2026年9月9日水曜日

『俺とマコトと終わらない昼休み』

 今年度の文化祭で演劇を選んだのは2クラス。3年生の舞台は観るタイミングがとれなくて残念だったが、2年生のクラスは縁があるので意識して機会を作った。

 最初にこれをやると聞いたときには、そういえば何年か前の全国高校演劇大会に出てた演目だったなと思い出した。NHKでその一部が紹介された時にも、昼休みがループするという設定に惹かれたものだが、ここで観る機会が得られることになるとは。

 「昼休み」という設定から舞台は教室だが、このクラスが発表したのも特別教室ではない普通教室だった(特別教室は抽選に負けたとのこと)。教室の窓側半分を舞台、廊下側半分を客席とするのは、教室を発表場所とする時の常套手段だが、その「舞台」には教室用の机椅子が並べられている。舞台監督の前口上に続く暗転の間にキャストが着席している音がして、明転すると授業の一場面から物語は始まる。クラスの半数以上の生徒がキャストとして、そのまま普段の「教室」を再現する。無論この授業の教師の話もまた物語のテーマにまつわる伏線なのだが、ほどなく授業が終わって問題の昼休みになる。思い思いに席を移っていつものグループで集まると雑然とした「昼休み」が再現される中で、それぞれのグループのドラマの断片らしきものが観客の前に提示されていく。

 そうするうちに、突然アラートの音が響いてみんながスマホを見る。一人の生徒が立ち上がって周りを見回し、観客席側の窓の方を指さして大声でミサイルの襲来を告げる。キャストの生徒たちが一斉に観客席側に詰め寄って窓の上方を指さしてそれをみとめ、直後に一斉に反対側にしゃがみ込んで叫ぶ。暗転と共に点される赤い不穏なフットライトに、観客席から遠い側の席で一人の女生徒だけが立ち尽くしているのを観客は見る。この一連の、身体的にも音響的にも激しい動きは、観客の強い動揺を誘発して、会場全体に、ただ事ではないこの舞台の緊張を生む。

 一瞬おいてフットライトの消えた暗転下、ドラムのビートによるSEが鳴り始めると、みんなの移動の気配がして、明転すると生徒たちは元の席に戻って4限の終わりが再現され、チャイムとともに同じような昼休みが始まる。なるほど、ここまでがループするのだ。4限の終わりから、ミサイル襲来までの8分間。

 同じ繰り返しの中で、少しずつ違った情報が提示される。観客の注意を集めるために、あるグループの会話が殊更に声を大きくして、それ以外の生徒はサイレントで演技をする。そうして徐々に人間関係やそれぞれの生徒の立ち位置が観客に把握されていく。

 今が文化祭のエントリーの締め切り間際であり、クラスがそれに対して積極的でない空気が示される。冷笑と諦念が支配する教室の中で、委員長が必死に(義務的に?)呼びかけをするが、教室の空気は変わらない。そうした空気をやがてミサイルが破壊し、昼休みがループする。

 繰り返される中で、物語の中心となる二人のドラマが次第に明らかになってくる。

 これは平和な日常が、実は常に戦争の脅威にさらされていることを暴いている物語でもあるが、それをも隠喩として、登場人物たちにとっての日常に潜む脅威、すなわち冷笑と諦念が支配する教室の空気が、毎日「繰り返される」物語でもある。ループは、そうした空気の支配が常態化していることを示してもいる。

 空気、すなわちスクールカーストを前提とする人間関係と、そこで起こる「いじめ」という「脅威」に対するミサイルの襲来による破壊は、日常に潜む不安の隠喩であると同時に、そこからの解放の願望でもある。

 SFにおけるディストピアは、戦後には科学の進歩した未来に対する不安の表現であったが、高度経済成長を越えてからはむしろ「日常」の破壊願望を表すようにもなった。人類消滅やゾンビ蔓延といったディストピアに対する奇妙な憧憬は、90年代に宮台真司が言った「終わりなき日常」に対する絶望感の裏返しでもある。ロメロの名作「ゾンビ(Dawn of the Dead)」は明確にそのことに対する批評となっていた。我々は確かに文明の終末を望んでいたし、しかしゾンビはゾンビになってもショッピングモールに集まって「終わりなき日常」を「生きて」いたのだ。それは繰り返される代わりばえのしない日常こそがグロテスクなディストピアでもあることの透かし絵でもあった。

 だが、高校生の物語が終末を目指してはならない。「終わりなき日常」は「成長」という変化によって打ち破られなければならない。それが観客によって期待された「物語」のはずだ。

 まずはミサイルの脅威から逃げる可能性が試行される。だがループする8分という時間は、ミサイルから逃げるには短すぎることが示される。

 ではどうするか。

 ミサイルの襲来に象徴される政治や世界情勢といった大状況を高校生が変える展開を描いてしまえば安易になる。だがこれはそもそもの「終末」が高校生たちの日常によって要請されたものだから、この日常の変化、すなわちループからの脱出がミサイルの襲来を阻止することになるのは物語の因果律としては必然だ(高校生たちの成長が描かれながらなおミサイルによる終末が描かれるような物語ももちろんありうる。それは現代の日常に潜む脅威に焦点を当てることになる)。

 ループから脱出しなくてはならない。それははどのような契機によってなされるのか。

 すなわち高校生の「成長」はどのように描かれるのか。


 高校生たちの痛みとそれに対する抵抗に、劇中で何度かこみあげそうになる場面があるのだが、その一つは主人公の「8分あれば、逃げることはできなくても、告ることはできる。」という台詞だった。

