2017年8月13日日曜日

『アルゴ』 -過不足ない娯楽作

 『羊たち』に続いてアカデミー賞受賞作。
 だがこちらはそういう評価に違和感はない。まあこんなに臆面もない「映画」讃歌に最高の賞を進呈してしまうところに、映画界の身内びいきを見るようで恥ずかしい気もするのだが。
 それでも面白いことにはまったく異論はない。隅々までよくできていた。サスペンスは充分だし、成功のカタルシスは申し分ないし、台詞は粋だし、ペーソスも感じられる。主人公のベン・アフレックのかっこよさには惚れ惚れするし、登場人物たちがそれぞれの役割において輝く瞬間をきちんと描けているところもいい(アカデミー助演男優賞ノミネートのアラン・アーキン演ずる老映画プロデューサーの、気骨と矜恃と辣腕と少々の落魄はやはり味わい深かったが、個人的には台詞も「活躍」もほとんどない義勇の人、カナダ大使ケン・テイラー役のヴィクター・ガーバーの顔が実に良かった)。全体として、アイデアの密度が濃いという感触が、鑑賞後の満足感を与えてくれる。
 大いに満足して、でも何か大きな感動がないことにもいささかの不満足を感ずる。
 たぶんこれは個人的な問題だ。こちらの準備状況であり、相性の問題なのだ。

2017年8月12日土曜日

『羊たちの沈黙』-「アメリカ的」なもの

「アカデミー賞特集」みたいな放送で録画。
 3回目くらいになるか。
 以前の印象では、とにかく面白い映画であることは間違いないが、どうしてアカデミー賞を受賞するような評価のされ方をしているのかが腑に落ちないでいた。確かにレクター博士のキャラクターは強烈ではある。それでも、それがアカデミー賞などというはれやかな賞の評価にふさわしいという感じがわからなかった。
 今回、久しぶりに観て、やはりレクター博士の脱獄についてのシークエンスと、主人公クラリスが犯人バッファロー・ビルの家に入るシークエンスのサスペンスはさすがだった。どちらも観客の想像を誘導しておいてどんでん返ししてみせるという手法が冴えていた。
 とりわけ後者で、FBIが犯人の家に踏み込む過程と、クラリスが捜査のために関係者の家を訪れる過程と、犯人が家にいる過程を並行して描いておいて、どれとどれがどう接続するかという読者の想像がひっくり返る瞬間はお見事である。
 だがこのアイデアが空前絶後だというわけではなかろう。例を挙げられるわけではないが、他には見たことがないという印象でもない(乙一が小説では時折やっているが、それはむしろこの映画の影響かもしれない)。
 というより、こうした映画的うまさがアカデミー賞の評価の対象となるというのがどうもピンとこない。
 ではどういうのがアカデミー賞の評価になるのかといえばそれはそれで確からしい定見があるわけでもない。だがいつも作品賞を獲る作品には、何かしら「アメリカ的なもの」がそこに感じられるようにも思う。それはアメリカ的な幸せだったりアメリカ的な誇りだったりアメリカ的なトラウマだったり。さてでは『羊たちの沈黙』ではどこがそうなんだろう。
 やはりレクター博士とクラリス捜査官なんだろうか。主演男優/女優賞を独占したアンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターには納得だが、そうした演技の賜物というだけでなく、そもそも精神分析医が怪物であるという設定と、正義感の底に強迫観念があるという設定が。
 どちらにもキリスト教を背景にした文化的な刻印であるような感じもして、それに感応しない日本の観客には、この作品はやはり、よくできた面白いサスペンス映画でしかないのかもしれない。

2017年8月11日金曜日

『クライムダウン』 -山岳風景の美しいサスペンス映画

 題名は「下山」くらいの意味なんだろうが、これがまたしても邦題。原題は「A Lonely Place to Die」というのだが、そのままでいいじゃん。サスペンス映画であることはその方がわかるのに。
 さてまたしても「拾い物」狙いなのだが、これは良かった。
 登山パーティーが、山中に生き埋めにされている少女を発見して保護すると、謎の暗殺者に襲われて一人ずつ殺されていく。
 冒頭から前半部全体に、山岳や渓谷の風景が恐ろしく良く撮れてる。ふんだんな空撮はドローン撮影で安価になったからか、低予算映画にスケール感を与えつつ、山岳の高低差を感じさせて、既にサスペンスフル。森の中も、木々の与える遠近感がいちいち絵画のようだ。
 もちろんそれだけではなく、本筋のサスペンスの方も申し分ない。とりわけ撮影が。
 崖の途中で、上から下りてくる仲間を待っていると、ロープを何者かに切られて落下する仲間が、主人公の近くを落ちていくのを同一フレームに入れる場面とか、襲撃者から逃げる副主人公が山の斜面を転げ落ちるのを複数カットをつないだ編集で見せる場面とか、映画として実に芸のある撮り方をしていると思う。
 イギリス映画というのは、ハリウッド映画とヨーロッパ映画の中間的な味わいが「ちゃんと」ある。不思議なものだ。

