2015年3月30日月曜日

「読み比べ」というメソッド 6 ~「対比」は何か? 松浦寿輝「『映像体験』の現在」を読む2

 引き続き「『映像体験』の現在」を読む。

  さらに、もう一つの読解メソッドである「対比」である。この文章ではどのような対比にもとづいて、論が進められているのだろうか。文中から探せ、と指示するとただちに「メリット/デメリット」などという対比要素が挙げられるのだが、これはさして重要な対比ではない。それは承知のうえで、それを挙げる生徒がいれば「メリット/デメリット」それぞれについてまとめさせたりする。
 だが、この文章では、いきなり「探せ」という前に、やはり題名に注目させる。「『映像体験』の現在」の「映像体験」と「現在」が、何との対比であるかを考えさせるのである。するとそれぞれ
映像体験/実体験
   現在/過去
という対比が想定できる。
 つまり、この文章は「『映像体験』は現在、どうなっているか?」という「問題」について、「映像媒体による体験」を「実体験」と「対比」することによって、またそうした「映像体験」が可能になる「現在」を「過去」と「対比」することによって考察した文章、と捉えることができる。
 「疑問形」と「対比」によって、筆者の問題意識の構造が明確に意識された状態で読むことは、文章を読む上できわめて有益である。ここまでの展開は、そうした状態をつくって生徒にその後の考察をさせる前提をつくっているともいえるが、だからといって、こうすればこの文章を理解させやすい、といっているわけではない。そもそも個々の文章の内容を理解させることが国語の授業の目的ではないからである。ここでは、こうした文章読解の方法を体験させること自体が目的である。その意味で、この文章は「使える」のである。

 「映像体験/実体験」「現在/過去」という二つの対比は、おおまかには同一軸上に並列させることができる。「映像体験(によって変質を被った)現在/実体験(しかなかった)過去」という対比だからである。「メリット/デメリット」はこの軸上に配置できない。「映像体験」の「メリット/デメリット」だからである。つまり文章中の主たる対比構造の一方に「入れ子」になっているのである。「メリット/デメリット」については先述の通りある程度のまとめをして、先を読み進める。
 文章の大きな対比と同一軸上に並ぶ対比をさらに探させる。すると文章の半ばには「複製/オリジナル」という対比が抽出される。これが対比であることを直ちに読みとれる生徒はもうそれだけでかなりの読解力をもっていると言っていいのだが、そういう生徒がいなければ、ページを指定をして探させる。
 次にこの対比はさっきの対比とどういう関係になっているか、と問う。結局これもまた同一軸上に並ぶ。後半に入るとこれがただちに「映像体験/現実・実体験」という対比に推移していくからである。
 こうした対比は、向きを揃えて次々と黒板に書き出していく。可能な限りセットにして挙げさせ、その上下を聞くのである。実際にはセットになる一方が文中に明示されていない場合もあるのだが、それはそれで言明されているその要素と対比される潜在的な要素がなんなのかを考えさせることが読解の緒になる。
映像体験/実体験・現実
   現在/過去
   複製/オリジナル
  次にこうした対比軸上に並ぶ「具体例」を探させる。
           写真/絵画
            映画/マリア様の図像
          印刷物/
コンピュータ画像/原っぱ・木々・野原
  さらにこうした対比軸上に並ぶ「形容」を探させる。
  おびただしく/ただこの一点
安価なイメージ/ありがたみ
                /神聖な輝きをまとった「本物」
  不幸・危険/生き生きした
  「水の東西」でも見てきたように「対比」は、上のように「キーとなる対比」「具体例」「形容」に分類すると探しやすい。上の「形容」は厳密に対になっているというわけではなく、軸上に配置されて上下が決定できるという程度である。それは、主たる対比の属性を表したものだといえる。

 さてここまでの授業過程では、この文章の重要な主旨に関しては、生徒に的確な理解をされていない可能性が大きく、終わるには惜しい段階である。
 評論における対比は、その一方を否定することで一方の価値を主張するための構図として設定される事が多い。この文章の対比ならば、上項を否定して下項を称揚するのである。とすると、上の対比構造を本文から抽出して眺めただけでは、先の「どのように生きていったらいいのか?」に対して「野原の現実を取り戻せ」「オリジナルへ戻れ!」「イメージを捨てて現実に戻れ」といった主張を筆者がするはずだという帰結に陥りかねない。だがそれこそが、先に見たとおり否定されているのである。いったいどうなっているのか?
 この先に考察を進めるために、どのような展開が可能なのか?