 終末が迫っているのに何を暢気な、と言うことはできない。そもそも戦争の阻止もミサイルからの逃走もできないという設定の中でできることを探ろうとしているのだ。それが、主人公の試みる「クラスメートのことを知ろうと努める」であり、「告白」なのだった。ループの中心にいるヒロインは、主人公の奮闘に「そんなことして、なんになるんだ?」と苛立つが、なるほど、ミサイルもループも、クラスの空気の隠喩なのだとすればその空気を変えるための手段は、素朴にいえばコミュニーションしかない。

 コメディとして描かれる一つ目の告白はもちろん楽しく、これは冷笑的なクラスの空気を変える第一歩にはなるが、むしろ物語としては、こうした空気に潜むもう一つの「脅威」が観客に示されるのはその後である。ヒロインを務める生徒の圧倒的な演技によって、その絶望が、ミサイルによる破壊願望の切実さが、明らかになる。

 それを変えるのが二つ目の告白だ。机の上に立つというのが「ここから見ると世界が変わって見える」という言葉ほど意味のある振る舞いであることに今ひとつ納得はできないが、狭い会場で高低差をつける演出は、観客の視線を大きく上下させるダイナミズムがあって効果的だった。

 ともあれこの告白によってループを抜けた5時間目が初めて描かれ、また象徴的な英文の朗読の後、主人公とヒロインが互いに向けたピースサインによって締めくくられるラストシーンは、多幸感が満ちていた。


 「告ることはできる」とともに感動的だったのは、クラスでのいじめ=「シカト」が明らかになる場面で、教室から出て行くヒロインを追おうとする主人公を一人の女生徒が制止する「わかってやんなよ。あの子だって気ぃ遣って出て行ったんだから」という台詞だった。この生徒は優等生的な委員長の友人として、クラスでは上位グループにいる。そうした立場でこの台詞を言うならば、たとえば青臭い主人公を諫める傍観者的上から目線で、クールな口調で言う、という選択もありうる。だがこの劇中では、台詞の後半に向けて叫ぶように発せられたことで、単に主人公の行動に対する諫止や非難ではなく、この生徒自身の痛みを聞く者に感じさせた。理想主義的な主人公の行動に対する共感と、だがそれを止めることでクラスの現状のバランスを維持したいと考える矛盾、ヒロインが出て行かざるを得ない状況に自分自身が加担しているという自覚、自らの無力さへの苛立ちとヒロインに対する罪悪感。

 原作では別の生徒が言う台詞として設定されているから、これもまたこのクラスの舞台において生じた独自の輝きの一つなのだろう(この台詞を言う配役生徒自身のキャラクターのせいでもある)。


 クラスの作り上げた舞台の感動には不足ない。成功の要因に脚本の選定があることは間違いないが、その可能性を実現したのは裏方も含めたクラス全体の力だった。

 だがそれだけに、さらにこの物語の持っている可能性について、ない物ねだりをしたくもなった。

 原作は高校演劇だから規定の60分をなるべく目一杯使っているはずだが、今回の上演では原作のシナリオにあったいくつかの会話がカットされ、50分ちょっとにおさまっている。この処理は上手い。面白くならなさそうな会話をカット(あるいはサイレント芝居に隠して)、物語にとって重要な会話を際立たせている。

 なくてもいい要素はなくてもいい。だが「クラスの空気が変わるとループから抜けられる」という物語の大きな因果律を支えるのに、一つの告白に頼るというのは単純すぎる、とも感じた。

 教室を再現したこの物語は、もっと群像劇であってほしい。

 もちろんそうなってもいる。だが十分かと言えば納得しかねる。クラスの演技も演出も申し分ないから、これはシナリオに対する期待だ。

 主人公がヒロインに対して「一緒にいる」と言うことでヒロインがなにがしか救われるとして、主人公の他の足掻きはクラスに何をもたらしているのか。昨日のやりとりから小さなわだかまりを作っているらしい女子生徒二人や、一人で本を読んでいる生徒、一人奮闘する委員長の状況はどんなふうに変化するのか。そして何より最大の「脅威」であるクラス全体からの無視という「いじめ」に対しても、小さな変化の片鱗を見せてもいいのではないか。

 もちろんそれらを安易に描くことはできない。それを変えることの困難は、わずかな変化としてのみ描かれるべきではある。だがそれらを描くことが、群像劇としてのこの物語の厚みはさらに増すであろうと夢想してしまう。

 例えば上記の二人の女生徒のエピソードを、Queerの「問題」として、少ない情報量で示すのは唐突にすぎる。だからそれは高校生にありがちな小さな諍いとその和解として描かれるか、そうでなければしかるべき一つの「物語」としてちゃんと描かれてほしいと思う。それがまた「告白」の一つの系列に連なるように描かれる可能性さえ考えてしまう。教室の中の多くの「物語」が、それぞれの小さな「告白」によって「空気」を変えていく可能性を。

 もちろんそれは物語の構成上はとても難しい。主人公二人の物語に集約して一気にラストに向かうスピード感があの高揚感をもたらしているのも確かだ。

 だが例えば、ラスト5時間目の授業で、ヒロインにプリントを渡す女生徒の変化は、そうした小さな「告白」の形として、物語の一つの意味ある要素となっていた。こうした変化としての「告白」がもっと教室のあちこちで起こる群像劇を見たい、と思った。


