素晴らしい音楽を知ってしまったという単なる記録。車の中で聴いた二つのラジオ番組で紹介されて、記憶が結びついて、一つだったら流れ去ってしまったかもしれないこの人の音楽が記憶に残った。You-Tubeという便利なものがあって、早速触れることができる。
2018年9月21日金曜日
2018年9月16日日曜日
『10クローバーフィールド・レーン』-「精神的兄弟」ねえ…
実は先にネット情報で『クローバーフィールド』とは関係がないといってもいいほど、「続編」としては扱いかねる代物だということは知っていた。だが、プロデューサーはJ・J・エイブラムスだし、「精神的兄弟」だかなんだか、とにかく、観ておこうという半ば義務感のようなものである。
始まると、なるほど、POVではない。だが、いきなりの監禁はSSSではないか。それはそれでもうひとつの好物だ。それで面白いのならそれも良し。
さて、よくできてはいる。監禁される主人公が愚かで弱くないのは必須条件として、監禁しているジョン・グッドマン演ずるアメリカン親父ハワードは、常識があるのかないのか、本当のことを言っているのか嘘なのか、微妙なバランスをよく描いている。怖い。引っ張られる。
だが惜しい。3人の限定された閉鎖空間での生活が楽し気に描かれるのに、その一人エメットの死に様に情緒がないのも残念だが、そこから外へ出てのシークエンスに、もう一度ハワードをからめるのはお約束だろ。いつ登場するかと期待してのに、そのまま表れないのは残念。
同時に、外が本当にエイリアンによって侵略されていて、やっぱり監禁親父の妄想かもという観客の読みがあっさり覆って、意外にもほんとうだったというオチはもちろんかまわないが、肝心の、今しも人類を滅ぼすかもというエイリアンの宇宙船が、蒸留酒の瓶で作った即席火炎瓶で落ちるって、それはいくらなんでも無茶だ。
だから車が地上に落ちて、主人公が気を失って目が覚める展開で、これは最初の自動車事故から目覚めるところにつながるんだなと予想したら、意外にもそのまんま、宇宙船が落ちる場面に続くので愕然とした。エイリアンが本当に地球を侵略したとか、ましてその宇宙船が酒瓶の火炎瓶で墜落したとか、この馬鹿馬鹿しさは夢オチであることの前振りに違いないと思ったのだが。
この意外性は予想を裏切られることの喜びよりも、単に稚拙な工夫のなさに感じられて、がっかりだったのだ。
始まると、なるほど、POVではない。だが、いきなりの監禁はSSSではないか。それはそれでもうひとつの好物だ。それで面白いのならそれも良し。
さて、よくできてはいる。監禁される主人公が愚かで弱くないのは必須条件として、監禁しているジョン・グッドマン演ずるアメリカン親父ハワードは、常識があるのかないのか、本当のことを言っているのか嘘なのか、微妙なバランスをよく描いている。怖い。引っ張られる。
だが惜しい。3人の限定された閉鎖空間での生活が楽し気に描かれるのに、その一人エメットの死に様に情緒がないのも残念だが、そこから外へ出てのシークエンスに、もう一度ハワードをからめるのはお約束だろ。いつ登場するかと期待してのに、そのまま表れないのは残念。
同時に、外が本当にエイリアンによって侵略されていて、やっぱり監禁親父の妄想かもという観客の読みがあっさり覆って、意外にもほんとうだったというオチはもちろんかまわないが、肝心の、今しも人類を滅ぼすかもというエイリアンの宇宙船が、蒸留酒の瓶で作った即席火炎瓶で落ちるって、それはいくらなんでも無茶だ。
だから車が地上に落ちて、主人公が気を失って目が覚める展開で、これは最初の自動車事故から目覚めるところにつながるんだなと予想したら、意外にもそのまんま、宇宙船が落ちる場面に続くので愕然とした。エイリアンが本当に地球を侵略したとか、ましてその宇宙船が酒瓶の火炎瓶で墜落したとか、この馬鹿馬鹿しさは夢オチであることの前振りに違いないと思ったのだが。
この意外性は予想を裏切られることの喜びよりも、単に稚拙な工夫のなさに感じられて、がっかりだったのだ。
2018年9月12日水曜日
『アイ・アム・ア・ヒーロー』-国産ゾンビ映画の健闘
ネットで前日譚の方を観ていて、そちらは大したことはないと思っていたのだが、本編はどうも評価が高いようなので、いずれ観てみようとは思っていた。どうやらテレビでは放送できないほどのスプラッターらしいのでレンタルで。
原作は文句なく名作である。ただし結末までは未読で、どうやら風呂敷をちゃんとたたんでないらしい不満があるようなので、この評価は途中までの、マンガとしての力のあるなしを言っているのだが、ともかくも本当に力のある作品であると断言するに迷うことはない。
ゾンビという設定をしたうえで考えられることを誠実に考えている。いい加減に投げ出したりせずに緻密に考えている。
主人公のマンガ家アシスタントは、いわばオタクのなれの果てのようなものだろうが、オタクにありがちな「つっこみ」を、作者が自分の作品に対してもしているような気配がある。不誠実であることを許さない矜持と、距離感。
そのうえで、ちゃんと面白くなる要素がいっぱいつまっているのだ。ゾンビの溢れた世界での生き残りをかけた冒険譚。情けない主人公がヒーローになる成長譚。ぎりぎりのところで「可愛い」と言えなくもないヒロインたちとの恋愛譚。
そうした要素は映画でもそれぞれ描くことに成功していた。日常が壊れていくときの、どこまで本気になればいいのか迷う感じなどは、原作はものすごく上手かったが、尺のとれない映画でも、かなり上手く描いていた。
特に、浜松の街中を封鎖しての撮影だという、最初のパニック発生時の場面はすごかった。日本映画でこれをやるのは大したものだと感心。
特に、パニックの発生して拡大していく「方向」が、観客にもわからないという描き方は新鮮だった。何か良からぬものが、あちらからこちらにやってくるというのではなく、どこからどこへ向かって拡大、進行しているのかわからない街中にいきなり放り出される視点から見た様相は、絵の止まっているマンガでは感じなかった緊迫感だ。
目の前の惨劇からとりあえず離れようとして走り出すが、それが災害から逃げる方向として適切なのかわからないほど、四方八方から異常事態が押し寄せる。このシーンを撮影した監督の手腕には脱帽。
一方、完結した映画としては残念な部分もある。マンガと違った大資本のコマーシャリズムが、ヒロイン二人を美人にせざるをえないせいで、彼女らが主人公に寄せる好意が単なるご都合主義に感じられてしまうこととか。そうした好意は物語の終わり、主人公が「ヒーロー」になってからでいいではないか、とも思う。