 もちろんネット上の評判のように難もある。どういう設定かわからないから、ホラーなのかスリラーなのかと思ってみていると、思いのほか襲撃者が姿を現すのが早いように思えてちょっとがっかりする。一応それでも、いったんは「これが襲撃者たち?」と思わせておいたのが単なる密猟者で、それらをあっさり殺すのが本編にかかわる襲撃者たち、というような捻り方をするのだが。
 あるいは山で話を完結させればいいのに、半ば過ぎで麓の村に下りてしまって後は街中の追いかけっこになる。そこからは新味がなくなるのはいかんともしがたく、山で話を終えなかった脚本の構成が惜しまれる。山ならば主人公に、そうしたアドバンテージを与えて、それゆえの逆転劇を描けたのに。
 とまれ、先の展開を読ませないストーリーテリングは十分にサスペンスフルだった。ええっ! ここで仲間を殺しちゃうの? といった唐突さも、もったいないとはいえ、下手にべたべたしないところにスピード感もあって。

 主人公のメリッサ・ジョージという女優は、よく動くし演ずるし、良い女優だなあと思っていると、あれっ、思い入れ深い『トライアングル』の主演女優なのだった。ここでも思いがけない佳品に出ているか。

2017年8月10日木曜日

『ザ・ドア 交差する世界』 -拾い物のドイツ映画

 ドイツ映画だというので、例によってヨーロッパ映画の画面、空気感だ。画面の暗さも、適度なざらつきも、良い。こういうのを時々見たくなる。
 「午後のロードショー」枠で見るにふさわしい、大作、名作というわけではない、だが安っぽいというわけではない、まとまりのある、映画的小宇宙を体現した映画。「拾い物」というのは、こういう風に「午後のロードショー」とか深夜枠で偶然見るからいいのだ。期待値が低くて。
 5年前に戻れる洞窟のようなトンネルのような(「ドア」じゃないじゃん、という突っ込みは当然ある)暗い通路を通って、子供を事故で失くしていない5年前の世界に行った男の話。SFといえばSFにありがちなタイム・リープ物だが科学的な説明はまるでない。タイムパラドックスについて言及する気もなさそうだから、パラレル・ワールド設定なのだろう。
 だが、そういうものがあったとするとどんなことが起こるかについては、それなりに考えて、物語に組み込んでおり、よくできた脚本だと言える。終盤の、トンネルを通過した未来人たちが実は結構いるという展開がもたらすカタストロフも、苦いギリギリの悲劇を避けえたエンディングも、「拾い物」としての評価を十分に与えて良い。

2017年8月6日日曜日

『ジュラシック・ワールド』 -テレビで見たんじゃなぁ…

 もしかして、ものすごくよくできたエンターテイメントを見せてくれるんじゃないかと思って、テレビ放送で。
 だがやはりテレビではそれほど期待度の高くない予想の範囲内だった。映画館で、3Dでも4Dでもやってくれれば大いに昂揚するのかもしれないが。
 まあそつのない展開で、悪くないエンターテイメントではあった。が、映画的画の面白さが優先してリアリティという面では白けてしまうような展開があちこちにあって、どうもノリ切れなかった。
 たとえばクライマックスで、さあいよいよアイツの登場だぁ! というところで檻の前に主人公が立つのはダメだろ。それが映画的なサスペンスだというのはわかるが、そうなってしまった、ではなく、敢えてそうするとなるとどうにもリアリティが希薄になってしまって。

2017年8月4日金曜日

『心が叫びたがってるんだ』 -あんな逃避に納得できるのか?

