2017年2月15日水曜日

「博士の愛した数式」の授業 3 ルートの怒りの意味、映画版

 承前

 病院から帰った後、ルートが母親に見せる奇妙な苛立ち、怒り、涙は一体何を意味するか。
 この章段はいかなる事態として読むべきだろうか。

 前段の終わり「博士と私の靴音は重なり合い、ルートの運動靴はプラプラ揺れていた。」は確かに指導書の言うように「私と博士の心が親和を取り戻したことを示す表現となっている」のだが、それはつまり「私」と博士が擬似的な夫婦のように描かれているということであり、この時、ルートの立ち位置は、すっかり「子供」のそれである。「運動靴はプラプラ揺れていた」とは、博士におぶわれて自分の足で歩かない子供の立場に甘んじているということだ。母子家庭にあって必ずしも安楽な、子供という立場ではいられないルートにとって、それは心地よいものであるはずだ。
 この心地よさは、なぜ「不機嫌」に反転するか。

 ルートは、自らの怒りの訳を「ママが博士を信用しなかった…ことが許せないんだ。」と語る。だがルート自身は博士を信用しているのだろうか。そもそも博士は実際に信用に足る人物なのだろうか。
 とてもそうだとは言えない。ルートの負傷にあたって、博士は「動揺」し「混乱」し、まるで役に立たない。「私」の判断で病院に連れて行く段になってようやく大人の男としての力を発揮するが、総じて「任せる」には不安な人物に違いあるまい。
 むろんそのことをルートもまた痛いほど感じているはずだ。病院に運ばれることになる怪我の際も「ルートは一人で事を収めようとし」ている。父親としての博士におぶわれて感ずる安らぎが本当には安定した確固たるものではないことことに気づかざるを得ないほどに、ルートは怜悧である。ルートの苛立ちは、母親の博士への疑念自体に向けられているのではなく、むしろ母親が懸念した博士への不安が現実となってしまったことによって生じているのである。とすれば、それを現実にさせたのは自らの過失である。したがって、本当に責めるべきなのは自らであることに、ルートは気づいている。
 指導書の解説でもこの「不機嫌→怒り」が母親に対するものだけではないことが指摘されている。
 自分自身の行為によって博士を極度の混乱に陥らせたことで、ルートは自分自身に深く傷ついている。…博士に対するその罪の意識が、怒りの矛先を、博士を不安視し、自分をいらだたせた母親へと向けさせているのではないかと考えられる。
この「怒り」が、単に母親を「許せない」と思っているだけではなく、自分にも向けられているのだと読み取ることは重要である。ルートに自傷的な振る舞いをさせるのはいわば自責の念である。「不機嫌」の、「怒り」の正体が自らの責任の追及から発している以上、それは単純に母親を責めることにならない。
 だからルートは黙って涙を流す。愛すべき博士の名誉を守れなかった自らの無力に泣くのは、その責任を引き受けようとする矜恃の裏返しである。「罪の意識」を感ずるのは「罪」を自らの責任として引き受けようとする気概に拠る。
 この「罪の意識」が強い感情として表出するのは、前段における博士への親愛の情の故である。つまりルートは博士の名誉を守りたいのである。だからようやく怒りの理由を口にする時「ルートは私を見据え、泣いているとは思えない落ち着いた口調で言」う。言葉こそ母親を責めているが、そうした母親の懸念を否定することで、自らの責任を引き受けようとするルートは一人の「男」である。
 だが前段の「運動靴はプラプラ揺れていた」が、先に述べたように、ルートが子供という立場に身を任せる心地よさを表しているように、本当はルートは子供でいたいとも思っている。そしてルートが子供でいるためには、博士が擬似的な父親として信用に足る人物でなければならず、そのためには、ルートが自律できなければならない。
 つまりルートは、言ってみれば、子供でいるために大人にならなければならないという、奇妙な背理のうちに置かれている。それこそここでルートが置かれた混乱である。