 上のように「対比」を捉える際には、「~ではなく、~」という文型が重要な目印になることを指摘する。「ではなく」の前後には必ず対比的な要素が置かれているのである。この文中では次の4箇所にこの文型が登場する。
a.ただ一点だけのオリジナルというわけではなくて、同一の映像が無数に複製され、流通することが可能になる
b.ただこの一点しか存在しないというわけではなく、いくらでも複製されて広まってゆくことになるから、一枚一枚の映像の「ありがたみ」は薄れてゆくことになる
c.映像―対―現実という対立関係ではなくて、映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけだということにさえなってゆく
d.単にイメージを捨てて現実に戻れというのではなく、イメージに取り囲まれながら、イメージそのもののただ中で、空虚ならざる映像のありかを探ってゆくという選択
これらは筆者が論理的に文章を書こうと意識していることの表れであり、論理的であろうとするとき、人は対比を用いて論理を組み立てることを証している(先の「疑問形」が明示されていることもまた、論理的であることに意識的である証である)。
 さて、abは「複製/オリジナル」という対比であるから、既に見たとおりであるが、あとの二つはどのような対比だろうか。
 cの「映像―対―現実という対立関係/映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけ」という対比は、この文章中でも最も重要な対比であるが、これをこの文章中で捉えるのは、高校生には少々難しいだろう。そもそも対比の一方である「映像―対―現実という対立関係」こそ、上に見てきた「キーとなる対比」なのだから、それを「入れ子」として、それとまた対立する「映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけ」というのが、さらにその外側に対比構造をつくってしまう。つまりcとabは入れ子構造になっているわけだ。
 筆者の考えでは、abのような「過去/現在」という対立を、さらに細分化して「前近代/近代/現代」という対比で捉えたときに浮上する「近代/現代」の対比こそ、cで述べられた対比なのである。
 つまり「過去/現在」という対比においては「現実/映像」という「対立」が意味をもっていたが、そこでいう「過去」とは、写真や映画の技術が出現したばかりの「近代」までを指していたのに対して、さらにメディアの発達した「現代」においてはそうした「対立」そのものが消滅してしまうという事態を捉えているのがcの対比なのである。
 となると、abの対比の上項「映像体験」が「不幸」だったり「危険」だったりするからといって、下項の「現実」に戻るわけにはいかない。つまり「近代」から遡って「前近代」に戻るわけにはいかないわけである。そこからdの主張がなされる、という流れになるのである。dの対比は先程見た、この文章の三つ目の問題提起「こういう時代のただ中で、我々はどのように生きていったらいいのか」についての筆者の結論を明確にするための対比といえる。

 いささか込み入った議論になったが、さて、「疑問形」と「対比」によって、筆者の認識と主張はかなり整理できた。だからといって、筆者の主張として先に確認した「イメージに取り囲まれながら、イメージそのもののただ中で、空虚ならざる映像のありかを探ってゆく」「『アウラ』の輝きに対する繊細な感性を保持し続ける」「映像の氾濫の中で量に流されずに、豊かなイメージと貧しいイメージとを選り分ける感受性を鋭く研ぎ澄ましてゆく」という文言は、実はまだ抽象的で、生徒には実感としてわかりにくいはずである。これを考えさせることも、こちらが具体例などで説明することもある程度は可能である。
 だが別の回路によってそれを企図したのが次の展開につながる「読み比べ」である。