 余談1

 途中で押井守の「ビューティフルドリーマー」の挿入曲が流れたのにびっくりして、後で、あれは誰が選曲したのかと尋ねると、原作のシナリオに指定されているという。なるほど、作者は同年代だからあれを知っているのかと腑に落ちた。

 「ビューティフルドリーマー」もまたループ物の名作だった。本作中で言及される「君の名は」が単なるタイムリープものであってループ物ではなく、「時をかける少女」もループそのものを主題にしていないのに比べて、「ビューティフルドリーマー」の序盤は完全なるループ物であり、やはりそこからの脱出がテーマだった。ただし高校の文化祭前夜が繰り返す、かの物語では、はっきりとそれが終わってほしくないというヒロインの願望が生み出したループだったのに比べ、本作でヒロインがそれを願望しているはずがないのに繰り返すのは、脱出できない絶望の隠喩としてのループである。

 それでも問題のその曲が流れるのは、高校生活の断片に対する愛おしさが語られるくだりだから、そうした意味では共通した面があるともいえる。


 余談2

 クラスの方で撮影の予定がなかったそうで、「公式」撮影を買って出た。集大成たる最終公演が狙いではあったが、何たることか、この公演の途中でSDカードの容量がいっぱいになって撮影が止まってしまった。急遽SDを換えて撮影を再開したのだが、予定の「公式」映像の一部は永遠に欠けてしまったのだった。

 幸い二日目の第一公演は全部撮ってある。第二公演も現場にいなかったがカメラは回しておいてもらってある。そこで最終公演を基本としながら、途中を第一公演と第二公演でつなぐことを考えた。暗転でつなぐのが一番楽だが、そうはいかない部分もあり、演者が振り返るところでカットを変えるなどという荒技も駆使した。

 そのうちにもうちょっとやりようがあることに気づいた。第一公演は上手から、最終公演は下手から撮っていたから、場面によって芝居が近い方、顔が見える方の映像を使った方が観客に訴える映像になる。

 そういうわけで校内公開の「公式」映像は計三回の公演の場面が継ぎ接ぎになっている。これが可能なのは、毎回の演技が、台詞の間や動作、周囲のキャストの動きまで正確に再現されているからだ。

 それだけでなく、どの公演も同じように観客を動かす力を持ち得ていたことの証明でもある。

 とはいえさすがに最終公演が終わって観客に挨拶した後のキャストの退場シーンだけは、二日間の舞台をやり終えた満足感が感じられる、かけがえのない場面を使っている。


2026年8月15日土曜日

『夜勤事件』-二番煎じにも程がある

 B級どころから、下手するとC級かもしれないとも思いつつ、軽く観られるホラーということで。期待していないぶん、『ロングレックス』ほどの落胆もないだろうと。

 いくつかのジャンプスケアはやめてほしいが、やはりゾクゾクする演出はないでもない。画面の端の方に何が映りそうな気配は常にある。ホラーを観ているというこちらの心構えが作る恐怖。

 とはいえやはりC級。これほどあからさまに『リング』と『呪怨』をパクっていいのか。いや、映画の問題ではなくこれは原作のゲームの問題なのだが。それにしても、映画化するにあたって工夫もほしい。こんなふうに「謎の老人」の設定を放置したりするのはやめてほしい。時間あたりのイベントを増やしてほしい。

 まずは脚本の問題ではあるが、監督もなんとかしてくれ。永江二朗『きさらぎ駅Re:』が楽しかったが、これは『真・鮫島事件』並み


2026年8月14日金曜日

『劇場版 幼女戦記』-ヒトラーのいない

 テレビで新シリーズが始まるにあたって、その前日譚たる劇場版がテレビ放送された。

 約十年前の第1シーズンは観ていたが、転生についての設定と主人公のキャラクターを覚えているくらいで、戦況についての設定はまるで覚えていない。今回2時間を通して観ると、なるほど、この劇場版は独ソ戦なのだった。「連邦」の首都がモスコーで、共産主義者と呼ばれているし、「帝国」の首都はベルンだ。そう思って観ると「共産主義者は畑でとれるのか?」というような台詞が、人的資源を浪費することに躊躇のないスターリンの戦略を皮肉っているのがわかってくる。スターリン(らしき人物)とゴルバチョフ(らしき人物)が同時期にいるのは、歴史をフィクション化する妥協的な描写か。

 そのうえで、そうか、主人公はドイツ軍なのか。「大戦」を描いて、フィクションとはいえドイツに主人公をおいて大丈夫なのか?

 心配にはなったが、「帝国」というからには帝国主義的な国家なのかもしれないし、愛国心はいやというほど強調されているが、今のところファシズムのにおいはしない。ヒトラー的な人物が出てはこない。

 出てきたときに主人公がどう振る舞うかにも興味はあるが、今のところヒトラーがいないことで、「仕事」としての戦争、戦闘行為にも、かろうじてつきあえるとも言える。「合理的」を標榜しながら、案外生真面目な主人公に安心していられる。


2026年8月13日木曜日

『12か月の未来図』-地道

 岩波ホールで観たのは7年前だ。ブログではなかなかに長い文章で感想が述べてある。

 読み直してみると、今回観直した感想とまったく変わらないのだった。圧倒されるとか大感動したとは言わないが、その後に観た『型破りな教室』と比較しても、こちらの地道な描き方に、より好感を持った。

 