 ここに表現されているのは、有り体に言えばルートの「成長」という事態にほかならない。ここに描かれているのは、母親に苛立ち、母親を非難する息子と、それに突き放される母親の断絶ではない。自分への非難の中に息子の成長を見て取る母親の歓喜である。
 博士の名誉を守ろうと母親を非難し、同時に名誉を守ることができなかった自らの非力を嘆くルートは、「こども」という安楽に甘んずることを望むがゆえに、それを守る力を求めてそこから一歩を踏み出そうとする「男」である。
 そう考えるからこそ、このシークエンスはまぎれもなくハッピーエンドなのである。

p.s

 上記の授業は、昨年度に行ったものを、今年度再び、整理した形で実施したものだ。
 今年は思いついて映画版の「博士の愛した数式」の該当場面が参考にならないかと気になって、見直してみた。
 文章の読み比べは、以前から授業のメソッドとして重要視しているのだが、評論の読み比べに限らず、「羅生門」における「今昔物語」などの原典との読み比べ、マンガ化されたものがあればそれとの比較、あるいは映像作品との比較など、複数のテクストを比較するのは、常に有用な読解学習の機会となる。
 だがそれは、一方が他方の理解を助けることが期待されるからではない。そもそも国語科学習とは、教材の「理解」を最終目的としてはいないからである。国語科学習における教材文の「理解」とは、あくまで「理解」を仮の目標としておくことで、学習の導因、インセンティブとなることが期待されるという、当面の「仮の目標」である。
 学習自体は、読解行為、考察そのものにあるのであり、読み比べはそのための糸口である。
 そして、思考とは常に比較である。情報が「差異」でしかない以上、情報の発生は比較によってしか起こらない。思考は差異線をなぞるようにして展開する。

 だが、小泉堯史監督による映画版は、期待したような考察を可能にしてはくれなかった。
 原作の、母親が外出しているうちにルートがナイフで指を切ってひどく出血し、病院に行くという顛末が、映画では草野球の練習の最中に他の選手とぶつかって転倒して頭を打って病院に運ばれるという設定になっている。展開が違っているから、映画を見ていると最初のうちは、このシークエンスが問題のエピソードだとは気づかない。だが病院の待合室でルートの治療を待っている場面辺りで、もしやそうなのかと思っていると、結局そうなのである。
 わけがわからない。どういうわけでこういう改変をするのか。映画の尺の問題で削るのなら、エピソードごと切ってしまえばいい。後の展開に必須のエピソードでは、まるでない。
 ルートの怪我の原因について、博士が自分に責任があると思い、なおかつその事態を博士が自分で収拾できずに混乱に陥ることは、このエピソードの必須要件である。だが映画ではそれがまるで描かれない。その混乱の中でこそ、三角数は語られる必要があるのだ。そこにある秩序が小説の言葉で「崇高」と語られるのは、博士の混乱との対比があるからだ。
 だが映画では、あろうことか博士は落ち着き払って、心配げに待つ母親に、数学の話をもちだして、したり顔で教訓を垂れる。
 どういうわけでこういう改変を思いつくのか、まるでわからない。
 なんという、人間の心理に対する無神経、無理解。
 問題のルートの怒りも、博士に野球のコーチを任せることを懸念する母親に対する怒りとして描かれるだけだ。ルートの怒りは、夕食の帰り、博士におぶわれている場面で既に露わにされる(アパートに帰り着いてからではなく!)。そして母親はその怒りの意味をただちに理解して、ルートに謝るのである。ルートの自責の念も、成長も、まるで描かれることはない。
 演出以前に脚本も自ら書き下ろしている小泉監督が、小説に描かれた、授業で分析したような心理の機微をまるで理解していないことは明らかである。
 もちろん、この場面だけでは、「授業」という特殊な場がこのような読みを可能にしているだけだ、とも言える。だが、物語の結末部にある決定的な喪失についても映画がまるで描いていないのは、もはや、この映画が何を語ろうともしていないことの証左である。この映画は、まったく、ただなんとなく、このお話を絵解きしたに過ぎない。そこに美しい桜並木でも映しておけば「良い映画」風のものを作ったつもりになっているのだ。

p.s2
 おそらく明治書院の、平成30年度版の「現代文B」では、恩田陸の「オデュッセイア」も、小川洋子の「博士の愛した数式」も収録から漏れてしまうだろう。これらはいわば「流行作家」枠であり、改訂の際に入れ替わる可能性が高い。
 たぶん編集部では先日の恩田陸の直木賞受賞のニュースを、歯噛みして見たに違いない。「オデュッセイア」を収録からはずしたのを悔いて。
 だが「オデュッセイア」も「博士の愛した数式」も、小説として魅力があるというだけでなく、それを素材として「読む」という行為を実践する「教材」として、きわめて価値の高い小説であった。出版社の指導書からはそうした価値の自覚が伝わってはこず、編集部にとっては、やはり単なる「流行作家」枠なのかもしれない。

p.s3
 いやはや驚いた。30年版「現代文B」でも、「オデュッセイア」「博士の愛した数式」、ともに収載継続だった!
 教材としての可能性を高く評価する者として、編集部の英断を言祝ぎたい。

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