2015年3月29日日曜日

「読み比べ」というメソッド 5 ~問題提起は何か? 松浦寿輝「『映像体験』の現在」を読む

  今回、連続してまとめているのは、「読み比べ」という授業メソッドが、具体的な教科書を使った一年間の授業の中で、どう展開可能だったかを明らかにすることを主たる目的としている。
 だがむろん、個々の文章の読解も、必要と思われる範囲で行っていきはする。そのためのメソッドとして最初にあげたいくつかの方法のうち、「発問」は、実際には個々の教材、個々の授業展開の中で多様であり、なおかつそれは授業の中での生徒の反応に応じて発想されたり変更されたりする可変的なものだ。
 とはいえ、ある程度は「発問」を発想するための技法もあるともいえる。「水の東西」「『間』の感覚」で多用した「対比」を問う発問もそうだ。私見ではこれは評論を読解する上で最も汎用性がある強力なメソッドである。
 さらにもう一つ、汎用性のあるメソッドである「この文章で提起されている問題は何か?」という問いを駆使した読解の実際例として、松浦寿輝の「『映像体験』の現在」の授業展開を詳述していこう。

 「この文章で提起されている問題は何か?」という問いは、ある生徒たちには無論難し過ぎる。だからすぐに「この文章で作者が言おうとしていることを、疑問形で(文末に「?」がつく形で)言え。」と言い換える。
 漠然と文章が「わからない」と感じているとき、その文章はどんな「問題」を提起しているのか、筆者は何について考えようとしているのかを自覚することはきわめて有益である。提起されている「問題」の「解答」を文中から探すばかりでなく、文章によってはむしろ「解答」から遡って「問題」を拵えることが必要になったりもする。つまり、「問題」と「解答」のセットを文中に探す読解は、相互に補完的な思考である。
 だがそれだけではなく、さらにメタレベルで、こうした明確な目標をもった思考が読解そのものを促す、という意味でも、それは相互補完的なものである。文章が「わかる」から「問題」と「解答」のセットが括り出せるわけではない。それらをセットにして括り出そうとする思考が文章を「わかる」ようにさせるのである。だから「わからない」と感じているわけではない文章でさえ、そうしたセットが揃ったときに、にわかにその文意が明確になるのを感じられたりする。
 この問いは、文章によって容易だったり難しかったりする。「絵はすべての人の創るもの」ならば、「我々は芸術に対してどのように向き合うべきか?」とでもいったところだろうか。これは答えから遡ってつくられる問いだ。何が書いてあるかがある程度把握されていて、それがどのような問題意識によって導かれた結論なのかを考える中で、「問題」としての上のような「疑問形」が想定されるのである。
 これは生徒にはなかなか難しい操作である。だが、比較的容易な方法もある。題名を使うのである。「絵はすべての人が創るもの」ならば「なぜ絵はすべての人が創らなければいけないのか?」などと変形することで「疑問形」が得られる。「水の東西」ならば「水に対する感性は日本と西欧でどう違うか?」だ。

 さて、「『映像体験』の現在」ならばどうだろう。とりあえずは「『映像体験』の現在とは何か?」と言えればまずまずだが、それよりも「『映像体験』は現在、どうなっているか?」と言えればなお良し、だ。この、「問題」の表現形は、「解答」との照応関係においてその適切さが判断される。「何か?」ならば「解答」は名詞であろうし、「どうなっているか?」ならば説明が対応するはずである。
 この「筆者が言おうとしている問題を疑問形で言え。」は、文章全体に適用してもいいのだが、もう少し小さく区切った範囲に適用することもできる。
 実は「『映像体験』の現在」では、この「疑問形」が、文中にそのまま見出せる。冒頭からしばらく「『映像体験』は現在、どうなっているか?」という問題意識で読み進められるのだが、3分の1ほどのところに「そうした中でどういうことが起きてきたのか。」という一文があり、さらに3分の1ほど読み進めると「こういう時代のただ中で、我々はどのように生きていったらいいのか。」という一文がある。こうした疑問文を探させ、それに対応した筆者の結論を探させる、という形で読解を進めることができる。
 論の展開を「疑問形」によって整理してみよう。
1 「映像体験」は現在、どうなっているか?
      ↓
2 そうした中でどういうことが起きてきたのか?
      ↓
3 こういう時代のただ中で、我々はどのように生きていったらいいのか?
最後の「どのように生きていったらいいのか?」については、それについての結論として筆者が否定する「生き方」と筆者が肯定する「生き方」を、文中からそれぞれ否定4箇所、肯定3箇所探せと指示する。
 否定されているのは
1.野原の現実を取り戻せ
2.オリジナルへ戻れ!
3.オリジナルがただ一点あるだけだった前近代へ戻れ
4.イメージを捨てて現実に戻れ
である。全て文末が命令形になっているので、勘のいい生徒はすぐに見つける。見つかりにくければ文末の特徴に注目するようヒントを出す。
 肯定されているのは
1.イメージに取り囲まれながら、イメージそのもののただ中で、空虚ならざる映像のありかを探ってゆく
2.「アウラ」の輝きに対する繊細な感性を保持し続ける
3.映像の氾濫の中で量に流されずに、豊かなイメージと貧しいイメージとを選り分ける感受性を鋭く研ぎ澄ましてゆく
である。
  疑問形のテーマ提示とそれに対する結論提示を、文中からこうして数を指定して探させることができる、という点で、この文章はきわめて「使える」教材である。評論読解入門期の練習問題として適切なのである。

