さらに、もう一つの読解メソッドである「対比」である。この文章ではどのような対比にもとづいて、論が進められているのだろうか。文中から探せ、と指示するとただちに「メリット/デメリット」などという対比要素が挙げられるのだが、これはさして重要な対比ではない。それは承知のうえで、それを挙げる生徒がいれば「メリット/デメリット」それぞれについてまとめさせたりする。
だが、この文章では、いきなり「探せ」という前に、やはり題名に注目させる。「『映像体験』の現在」の「映像体験」と「現在」が、何との対比であるかを考えさせるのである。するとそれぞれ
映像体験/実体験という対比が想定できる。
現在/過去
つまり、この文章は「『映像体験』は現在、どうなっているか?」という「問題」について、「映像媒体による体験」を「実体験」と「対比」することによって、またそうした「映像体験」が可能になる「現在」を「過去」と「対比」することによって考察した文章、と捉えることができる。
「疑問形」と「対比」によって、筆者の問題意識の構造が明確に意識された状態で読むことは、文章を読む上できわめて有益である。ここまでの展開は、そうした状態をつくって生徒にその後の考察をさせる前提をつくっているともいえるが、だからといって、こうすればこの文章を理解させやすい、といっているわけではない。そもそも個々の文章の内容を理解させることが国語の授業の目的ではないからである。ここでは、こうした文章読解の方法を体験させること自体が目的である。その意味で、この文章は「使える」のである。
「映像体験/実体験」「現在/過去」という二つの対比は、おおまかには同一軸上に並列させることができる。「映像体験(によって変質を被った)現在/実体験(しかなかった)過去」という対比だからである。「メリット/デメリット」はこの軸上に配置できない。「映像体験」の「メリット/デメリット」だからである。つまり文章中の主たる対比構造の一方に「入れ子」になっているのである。「メリット/デメリット」については先述の通りある程度のまとめをして、先を読み進める。
文章の大きな対比と同一軸上に並ぶ対比をさらに探させる。すると文章の半ばには「複製/オリジナル」という対比が抽出される。これが対比であることを直ちに読みとれる生徒はもうそれだけでかなりの読解力をもっていると言っていいのだが、そういう生徒がいなければ、ページを指定をして探させる。
次にこの対比はさっきの対比とどういう関係になっているか、と問う。結局これもまた同一軸上に並ぶ。後半に入るとこれがただちに「映像体験/現実・実体験」という対比に推移していくからである。
こうした対比は、向きを揃えて次々と黒板に書き出していく。可能な限りセットにして挙げさせ、その上下を聞くのである。実際にはセットになる一方が文中に明示されていない場合もあるのだが、それはそれで言明されているその要素と対比される潜在的な要素がなんなのかを考えさせることが読解の緒になる。
映像体験/実体験・現実次にこうした対比軸上に並ぶ「具体例」を探させる。
現在/過去
複製/オリジナル
写真/絵画さらにこうした対比軸上に並ぶ「形容」を探させる。
映画/マリア様の図像
印刷物/
コンピュータ画像/原っぱ・木々・野原
おびただしく/ただこの一点「水の東西」でも見てきたように「対比」は、上のように「キーとなる対比」「具体例」「形容」に分類すると探しやすい。上の「形容」は厳密に対になっているというわけではなく、軸上に配置されて上下が決定できるという程度である。それは、主たる対比の属性を表したものだといえる。
安価なイメージ/ありがたみ
/神聖な輝きをまとった「本物」
不幸・危険/生き生きした
さてここまでの授業過程では、この文章の重要な主旨に関しては、生徒に的確な理解をされていない可能性が大きく、終わるには惜しい段階である。
評論における対比は、その一方を否定することで一方の価値を主張するための構図として設定される事が多い。この文章の対比ならば、上項を否定して下項を称揚するのである。とすると、上の対比構造を本文から抽出して眺めただけでは、先の「どのように生きていったらいいのか?」に対して「野原の現実を取り戻せ」「オリジナルへ戻れ!」「イメージを捨てて現実に戻れ」といった主張を筆者がするはずだという帰結に陥りかねない。だがそれこそが、先に見たとおり否定されているのである。いったいどうなっているのか?
この先に考察を進めるために、どのような展開が可能なのか?
上のように「対比」を捉える際には、「~ではなく、~」という文型が重要な目印になることを指摘する。「ではなく」の前後には必ず対比的な要素が置かれているのである。この文中では次の4箇所にこの文型が登場する。
a.ただ一点だけのオリジナルというわけではなくて、同一の映像が無数に複製され、流通することが可能になるこれらは筆者が論理的に文章を書こうと意識していることの表れであり、論理的であろうとするとき、人は対比を用いて論理を組み立てることを証している(先の「疑問形」が明示されていることもまた、論理的であることに意識的である証である)。
b.ただこの一点しか存在しないというわけではなく、いくらでも複製されて広まってゆくことになるから、一枚一枚の映像の「ありがたみ」は薄れてゆくことになる
c.映像―対―現実という対立関係ではなくて、映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけだということにさえなってゆく
d.単にイメージを捨てて現実に戻れというのではなく、イメージに取り囲まれながら、イメージそのもののただ中で、空虚ならざる映像のありかを探ってゆくという選択
さて、abは「複製/オリジナル」という対比であるから、既に見たとおりであるが、あとの二つはどのような対比だろうか。
cの「映像―対―現実という対立関係/映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけ」という対比は、この文章中でも最も重要な対比であるが、これをこの文章中で捉えるのは、高校生には少々難しいだろう。そもそも対比の一方である「映像―対―現実という対立関係」こそ、上に見てきた「キーとなる対比」なのだから、それを「入れ子」として、それとまた対立する「映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけ」というのが、さらにその外側に対比構造をつくってしまう。つまりcとabは入れ子構造になっているわけだ。
筆者の考えでは、abのような「過去/現在」という対立を、さらに細分化して「前近代/近代/現代」という対比で捉えたときに浮上する「近代/現代」の対比こそ、cで述べられた対比なのである。
つまり「過去/現在」という対比においては「現実/映像」という「対立」が意味をもっていたが、そこでいう「過去」とは、写真や映画の技術が出現したばかりの「近代」までを指していたのに対して、さらにメディアの発達した「現代」においてはそうした「対立」そのものが消滅してしまうという事態を捉えているのがcの対比なのである。
となると、abの対比の上項「映像体験」が「不幸」だったり「危険」だったりするからといって、下項の「現実」に戻るわけにはいかない。つまり「近代」から遡って「前近代」に戻るわけにはいかないわけである。そこからdの主張がなされる、という流れになるのである。dの対比は先程見た、この文章の三つ目の問題提起「こういう時代のただ中で、我々はどのように生きていったらいいのか」についての筆者の結論を明確にするための対比といえる。
いささか込み入った議論になったが、さて、「疑問形」と「対比」によって、筆者の認識と主張はかなり整理できた。だからといって、筆者の主張として先に確認した「イメージに取り囲まれながら、イメージそのもののただ中で、空虚ならざる映像のありかを探ってゆく」「『アウラ』の輝きに対する繊細な感性を保持し続ける」「映像の氾濫の中で量に流されずに、豊かなイメージと貧しいイメージとを選り分ける感受性を鋭く研ぎ澄ましてゆく」という文言は、実はまだ抽象的で、生徒には実感としてわかりにくいはずである。これを考えさせることも、こちらが具体例などで説明することもある程度は可能である。
だが別の回路によってそれを企図したのが次の展開につながる「読み比べ」である。