 長井龍雪は「とらドラ!」「あの花」「あの夏」と見てきて、クオリティは知っているが、岡田麻里の脚本とのコンビも含めて、熱狂的に観たいという気になるわけでもなく、でも追っかけようかとは思っているという程度には評価している。
 だがこれはさすがに劇場映画で、アニメーションはどこもかしこもクオリティが高かった。原画のレベルも、動きも。
 そしてあちこちにちゃんと感動ポイントはあって、おおっ、なるほど泣かせる、とは思ったものの、全体としてはそれほど感心しなかった。
 考えてみるとこれも期待値が高いためにハードルが上がってしまったパターンで、しかもどうやら無意識に『聲の形』と混同していたのだった。あちらは声に出して意思を伝えられないことの深刻さが、機能的な条件として厳然としてある。『心が』の「喋れない」も、それと同種の身を切られるような痛みとして描かれるのかと思っていた。
 だが映画が進んでもそのようには感じない。
 そもそも幼児期の、声が出せなくなる最初のシーンが、幻想の玉子王子との会話、という形で描かれているところで、もう大いなる違和感を感じてしまって、あ、これはダメだ、と思ってしまった。
 狙いはわかる。喋れなくなる呪縛が玉子王子の宣言という形をとるのは、アニメーション的な表現としてはアリだと思ったのだろう。だが軽すぎる。思いが口に出せないことの苦しみが、肉体的な痛みとして感じられてこないのだ。
 その思いが、ある時に呪縛を断ち切って溢れ出すのが、題名が示す物語の方向なのだろうと、見る前から予想はつく。だがその呪縛を、こんなキャラクターの形で表現したのは結局のところ失敗だったと思う。主人公が言いたいと感じた時に、玉子が禁止をするといった形で描かれて、それが口に出せずに身悶えするような肉体的な表現として描かれないところが、結局のところ単なる逃避なのではないかと感じられてしまう。
 腹痛が「肉体的」?
 だがこれも「逃避」の代償に過ぎず、結局言い訳のように感じられてしまった。

 そうした不満が決定的に表れるのは、主人公が演劇発表の当日に逃避してしまうという展開で、ここに至っては本当に脱力するような失望だった。
 そんな身勝手がどうして観客の共感を得られると思っているんだ、岡田麿里は。どうしてそのまま作品にしていいと思えているんだ、長井龍雪は。
 言葉が他人(ひと)を傷つける、という、喋れなくなるそもそもの原因となる状況が描かれているわけではなく、単に失恋をしただけで逃げ出しているのだ。「他人を」ではなく自分が傷ついているだけだ。しかも表現することによって、ではない。「口に出さなくても言葉が体から溢れている」というようなとってつけたような説明があるのだが、じゃあやはり声に出しているわけじゃないじゃん、と思ってしまってまったく説得力はない。だから結局、逃避以外には感じられない。
 しかも納得できないのは、それがクラスメイトに許されてしまうという展開だ。こういうときに、過剰に理不尽に主人公たちを非難するクラスメートというのも定番のガッカリ演出だが、逆に、こんなふうに許すクラスメートだってどうして納得できるのだ。どうしてそんな展開に観客が納得できるのだ。
 そして肝心のテーマ「心が叫びたがっている」ことを、あんな廃墟のラブホテルでの「告白」でしか表現できないのか?
 ここは、「言葉が人を傷つける」という状況をちゃんと描いたうえで、発表から逃げ出さずに、だが思いを口に出さずにいることの表れとして、本番の舞台上で声が出なくなるという展開にすれば、題名の予想させるドラマとして成立するだろうに。
 予想を裏切ることが何か良い効果を生むように意図されているわけではあるまい。予想をなぞって、しかも演出の力でその予想を超えるだけの物語を見せてほしかった。

2017年8月2日水曜日

Special Favorite Music,Sugar's Campaign

 以前LUCKY TAPESやSuchmosを発見したように、Youtubeはこちらの好みそうな楽曲を目の前に差し出してくれる。「発見」どころではない。「据え膳」だ。
 そうしてSpecial Favorite Musicなんてバンドも、いつの間にか活動していたことを知る。


LUCKY TAPESかAwesome City Clubかというシティポップ。
 70年代の「はっぴいえんど系」、その正統後継としての90年代の「渋谷系」に続いて、20年周期でこういうシティポップのバンドがまとまって出てくるというのは、単なるこちらの「発見」の印象なのか、統計的に有意な傾向なのか。

 Sugar's Campaignも、この曲は大いにハマった。