 松浦寿輝「『映像体験』の現在」を読む の項、次回へ続く。

2015年3月28日土曜日

「読み比べ」というメソッド 4 ~「水の東西」と「『間』の感覚」

 山崎正和の「水の東西」は、「国語総合」ではおそらく「羅生門」につぐ定番教材である。世の多くの高校国語教師がうんざりしているかもしれないのに、依然として教科書には載り続ける。出版社も教師も、いまさら途中下車することが怖くなって、まるで特急列車ででもあるかのように、改訂を乗り越えて採録され続ける。
 かくいう筆者は、それほどうんざりしているわけではない。少なくとも「羅生門」のようには。
 「水の東西」の学習の肝は、言うまでもなく二項対立にもとづく読解の作法である。高校一年生の初期の学習なのだから、そもそも「二項対立」って何だ? というところから入って、そうした頭の使い方に慣れるのが学習の「ねらい」である。ん、ほんとにそうか? 確認してみる。
  「指導書」によると単元の「ねらい」は
評論文の基本的な読み方を習得させる。
とあり、「水の東西」については
 『水の東西』は、人文科学の分野ではオーソドックスな手法である比較法・対照法により東西の文化を分析・記述している。
と述べられているから、「比較法・対照法」=「二項対立」の練習問題と考えていいのだろう。
 だがこれは「人文科学の分野」に限って「オーソドックスな手法である」わけではない。そもそも人間の頭はそういうふうにしか働かないのである。「分かる」とは「分かれる」「分けられる」ことである。ある差異によって、何かと何かの間に線を引いて「分ける」ことである。そうした差異線に沿って情報を位置づけることが「分かる」ということだ。
 そうした頭の使い方そのものに慣れることを目標とするなら、文中では何と何が対比されているかを問うて、文中の具体例・形容・抽象語などを整理していく作業が具体的な読解過程となる。むろん、高校で初めて読む「評論」だろうから(教科書の配列によるが)、そもそも文中の何を目に留めなければならないかを判断するところが練習である。そのうちには例の
 流れる水/噴き上げる水
時間的な水/空間的な水
見えない水/目に見える水
といった明示された対比も挙がるだろう。だが、順序はともかく、明白な形をとらずに文中に埋もれた対比要素を探して整理していくところが読解の要点でもあり醍醐味でもある。
 問いに対して生徒の挙げる対比の適否を判断しつつ読み進めていくと、挙げるべき対比は題名にもある「東西」を含めて少なくとも三つである。
東(洋・日本)/西(洋・欧米)
   鹿おどし/噴水
     自然/人工
  これが、上の三つの対比と重なることを確認してさらに問う。ではそれらの関係はどうなっているか? 最もキーとなる対比は何で、それ以外の対比はどう位置づけられるか?
 あえて分類するならば「東/西」がキーとなる対比であり、「鹿おどし/噴水」は具体例である。明示された三つの対比は形容であり、「自然/人工」は抽象語である。こうした分析は文章構造の把握に有益だが、難しいことも確かだ。だが「一番代表的な対比はどれ?」くらいに訊いてみれば、題名と結びつけて「東/西」であることは思い至るし、具体例もどれだかわかる。

