2025年2月16日日曜日

『ビリーバーズ』-凡作だが

 山本直樹の原作は通読していないが、連載を何度か目にしたことはあり、カルト教団の話としては知っている。で、見てみるとあまりに予想通りの狂信を描くばかりでそれ以上のものは描かれない。映画としての文法も凡庸でカットもだらだらと冗長。途中で早送りにしないと見てられん、という凡作だったのだが、なぜかアマプラの評価は高い。

 予想通りのカルトの狂信が描かれていたっていいのだ。描き方が細やかで、なるほどこれは怖いと思わされればまた面白く見られもするんだろうに、そんなことはない。狂信への共感が湧いてくるようには描かれていないのだ。ひたすら他人事のように感じてしまう。

 にもかかわらず、エピローグで狂信から醒めた主人公が現在の生活にふとカルトの夢を見る一瞬は何やら印象深く、高評価もこれにひっぱらられているのかもしれない。

 この、時空の隔たりのようなものを物語に持ち込むのは、安易とも言えるが、やったもん勝ちだとも言える。どう受け取ったものか。

2025年2月15日土曜日

『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』-それぞれの論理

 ヘレン・ミレン主演ということで関心に入ってきたのだが、観てみると、彼女は当然のことながら登場人物それぞれの持つ存在感が緊密に描かれた脚本と演出(と演技)で、実に見事な物語を作り上げている。

 テロリストへの攻撃を遠隔操作によって行う作戦を英国と米国とアフリカ某国が協力して立てる。政治家、軍上層部、ドローンやミサイルを操作するオペレーター、現場近くに待機する兵士、そしてテロリストのアジトの周辺の住民。関係者が丁寧に描かれる。それぞれの立場が体現する論理がリアルにぶつかる。一部で政治家が不誠実な態度をとるが、それもまたこの現場にのみ生きているわけではない(別の現場を掛け持ちしている)立場ではやむをえないというリアリティをもっている。

 ドラマを生む対立は、基本的には「トロッコ問題」だ。テロリストをアジトで発見し、攻撃して殺してしまえばその後のテロで死ぬ人が何十人も救われる(かもしれない)。だが、今そのアジトの周辺にいる少数の人間が死ぬ(かもしれない)。その「犠牲」を、いたいけな少女に代表させるところで、現場の判断が揺れるのもやむをえないと思わせる。

 作戦の遂行・成功、政治的な宣伝効果、人道的配慮、各国のパワー・バランス…、様々な要素がそれぞれ説得力をもってぶつかるドラマは、横山秀夫作品にも通じる。

 邦題の「世界一安全な戦場」というのは、遠隔操作による攻撃を指すが、それを非難する政治家に対し、指揮官が、自分は何度も現場を経験したと返す。論理は拮抗する。

 遠隔攻撃を扱った物語といえば『マージナル・オペレーション』だが(マンガでのみ読んでいる)、あれは主人公が、その「安全」な立場でいることから、現場の兵士に本気で関わろうとした物語だった。

『ペイ・フォワード』-そんなにうまく

 前に見たことがあるはずだが、始まっても何の記憶も呼び起こされなかった。主人公の子役が誰だっけ、と思うばかり。いや『シックスセンス』の天才子役な。やりすぎなくらいうまい。

 アイデアはすこぶる良い。物語としても、「世界を変えるアイデア」としても。理想通りにはうまくいかないと思っている主人公の知らないところで、善意のリレーが続いていた、というのは世界に対すて前向きな気持ちにさせてくれる展開だ。

 だが、最後で主人公を死なせてしまうのはいただけない。人々が追悼のために集まるとかいう「感動的な」エピソードも、感動的であることと裏腹に、やり過ぎな気もしてしまった。

 そこに、こんな美談がいつまでも続くわけがないよな、というシニカルな気分がまじるところが、単なるハッピーエンドで終わらない、微かな後味の悪さを残す。

 ケヴィン・スペイシー演じる教師は『型破りな教室』の主人公にも似たユニークな教育実践をやりながらも、その生真面目な不器用さは『初恋の悪魔』の鹿浜を思わせて好感が持てた。

2025年2月10日月曜日

『赤毛のアン』-尺だけ

 1985年のカナダ・アメリカのテレビドラマ。劇場公開もされているとのこと。

 そこら中であの「赤毛のアン」の感動が蘇るが、惜しいかな、尺が短い。高畑勲のアニメにしろ、Netflix版にしろ、たっぷりと尺をとって、原作のエピソードを丹念に描いている。

