2015年1月19日月曜日

「ナイフの行方」

 山田太一は、これまでの人生で最も影響を受けた作家の一人だ。最初の出会いである「男たちの旅路」の鶴田浩二、「獅子の時代」の菅原文太と加藤剛、「タクシー・サンバ」の緒方拳、「早春スケッチブック」の山崎努、「真夜中の匂い」の林隆三、「チロルの挽歌」の高倉健…。格好いい大人の男のイメージは、山田太一の作品から学んだ(もちろん自分がそういう歳になってそうなれているかといえば、まるでそうではない)。
 さて、先日の『おやじの背中』の「よろしくな。息子」の渡辺謙は、「星ひとつの夜」でも、かなり「そういう男」を演じていたが、「よその歌 わたしの歌」の渡瀬恒彦や「時は立ちどまらない」の中井貴一は、かなり今時の中年の情けなさも兼ね備えていた。もちろん鶴田浩二も山崎努も、強くて大人で格好良かったばかりではない。その弱さも描かれた上で魅力的な大人の男だったのである。だが、こちらがそういう年齢に近づいてきて、無条件に「大人の男」に憧れられなくなってもきたし、山田太一自身も老いて、「大人の男」でさえも「子供」でいいではないかという慈愛の目で見てしまっているがゆえの人物造型なのかもしれない。
 「ナイフの行方」の松本幸四郎もまた、その系列の「大人の男」である。だがもはや「大人」というよりはっきりと「初老」であり、さらにはっきりと「老人」である「キルトの家」の山崎努にも明らかなように、どう晩年を受け入れるかというテーマは、はっきりとここ十年来の山田作品の傾向を受け継いでいる。同時に若者がどう現実に着地するかというテーマもまた「キルトの家」の三浦貴大や「時は立ちどまらない」の神木隆之介を引き継いだものである。ああ、だがそれとて、「男たちの旅路」の鶴田浩二と水谷豊から描かれていたのだった(水谷豊が「若者」だったのだ)。
 もう何十年も前から、テレビドラマはリアルじゃなくていいと言い続けていた山田太一の、開き直る覚悟が近年の山田ドラマの「みんなで一緒に歌を歌う」という結末に意識的に表れているのだろうが、歌わないまでも「ナイフの行方」でも、終わりはそれに近い、関係者がそれなりに仲良くすることが予想されて終わる、いささか甘ったるい終わり方ではあった。
 だがやはりなんといっても、このドラマでは、ある独裁政権下にある途上国での凄惨な出来事を松本と津川雅彦が若者に語るシーンの緊迫感が肝である。もちろんこのシーンも、途轍もなく非リアルである。打ち合わせをしたわけでもなかろうに松本と津川が掛け合いのように交互に語る。再現シーンやイメージシーンは、多分意図的に挿入しない。ただ二人が語る。語られる話の内容も、登場人物たち自身が「あれは現実だったのか…」とか言ってるくらいに非現実的だ(NHKのサイトではこのドラマを「ファンタジー」と紹介している!)。
 それでも、山田太一のドラマはこれまでも最もリアルなドラマであり続けた。ここでも、そういうことがあるとすると、ぎりぎりこういう空気感でそれが起こるのだろうと感じさせるリアルな手触りが、二人の語りの中から立ち上がっていた。まったく言葉の力によって。だからやはりこれもまた「文学」なのだった。
 ちなみに松本幸四郎が「格好いい大人の男」ぶりを遺憾なく発揮していたのが、この間からたびたび言及している三谷幸喜の「王様のレストラン」だった。あれは本当に素晴らしいドラマだった。

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