 定番の授業過程の記述がいささか長くなった。さて、問題は「読み比べ」である。定番教材であるから何度か扱ったことがある。これまで、山本健吉の「日本の庭について」や加藤周一の「日本の庭」、あるいは陣内秀信「東京の空間人類学」との「読み比べ」をしたことがある。
 これらの文章は共通して「日本/西洋」という対比構造で論を展開しており、その対比要素として「自然への親和性/人工への志向性」といった特徴が読みとれる。この対比構造が意識されると、文章の細部をどう読むべきかの見当がつけやすくなる。同時に、何と何が対比要素なのかを考えること自体が読むことを促す。
 こうした思考過程は、どちらかが完全に先行するわけではなく、相互補完的なものだ。対比を読もうとするから読めるようになるし、読み取った対比を意識しながら読むからさらに読めるようになる。それぞれの文章を読む際にもそうした頭の使い方をするのは有益だが、さらにそれらの文章を「対比」して読むことが、それぞれの文章を読む推進力となる。

 実は第一学習社の「高等学校 国語総合」では高階秀爾の「『間』の感覚」が、こうした読み比べの可能な教材として収録されていることが指導書にも明示してある。これは実に有意義なことなのだが、はたして現場ではそれをどの程度意識して授業計画に取り込んでいるのだろうか。言及する、といった程度の扱いではたいした意味はない。そもそも本文の詳細な「説明」などせずに、「両者に共通している考え方を述べよ」と要求してしまうのだ。そうした総括と、それを本文のどの記述に根拠づけるのかといった細部の検討を往復していくならば、それだけでもう教材としては充分に「使える」ものとなる。
  だが、惜しむらくは「水の東西」と「『間』の感覚」は、教材配列上、離れたところに置かれており、よほど意識して授業計画を立てなければ、そうした比較が行われることはないだろう。こうした残念な配列は編集部の不必要なバランス感覚に拠っていると思われる。似たような題材の文章は、わざわざ遠ざけて置くか、もしくは収録しないのだ(例えば「国語総合」と「現代文」に分けるとか)。
 だが一学期に「水の東西」を単独で扱うのももったいないし、二学期に「『間』の感覚」を扱ったときに「水の東西」に「言及する」くらいであるのももったいない。この二つの文章は並べて一つの単元とし、現状の現場で行われているようにどちらかを選んで授業で「教える」のではなく、両方をセットにして「使う」べきなのだ。

 「『間』の感覚」は、
住居の構造や空間構成に見られる日本とヨーロッパの違いは
と始まるから、「東/西」が対比されていることはあまりに明白である。そこでそれぞれの文化のありようが、どんな具体例を使ってどんな表現で対比されているかを文中から指摘させる。最初の2ページでは、花を題材として次のような対比が抽出できる。
・自然の中に出かけていってその美しさを楽しむ/自然の環境から切り離された切り花を愛好する
・自然の中の花/花瓶に生けられた花
3ページ目では、都市を描いた画のモチーフを題材として次の対比が抽出できる。
・自然の情景/人工のモニュメント
4ページ目では、建築様式を例に、次の対比が抽出できる。
・中間領域を媒介として、内部は自然に外部へつながっている/壁という強固な物理的遮蔽物によって内部と外部を明確に区分する
さらに5ページ目では、建築様式からみた空間の構造から、そこでの人の行動様式に話題を移して、次の対比が語られる。
・内と外を心理的・意識的に区別する/内と外を物理的に区別する
  最後の対比は文中から抜き出すことはできず、こちらでまとめるしかない。
 これらはいずれも「水の東西」と同様「東/西」の対比軸上に並ぶものだ。
 こうした対比を探していく、という読み方と並行して、
花→都市景観→建築様式→行動様式
といった話題転換を大きなまとまりを読み取っていくことも重要である。もちろん教えない。何が論の題材として取り上げられているか? と問うのである。

  さて「水の東西」との共通項として「東/西」=「自然/人工」という対比を軸に「『間』の感覚」の前半を読み進めていたが、後半の「間」の話題になると「水の東西」からは離れてしまう。仕方がない。そして後半の、日本人の「間の感覚」がまた、生徒にとっては捉えにくい議論なのだが、これについてはまた別の文章との読み比べが必要になるのだろう。
 だが「水の東西」の「時間的な水/空間的な水」と強引に結びつけてしまえば、日本人は対象との関係を自然の推移の中で捉えようとし(時間的)、西洋人は対象と自分の関係を物理的な対称関係において捉えようとする(空間的)、などと言ってみれば、それはそれで「『間』の感覚」の後半とも重なってくるように思える。
 こんなアクロバティックな読み方はいささか牽強付会に過ぎるだろうか?