また、有村架純の比呂美が「半ゾンビ」になる展開は、続編が作られなければ全く無意味で、といってこの時点で描かなければ続編を作ることが不可能になるし、どこまで原作と独立した物語にするかという興業的見極めが難しいところではあろうが、やはり完結した映画作品としては不完全に過ぎる要素ではあった。
もうひとつ、ヒーローがヒーローたる存在であるための唯一の行動が、ひたすら銃を撃つことにある(もちろん最後の最後で銃弾が尽きて棍棒として銃が振るわれるのだが、それに特別な意味があるとは思えず、基本的には射撃がヒーローであることの証である)という展開をすんなり受け入れることに抵抗がある。原作ではいろんな展開の中で射撃もするということであり、その行動の全体がヒーローたりうるのだが、映画では、限られた尺の物語の中で、ひたすら射撃が彼をヒーローたらしめているのだ。
むろん、射撃がいわば「オタク」的スキルであり、それが肉体的に秀でているわけではない彼をヒーローにするために必要な現実的設定であることはわかる。また、射撃が射精の比喩になっているという象徴的設定もわかる。
だが、全弾撃ち終えて、やや仰瞰で捉えれる背中の丸みが、映像的には見事にかっこ良く撮れていて、それだけでも映画として大成功なのだということはわかるが、それでも、銃による大「虐殺」を偉大な仕事として受け入れるには、日本人である筆者には抵抗があるのだった。
原作は文句なく名作である。ただし結末までは未読で、どうやら風呂敷をちゃんとたたんでないらしい不満があるようなので、この評価は途中までの、マンガとしての力のあるなしを言っているのだが、ともかくも本当に力のある作品であると断言するに迷うことはない。
ゾンビという設定をしたうえで考えられることを誠実に考えている。いい加減に投げ出したりせずに緻密に考えている。
主人公のマンガ家アシスタントは、いわばオタクのなれの果てのようなものだろうが、オタクにありがちな「つっこみ」を、作者が自分の作品に対してもしているような気配がある。不誠実であることを許さない矜持と、距離感。
そのうえで、ちゃんと面白くなる要素がいっぱいつまっているのだ。ゾンビの溢れた世界での生き残りをかけた冒険譚。情けない主人公がヒーローになる成長譚。ぎりぎりのところで「可愛い」と言えなくもないヒロインたちとの恋愛譚。
そうした要素は映画でもそれぞれ描くことに成功していた。日常が壊れていくときの、どこまで本気になればいいのか迷う感じなどは、原作はものすごく上手かったが、尺のとれない映画でも、かなり上手く描いていた。
特に、浜松の街中を封鎖しての撮影だという、最初のパニック発生時の場面はすごかった。日本映画でこれをやるのは大したものだと感心。
特に、パニックの発生して拡大していく「方向」が、観客にもわからないという描き方は新鮮だった。何か良からぬものが、あちらからこちらにやってくるというのではなく、どこからどこへ向かって拡大、進行しているのかわからない街中にいきなり放り出される視点から見た様相は、絵の止まっているマンガでは感じなかった緊迫感だ。
目の前の惨劇からとりあえず離れようとして走り出すが、それが災害から逃げる方向として適切なのかわからないほど、四方八方から異常事態が押し寄せる。このシーンを撮影した監督の手腕には脱帽。
一方、完結した映画としては残念な部分もある。マンガと違った大資本のコマーシャリズムが、ヒロイン二人を美人にせざるをえないせいで、彼女らが主人公に寄せる好意が単なるご都合主義に感じられてしまうこととか。そうした好意は物語の終わり、主人公が「ヒーロー」になってからでいいではないか、とも思う。
また、有村架純の比呂美が「半ゾンビ」になる展開は、続編が作られなければ全く無意味で、といってこの時点で描かなければ続編を作ることが不可能になるし、どこまで原作と独立した物語にするかという興業的見極めが難しいところではあろうが、やはり完結した映画作品としては不完全に過ぎる要素ではあった。
もうひとつ、ヒーローがヒーローたる存在であるための唯一の行動が、ひたすら銃を撃つことにある(もちろん最後の最後で銃弾が尽きて棍棒として銃が振るわれるのだが、それに特別な意味があるとは思えず、基本的には射撃がヒーローであることの証である)という展開をすんなり受け入れることに抵抗がある。原作ではいろんな展開の中で射撃もするということであり、その行動の全体がヒーローたりうるのだが、映画では、限られた尺の物語の中で、ひたすら射撃が彼をヒーローたらしめているのだ。
むろん、射撃がいわば「オタク」的スキルであり、それが肉体的に秀でているわけではない彼をヒーローにするために必要な現実的設定であることはわかる。また、射撃が射精の比喩になっているという象徴的設定もわかる。
だが、全弾撃ち終えて、やや仰瞰で捉えれる背中の丸みが、映像的には見事にかっこ良く撮れていて、それだけでも映画として大成功なのだということはわかるが、それでも、銃による大「虐殺」を偉大な仕事として受け入れるには、日本人である筆者には抵抗があるのだった。
2018年9月11日火曜日
『ディストラクション・ベイビーズ』-「狂気」を描くことの不可能性
『宮本から君へ』のドラマ化で名前を覚えた真利子哲也の劇場作品として評価の高い本作だが、結論を言えば期待外れだった。『宮本から君へ』の高評価がハードルを上げてしまった。
単に暴力的な描写に不快感を催したとか、感情移入できる登場人物がいないとか、それもそうだが、問題は「期待外れ」だ。
溢れる暴力衝動によって喧嘩に明け暮れる男の「狂気」を柳楽優弥が演じている、ということらしいとは事前に知っている。実際見てみると、菅田将暉が絡んでくる車による移動が物語に一応の「進行」を感じさせるものの、結局は最後までひたすら暴力衝動によって動機不明の喧嘩を繰り返す男の話である。とすれば、そういう設定の中で考えられるエピソードのバリエーションとその描写によって観る者に呼び起こす感情の強さが映画の価値になるはずだ。
そういう意味では、これはゾンビ映画やソリッド・シチュエーション・スリラーや、最近見た『アリスのままで』と同じだ。アルツハイマー病が進行していく時にどんなことが起こるのか、という設定があるだけで、あとはそこにどんなエピソードを描くのかが問われる映画と、とにかく喧嘩に明け暮れる男の狂気を描くという設定があるだけの映画は、基本的な作劇法が同じなのだ。
そして、描きたい「狂気」を「ちゃんと」描こうとすると、このテーマはゴア・ムービーになってしまうはずだ。個人的な趣味としては、そんなものを見たいとは思わないが、それはそれでまっとうなテーマの追求ではある。そうでなければ真っ当な格闘映画にでもなるしかない。ひたすら強さを追求する男の話。
