2017年8月10日木曜日

『ザ・ドア 交差する世界』 -拾い物のドイツ映画

 ドイツ映画だというので、例によってヨーロッパ映画の画面、空気感だ。画面の暗さも、適度なざらつきも、良い。こういうのを時々見たくなる。
 「午後のロードショー」枠で見るにふさわしい、大作、名作というわけではない、だが安っぽいというわけではない、まとまりのある、映画的小宇宙を体現した映画。「拾い物」というのは、こういう風に「午後のロードショー」とか深夜枠で偶然見るからいいのだ。期待値が低くて。
 5年前に戻れる洞窟のようなトンネルのような(「ドア」じゃないじゃん、という突っ込みは当然ある)暗い通路を通って、子供を事故で失くしていない5年前の世界に行った男の話。SFといえばSFにありがちなタイム・リープ物だが科学的な説明はまるでない。タイムパラドックスについて言及する気もなさそうだから、パラレル・ワールド設定なのだろう。
 だが、そういうものがあったとするとどんなことが起こるかについては、それなりに考えて、物語に組み込んでおり、よくできた脚本だと言える。終盤の、トンネルを通過した未来人たちが実は結構いるという展開がもたらすカタストロフも、苦いギリギリの悲劇を避けえたエンディングも、「拾い物」としての評価を十分に与えて良い。

2017年8月6日日曜日

『ジュラシック・ワールド』 -テレビで見たんじゃなぁ…

 もしかして、ものすごくよくできたエンターテイメントを見せてくれるんじゃないかと思って、テレビ放送で。
 だがやはりテレビではそれほど期待度の高くない予想の範囲内だった。映画館で、3Dでも4Dでもやってくれれば大いに昂揚するのかもしれないが。
 まあそつのない展開で、悪くないエンターテイメントではあった。が、映画的画の面白さが優先してリアリティという面では白けてしまうような展開があちこちにあって、どうもノリ切れなかった。
 たとえばクライマックスで、さあいよいよアイツの登場だぁ! というところで檻の前に主人公が立つのはダメだろ。それが映画的なサスペンスだというのはわかるが、そうなってしまった、ではなく、敢えてそうするとなるとどうにもリアリティが希薄になってしまって。

2017年8月4日金曜日

『心が叫びたがってるんだ』 -あんな逃避に納得できるのか?

 長井龍雪は「とらドラ!」「あの花」「あの夏」と見てきて、クオリティは知っているが、岡田麻里の脚本とのコンビも含めて、熱狂的に観たいという気になるわけでもなく、でも追っかけようかとは思っているという程度には評価している。
 だがこれはさすがに劇場映画で、アニメーションはどこもかしこもクオリティが高かった。原画のレベルも、動きも。
 そしてあちこちにちゃんと感動ポイントはあって、おおっ、なるほど泣かせる、とは思ったものの、全体としてはそれほど感心しなかった。
 考えてみるとこれも期待値が高いためにハードルが上がってしまったパターンで、しかもどうやら無意識に『聲の形』と混同していたのだった。あちらは声に出して意思を伝えられないことの深刻さが、機能的な条件として厳然としてある。『心が』の「喋れない」も、それと同種の身を切られるような痛みとして描かれるのかと思っていた。
 だが映画が進んでもそのようには感じない。
 そもそも幼児期の、声が出せなくなる最初のシーンが、幻想の玉子王子との会話、という形で描かれているところで、もう大いなる違和感を感じてしまって、あ、これはダメだ、と思ってしまった。
 狙いはわかる。喋れなくなる呪縛が玉子王子の宣言という形をとるのは、アニメーション的な表現としてはアリだと思ったのだろう。だが軽すぎる。思いが口に出せないことの苦しみが、肉体的な痛みとして感じられてこないのだ。
 その思いが、ある時に呪縛を断ち切って溢れ出すのが、題名が示す物語の方向なのだろうと、見る前から予想はつく。だがその呪縛を、こんなキャラクターの形で表現したのは結局のところ失敗だったと思う。主人公が言いたいと感じた時に、玉子が禁止をするといった形で描かれて、それが口に出せずに身悶えするような肉体的な表現として描かれないところが、結局のところ単なる逃避なのではないかと感じられてしまう。
 腹痛が「肉体的」?
 だがこれも「逃避」の代償に過ぎず、結局言い訳のように感じられてしまった。