2015年3月27日金曜日

「読み比べ」というメソッド 3 ~「国語」は「教え」られるか?

  前回のように、教科書の文章を「読む」という行為は、当たり前のようでいて実は当たり前ではない。国語の授業で教材を「読む」のではなく、では何をやっているのかといえば、少なくとも筆者の見聞きしている多くの場合、教材の「内容」を「教え」ているのである。教師は生徒に何かを「教え」、それを生徒に「理解」させるものだと思っているからだ(だからもちろん生徒もそう思っている)。
 例えば「旅する本」が教材として採り上げられるにあたっての編集部の意図した「教材のねらい」は
「旅する本」という教材を通して生徒に伝えるべきは、なによりもまず読書の素晴らしさであると考える。
と明言されている(いわゆる「指導書」にそう書いてある)。
 だがそうだとすれば、この小説を授業で扱う場合、生徒とともにこの小説を読み(各自黙読では愛想がないと思えば朗読し)、読書って素晴らしいよね、先生は本が好きだなあ、とでも語っておしまいである。もちろんそれでも「読書の素晴らしさ」は伝わる可能性はある。というか、可能性しかない。それを期待するしかない。だから教師はそれを生徒に体験させることのできるよう、力のこもった朗読をするくらいしかない。筆者はそのことに悲観的なわけではない。
 授業で「読む」小説が生徒にとって面白いことはあるだろう、とは思う。だが、少なくとも「読書の素晴らしさ」が「教え」られないことは明白な事実である(なおかつ「旅する本」の肝は、筆者の見解では「読書のすばらしさ」などではない。前回書いたとおりである)。
  同様に「絵はすべての人の創るもの」は
芸術創造と鑑賞のダイナミズムを考える中で、自己の内的世界を拡張させる。
という「ねらい」が掲げられている。だがもちろん「芸術創造と鑑賞のダイナミズム」は「教え」られない。生徒自身にそれを感じさせようとするならば、例えば実際に芸術作品の鑑賞が生徒たち相互の間でどれほど違っているかを感じさせるような体験をさせるしかない(同じ絵を見せて感想を書かせ、それらを比較する…など)。むろんそれは有益だ。教材文を「読む」こととは別に、そうした活動が企図されることは大いに望ましい。が、恐らくそんな手間のかかる活動(しかも意図通りに成果が上がるかどうか難しい)をする教師はいまい。
  だから結局、それぞれの文章は、その「内容」を「教え」られてしまうのだろう。
 それでも、そうした文章で訴えられている「内容」を、そもそも求めていた生徒がいたとすれば、幸福な出会いとして、それぞれの文章が生徒の心に何かを(それは例えば「ねらい」どおりかもしれない)残すかもしれない。
 だがそれは「国語」の学習なのだろうか?
 そうではない。それは「国語」の学習の、いわば「余録」としてもたらされるかも知れない幸運である。では上のような学習によって「芸術創造と鑑賞のダイナミズムを考える」などという行為はどうか。芸術の授業だろうか? そうかもしれない。少なくとも国語の学習として「絵はすべての人の創るもの」を読むこととはそれほど関係のない何事かである。