つまりこの設定で「狂気」を描くのは難しい、というか本質的には不可能なのではないか。
それが露わになってしまうのは、リアルさをどう観客に感じさせるかという課題に、この映画が本気で応えていないと感じられる場面だ。これが致命的だった。
たとえば主人公の回復ぶりがどうみても不自然なのはどうしたものか。ここに、主人公の体が少しずつ壊れていくような描写があれば「狂気」も感じられるのだが、したたかに痛めつけられた後には、ケロッとして復讐する展開になる繰り返し。そのしつこさが「狂気」と言いたいのだろうが、つまり暴力が危険であると感じないのだ。
例えば歯が折れたり、拳の骨が見えてしまうという描写がある割には、そうしたダメージが蓄積していく様子はない。つまり人体へのダメージも「記号」としてしか描かれていないのだ。
あるいは屈んだ相手を蹴るときに、サッカーボールキックで顔面を狙うのではなく、胴体を狙って体ごと押し倒すように蹴るというのは、つまりは真剣勝負ではなくプロレスなのであって、それでリアルに感じられないところにどう「狂気」を感ずればいいのだ。
小松茉奈が菅田将暉を殺す場面も、車のドアに挟んで何度もそれを閉めることで致命傷を負わせるなどと、無理にもほどがある。頭部のみを挟んで、かなり強い衝撃を与えるなどという描写が具体的にないと、激情に駆られていますという演技だけでそうした「狂気」は滲み出るものではない。
こうしたリアルな肉体的感触をないがしろにしてこの映画は何を描こうとしているのか。
この映画で描かれる行為としての「喧嘩」のほとんどは、「喧嘩」と呼ばれながらも、闘争としての「喧嘩」ではない。単なる暴力である。たとえば無抵抗の相手を執拗に殴ってしまえば、それは危険と隣り合わせの充実感ではなくなる。
一度は強い相手として描かれたヤクザの「兄貴」に、リベンジマッチでカウンター・パンチを決めて両拳を突き上げる場面のカタルシスは一時のものであって、あれがこの映画が描こうとしている暴力衝動ではないらしい。ではそれが目指している方向には何があるのか。単なるゴア・ムービーになる以外に。
たとえばこうした「狂気」がどこから生じているのかといった、人物の「背景」を描くことで物語に厚みを与える、という方向もあるのだろうが、それをとろうという気配はない。別にそうでなければそれでいい。それならばひたすらリアルにその「狂気」を描けばいい。単なるゴア・ムービーに向かってしまうような破壊衝動ではない暴力に惹きつけられるとすれば、そこに何かの喜びを感ずるという描き方になるのだろうし、実際に喧嘩を楽しんでいる描写があちこちにあるにも関わらず、そうした暴力の悦楽が「狂気」と感じられるほどに鬼気迫るものではない。
たとえばリュック・ベッソンの『グラン・ブルー』はそうした「狂気」を描くことのバランスがわかっていた。のめり込むことが破滅につながることがわかっていて、そこに惹きつけられていく主人公の「狂気」と愉悦が描かれていた。『グラン・ブルー』を観た時に思い出した小山ゆうの『スプリンター』や、古くは『あしたのジョー』でもその「狂気」にひりひりした危険を感じながら、読者はその破滅につきあってしまう。
ネットでは柳楽優弥の演技を評価する声が高いが、それには賛成も反対もできない。表情や佇まいに「狂気」が漂う、式の評価はまあわからなくもないが、それに感情が動いたりもしなかった。このあたりは浅野忠信の演技がちっともうまく見えないのに、世の中的には評価が高いことに違和感を覚える感じに近い。そこに感銘を受ける人もいるのはわかるが、筆者にとってそこが感動ポイントではないということだ。これは個人的な好みの問題で、しょうがない。ただ、この映画の作劇上のスタンスに納得できないのだ。
作劇上の不満と言えば、小松茉奈のホステスによって描きたいものが何なのか、まるでわからなかったのも気持ちが悪い。
菅田将暉がどうしようもなく不快な人物として描かれるのはわかる。「狂気」によって感染した者が、それについていけずに破滅するというのは、つまりは主人公の「狂気」を描くことになるんだろうが、ではホステスが不快な人物として描かれることによって、何が描かれているということになるのか、どうにもわからない。単に観客に不快を感じさせたい、つまりそれが何かドラマチックであるかのような作者の勘違いなんじゃないかという疑いを、どうにも否定できない。
作者がリスペクトを表明し、どうみても参考にしてもいる新井英樹の『ワールド・イズ・マイン』の三人組に照らし合わせば、このホステスはマリアに対応することになるのだが、かのマリアが体現している人物の強烈な存在感とリアリティと、時にリアリティを無視して描かれる聖性が体現しているおそるべき魅力に比べて、この不快なホステス登場させることで何が描きたいのか、その必然性が結局まるでわからない。
そして『ワールド・イズ・マイン』における暴力は、まっすぐに大殺戮に向かっていくのであって、こうなる以外に「暴力の狂気」をどう描くというのか。なおかつ『ワールド・イズ・マイン』の暴力は、その狂気性を描いているのではなく、むしろ聖性をこそ描いているのだと思われるが。
池松壮亮が出てるのは『宮本から君へ』へ続く真利子人脈なのだなと納得したが、それより、あろうことか北村匠海があんな役で出ているのかと、驚いた。そしてそれが『ゆとりですがなにか』と同じ年で、次の年に『君の膵臓を食べたい』が撮られているのかと思うと、最近観たばかりのその落差にクラクラする。
単に暴力的な描写に不快感を催したとか、感情移入できる登場人物がいないとか、それもそうだが、問題は「期待外れ」だ。
溢れる暴力衝動によって喧嘩に明け暮れる男の「狂気」を柳楽優弥が演じている、ということらしいとは事前に知っている。実際見てみると、菅田将暉が絡んでくる車による移動が物語に一応の「進行」を感じさせるものの、結局は最後までひたすら暴力衝動によって動機不明の喧嘩を繰り返す男の話である。とすれば、そういう設定の中で考えられるエピソードのバリエーションとその描写によって観る者に呼び起こす感情の強さが映画の価値になるはずだ。
そういう意味では、これはゾンビ映画やソリッド・シチュエーション・スリラーや、最近見た『アリスのままで』と同じだ。アルツハイマー病が進行していく時にどんなことが起こるのか、という設定があるだけで、あとはそこにどんなエピソードを描くのかが問われる映画と、とにかく喧嘩に明け暮れる男の狂気を描くという設定があるだけの映画は、基本的な作劇法が同じなのだ。
そして、描きたい「狂気」を「ちゃんと」描こうとすると、このテーマはゴア・ムービーになってしまうはずだ。個人的な趣味としては、そんなものを見たいとは思わないが、それはそれでまっとうなテーマの追求ではある。そうでなければ真っ当な格闘映画にでもなるしかない。ひたすら強さを追求する男の話。