 そうした不満が決定的に表れるのは、主人公が演劇発表の当日に逃避してしまうという展開で、ここに至っては本当に脱力するような失望だった。
 そんな身勝手がどうして観客の共感を得られると思っているんだ、岡田麿里は。どうしてそのまま作品にしていいと思えているんだ、長井龍雪は。
 言葉が他人(ひと)を傷つける、という、喋れなくなるそもそもの原因となる状況が描かれているわけではなく、単に失恋をしただけで逃げ出しているのだ。「他人を」ではなく自分が傷ついているだけだ。しかも表現することによって、ではない。「口に出さなくても言葉が体から溢れている」というようなとってつけたような説明があるのだが、じゃあやはり声に出しているわけじゃないじゃん、と思ってしまってまったく説得力はない。だから結局、逃避以外には感じられない。
 しかも納得できないのは、それがクラスメイトに許されてしまうという展開だ。こういうときに、過剰に理不尽に主人公たちを非難するクラスメートというのも定番のガッカリ演出だが、逆に、こんなふうに許すクラスメートだってどうして納得できるのだ。どうしてそんな展開に観客が納得できるのだ。
 そして肝心のテーマ「心が叫びたがっている」ことを、あんな廃墟のラブホテルでの「告白」でしか表現できないのか?
 ここは、「言葉が人を傷つける」という状況をちゃんと描いたうえで、発表から逃げ出さずに、だが思いを口に出さずにいることの表れとして、本番の舞台上で声が出なくなるという展開にすれば、題名の予想させるドラマとして成立するだろうに。
 予想を裏切ることが何か良い効果を生むように意図されているわけではあるまい。予想をなぞって、しかも演出の力でその予想を超えるだけの物語を見せてほしかった。

2017年8月2日水曜日

Special Favorite Music,Sugar's Campaign

 以前LUCKY TAPESやSuchmosを発見したように、Youtubeはこちらの好みそうな楽曲を目の前に差し出してくれる。「発見」どころではない。「据え膳」だ。
 そうしてSpecial Favorite Musicなんてバンドも、いつの間にか活動していたことを知る。


LUCKY TAPESかAwesome City Clubかというシティポップ。
 70年代の「はっぴいえんど系」、その正統後継としての90年代の「渋谷系」に続いて、20年周期でこういうシティポップのバンドがまとまって出てくるというのは、単なるこちらの「発見」の印象なのか、統計的に有意な傾向なのか。

 Sugar's Campaignも、この曲は大いにハマった。

2017年7月30日日曜日

『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い

 原題の『Almost Famous』って何だろうと思って調べると、「ブレイク寸前」というような意訳が見つかる。なるほど、もうすぐ有名になる、ということか。
 1973年のアメリカを舞台に、「ローリングストーン」誌に掲載される予定の記事を書くために、ブレイク近いロックバンドのツアーに同行する高校生記者の物語。
 なんともはや、隅から隅まで良い映画だった。
 まずアカデミー脚本賞だというシナリオがすばらしく、台詞の応酬がいちいちうまい。主人公とヒロインの「ペニー・レイン」が最初に会うシーンで、歳を聞かれた主人公が3歳サバを読んで「18」と答えると、明らかに年上なのに彼女は「私も」と答える。「実は17」とやや正直に修正すると「偶然、私もそうなの」と当然のように言い放つ。さらに「16」、「実は15」と告白するのにあわせて、彼女の年齢もどんどん下がる。自分が年若いことにコンプレックスを抱く主人公に、年齢などどうでもいいことだと、軽口にのせて態度で示してみせる。
 主人公の母親は大学教授で、時代柄、ロックにコミットする息子を心配している。副主人公のバンドのギタリストが、母親と話す主人公の電話に割り込んで話すうち、母親の怖さに震え上がって、電話の後で「お前の母さん、怖いな」と言うと、主人公が「悪気はない」と返す。映画の終盤で母親とギタリストが実際に会う場面で、互いの正体がわかって「あのときの電話の…」となるシーンも、実にほほえましかった。
 母親の無理解に反発して家を飛びだした姉が、弟と一緒に数年ぶりに家に戻り、母親とぎこちなく和解するシーンも、しみじみと感動的だった。母親の歓迎の抱擁に「謝ってないわよ」と謝罪を要求しながら、姉もなし崩しに母親を許してしまう。笑えるうえに泣ける。
 とにかくいろんな感情が細やかに描かれる。新しい時代の文化への憧れ、音楽を通じた仲間への友情、社会的成功への野心、家族愛、そして年上の女性への憧れ。
 ペニー・レインを演ずるケイト・ハドソンは、これでアカデミー助演女優賞のノミネートだそうだが、なるほど、恐ろしく魅力的だった。微妙な表情の変化で感情を表現しつつ、結局実に良い笑顔で主人公の憧憬のシンボルを引き受けている。ほれぼれする口角の上げ方だった。
 実にしみじみと幸せな気分になれる映画だった。