  安倍政権の目論む「道徳」の教科化は浅はかな妄言だと思うが、教科としてではない「道徳」教育自体は、やりようによっては無意味なものではないと思う。特に小学生のうちならば、いわゆる「徳目主義」的な教育が行われることによって、「道徳心」と言うよりコモンセンスとしての「道徳」についての知識が定着することも有益ではある。そうした知識が適切に内面化されるならばそれはもう「道徳心」と呼んでも構わない。
 一方で高校生に「徳目主義」的な「道徳」の授業を行うことなどほとんど無意味だ。扱われる「徳目」など、みんな知っている。だが「知っている」こととそれを体現することは別問題だ。「道徳心」のかけらもない凶悪犯でも、恐らく「徳目」は「知っている」。ただ彼はそれを一顧だにしないことに何の痛痒も感じないだけだ。
  この、道徳教育をめぐる事態と、国語科教育の現状はある意味で似ている。「読書の素晴らしさ」や「芸術生活の素晴らしさ」は、「徳目」同様、思春期以降の子供たちに「教え」ても大した意味はない。ただそれらを内面化することが期待されるだけだ。だがどのようにしてそれが可能なのだろう。こうした学習イメージに、筆者は悲観的である。
 そしてさらに、そのようなイメージの国語科教育は実現不可能という以上に、道徳教育とのアナロジーで語られるところが、そもそもの間違いなのだ。国語の授業に使用される教材文は、そこから何かの「教訓=徳目」を読み取るべき対象ではないはずである。だが、教材の「内容」を「教え」る、という学習イメージの延長には、「徳目」を教える道徳教育のイメージがある。
 こうした国語科教育のイメージは二重の意味で間違っている。「徳目」のような「内容」は「教え」ても大した意味はない。そしてそもそも国語科教育は「国語」の学習を生徒にさせるべき機会であって、教材の「内容」を(「教え」ることによって)理解させるべき機会ですらないのである。

2015年3月26日木曜日

「読み比べ」というメソッド 2 ~「絵はすべての人の創るもの」と「旅する本」

 教科書の冒頭教材は岡本太郎の「絵はすべての人の創るもの」である。

 絵画は万人によって、鑑賞されるばかりでなく、創られなければならない。誰でもが描けるし、描くことの喜びを持つべきであるというのが、私の主張です。
だが岡本太郎は、万人が絵を描くべきであると言っているわけではない。見ることはそもそも創造なのだと言っているのである。芸術に触れ、自ら創造する姿勢が生活を生き生きとさせる、と岡本は言う。

 もう一つの随筆と、超定番「羅生門」をはさんで収録されているのが角田光代の「旅する本」である。

 主人公の「私」は、大学入学の年に一冊の小説本を古本屋に売る。大学の卒業旅行でネパールを訪れたときに、立ち寄った古本屋で同じ本を見つける。「同じ」というのは同じ小説の本という意味ではなく、自分が日本の古本屋に売った、その本だったという意味だ。本の書き込みがまぎれもなく自分のものだったからだ。買って読み、もう一度カトマンズでバックパッカーに売る。それから勤め人になって仕事で訪れたアイルランドの古本屋で、主人公はもう一度同じ本に出会う。そしてそれを買って読み、またロンドンで売ってしまおうと思う。

 妙な小説である。先の展開が読めない。予想外の奇妙な展開が続いて、しかし最後まで読んでも合理的な説明がないままである。

 どういうわけだか知らないが、この本は私といっしょに旅をしているらしい。また数年後、どこかの町の古本屋で私はこの本に出会い、性懲りもなく買うだろう。

  小説としては意外な展開に引き込まれて読み進めてしまう面白さがあるが、この小説の肝は、こうした物語の展開そのものにはない。外国での二度の再会の際に読んだその小説は、それぞれ、高校生の頃に読んだ小説と全く違った物語のように主人公の目に映る。高校・大学・社会人、都合三つの物語は、つまりその時々の主人公の姿を映し出しているのである。

 それぞれの文章を単独で読解することに、それほど時間をかけたりはしない。まして解説したりもしない。「絵はすべての人の創るもの」と「旅する本」を読み比べて、共通する考え方が何かを説明せよ、と問うのである。
 もちろん、生徒は簡単に結論にたどり着きはしない。さまざまなヒントや緒(いとぐち)を与えながら、大きな論理・構造において文章を読むように誘導する。
 例えばそれぞれの主題材が何であるかを考えさせる。それぞれ「絵」と「小説」、と挙がったところで、それについて、それぞれがどのような思想を語っているかを考えさせる。「絵がどうだって? 小説がどうしたって?」などと問いかける。「絵」と「小説」を同じ位置に並べて比べてみたときに、それぞれの文章に共通する思想が見えてくる。
 こうした扱い方を、編集部では想定してはいない(実は直に問い質して確認してみた)。とすればこれは絶妙な偶然なのだが、この二つの文章は、随筆と小説というジャンルの違いにもかかわらず、重要なその思想のエッセンスにおいて見事な共通性を有しているのである。
 まとめてみるならば、次のようにでも言える思想である。
・芸術作品の享受者は、作品の享受を通じて自分自身を見ている
・芸術作品には、たった一つの意味・価値が現前として存在するわけではなく、受け手によってそれぞれ違った意味・価値が生ずる