 そこだけ。役者陣も演出もいい。尺だけが足りない。

2025年1月14日火曜日

『型破りな教室』-「型破り」という危険

 メキシコの小学校を舞台にした実話に基づく物語。

 貧困や麻薬の蔓延など、様々な問題を抱える生徒たち。主人公の教師のスタイルが、邦題にあるような、「型破りな」ものであるときには、それは単に再現性のないスタンドプレーになりかねない。もちろん、特段に描くべき特徴がなければ物語たりえない。なるほど生徒を惹きつけ、生徒に変化をもたらす、良い教師が描かれる。だがこれは現状に対する何を訴えているのか。

 実際に教育成果が上がったらしいことは、実話であることから証明されている。それは再現性のあるものなのか。

 設定として極めて類似した『12か月の未来図』では、主人公の教師はひたすら誠実であることによって、ある手応えのある教育活動をしていた。本作もそうだ。硬直化した思考習慣や保身に囚われないことが重要だとしても、いたずらに「型破り」であることを強調するのは危険だ。『コーダ あいのうた』でも教師役だったエウヘニオ・デルベスは、もちろんうまいが、似たようなキャラクターだとも言える。本作でも、主人公がやろうとしていたのは、ひたすら誠実で、そこに工夫を凝らそうとする柔軟性があることによってだ。そういう教師は世に溢れている。それ以上の特別さは、例えば教育委員会的な教条主義に逆らうことを躊躇わないでいられるかだ。そうしたとき、そこに対立する価値や論理が十分に説得力をもっていてこそ、ドラマは成立する。

 いくぶんそこは弱いと感じたが、例えばメキシコでも一斉学力テストなどがあって、その成績に現場は一喜一憂しているというようなリアリティがあったり、それを主催する教育委員会的な組織の職員が十分に教育的な振る舞いをしているのは好感が持てた。

 その上で、どうにもならない悲劇と、そこから圧倒的な爽快感をもたらす大逆転劇は、それが実話であるという説得力をもって感動的だった。


2025年1月7日火曜日

『十角館の殺人』―見事な実写化

 ほとんど教養のようなつもりで観た。原作も2度読んでいるのだが、ちっとも覚えていない。有名な大どんでん返しの驚きは覚えているが、具体的な登場人物を覚えていないから、誰がそれなのかわからない。

 で、4話構成のテレビシリーズの3回目の終わりにそれが訪れた瞬間はさすがにびっくりした。見事だった。なるほど、これを実写でやるのは難しい。といってアニメでは興がそがれる。画ではいくらでも同じ人物を違ったものとして描いても、単に下手なだけだということで驚きがないが、生きた人間が二役をやってそれを観客に気づかせないのは難しい。『検察側の証人』でマレーネ・ディートリッヒがそれをやったのは見事だった。あれほどの大スターではなく、そもそも初めて見る俳優だったのだが、それでも。

 とはいえ、それだけ、とも言える。他に目立ったパズル的要素があって面白いというでもなく、人間ドラマとして感じ入るということでもなく。

 やはり、計画的な連続殺人を実行する動機があれだけというのは無理がある。


2025年1月4日土曜日

『ターミネーター ニューフェイト』―自然なAI

 AIがテーマの物語が偶然続いた。

 同テーマの物語としては比較的古い部類になる。といって、80年代当時でも、AI(という言葉は一般的ではなかった。「人工知能」とさえ言っていたかどうか)による人類に対する反乱という設定は新鮮ではなかった。どこかで聞いていた設定だと思った。それは、ロボットがSFに登場して以来、ロボットに対する虐待や人権は意識されていたからだろう。それが反乱への恐れに変わるのは必然だ。

 だが『ターミネーター』シリーズの面白さはもはやそうしたテーマの問題ではない。シンプルな逃走と闘争のスリルとサスペンスの出来だ。そうした意味では『2』が最高で『1』と『3』がそれに次いで、どれも水準以上だった。本作もそれに迫る出来だった。展開のスピード感もスリルも。

 それに加えて、本作ではオリジナルのリンダ・ハミルトンとアーノルド・シュワルツネッカーがそのまま同じ役で出演しているのが、『1』から観ている者にとっては感慨深い。二人とも年を取った。『1』『2』のシュワルツネッカーの圧倒的な強さが衰えたことにも味わいがある。そこに、AIが人間みたいになっていることへのウンザリ感が消化されている。シュワルツネッカー演ずる元ターミネーターがどう感じていようが、人間の方がそれに対して人間のような愛着を感じてしまうことはありうるのだという事態が、説得力をもっていた。『アイの歌声を』との違いは、AIを過剰に奇矯な振る舞いと共に描かないことかもしれない。