2017年2月17日金曜日

『アクロイド殺し』 -映画における叙述トリック

 テレビドラマの「名探偵ポワロ」シリーズの「アクロイド殺し」を。
 実は原作未読なのだ。あの、ミステリー史上屈指の名作と言われる小説を。
 さらに実は、個人的なミステリー事始めはクリスティーなのだった。小学生の時に図書室で借りて読んだ『海辺の殺人』が、まっとうな推理小説の楽しさを最初に教えてくれた小説だった。

 ところがこの『海辺の殺人』=『なぜエヴァンスに頼まなかったのか』を長じて文庫本で読んでも、北村薫推薦の『象は忘れない』を読んだ時も、どうにも乗れない、というか、ちっとも頭に入ってこないのが参ったものだった。
 子供の時は単にストーリーを追えていたからかなあ。訳文もシンプルだったのだろうか。
 翻訳文がどうにもだめなのだ。スティーブン・キングなども、今まで読み進められたためしがない。どれも挫折してしまう。

 にもかかわらず有名どころを知っておきたいというさもしい根性で「ポワロ」シリーズをいくつか見てみたが、どれもちっとも面白いと思えないのも困ったものだった。淡々と事件の要素が並べられて、といってそれを組み合わせて真相を探るようなパズラーとして見る気にもなれず。殺人が劇的だったりは決してしないし。

 結局「アクロイド殺し」も、淡々と見終わってしまって、さて何があれほどこの作品を有名にしてるんだっけなと思い出してみると、果たして最初の方で「そうだっけ?」と頭をよぎった、あの「手記」という設定にからんだトリックのせいだったのだ。
 ええっ!? だめじゃん。
 そもそも映画には「一人称」が使えない上に(それでもナレーションを一人称にするくらいのことはできるだろうに)、「手記」が犯人の手によるものであることが最初から明かされている(そここそがこの作品を特殊なものにしているというのに!)
 どういうわけなのだろう。制作陣はこの作品が唯一無二(では厳密には、ないらしいが)であるところのトリックを台無しにして、ありふれた「ポワロ」物の一つとして作っているのだ。なんのため?

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