2015年1月25日日曜日

「おのずから」を感じ取る(内山節) 2

承前

  昨日の記事のような授業展開は、まあこちらは面白かったのだが、最初のクラスだけでやめた。大多数の生徒には要求が高すぎることが明らかであり、もっとなだらかな道筋に気づいたからである。先に次のページから読むのである。次のページは以下の通り。
 私たちが何気なく使っている「仕事」という言葉には、異なった二つの意味合いがあるのだと思う。一つは自分の役割をこなすということであり、もう一つは自分の目的を実現するための働きである。例えば、「それは私の仕事です。」と言う時の「仕事」は、自分の役割を指している。それに対して、「自分の能力を生かせる仕事」と言った時の「仕事」は、自分の目的をかなえられる労働を意味している。
 私にはこの違いは、日本の伝統的な仕事観と、近代以降の仕事観との相違からきているという気がする。伝統的な日本の仕事観は、自分の役割をこなすことの中にあったのではないか、と。だから、夏の村の仕事が山積みになっている時、私は伝統的な仕事観に基づいて、村の人間としての役割がこなせていないという罪悪感を抱く。ところが、自分の目的を実現するという近代以降の仕事観に立てば、村の夏の仕事が遅れているからといって恥じることはなくなる。私の畑仕事など、趣味でしかないということになるだろう。
  これなら、「文中から対比を挙げよ」は無理な要求ではない。生徒もすぐに指摘する。
   自分の役割をこなす/自分の目的を実現するための働き
  日本の伝統的な仕事観/近代以降の仕事観
これら二つの「対比」は、はっきりと意識的に対比されて文中に明示されている。読む方は、今度はそうした対比を思考の枠組みとして意識しておいて文章のあちこちを読んでみるのである。そうすると、それぞれの部分の文言をどちらかに配置することで「わかる」ようになる(「わかる」とは、以前書いたように、情報を位置付けることができるということだ)。遡って冒頭1ページも、今度はすっきり読めるようになる。例えば2ページ目と1ページ目を見比べて、同じことの言い換えになっているのはどこか、と問う。「罪悪感を抱く」と「よくないことをしているような気分になってくる」の類似に気づく。どちらも秋になったのに「夏の仕事が山積みになっている」ことに対して抱く感情/気分である。そこまでいけば、それよりはわかりにくいものの、「恥じることはなくなる」「趣味でしかないということになる」が「しなくてもよい仕事ばかりである」の言い換えであることにも気づく。対比を対置する目印となる、先に傍線を付した「といっても」「それなのに」などの接続語が、ここでは「ところが」(傍線部)に対応しているのである。
 したがって、ここまでの対比三組を並べてみると
      村の人間として/経済の合理性から見る
   自分の役割をこなす/自分の目的を実現するための働き
日本の伝統的な仕事観/近代以降の仕事観
というふうに変奏していることが理解される。
 1ページ目の対比は「村の人間/経済の合理性」ではない。「村の人間として/経済の合理性から見る」とする必要があるのは、「として」「から見る」が2ページ目の「(仕事)観」同様、ある観点を意味しているからである。

  ここまでくれば後半の2ページも読める。
 かつての日本の人々は、「おのずから」を感じ取りながら「みずから」生きることを理想としていた。このような視点から見れば、今日の私たちの仕事の多くは、「おのずから」を感じ取れない仕事になってしまった。そこにあるのは「みずから」だけである。ここに、自分のために働く時代が展開する。
  この部分から「かつての日本の人々/今日の私たち」という道標を目印に次の対比を抽出する。
「おのずから」を感じ取りながら「みずから」生きる/「おのずから」を感じ取れず、自分のために(「みずから」)働く
  これで読解はほぼ終了である。あとは最初に戻って、筆者の問題提起を疑問文で表現し、それに対応する結論をまとめれば終わりである。だが、文章の集結部は次のようになっている。
 「おのずから」の世界が無事であるためには、自分は何をしなければならないのかを考えながら、「みずから」働く、この仕事観を失うことは、果たして私たちを幸せにしたのだろうか。
最後の最後に疑問文が置かれている。これは自問自答であるとともに、読者に対する問いかけでもあるのだろうが、もちろん筆者がそれにどう答えるのかは、既に読者には自明だ。これは疑問文というよりは反語文である。「(私たちを幸せにしたのだろうか?)いや、幸せにはしていない。」と続くのである。結論はこれである。だからこれをもって最初の課題の答えとしてもかまわないとは言える。
 だが、読み始めた最初の段階でこうした問題提起とそれに対する結論を並べても、それで何かがわかった気になったりはしないはずだ。だから、対比の整理による論理構造の理解を通して、再度同じ問いを投げかけたとき、同じ答えをするならばそれも良い。だが適切な理解を進めてきた生徒は違った疑問文を「問題提起」として掲げる。次のようにである。
今日の我々の仕事観はかつての日本人の仕事観とどのように変わったか?
この文章に潜む「問題」が生徒の手によってこうしたかたちで抽出できることは、まあそうだよなとも思いつつ、同時に深く満足もする。最初の段階ではやはりこうした筆者の問題意識は、自明のことではないのだ。だがこうして抽出されてしまえばあとは自明である。結論は例えば次のように表現される。
  かつての日本人のように「おのずから」を感じ取らず、「みずから」のためだけに働くようになっている。
こうした「問題提起」&「結論」というセットと、先の「仕事観の変化は私たちを幸せにしたか?」(問題提起)&「いや、幸せにはしていない」(結論)というセットを合わせて、初読の段階ではつかみどころのなかった内山の文章は、何程か明確な手応えを露わにしたように思える。

 だが繰り返すが、こうした「まとめ」を教えることには全く意味はない。こうした結論が生徒にとって意味ある教訓だと言うつもりもない。ただ、最初の段階での「わからなさ」が、何程かの「わかる」に変化すればいいのであり、そうした変化は、上記のような作業を生徒自身がこなすことによってしか生じないのである。

 さらに、上記の「まとめ」を形にできたとしても、それが「わかった」ということになるとも限らない。「おのずから」など、この文章で読む限りではベタな自然賛美でしかないようにも読める。そこから環境保護について訴えるというのならともかく、仕事観とどう関わるのか、具体的には想像できているとは言い難い。
 こういった「腑に落ちない」感触は、次の内田樹との読み比べによっていくらかなりと解消する可能性がある。だからここまではまだこの一連の学習の五合目でしかない。

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