2026年8月9日日曜日

『Search2』-前作に引けをとらない

 『ロングレックス』があまりに不愉快だったので、一緒に観た娘と、「口直し」に、好評だった『Search』の続編を。同工異曲の便乗作品というでもなく、正統な続編として、前作が冒頭に引用されてもいた。

 さて今作もまた、突然失踪した家族を、主人公がネットを駆使して探すという設定は同じ。旅行先で行方不明となった母親を、女子高生が捜すのだが、本作では旅行先の出来事をPC画面で描くために、現地の「便利屋」をネットで雇って調査してしてもらう様子をリアルタイム中継するというのが新機軸だった。となればこの調査員のキャラクターが物語の味わいに大きく関係してくる。これは物語としてイイカンジに描かれていた。たぶん、不在の父親を補うバランスをとっているのだ。

 さて、驚異的な調査能力の主人公が、ネットでできる調査を次々と試行するのも、展開が意外な方向に次々と転がっていくのも、その起伏とスピード感とアイデアの豊富さは前作に引けをとらない。最後の大団円まで、最高に楽しいエンタテインメント映画だった。


2026年8月8日土曜日

『ロングレッグス』-キリスト教圏の映画

 アマプラでやたらとリコメンドされる「怖い」映画ということでタイミングが合えば観ようと思っていた。予告編はなるほど怖そうではある。

 主人公はFBIの捜査官である若い女性で、連続殺人事件を追うというのだから、どうしても『羊たちの沈黙』を思わざるを得ない。確かにそんな風に展開する。レクター博士こそ出てこないが、主人公の直感力が並外れているとか幼児期に特殊な経験をしているとか。

 だが結局、大いに不満足に終わった。また例によってキリスト教の悪魔が元凶なのだった。ホラーでこれが持ち出されるといつもがっかりしてしまうのだが、サイコサスペンスかと思って観始めたのに、敵がサタンだなんて、いい加減にしてほしい。

 加えて、何もカタルシスがない。最後のケースが解決しないばかりか、それがなんとも無策なまま手をこまねいていることに、納得できる「仕方なさ」がない。これもまた、元凶が悪魔である以上、しょうがないとでもいうのだろう。勝って終わるためには神を持ち出すしかないんだろうが、それはそれで安っぽくなるんだろうし。

 ああキリスト教圏の映画。

2026年7月21日火曜日

『夫婦別姓刑事』-佐藤二朗のすごさ

 ミステリーとしてもそこそこ面白い仕掛けはあったのだが、やはり佐藤二朗の演技が圧倒的だった。アドリブらしいユーモアで、ああいうおかしみを醸し出すことにかけては大泉洋と双璧だな。一方で、怒りの表出の振れ幅の大きさに圧倒された。

2026年7月18日土曜日

『Search』-限定された設定の中で

 突然失踪した娘を父親が捜す。この設定だけで、切迫感は必然的に用意される。焦燥感と必死さが否応なく際立つ。それだけ言えば『96』と同じ設定だが、あちらが堂々たるアクション映画のシリーズであるのに対して、本作は映画の画面が全てPCの画面そのままであるという、極めて限定された設定がユニーク。ホラーの『Zoom』でもあったアイデアではあるが、あちらは題名通りビデオ通話の画面のみだが、こちらはPCの操作画面がまた驚くほど「見せる」。捜すという目的に対してやれることが何なのかを、主人公が探り、試し、わかった情報によって次々と試行錯誤していく展開がスリリングなのだ。

 物語の展開としても、物語が進むにつれて関係者の事件への関わり方について、次々と新たな事実が明らかになっていく。それぞれの局面で予想される「真相」が二転三転していく。

 その末に、見事にハッピーエンドに決着する。

 限定された設定の中でやれるアイデアを詰め込んだ、恐ろしくよくできた脚本だが、それを高い緊張感で描ききる演出ももちろんすごい。調べてみると『RUN 』の監督なのだった。



2026年7月11日土曜日

『黒牢城』-小説には勝てない

 直木賞だけでなく主要ミステリー賞も総なめにした米澤穂信作品を黒沢清が映画化する。どう期待したものやらと思いながら観始めると、画面はさすがの重厚感。

 ところが最初の謎がほどなくあっさり解ける。どういうわけかと思っていると、そういえば短編集だと聞いた気もする。次の謎も、やはり途中で解決してしまう。やはりそうなのだ。

 とはいえ通して仕掛けられた大きな謎はあるから、それが最後に解けるという構成は「medium 霊媒探偵城塚翡翠」だ。が、あれほどのドンデン返しはなかった。なんとなく重厚な時代劇と、それほどでもないミステリー、という感じだったが、あれほど高評価の原作がこんなもんなのかと、原作も読んでみた。

 読んでみると、意外なほど原作通りに映画化している。落としているエピソードはない。場面も台詞も、映画で観た覚えがある。そして確かに短編としては章ごとに謎が解けて一区切りしていく。

 だが終盤、全体に関わる動機が明らかになる長い語りが圧倒的だとわかる。なるほど、映画でも語られなかったはずはないのに、その印象が驚くほど薄いのに比べて、小説ではこれほど胸を衝く力をもっているのだった。これはミステリーとしても、直木賞が対象にしているような一般的大衆小説としても、最高度に力のある小説だという評価が納得される。最も、動機で感動させるミステリーというのは珍しいだろうけれど。

 そういえば籠城をめぐって荒木村重がどう考えているかというような細かい心理も、やはり映画では描けないから(まさか心中語を語らせるわけにもいくまいから)、そうなると、途中の面白みも、やはり小説の方が豊かなのだった。