つまりこの設定で「狂気」を描くのは難しい、というか本質的には不可能なのではないか。
それが露わになってしまうのは、リアルさをどう観客に感じさせるかという課題に、この映画が本気で応えていないと感じられる場面だ。これが致命的だった。
たとえば主人公の回復ぶりがどうみても不自然なのはどうしたものか。ここに、主人公の体が少しずつ壊れていくような描写があれば「狂気」も感じられるのだが、したたかに痛めつけられた後には、ケロッとして復讐する展開になる繰り返し。そのしつこさが「狂気」と言いたいのだろうが、つまり暴力が危険であると感じないのだ。
例えば歯が折れたり、拳の骨が見えてしまうという描写がある割には、そうしたダメージが蓄積していく様子はない。つまり人体へのダメージも「記号」としてしか描かれていないのだ。
あるいは屈んだ相手を蹴るときに、サッカーボールキックで顔面を狙うのではなく、胴体を狙って体ごと押し倒すように蹴るというのは、つまりは真剣勝負ではなくプロレスなのであって、それでリアルに感じられないところにどう「狂気」を感ずればいいのだ。
小松茉奈が菅田将暉を殺す場面も、車のドアに挟んで何度もそれを閉めることで致命傷を負わせるなどと、無理にもほどがある。頭部のみを挟んで、かなり強い衝撃を与えるなどという描写が具体的にないと、激情に駆られていますという演技だけでそうした「狂気」は滲み出るものではない。
こうしたリアルな肉体的感触をないがしろにしてこの映画は何を描こうとしているのか。
この映画で描かれる行為としての「喧嘩」のほとんどは、「喧嘩」と呼ばれながらも、闘争としての「喧嘩」ではない。単なる暴力である。たとえば無抵抗の相手を執拗に殴ってしまえば、それは危険と隣り合わせの充実感ではなくなる。
一度は強い相手として描かれたヤクザの「兄貴」に、リベンジマッチでカウンター・パンチを決めて両拳を突き上げる場面のカタルシスは一時のものであって、あれがこの映画が描こうとしている暴力衝動ではないらしい。ではそれが目指している方向には何があるのか。単なるゴア・ムービーになる以外に。
たとえばこうした「狂気」がどこから生じているのかといった、人物の「背景」を描くことで物語に厚みを与える、という方向もあるのだろうが、それをとろうという気配はない。別にそうでなければそれでいい。それならばひたすらリアルにその「狂気」を描けばいい。単なるゴア・ムービーに向かってしまうような破壊衝動ではない暴力に惹きつけられるとすれば、そこに何かの喜びを感ずるという描き方になるのだろうし、実際に喧嘩を楽しんでいる描写があちこちにあるにも関わらず、そうした暴力の悦楽が「狂気」と感じられるほどに鬼気迫るものではない。
たとえばリュック・ベッソンの『グラン・ブルー』はそうした「狂気」を描くことのバランスがわかっていた。のめり込むことが破滅につながることがわかっていて、そこに惹きつけられていく主人公の「狂気」と愉悦が描かれていた。『グラン・ブルー』を観た時に思い出した小山ゆうの『スプリンター』や、古くは『あしたのジョー』でもその「狂気」にひりひりした危険を感じながら、読者はその破滅につきあってしまう。
ネットでは柳楽優弥の演技を評価する声が高いが、それには賛成も反対もできない。表情や佇まいに「狂気」が漂う、式の評価はまあわからなくもないが、それに感情が動いたりもしなかった。このあたりは浅野忠信の演技がちっともうまく見えないのに、世の中的には評価が高いことに違和感を覚える感じに近い。そこに感銘を受ける人もいるのはわかるが、筆者にとってそこが感動ポイントではないということだ。これは個人的な好みの問題で、しょうがない。ただ、この映画の作劇上のスタンスに納得できないのだ。
作劇上の不満と言えば、小松茉奈のホステスによって描きたいものが何なのか、まるでわからなかったのも気持ちが悪い。
菅田将暉がどうしようもなく不快な人物として描かれるのはわかる。「狂気」によって感染した者が、それについていけずに破滅するというのは、つまりは主人公の「狂気」を描くことになるんだろうが、ではホステスが不快な人物として描かれることによって、何が描かれているということになるのか、どうにもわからない。単に観客に不快を感じさせたい、つまりそれが何かドラマチックであるかのような作者の勘違いなんじゃないかという疑いを、どうにも否定できない。
作者がリスペクトを表明し、どうみても参考にしてもいる新井英樹の『ワールド・イズ・マイン』の三人組に照らし合わせば、このホステスはマリアに対応することになるのだが、かのマリアが体現している人物の強烈な存在感とリアリティと、時にリアリティを無視して描かれる聖性が体現しているおそるべき魅力に比べて、この不快なホステス登場させることで何が描きたいのか、その必然性が結局まるでわからない。
そして『ワールド・イズ・マイン』における暴力は、まっすぐに大殺戮に向かっていくのであって、こうなる以外に「暴力の狂気」をどう描くというのか。なおかつ『ワールド・イズ・マイン』の暴力は、その狂気性を描いているのではなく、むしろ聖性をこそ描いているのだと思われるが。
池松壮亮が出てるのは『宮本から君へ』へ続く真利子人脈なのだなと納得したが、それより、あろうことか北村匠海があんな役で出ているのかと、驚いた。そしてそれが『ゆとりですがなにか』と同じ年で、次の年に『君の膵臓を食べたい』が撮られているのかと思うと、最近観たばかりのその落差にクラクラする。
2018年9月4日火曜日
『アリスのままで』-分裂する「自分」
若年性アルツハイマーを患った女性の物語で、主演のジュリアン・ムーアがアカデミー主演女優賞をこれで獲ったとだけ知っていて、観てみると、何か意外なことが起こることのない映画だった。その通り、不穏な前兆から、淡々と悪化する事態が描かれていく。
もちろんものすごく怖い映画だ。他人事に感じられないところが。
同時にとても面白い映画だった。途中で飽きたりせずに、先が気になって、見続けたいとはっきり思う、という。そして最後までその緊張感が続く、という。
テーマ・設定が明らかだから、つまりどんなエピソードを置き、それをいかにうまく描くかだ。最初に、講演の最中にある言葉が思い出せず「単語の集まり」という表現でしのいで、帰りの車の中で「語彙」(英語で何というかわからないが)という単語を思い出す、というエピソードを置く。ここから身につまされる不穏な展開が予想される。次には勤務先の大学のキャンパスを走っているシーンがあって、これは、と思うと案の定、迷う。