2017年7月4日火曜日

『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻

 4月からこっち、一本の映画を通して観る時間がとれない。
 生活が忙しいというのももちろんある。単純に帰りが遅くなった。
 同時に今期はとりあえず見通すと決めたドラマとアニメがやや多めなクールだった。前から見ている格闘技番組や情報番組以外に、今クールは「ボク、運命の人です。」「100万円の女たち」のドラマ2本と、アニメを5本くらい。その録画番組を「消化」するだけで毎日の隙間の時間が埋まってしまっていた。

 その中で、録画してみた映画の「消化」優先順位を決めようと、ちょっとだけ様子見と、『コラテラル』の冒頭だけ観てみた。
 …のつもりだったが、あれよあれよと途中まで観てしまって、見始めがそもそも遅い時刻だったのに、覚悟を決めて最後まで観た。
 それくらい面白い映画だったのだ。最初の、主人公のタクシー運転手と乗客の会話から妙に真面目に面白いぞと思っていると、それが案外長い。その女性客が検事で、再登場する重要人物だというのがだんだんわかる。
 次に乗せるのがトム・クルーズだから、いよいよかと思っていると、停車中の車の屋根にビルから死体が降ってくる展開で主人公同様度肝を抜かれて、あとはあれよと物語に飲み込まれる。
 度肝を抜く展開はこれだけではなくて、次々と、という感じで襲ってくるのだった。車のハンドルに拘束されて、道行く人に助けを求めると近づいてきたチンピラがいきなり銃を突きつけて強盗になるとか、その強盗に追いついたトム・クルーズが、どうやって鞄を取り返すのかと思っていると、いともあっさりと撃ち殺してしまうとか。その「いきなり」さ加減が実に上手い。
 とりわけ、ジャズ・バーのオーナーであるトランペッターを撃ち殺す場面の唐突さはすごかった。殺し屋はどうやらジャズファンらしい。トランペッターのプレイに敬意を抱いて、席に招いてジャズ談義を繰り広げていたとと思っていたら、途中でそのトランペッターがターゲットなのだという展開に驚かされる。殺し屋とターゲットがテーブルをはさんで味わい深い会話を重ねて、緊張感はあれど、殺すのは避けるかと思っているといきなり額を撃ち抜く。撃たれた者が、後ろへではなく前へ倒れてくる顎を、銃を持っていない左手で受け止めて、テーブルへ静かに下ろす。この一連の動作が、呆気にとられている一瞬で描かれる。
 かような演出の妙に、脚本がまたうまいこと。次から次へと緊迫感のある展開になる構成もすばらしいが、途中の会話の味わい深さも格別なのだ。
 殺し屋のトム・クルーズのシンプルな行動原理を支える自己認識が、主人公の運転手の市民感覚とぶつかって、どう動かされているのだろうと推し量って観ているのだが、どうにもわからない。だが、まるで影響しないだろうと思われては興味が失われるから、何か響くものがあるんじゃないかと期待はしてしまう。といって彼は殺し屋の使命を全うすることをやめはしない。
 タクシー内部のドラマから、ロサンジェルスのビル街まで大きく移動する物語展開、主人公二人にターゲット、依頼主の麻薬密売組織や市警、FBIをからめた人間ドラマの展開、実に完成度の高い映画だった。

p.s
 この映画を見て間もなく、ライムスターの宇多丸のラジオ番組でトム・クルーズ映画の人気投票をやる企画があって、さて『コラテラル』はどのあたりかと思ってランキングを遡る発表を聴きながらも、よもやベスト10に入ることはないだろうと思っていた。トム・クルーズといえばそうそうたる有名作が目白押しだ。今回初めて知ったこの映画が、順位の上の方で登場するという期待はしていなかった。だが結果は、なんとまさかの第一位。発表直後に宇多丸が「読めねー」と叫んだのは、やはりこの順位の意外さを物語っていたのだろうが、個人的にも、意図せざる映画視聴とラジオ番組のタイミングの偶然の近接に何やら不思議な気がしたのだった。

2017年7月2日日曜日

蝙蝠

 夜中に目が覚めた時に、ふと、掛け布団の上の黒い塊に目を停めて、その正体の思い至らなさに手を伸ばすと、蝙蝠の子供(たぶん)なのだった。以前、部屋に入ってきて飛び回ったことがここ20年のうちに一度あったが、蝙蝠が部屋の中に入ってくるのは二度目だ。どこから入ったものか。
 それだけ。