結末だけ見届けたが、それで評価がマシになったりはしなかった。
 「スタイリッシュな映像」「密室のシチュエーションドラマ」とかいう宣伝文句に弱いのだ。「Saw」も「Cube」も、邦画なら「12人の優しい日本人」だって、そういう魅力に満ちた映画だった。金の必要な大作と違って機知とアイデアとセンスで(どれも同じ?)で面白くなる。期待してしまう。
 だが、この映画に一体どんな機知とアイデアとセンスがあったというのか?(確かにオープニングのアニメがよくできていたのは認めるが)
 だが、これを面白いと感ずる人が世の中にはいるということは、単に好みの問題に過ぎないということか。
 だが、よく考えられた、感銘を受けるような機知がないことは確かな気もする。どう見ても原田芳雄と浅野忠信の無駄遣いだと思う。
 だが、そんなことは端から求めていない映画なのかもしれない。あれが可笑しいと思う人もいるらしい。信じられないことに。原田芳雄と浅野忠信のやりとりに笑えた、とか。
 むしろやりきれない虚しさを感じたが。

2015年1月20日火曜日

『ウェス・クレイヴン's カースド』(Cursed)

 題名に俳優名の入った邦題の映画は危ない、という一般論は当たっている。同様に、わざわざ邦題に入れられた監督名に引かれて観るが、それほど期待はしていない。
 とはいえウェス・クレイブンである。『エルム街の悪夢』(おお、変換すると「得る無害の悪夢」となる!)も『スクリーム』シリーズも大好きだ。去年あたりには『スクリーム』シリーズ4作品を娘と見倒した。脚本も『スクリーム』のケヴィン・ウィリアムソンだ(『鬼教師ミセス・ティングル』『パラサイト』の脚本も書いてる!)。
 とはいえ(上げ下げするが)、さすが監督の名前入り邦題映画である。あのCGの人狼のちゃちさは何? 結末も、もう一ひねりあるかと期待してるとそのまま終わってしまう(カットされているわけでもあるまい)。
 とはいえ、さすがウェス・クレイブンだという手慣れた演出の冴えも、随所には見られた。腹が立つほどひどい映画だというわけではない。こういうB級ホラーの洋画を見たくなるという欲求は、ジャンク・フードを食べたくなる欲求に似ている。これで、誰が人狼なの? という謎の演出が『スクリーム』シリーズ並にスリリングなら手放しでお気に入り入りなんだけど。
 主演のクリスティーナ・リッチはどこで見た娘かと思って考えたら『モンスター』のセルビーだった。もう一人の主演、ジェシー・アイゼンバーグは『ゾンビランド』の主役だ! と気がつきはしたが、『ソーシャル・ネットワーク』のマーク・ザッカーバーグだったことに気づかなかったなんて! それにしてもどれも似たようなオタク少年役だこと。『スパイダーマン』シリーズのトビー・マグワイアにしろ、『トランス・フォーマー』シリーズのシャイア・ラブーフにしろ、アメリカ映画って、こういう冴えない男優がエンターテイメント映画の主役に選ばれるのが不思議だ。観客の憧れよりも共感を誘う意図なんだろうか?