そうして徐々に日常の様々な場面に認知障害の症状が表れる。次はどんなエピソードで、どんな感情を描くんだろうと思うと、興味が引っ張られて、ダレない。もちろん次々と繰り出されるエピソードが、それだけ感情を揺さぶる質に達しているからだが。恐怖だったり切なさだったり束の間の喜びだったり。その数の豊富さに満足する。
とりわけ大きくて感動的なエピソードといえば患者会での講演会なのかもしれないが、それよりも感情を揺さぶられたのは、診断を受けた初期に、いずれ判断力を失った自分あてに自殺の指南をする動画を撮影しておく、というエピソードだ。
映画の前半でそのシーンが描かれている時点で、なるほど、病気の進行に備えてそんな準備をするというエピソードの置き方も、上の「数の豊富さ」ではあるが、その決着が後半に描かれる伏線としての機能も巧みであった。そしてそこで発生する感情の大きさも。
そもそも自分あての質問に自分が応えられなくなったら、という条件でその動画を見るよう設定してあったのに、観たのは偶然で、しかも動画の指示通りに睡眠薬を探すことができないほど症状が進んでいるから、何度も動画を観なおした挙句に、やっと睡眠薬を手にして、洗面所でそれを飲もうとしたところに家政婦さんが来て、そのまま何をしようとしていたかを忘れてしまう。
このエピソードに揺さぶられる感情がどのようなものかは、にわかにはわからない。だが、まず、自分あてのメッセージを見るというシチュエーションに何か胸騒ぎがした。一人の人物が、画面を挟んで向かい合っていることで、その差異がことさらに際立っている。その変化の中で失ったものがあらわになる。
そして、自らの死を命ずる自分に応えるのが、命じている自分でいながら、もはや同一人物とは言い難いという点。にもかかわらず、動画を見た彼女は、かつての自分の言うことに素直に従おうとする。それが何を意味しているのかは理解できないまま、自分の尊厳死を実行しようとする。その姿は健気で儚く、言ってみれば「無垢」である。観客はその実行に向けて、失敗を繰り返す彼女を応援してしまう。だから最終的にそれが実行されないことに喪失感を覚える。
だがかつての自分が守ろうとした尊厳とは、本当に自らの尊厳だと言えるのだろうか。それはその時点での自分の尊厳であって、病状の進んだ時点での、自死を決行しようとしている「現在」の自分の尊厳でもあると、本当に言えるのか。
家政婦の訪問によってその機会が失われた時、とても「残念な」気持ちがしたのは、周到な準備が徒労に終わることと、そうして守りたかったものが守れなかった悔いだが、同時にそうしてもうしばらく生き続ける主人公をいとおしいと思う気持ちも生じているのだ。
そうして分裂していく自分(のイメージ)を、どう受け入れていくか、同時に家族としてどう受けれていくか、丁寧に追った映画だった。
もちろんものすごく怖い映画だ。他人事に感じられないところが。
同時にとても面白い映画だった。途中で飽きたりせずに、先が気になって、見続けたいとはっきり思う、という。そして最後までその緊張感が続く、という。
テーマ・設定が明らかだから、つまりどんなエピソードを置き、それをいかにうまく描くかだ。最初に、講演の最中にある言葉が思い出せず「単語の集まり」という表現でしのいで、帰りの車の中で「語彙」(英語で何というかわからないが)という単語を思い出す、というエピソードを置く。ここから身につまされる不穏な展開が予想される。次には勤務先の大学のキャンパスを走っているシーンがあって、これは、と思うと案の定、迷う。
そうして徐々に日常の様々な場面に認知障害の症状が表れる。次はどんなエピソードで、どんな感情を描くんだろうと思うと、興味が引っ張られて、ダレない。もちろん次々と繰り出されるエピソードが、それだけ感情を揺さぶる質に達しているからだが。恐怖だったり切なさだったり束の間の喜びだったり。その数の豊富さに満足する。
とりわけ大きくて感動的なエピソードといえば患者会での講演会なのかもしれないが、それよりも感情を揺さぶられたのは、診断を受けた初期に、いずれ判断力を失った自分あてに自殺の指南をする動画を撮影しておく、というエピソードだ。
映画の前半でそのシーンが描かれている時点で、なるほど、病気の進行に備えてそんな準備をするというエピソードの置き方も、上の「数の豊富さ」ではあるが、その決着が後半に描かれる伏線としての機能も巧みであった。そしてそこで発生する感情の大きさも。
そもそも自分あての質問に自分が応えられなくなったら、という条件でその動画を見るよう設定してあったのに、観たのは偶然で、しかも動画の指示通りに睡眠薬を探すことができないほど症状が進んでいるから、何度も動画を観なおした挙句に、やっと睡眠薬を手にして、洗面所でそれを飲もうとしたところに家政婦さんが来て、そのまま何をしようとしていたかを忘れてしまう。
このエピソードに揺さぶられる感情がどのようなものかは、にわかにはわからない。だが、まず、自分あてのメッセージを見るというシチュエーションに何か胸騒ぎがした。一人の人物が、画面を挟んで向かい合っていることで、その差異がことさらに際立っている。その変化の中で失ったものがあらわになる。
そして、自らの死を命ずる自分に応えるのが、命じている自分でいながら、もはや同一人物とは言い難いという点。にもかかわらず、動画を見た彼女は、かつての自分の言うことに素直に従おうとする。それが何を意味しているのかは理解できないまま、自分の尊厳死を実行しようとする。その姿は健気で儚く、言ってみれば「無垢」である。観客はその実行に向けて、失敗を繰り返す彼女を応援してしまう。だから最終的にそれが実行されないことに喪失感を覚える。
だがかつての自分が守ろうとした尊厳とは、本当に自らの尊厳だと言えるのだろうか。それはその時点での自分の尊厳であって、病状の進んだ時点での、自死を決行しようとしている「現在」の自分の尊厳でもあると、本当に言えるのか。
家政婦の訪問によってその機会が失われた時、とても「残念な」気持ちがしたのは、周到な準備が徒労に終わることと、そうして守りたかったものが守れなかった悔いだが、同時にそうしてもうしばらく生き続ける主人公をいとおしいと思う気持ちも生じているのだ。
そうして分裂していく自分(のイメージ)を、どう受け入れていくか、同時に家族としてどう受けれていくか、丁寧に追った映画だった。
2018年9月3日月曜日
『君の膵臓を食べたい』-いやおうなく
アニメ版の公開にあわせて、去年の実写版を放送。原作を読んでいないんだが、映画であれマンガであれ小説であれ、機会があるときに触れておくか、というくらいの動機で。
