2025年1月14日火曜日

『型破りな教室』-「型破り」という危険

 メキシコの小学校を舞台にした実話に基づく物語。

 貧困や麻薬の蔓延など、様々な問題を抱える生徒たち。主人公の教師のスタイルが、邦題にあるような、「型破りな」ものであるときには、それは単に再現性のないスタンドプレーになりかねない。もちろん、特段に描くべき特徴がなければ物語たりえない。なるほど生徒を惹きつけ、生徒に変化をもたらす、良い教師が描かれる。だがこれは現状に対する何を訴えているのか。

 実際に教育成果が上がったらしいことは、実話であることから証明されている。それは再現性のあるものなのか。

 設定として極めて類似した『12か月の未来図』では、主人公の教師はひたすら誠実であることによって、ある手応えのある教育活動をしていた。本作もそうだ。硬直化した思考習慣や保身に囚われないことが重要だとしても、いたずらに「型破り」であることを強調するのは危険だ。『コーダ あいのうた』でも教師役だったエウヘニオ・デルベスは、もちろんうまいが、似たようなキャラクターだとも言える。本作でも、主人公がやろうとしていたのは、ひたすら誠実で、そこに工夫を凝らそうとする柔軟性があることによってだ。そういう教師は世に溢れている。それ以上の特別さは、例えば教育委員会的な教条主義に逆らうことを躊躇わないでいられるかだ。そうしたとき、そこに対立する価値や論理が十分に説得力をもっていてこそ、ドラマは成立する。

 いくぶんそこは弱いと感じたが、例えばメキシコでも一斉学力テストなどがあって、その成績に現場は一喜一憂しているというようなリアリティがあったり、それを主催する教育委員会的な組織の職員が、徒に硬直化した役人的キャラクターではなく、十分に教育的な振る舞いをしているのは好感が持てた。

 その上で、どうにもならない悲劇と、そこから圧倒的な爽快感をもたらす大逆転劇は、それが実話であるという説得力をもって感動的だった。


2025年1月7日火曜日

『十角館の殺人』―見事な実写化

 ほとんど教養のようなつもりで観た。原作も2度読んでいるのだが、ちっとも覚えていない。有名な大どんでん返しの驚きは覚えているが、具体的な登場人物を覚えていないから、誰がそれなのかわからない。

 で、4話構成のテレビシリーズの3回目の終わりにそれが訪れた瞬間はさすがにびっくりした。見事だった。なるほど、これを実写でやるのは難しい。といってアニメでは興がそがれる。画ではいくらでも同じ人物を違ったものとして描いても、単に下手なだけだということで驚きがないが、生きた人間が二役をやってそれを観客に気づかせないのは難しい。『検察側の証人』でマレーネ・ディートリッヒがそれをやったのは見事だった。あれほどの大スターではなく、そもそも初めて見る俳優だったのだが、それでも。

 とはいえ、それだけ、とも言える。他に目立ったパズル的要素があって面白いというでもなく、人間ドラマとして感じ入るということでもなく。

 やはり、計画的な連続殺人を実行する動機があれだけというのは無理がある。


2025年1月4日土曜日

『ターミネーター ニューフェイト』―自然なAI

 AIがテーマの物語が偶然続いた。

 同テーマの物語としては比較的古い部類になる。といって、80年代当時でも、AI(という言葉は一般的ではなかった。「人工知能」とさえ言っていたかどうか)による人類に対する反乱という設定は新鮮ではなかった。どこかで聞いていた設定だと思った。それは、ロボットがSFに登場して以来、ロボットに対する虐待や人権は意識されていたからだろう。それが反乱への恐れに変わるのは必然だ。

 だが『ターミネーター』シリーズの面白さはもはやそうしたテーマの問題ではない。シンプルな逃走と闘争のスリルとサスペンスの出来だ。そうした意味では『2』が最高で『1』と『3』がそれに次いで、どれも水準以上だった。本作もそれに迫る出来だった。展開のスピード感もスリルも。

 それに加えて、本作ではオリジナルのリンダ・ハミルトンとアーノルド・シュワルツネッカーがそのまま同じ役で出演しているのが、『1』から観ている者にとっては感慨深い。二人とも年を取った。『1』『2』のシュワルツネッカーの圧倒的な強さが衰えたことにも味わいがある。そこに、AIが人間みたいになっていることへのウンザリ感が消化されている。シュワルツネッカー演ずる元ターミネーターがどう感じていようが、人間の方がそれに対して人間のような愛着を感じてしまうことはありうるのだという事態が、説得力をもっていた。『アイの歌声を』との違いは、AIを過剰に奇矯な振る舞いと共に描かないことかもしれない。