 メディアの差を超えることがないまま、しかもよりによって感動的な原作の最後のエピソードがすっかり省略されているのはいったいどういうわけか。

 やはり黒沢清。


2026年7月5日日曜日

『銀河の一票』-善意のリアル

 第一回を観て、これは面白くなるぞと娘を誘って、毎週楽しみに観続けた。展開が楽しみというだけでなく、毎回感動的な場面が描かれるのがたいしたものだった。

 素人のスナックのママが都知事選に立候補するという無茶な設定にリアリティを持たせるために、周りを政治のプロが固める。それでも、それが簡単に実現できそうな方向で描くのならたちまちリアリティはなくなるはずだが、そんなことにはしない。そう描いてこそ、このドラマの核である、政治に本気で期待するという善意に感動できる。

 細かいドラマや伏線の回収も豊富だし、演出上の可笑しさもふんだんで、これはたいしたドラマだった。

2026年7月1日水曜日

2026年第2クール(4-6)のアニメ

『霧尾ファンクラブ』

 同級生の男子が好きな二人の女子高生が「ファンクラブ」を作って、密かに彼を追っかけ、やがて少しずつ関係ができていく。設定は青春ものとしてベタな感じがするが、ギャグの秀逸さに見続けていると、そのうちに徐々にそれぞれの人物の背景が明らかになるにつれ、シリアスなドラマが展開されていく。このパターンは『村井の恋』以来だ。本作もまた同様に、終わりに向かうにつれてひどく感動的だった。


『勇者のクズ』

 2クール、それなりに楽しんだ。

 暴力団の組長が「魔王」で、それを討伐する賞金稼ぎが「勇者」という設定の近未来SF。「勇者」を養成する学校の生徒とともに主人公の「勇者」が謎に迫っていく。

 主人公の「クズ」ぶりが、微妙なバランスを維持していて面白い。ヒロインたる女子高生たちが殺し合いに巻き込まれることを、主人公が止めない。そのわりに、登場人物があっさり死ぬ。危険がないわけではない。だが「勇者」というのがそういう存在であることをきちんと前提にしている。

 一方で、戦いにおいて、いちいちちゃんと勝てるための理屈を立てて話を描くところが意外に誠実。こうした、リアルさの水準のバランスが妙なまま、物語が展開する。


『氷の城壁』

 ちょっと生真面目で人の心を考えすぎる主人公と友人たちの高校生活を描く。感情の描写が細やかで見続けたが、完全に途中で、秋クールに続く。

 それにしてもいやゆるコミュ障で、仲間に入りきれない主人公、特に女子高生を描くというのはずっとニーズのあるモチーフなのだな。


『左ききのエレン』

 「天才」についてのいささかの神秘主義が過ぎるとは思うものの、「プロ」としての仕事の在り方とプライドとそれでも良いものは世界に存在するという信頼とがからみあって、かなり観られるドラマが続いた。それぞれの登場人物の背景を、時間を前後させながら描いていく構成が面白く、どんどんドラマが立体的になっていって見事だと感心した。


『淡島百景』

 画はきれいだし、監督は『GUNSLINGER GIRL』の浅香守生だし、と一話も観ないまま録っておいたが、全話録っておいて、観るまでにはずいぶん時間がかかった。夏休みに観始めると、これはまたなんともすごいアニメなのだった。

 宝塚をモデルにした「淡島歌劇団」を舞台に、生徒たちの群像劇が、短いスパンで描かれる。1話に3つほどのエピソードが詰め込まれることもある。そして、それらの人物は時代が違っていたり、無関係だったりもする。だから「百景」なのだが、これがもちろん関係もしてくる。親族だったり先輩後輩だったり。

 そうした群像劇としての構成だけでなく、アニメーションの表現としてもきわめて質が高い。おそらく原作の細やかな心理描写が繊細に描かれているのだろうが、学校という空間とそこにいる生徒が群像劇として描かれるという設定から、空間がもつ歴史の堆積を、半透明の学生で描く表現はすばらしかった。

 前クールの『違国日記』もすごかったが、これも同じくらいにすごかった。


『春夏秋冬代行者』
 四季の神に代わって世界に季節を与える「四季の代行者」と、「代行者」を守護する「護衛官」の物語を描く(Wikipedia)。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の暁佳奈原作だが、京アニではなくWit studioの制作。アニメは終始質が高かった。テーマである自然の美しさとアクションも。物語は1クールでよくまとめてあるのだろう、たぶん。物語の背景や過去の経緯が徐々にわかっていく構成も巧みだった。どんどん盛り上がって終わった。
 とはいえ、一貫してうんざりしたのは、登場人物がいかにもアニメ的な感情表現を過剰にし続けることだった。やたらと罪の意識を吐露しては自分を責め、同時に登場人物同士で過剰に依存し合う。大げさに喜んだり恥ずかしがったりしてみせる。
 感動的でしょ? とアピールし続けながらも、描写はきわめて類型的。物語の展開にすがって観続けたが、その演出には相当にうんざりした。

『日本三國』
 明治っぽさを出したいのが先に動機としてあったのだろうか。戦争後に文明が後退して明治くらいの文明レベルになったというのだが、だからといって、政治体制やデザインまで明治っぽくなるいわれはなかろうに。ただの明治ではなく、現代文明が遺跡として残ってはいる。そこで3つに分裂した日本を舞台にしたいわば陣取り合戦の戦国物。アニメの質が終始高いというだけでなく、濃密な人間ドラマが展開されるのでずっと面白かった。