さて、どうだったかというと、半ば予想通りの軽さは、アマゾンレビューにあるような低評価の言うところに大いに納得するしかない。確かに浅薄で類型的だ。そのことを言い募れば、こちらも類型的なディスりになってしまう。いかにもの「携帯小説」という、すでにその呼称が差別的だという評がぴったりなのだった。ラノベよりもあきらかに下で、アマゾンでは「感動ポルノ」という絶妙な形容が頻出しているところをみると、それもよく知られた表現なのだろうか。良い得て妙だ。
確かにお話はご都合主義に過ぎるし、実写映画の主演たちは美少女美少年すぎる。
にもかかわらず、これが多くの人々の感情をいやおうなく揺さぶってしまうのもよくわかる。「ポルノ」としてよくできているということだ。
恋人ではない相手との泊まりの旅行というのは、現実に不可能な行為ではないのにほとんどの人々にとって絶望的に起こらないイベントとして、強く感情に訴える。もちろん修学旅行や卒業旅行やその他、グループ旅行の中で、部分的にそれに近い経験はしうるのだろうが、それを増幅させたものとして万人の心に訴えるのだ。
恋人でない、という条件がミソで、恋人ならばありふれた出来事になってしまうから、これほどの強い訴求力はない。
このシークエンスを観ながら思い出したのはジブリアニメ『海がきこえる』だ。ほぼ2年前に、十数年ぶりに観直して高評価を新たにしたこの映画でも、恋人ではない高校生の男女が旅行するという展開があり、この描写がまた素晴らしかった。
さて、そんなに批評的にならずに楽しめばいいということなら楽しかったのだが、いかんせん、難病物として話が進んでいながら唐突に通り魔に遭うってのはどういうわけだ? あの展開は無論予想外だから、それを「衝撃」などと受け止めるのなら、それもまた作品享受の価値としてはそれなりの訴求力を生んだのだろうが、まあすれっからしで理屈っぽい筆者などには到底納得できない。単なる露出、意味もない艶場(ポルノでいうところの)ではないかと思ってしまった。
そこへいくと柳本光晴の「女の子の死ぬ話」は、若い友人の死をどう受け止めるかを、友人としての視点で描くだけでなく、読者がそれをどう受け止めるかを読者に迫ってくるという意味で、真っ当な「文学」だった。
映画としては、原作にない12年後の展開を入れたことが評価されているらしいが、これも「ありがち」に過ぎて感心しなかった。もちろんこの物語全体がひたすら「ありがち」な要素の寄せ集めなのだから、単純にそこから生じる効果だけが問題なのだ。
もちろん、後日談を描くということは、本編を一気に回想の枠組みに閉じ込めて、いやおうなくノスタルジアを発生させる。その意図はわかる。
だがそこで描かれる「現在」は、あの物語を経由した12年後の主人公の在り方としてバランスが悪すぎると感じた。ああいう自分を受け入れて、それなりの歳のとり方を見せればいいのに、若い時と同じように自分を受け入れられずに机の中に辞表を忍ばせるという描き方をなぜするのか。小栗旬が達者だとしても、脚本と演出の人物造型に納得できない。
一方の北川景子は物語にとって単に存在価値がない(これももちろん役者のせいではない)。手紙で泣かせる必要があっての登場であることはわかるが、その手紙に心を打たれず。
本編の方のヒロイン、浜辺美波は「いやおうなく」可愛くてどうしようもない。だが同時に一本調子であざとく感じた。現実感がない。現実感がないほどの可愛さだ。役者が、ということではなく、人物造型が、だ。
さて、どうだったかというと、半ば予想通りの軽さは、アマゾンレビューにあるような低評価の言うところに大いに納得するしかない。確かに浅薄で類型的だ。そのことを言い募れば、こちらも類型的なディスりになってしまう。いかにもの「携帯小説」という、すでにその呼称が差別的だという評がぴったりなのだった。ラノベよりもあきらかに下で、アマゾンでは「感動ポルノ」という絶妙な形容が頻出しているところをみると、それもよく知られた表現なのだろうか。良い得て妙だ。
確かにお話はご都合主義に過ぎるし、実写映画の主演たちは美少女美少年すぎる。
にもかかわらず、これが多くの人々の感情をいやおうなく揺さぶってしまうのもよくわかる。「ポルノ」としてよくできているということだ。
恋人ではない相手との泊まりの旅行というのは、現実に不可能な行為ではないのにほとんどの人々にとって絶望的に起こらないイベントとして、強く感情に訴える。もちろん修学旅行や卒業旅行やその他、グループ旅行の中で、部分的にそれに近い経験はしうるのだろうが、それを増幅させたものとして万人の心に訴えるのだ。
恋人でない、という条件がミソで、恋人ならばありふれた出来事になってしまうから、これほどの強い訴求力はない。
このシークエンスを観ながら思い出したのはジブリアニメ『海がきこえる』だ。ほぼ2年前に、十数年ぶりに観直して高評価を新たにしたこの映画でも、恋人ではない高校生の男女が旅行するという展開があり、この描写がまた素晴らしかった。
さて、そんなに批評的にならずに楽しめばいいということなら楽しかったのだが、いかんせん、難病物として話が進んでいながら唐突に通り魔に遭うってのはどういうわけだ? あの展開は無論予想外だから、それを「衝撃」などと受け止めるのなら、それもまた作品享受の価値としてはそれなりの訴求力を生んだのだろうが、まあすれっからしで理屈っぽい筆者などには到底納得できない。単なる露出、意味もない艶場(ポルノでいうところの)ではないかと思ってしまった。
そこへいくと柳本光晴の「女の子の死ぬ話」は、若い友人の死をどう受け止めるかを、友人としての視点で描くだけでなく、読者がそれをどう受け止めるかを読者に迫ってくるという意味で、真っ当な「文学」だった。
映画としては、原作にない12年後の展開を入れたことが評価されているらしいが、これも「ありがち」に過ぎて感心しなかった。もちろんこの物語全体がひたすら「ありがち」な要素の寄せ集めなのだから、単純にそこから生じる効果だけが問題なのだ。
もちろん、後日談を描くということは、本編を一気に回想の枠組みに閉じ込めて、いやおうなくノスタルジアを発生させる。その意図はわかる。
だがそこで描かれる「現在」は、あの物語を経由した12年後の主人公の在り方としてバランスが悪すぎると感じた。ああいう自分を受け入れて、それなりの歳のとり方を見せればいいのに、若い時と同じように自分を受け入れられずに机の中に辞表を忍ばせるという描き方をなぜするのか。小栗旬が達者だとしても、脚本と演出の人物造型に納得できない。
一方の北川景子は物語にとって単に存在価値がない(これももちろん役者のせいではない)。手紙で泣かせる必要があっての登場であることはわかるが、その手紙に心を打たれず。
