2017年2月7日火曜日

『ハーモニー』 ーアニメが不自然を描く困難

 伊藤計劃アニメ化プロジェクト第2弾。第3弾の『虐殺器官』の公開にあわせてのテレビ放送だ(『屍者の帝国』の放送はどうなったのだろう)。
 CFを見る限り『虐殺器官』はかなりアニメーションの質が高そうだが、『ハーモニー』や『屍者の帝国』はそれほど期待できなかったのだが、監督はなかむらたかしとマイケル・アリアスでSTUDIO 4℃の制作なのだった。それなりのものを作っているはずだと期待する。
 確かに画面設計などには見るべき画も多い。いくつかの場面では手のかかった仕事をしていると思えた。特にPG12の原因となったであろう例の場面などは(それともあれはミァハの設定が原因か?)。

 だが結局、面白い映画ではなかった。
 そもそもが、原作は面白い小説だったか?
 確かに伊藤計劃の作品は凄い。その設定の斬新さも、その設計の緻密さも、細部に横溢している。『ハーモニー』でいえば「生命主義」という設定と、人間の「意識」とは何か? という問題設定だ。
 そして、集団自殺事件の、場面としての戦慄も、自殺か他殺かを選択させる焦燥感にも、展開としての面白みはあった。
 だが『ハーモニー』では、肝となる、「生命主義」下での少女たちの閉塞感にどうにも共感できなかった。これは致命的だった。
 まして映画では、小説の一人称による心理説明がない分、ミャハの破滅願望も、それに惹かれていくトァンの心理もまるで物語において希薄な印象にしかならない。原作を読んでいてさえそうなのだ。映画だけ見る人は、結局、何の話かよくわからない、という印象に終わってしまうのではなかろうか。
 「意識のない部族の人々」なども、当人たちを登場させないことには、その設定がどういうことなのかを観客に伝えるのは難しい。台詞の中で次々と説明だけされてしまい、人類がそうなるということがどんなことなのか、誰が想像できるんだろ。これは原作でもそうだ。概念としての新鮮さはあったのだが、そうした人々との直接の遭遇がないのは、いかにも残念だった。
 したがって、結末でも、なんらのカタルシスも戦慄もなく、まるで平坦な気分で見終えてしまった。
 
 アニメとしても、AR(拡張現実)の表現など、『ターミネーター』の昔、30年以上前からまるで変わっていない。電脳空間での会議なんて『攻殻機動隊SAC』『すべてがFになる』をはじめ、枚挙に暇無いにもかかわらず、それを今更、粗いデジタル表現にして、電脳空間であることを示すなんて、なんという時代錯誤なセンスだろう。電脳空間が完全にリアルで、かついきなり現実と切り替わるというような演出をしないかぎり、そこでの斬新さを表現することはできないではないか。

 SFの実写映画化を日本で実現することはほとんど絶望的に難しいのだが、この作品に関しては、アニメでしか、あの未来社会を描くことが難しいだろうと思いつつ、アニメならではの弱さも出たと思う。
 「生府」の支配する「生命主義」に統一された社会というのがどのように不気味な世界なのか。誰もが健康で穏やかで、美男美女で…。
 だがそれをアニメで描いても、単に下手なアニメにしか見えない。アニメはもともと不自然に美男美女ばかりの世界で、誰もが穏やかな不自然さは、単に演出の下手さにしか見ないだろう。
 もともと「自然」を描くのが難しいアニメで「不自然」を描くことの難しさよ。

 じゃあどうすればよかったのか。作品を批判的に語る度に頭をよぎる。ま、責任など無いのだから言いっ放しにしてしまえばいいのだが。
 ともかくも、あの百合要素は要らない。

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