2026年6月13日土曜日

『マイケル』-映画館で音楽映画を

 公開中の『プラダを着た悪魔 2』を観ようと映画館に行くと、時間を間違えていて観られない。で、急遽本作を。

 何かと『ボヘミアン・ラプソディ』と並び称される音楽伝記映画だが、どちらも映画館で観たことが幸いしている。この間のチャック・ベリーの『ブラウン・アイド・ハンサム・マン』は単に既存のライブ映像の継ぎ接ぎで、YouTubeとの差別化が難しかったが、『ボヘミアン・ラプソディ』も本作も、ライブ映像は再構成されているし、伝記映画としてのドラマ性もある。

 とはいえ、マイケル・ジャクソンのファンだという思い入れがない観客にとっては、ドラマとしては『ボヘミアン・ラプソディ』の方が強かった。こちらのマイケルの父親の毒親ぶりはいささか型通りで、そこから逃れる成長物語としては単調なドラマにとどまった。

 とはいえ音楽は、映画館で観る価値が十分だった。今まで知っている曲が、例えばテレビやPCで観ていたのに比べてもはるかに感情を揺さぶるのは、もちろん映像の見せ方にもよるが、まずは映画館の音量だ。


2026年6月10日水曜日

『プラダを着た悪魔』-映画的描写力

 観ているのは確かだが、もう12年以上前で、細部はおろか基本的なストーリーもまるで覚えていない。設定は覚えているというか周辺情報でわかってしまっているし。例えばエミリー・ブラントなどという女優も、今なら『クワイエット・プレイス』のあの人、という認識ができるのだが、この映画に出ている人だという認識は全くなかった。

 面白かった印象だけはある。それは信頼できる。

 そして観てみるとやっぱり面白い。問答無用に面白い。隅々まで面白い。

 こういう、映画としての描写自体が良くできているから面白いというのは、例えば『幸せのレシピ』だし『マーガレット・サッチャー』だ。そういえばサッチャーを演じているのもメリル・ストリープだ。映画が何を描くべきかが明確で、それが役者によって体現されていて、その微妙な感情の推移に感情移入もできて、とそのストーリーとかドラマツルギー以前の映画的描写のレベルが高いのだ。

 そしてアン・ハサウェイ演じるヒロインの成長物語としても、仕事に生きる女の孤独も、謀略と逆転劇と。

 やはり良くできた映画だ。


2026年6月8日月曜日

『勝手にふるえてろ』-消化不良

 『私をくいとめて』の大九明子の前作。松岡茉優の初主演映画なのだという。あれほどの活躍をしていて、意外ではある。その次の主演作が『蜜蜂と遠雷』なのか。

 『私をくいとめて』と同じく綿矢りさの原作。どちらも妄想癖のある主人公の日常を描くから、現実の境界が曖昧な描写が特徴。いや、設定が似すぎだろ。ありなのか、これは。

 それと、のんも松岡も、これが「冴えない」コミュ障なのかというのがどうもすんなりと受け入れられない。コミュ障はともかく、どうみても可愛い。これで人に好かれにくいという設定が難しい。といって本当にそういうキャラクターが似合う女優が演じて、それでも魅力的に見せなければならないとなると、それはそれで難しいだろうが。

 あちこちでこれは喜べば良いのか悲しめば良いのか観客として判断に迷う場面が続いて、最後の「勝手にふるえてろ」の解釈ができなかったこともあって消化不良。 


2026年5月29日金曜日

『侍タイムスリッパー』-映画業界の自己愛

 『銀河の一票』で山口馬木也が良い芝居をしてるなあと思って、出世作を見ようと。

 なるほど、山口は素晴らしかった。顔立ちがちゃんと「侍」然として表情も内面の葛藤を表現している。

 とはいえ、脚本の甘さと演出の甘さはいかんともしがたい。脚本兼監督の安田淳一の目線の低さは、本当に素人レベルとしか感じられない。

 低予算映画のヒットということで『カメラを止めるな』の再来らしいのだが、観始めると全然レベルが違う。役者陣の演出が甘くて、いわゆる学芸会。だがこれは役者が下手だというより演出の目線が低いのだろうと思われる。

 それでも、中盤からの意外な展開が、確かにわずかに面白さを感じさせるから、そこに注目すれば、面白い映画だったという感想はありうる。だがそこから発展させられる可能性ばかりがあれこれ浮かんでしまって、せっかくの美点も惜しいばかり。

 これは一体何事だろう。これが日本アカデミー賞の作品賞となっているという事態は。

 たぶん映画業界の自己愛なのだろうというのが推測(憶測、邪推)だ。映画作りそのものを題材とした映画がアカデミー賞で高評価となるというのは『桐島部活辞めるってよ』のアカデミー賞にもそう思った。あちらはそれなりにあれこれ感じる人もいるらしいので好みの問題なのかもしれないが、本作の方は、特別に映画製作に思い入れのない観客から見ても、これが本当に強い物語たりえていると、アカデミー賞関係者は思っているのだろうか。この、スカスカで浅い映画が。

 『カメラを止めるな』がアカデミー作品賞をとれなかったのは『万引き家族』が同じ年だったから仕方ないとはいえ、脚本から役者陣の演技まで、魅力に満ちた奇跡のようなあの映画と本作を並べて語ることなど、とてもできない。圧倒的な脚本の力量の差はもちろん、本作では編集のタイミングさえぎこちないと感じられる(だというのに、アカデミー賞では編集賞!!)。