本編の方のヒロイン、浜辺美波は「いやおうなく」可愛くてどうしようもない。だが同時に一本調子であざとく感じた。現実感がない。現実感がないほどの可愛さだ。役者が、ということではなく、人物造型が、だ。
それに比べて北村匠海の主人公は、暗さと不器用さの混じった人物造型が見事で、この人物がこのように描かれていなかったら、この映画の価値はほとんどなくなるだろうと感じた。これが「ゆとりですがなにか」のあの人物と同一人物なのか!? 北村匠海がうまいのか? 演出がここだけは良かったのか? もうちょっと他の作品で見てみないと判断できない。
p.s 既にずいぶん前に彼を絶賛していたのだった!
p.s 既にずいぶん前に彼を絶賛していたのだった!
この1年に観た映画-2017-2018
ブログ開設後4年となるここ1年に観た映画。
『V/H/S ファイナル・インパクト』-期待しなければいい
『岸辺の旅』-納得できない
『運命じゃない人』-知的な構築物
『IT』-楽しいホラー映画
『オデッセイ』-不足のない娯楽作
『カメラを止めるな!』-生涯ベスト級
『父と暮らせば』-原爆という悲劇の特殊さは描けているか
『フライト・オブ・フェニックス』-嬉しい拾い物
『ソイレント・グリーン』-暗い未来の映画って大好き
『THE BAY』-アカデミー監督による手堅いホラー
『海街Dialy』 『海よりもまだ深く』-盤石の是枝作品
『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』-クトゥルフ神話よりジブリパクリ
『ザ・ファイター』-アメリカ人にとっての愛着
『羅生門』-映画としてすごいとドラマとしてすごいは別
『パズラー』-パッケージ詐欺
『水曜日のエミリア』 -うまいと面白いは別
『サイコハウス(The Sitter)』 -特筆すべき点のない
『パシフィック・リム』-ひたすら想定内
『ヒューゴの不思議な発明』-その映画愛に共感できるか
『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー
『ファイナル・デッドコースター』-いかに午後ローとはいえ
『ニュースの天才』-そら恐ろしい虚言癖
『ソロモンの偽証』 -人間を描かない監督の作品
『パニック・トレイン』 ー過剰な期待をしなければ
『ニンゲン合格』-これで「合格」と言われても
『フラットライナーズ』-サスペンスとしてもドラマとしても中途半端
『サバイバー』-ミラ・ヨボビッチの面目躍如
『二十四時間の情事』-とりあえず感想保留
『ラスト・ベガス』-お伽噺+アメリカンコメディ
『言の葉の庭』-風景の勁さとドラマの弱さ
『グランド・イリュージョン』-嬉しい娯楽作映
『ルー・ガルー 忌避すべき狼』-何もない
『人狼ゲーム ビーストサイド』-演技の緊張感
『エイプリル・フールズ』-こんな杜撰な設計図で
『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論
『サプライズ』-スモールスケールな『ダイ・ハード』
『スクープ 悪意の不在』-社会派ドラマとしてよりもコンゲームとして
『トレマーズ5 ブラッドライン』ー午後のロードショーにふさわしい
『Oh Lucy!』-苦々なOLの冒険譚
『炎のランナー』-テレビ放送で映画なぞ
『ビロウ』-「潜水艦映画にハズレなし」とはいうものの
『ペイチェック 消された記憶』-アクション映画なのかSF映画なのか
『サンシャイン2057』-ボイルでもこういうのもある
『ピエロがお前を嘲笑う』-もったいない鑑賞
『実験室KR13』-映画力と物語力のアンバランス
『THE WAVE』-不満と期待と
『Unknown』-DVDの再生不良で
『花とアリス殺人事件』-面白さに満足
『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作
『野火』 -ゆっくりと血肉化していけば
『人狼ゲーム -クレイジー・フォックス』-根本的なジレンマ
『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように
『デッドコースター』-気楽に観られる
『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』-制作者たちの罪は重い
ここまで55本。間に引っ越しなどというイベントがはさまっているからまあよく観たか。
下ほど観た時期の古いもので、最初の一本が、劇場で観た、新たにアニメ化された『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』だったというのも、感慨深い。これはこれで怒りのあまり忘れ難い一本なのだ。そのまますぐに原作の岩井俊二版を観て、さらにメイキングまで観直してしまったのだった。
そしてそれを含む、今年の10本。
『運命じゃない人』-知的な構築物
『IT』-楽しいホラー映画
『オデッセイ』-不足のない娯楽作
『カメラを止めるな!』-生涯ベスト級
『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー
『グランド・イリュージョン』-嬉しい娯楽作
『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論
『花とアリス殺人事件』-面白さに満足
『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作
『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように
『オデッセイ』『グランド・イリュージョン』『チェンジング・レーン』あたりが入っているのは不本意という気もする。そんなハリウッド娯楽作を入れていていいのか、という。何か個人的なこだわりがあるわけではなく、楽しさの程度の大きさから、映画を観るという体験の上位10本に入れざるを得なかった。
感情の高まりということでは『スティーブ・ジョブズ』と『The Visit』が強く、満足度としては『運命じゃない人』が高い。
だが、体験としての強さにおいてここ1年の最高の映画は『カメラを止めるな』だった。
『宮本から君へ』と『anone』と、忘れ難いドラマもあった。
『宮本から君へ』は、原作に忠実でいてしかもテレビドラマとして十分に面白いドラマ化を実現している演出力と、池松壮亮の演技の密度に脱帽。四半世紀以上前の、しかも(当時の)現代劇が、そのままドラマになってしまって、しかも科白もキャラクター造型も原作そのままなのに、充分観られる。
『anone』は坂元裕二の脚本がいいのはもちろんだが、広瀬すずが健気な主人公を演じきったのが見事だった。田中裕子や瑛太がうまいのは今更驚くことでもなく。そして阿部サダオと小林聡美のカップルが、可笑しさと切なさを大盛にして、このドラマを忘れ難いものにしたと思う。
来年5周年になったら、それを総じてのベストを選び直してみようか。
1年目 2年目 3年目
『V/H/S ファイナル・インパクト』-期待しなければいい
『岸辺の旅』-納得できない
『運命じゃない人』-知的な構築物
『IT』-楽しいホラー映画
『オデッセイ』-不足のない娯楽作
『カメラを止めるな!』-生涯ベスト級
『父と暮らせば』-原爆という悲劇の特殊さは描けているか
『フライト・オブ・フェニックス』-嬉しい拾い物
『ソイレント・グリーン』-暗い未来の映画って大好き
『THE BAY』-アカデミー監督による手堅いホラー
『海街Dialy』 『海よりもまだ深く』-盤石の是枝作品
『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』-クトゥルフ神話よりジブリパクリ
『ザ・ファイター』-アメリカ人にとっての愛着
『羅生門』-映画としてすごいとドラマとしてすごいは別
『パズラー』-パッケージ詐欺
『水曜日のエミリア』 -うまいと面白いは別
『サイコハウス(The Sitter)』 -特筆すべき点のない
『パシフィック・リム』-ひたすら想定内
『ヒューゴの不思議な発明』-その映画愛に共感できるか
『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー
『ファイナル・デッドコースター』-いかに午後ローとはいえ
『ニュースの天才』-そら恐ろしい虚言癖
『ソロモンの偽証』 -人間を描かない監督の作品
『パニック・トレイン』 ー過剰な期待をしなければ
『ニンゲン合格』-これで「合格」と言われても
『フラットライナーズ』-サスペンスとしてもドラマとしても中途半端
『サバイバー』-ミラ・ヨボビッチの面目躍如
『二十四時間の情事』-とりあえず感想保留
『ラスト・ベガス』-お伽噺+アメリカンコメディ
『言の葉の庭』-風景の勁さとドラマの弱さ
『グランド・イリュージョン』-嬉しい娯楽作映
『ルー・ガルー 忌避すべき狼』-何もない
『人狼ゲーム ビーストサイド』-演技の緊張感
『エイプリル・フールズ』-こんな杜撰な設計図で
『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論
『サプライズ』-スモールスケールな『ダイ・ハード』
『スクープ 悪意の不在』-社会派ドラマとしてよりもコンゲームとして
『トレマーズ5 ブラッドライン』ー午後のロードショーにふさわしい
『Oh Lucy!』-苦々なOLの冒険譚
『炎のランナー』-テレビ放送で映画なぞ
『ビロウ』-「潜水艦映画にハズレなし」とはいうものの
『ペイチェック 消された記憶』-アクション映画なのかSF映画なのか
『サンシャイン2057』-ボイルでもこういうのもある
『ピエロがお前を嘲笑う』-もったいない鑑賞
『実験室KR13』-映画力と物語力のアンバランス
『THE WAVE』-不満と期待と
『Unknown』-DVDの再生不良で
『花とアリス殺人事件』-面白さに満足
『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作
『野火』 -ゆっくりと血肉化していけば
『人狼ゲーム -クレイジー・フォックス』-根本的なジレンマ
『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように
『デッドコースター』-気楽に観られる
『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』-制作者たちの罪は重い
ここまで55本。間に引っ越しなどというイベントがはさまっているからまあよく観たか。
下ほど観た時期の古いもので、最初の一本が、劇場で観た、新たにアニメ化された『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』だったというのも、感慨深い。これはこれで怒りのあまり忘れ難い一本なのだ。そのまますぐに原作の岩井俊二版を観て、さらにメイキングまで観直してしまったのだった。
そしてそれを含む、今年の10本。
『運命じゃない人』-知的な構築物
『IT』-楽しいホラー映画
『オデッセイ』-不足のない娯楽作
『カメラを止めるな!』-生涯ベスト級
『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー
『グランド・イリュージョン』-嬉しい娯楽作
『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論
『花とアリス殺人事件』-面白さに満足
『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作
『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように
『オデッセイ』『グランド・イリュージョン』『チェンジング・レーン』あたりが入っているのは不本意という気もする。そんなハリウッド娯楽作を入れていていいのか、という。何か個人的なこだわりがあるわけではなく、楽しさの程度の大きさから、映画を観るという体験の上位10本に入れざるを得なかった。
感情の高まりということでは『スティーブ・ジョブズ』と『The Visit』が強く、満足度としては『運命じゃない人』が高い。
だが、体験としての強さにおいてここ1年の最高の映画は『カメラを止めるな』だった。
『宮本から君へ』と『anone』と、忘れ難いドラマもあった。
『宮本から君へ』は、原作に忠実でいてしかもテレビドラマとして十分に面白いドラマ化を実現している演出力と、池松壮亮の演技の密度に脱帽。四半世紀以上前の、しかも(当時の)現代劇が、そのままドラマになってしまって、しかも科白もキャラクター造型も原作そのままなのに、充分観られる。
『anone』は坂元裕二の脚本がいいのはもちろんだが、広瀬すずが健気な主人公を演じきったのが見事だった。田中裕子や瑛太がうまいのは今更驚くことでもなく。そして阿部サダオと小林聡美のカップルが、可笑しさと切なさを大盛にして、このドラマを忘れ難いものにしたと思う。
来年5周年になったら、それを総じてのベストを選び直してみようか。
1年目 2年目 3年目
登録:
投稿 (Atom)