 米国アカデミー賞はやはりアメリカの状況を反映した選考に、日本人にはピンとこないこともありつつも理解もできるのだが、日本アカデミー賞はこういう選考をするから信用できない。


2026年5月10日日曜日

『特捜部Q 知りすぎたマルコ』

 『特捜部Q』は主要キャストを代えて続くようだ。安っぽさはまったくないが、さりとて面白いとは思えず、何となく見終えた。なんだろうと『檻の中の女』を見直してみたらちゃんと面白かった。

 瑕疵がないことと、面白いことは別、なのか、観ていた姿勢が悪かったのか。

2026年4月29日水曜日

『冬のなんかさ 春のなんかね』-リアル/アンリアル

 映画監督としての今泉力哉作品は観ていないのだが、映画監督がテレビドラマを撮って圧倒的なクオリティを示す例は是枝裕和の『ゴーイングマイホーム』で驚嘆したことがある。

 観始めると、とにかくうまい。どこまで演出かわからない自然さで登場人物が演じる。微妙なアドリブが許されているのか、言い淀みとか言い直しとかを含む台詞回しと間。カメラの切り替えなのか編集なのか、シーンの長い芝居をたっぷり見せて、感情の微妙な動きを豊かに描く。

 これが映画を本職とする監督のレベルかと舌を巻いていると、脚本も今泉。器用だ。

 フィクションは、そのメディアの語りの上手さが十分に発揮されていれば、それだけで快感ではある。

 にもかかわらず、お話としてはいささかうんざりする部分があちこちにあって、終わりもまた後味が良いとは言えない。それは現実の苦さだといって納得できるわけでもない。途中の人物描写はむしろ現実離れしている。特に主人公の元彼たちは総じて。

 リアルだと思える描写と、どうにも現実離れした設定やら人物造型やらが同居している。

2026年4月27日月曜日

『花束みたいな恋をした』-閉鎖感

 坂元裕二の脚本に対する期待から、かえって観ることをためらっていたふしもある。宇田丸さんが言うように面白いんだろうか、と。

 さて総評としてはそれほど楽しめなかった。『問題のあるレストラン』でも『カルテット』でも、『大豆田』でも『初恋の悪魔』でも、あんなに面白いテレビドラマに対して、この映画での盛りあがらなさと抵抗感と。クドカンのテレビドラマと映画の差も連想される。

 一つにはテレビドラマには、あの長い時間をかけて「彼ら」に感情移入していくことの力がある。その分喪失感は大きい。映画ではあれよと時間が展開して、それほど思い入れないまま、何かが失われるにしても痛みは小さい。

 それだけでなく、テレビドラマが隅々まで面白いように、例えば本作は楽しくはなかった。ひとつには「やりすぎ」だと思えてしまったこともある。主人二人の共通点が、これでもかと描かれるが、それはいくらなんでも偶然が過ぎる。

 最初の押井守をカフェで見かける興奮には共感したが。

 それから、やっぱり主人公二人がそれほど好きになれなかったということかもしれない。例えば最近作で言うと『初恋の悪魔』は、 林遣都の「鹿浜」さんに好感が持てたから、あれほど切なかったのだ。本作ではそうはならなかった。なんだろう。二人は共通点で惹かれ合っているが、それは本人たちの人間的魅力なんだろうか。どうもそういうふうには感じなくて、その閉鎖感にうんざりしたのかもしれない。

 

2026年4月4日土曜日

『一秒先の彼/彼女』-改悪

 2年越しの宿題で、日本版を。

 宮藤官九郎にはずれなしの評価は、映画ではいくらか外れるのだが、これはまた本当にひどい裏切りだった。ちっとも面白くならない。最大の問題はキャスティングだとは思うものの、クドカンの脚本がいささかもそれを救っていない。この物語の魅力の一つは伏線回収の構成の妙にある。こういうのはクドカンの得意技ではないか。それが、原作のいくつかの伏線を省略した上で、加わるところは何もない。どこまでが脚本の問題なのかはわからないとはいえ、リメイクの際に付け加わった変更が成功しているところがあるとは思えない。主人公と同居する妹カップルとか謎の洛中マウントとか、何の面白みも生んでいない。

 そのわりに、原作では前編の後半(映画全体が二章構成で、その前編の後半)で、ヒロインが謎を解くべく奔走する、ロードムービー的展開で、物語がみるみる魅力的になっていったくだりだったのに、それが大幅にカットされている。それは主人公が消えた1日を探す旅であるとともに、後半で男性主人公の思いに気づいていく重要な助走であるはずなのに。

 こうした構成上の問題もあるとはいえ最大の問題はキャスティングだ。男女逆転の配役は、それだけで失敗が必然的とは言うまい。だが結果的には致命的な失敗だった。台湾版の二人が、それぞれに冴えない30代で、それだけにその愛嬌や誠実さや不器用さや前向きさが愛おしいと思えるキャラクターであり得るのに、それを岡田将生と清原果耶にして、どう「冴えない」と思えば良いのか。

 前半主人公の台湾版のヒロイン、ペティ・リーは美人ではないが愛嬌があって、映画が進むにつれてみるみる魅力的になっていくというのに、岡田将生は見た目に反して冴えないという設定になってはいるが、単に嫌な感じの人物になってしまっている。対する後半主人公のリゥ・クアンティンは(いくらか個人的な事情で特別の思い入れもあるとはいえ)不器用で愛すべき人物として感じられるのに、清原が「パッとしない」と言われても無理がある。リゥ・クアンティンがどれほどヒロインを大事に思っているかを、清原は、あの演技力があったとて、到底実現してはいない。リゥがペティを大切に思うことは切実に感じられるのに、清原が岡田を大切に思うことに、まるで共感できない。何であんなやつにとだけ思えるばかりで、まるで共感できない。

 それでも監督がなんとかしてくれ。一体何をしようとしているんだ。単に本家の魅力を殺いで殺いで、何を付け加えるつもりなのか。いや、単にカメラワークとか編集とかいった映画本来の要素でさえ、本家のうまさに比べて全く印象に残らないほど凡庸なのは一体何なのか。

 製作の都合で短くなっているせいであれこれ削られているのかと思って上映時間をみると、台湾版と同じ2時間。豊かな時間に満ちていたように思える台湾版に比べて、あれこれが「ない」と思えるのに。手応えはまるでスカスカ。

 どうもおかしい、あの感動は気のせいだったのか、と台湾版を見直してみた。どちらも2時間あるので、余裕のある休日とはいえ、すっかり夜更かし。

 設定がわかってしまってからだと、あの驚愕の展開や構成の妙からくる感動は失われているかと思いきや、台湾版はやはり細部に至るまで素晴らしいのだった。軽妙な笑いを生み出す台詞回しこそ得意であるはずのクドカンでは全く可笑しくなかったというのに、こちらは可笑しくて笑ってしまうほどのユーモアが横溢している。それは主人公の二人に対する愛おしさゆえに、温かい気持ちで受け入れられる笑いだ。岡田の「嫌なヤツ」に笑う気にはなれないし、清原は外れ役に痛々しいばかり。

 それだけではなく原作では、牡蠣養殖場をバスが走るシーンの美しさとか、時間の止まった街の異常さに、いつしか心浮き立っていくくだりとか、日本版からはすっかり抜け落ちてしまった映画的な魅力にも溢れている。

 そしてやはり台湾版ではヒロインを思う男性主人公の健気さがひしひしと胸を打つ。やはり物語の核心はそこにある。その切実さがユーモアとともに、観客に共感されていく。それに対して、清原がそれを感じさせないのは本当に残念だ。単に大学7回生というくらいでは「冴えない」が現前してこない。岡田を大切に思う気持ちに、まるで共感できない。

 そしてそのキャスティングのせいで、バス運転手役にあらためて荒川良々を物語に介入させることで整合性をとるしかなくなっているのだが、これはまた全く何の魅力も増しておらず、単にそこに時間がかかるぶん差し引きが大きくマイナスになるだけ。原作ではリゥはバスを運転しながら、時間の止まったペティに「真相」を語る。日本版では清原が語るのが荒川相手になるのは、辻褄としてはしょうがないのだが、これで本家の感動的な語りはすっかり台無しになっている。リゥの語りはまっすぐにペティに向けられていて、それを受け止めるペティは笑顔のまま固まっている(ここは物語の展開を詳述しないが、これもまた周到に伏線が張られた結果としてそうなっている)。ここに物語上必然性を持たせられなかった改作版では、岡田は無表情のまま。これがどれほど物語の興趣を殺いでいるか。本当に残念な改悪だった。

 山下敦弘は「リンダ リンダ リンダ」でも、雨の中で登場人物を演技させるというリアリティより「劇的さ」を優先する演出に醒めて評価できなかったのだが、本作はもっとはっきりと落胆した。あれほど素晴らしい原作があるというのにこの駄作ぶりは何事だ。いくら「大人の事情」があろうとも。いや、この一観客の嘆きを受け止める責任こそ「大人」であるべきだ。


2026年4月2日木曜日

『きさらぎ駅Re:』-ループものとして

 こちらが本命で前作を観たのだった。前作の準主役の本田望結が、こちらでは主役となる。前作で「きさらぎ駅」に残してきた恒内を救うために異世界に戻る。

 冒頭、モキュメンタリーふうに展開するので、これは白石晃士監督だったっけと思ったが違った。CGの安っぽさも白石作品を彷彿とさせるが。

 そこで異世界に戻る動機を説明しておいて、さて「きさらぎ駅」に戻ってからの展開はおなじみ。先の展開を知っているぞと思うと、ところどころ微妙に変化したりもする。で、やっぱりうまくいかないと思っていると展開の冒頭に戻る。あれっ、これはループものではないか!

 となれば、これはやりなおしながらクリアを目指すことになるのだが、その過程でどんどん面白くなっていった。試行錯誤で課題を解決していく創意工夫も、習熟して敵を打ち倒す爽快感も楽しい。演出はそれを意図して「ノって」いることが明らかだった。

 まるでホラーではない。前作も怖くはなかったが本作は怖くなりようがない。同乗者が「仲間」になっていくのだ。不愉快でしかなかったあのホラーにおける脇役が。彼らは通常、不愉快であることと引き換えにホラーにおける犠牲者となるのがお約束なのだが、本作では物語が進むにつれて、主人公とともに課題をクリアしようとする盟友になってくる。『遺書、公開。』の映画版は、原作のその要素が削られていたのが残念だったが、こんなところでその要素が満たされる映画に出くわそうとは。

 本作の本田望結は前向きで真摯で、いくらか脳天気ともいえる明るさが魅力的で、本作の味わいにもおおいにプラス要素だった。