 だが少なくとも指導書にはこの二つの文章を結びつけて言及する記述は見あたらず、そのような扱い方を提案する気配はない。が、これは看過するにはあまりに惜しい教材収録の妙だ。扱わないのはもったいない。
 上のような共通性について何となく気づいた生徒も、それをただちに上のような形でまとめて表現できるわけではない。それぞれに拙いなりにこの感触を表現しようとする生徒の発表を聞き継ぎながら、それが「絵はすべての人の創るもの」の本文中でどのように語られているかを指摘させる。あるいは、こうした共通思想が括り出せた後には、「旅する本」において高校、大学、社会人それぞれの時代のその小説のイメージが、享受者であるところの「私」のどのようなありかたの反映であるかを考えさせたりする。
  注意すべきことは、こうした共通点の抽出は、それぞれの文章を理解してから始めてできるというわけではなく、むしろ、二つの文章を比べて読もうとすることそのものが、それぞれの文章を読ませる原動力となるという点だ。それは、それぞれの文章を教員が解説することによって生徒に「理解させる」などという怪しい学習過程とはまるで異なった国語学習のありかたである。

  二つの文章に共通する上のような思想は、次のような思想に対置される。
・芸術作品には、それ自体に固有の意味がある
・芸術作品には、たった一つの意味・価値が現前として存在する
  これは、そうした「意味」を「正解」として教えることが典型としてイメージされているような国語科授業のありかたをささえる思想だ。二つの文章は、評論と小説というジャンルの違いにもかかわらず、背後に、上のような思想に対するアンチテーゼを提示しようという意図を隠し持つ点で共通しているのである。
 つまり、全く皮肉なことに、この二つの文章は、そこに秘められた思想自体から、教師が教材の「内容」を生徒に「教える」、という一般的な授業のあり方を否定しているのである。とすると、上のような「共通点」を、この教材の「内容」として「教える」ことすら、これらの文章の思想と対立するものなのだ。
 もちろんこのような学習活動は、そのことを「教える」つもりなのではなく、それを体験させること自体に目的がある。
 教科書は「教える」ものではなく「使う」ものだ。

 追記
 明治書院の「現代文B」の教科書にも「絵はすべての人の創るもの」が収録されている。それは第一学習社の「高等学校 国語総合」所収の本文よりも後の部分までを収録してある。そこでは、岡本太郎はやはり鑑賞者自身の創作(実作という意味で)を勧めているのだった。
 だがもちろん上のような読解は、岡本太郎の思想を全体として知ろうとしているわけではなく、国語の学習として、テクストを、提示されている範囲で誠実に読もうと意図しているのである。したがって、この教科書を読む限りは、「旅する本」と関連させた上記のような読解は充分に妥当なものだと思われる。

2015年3月25日水曜日

「読み比べ」というメソッド 1 ~第一学習社「高等学校 国語総合」を使った授業

 昨年度、1年生相手に行った「国語総合」が予想外の充実した手応えだったので、そのまま流れ去ってしまうことが惜しくて、ちょうど去年の今頃、1年間の授業のことをまとめていた。
 とはいえ、それが何になるというあてもなかった。
 国語の授業案は、「使い回せる」ものが社会や理科や数学に比べて少ない。
 もちろん古典の教材や現代文でも「定番」と言われる教材についての授業案は「使い回せる」。ブログの開設後に展開していた「こころ」の授業などは、恐らくこの先も「使い回せる」。それは筆者一人にとってというだけでなく、「こころ」を授業で扱う教師(それはほとんどの高校国語教師を含む)にとってもそうだ。「曜日を特定する」などはそれを意識して書いてもいる。若い先生などに「使い回し」てほしいものだと思う。
 だがそうはできない授業も多い。内山節の「『おのずから』を感じ取る」などは「定番」とは言い難い。教科書が違えば教材の3分の2ほどは初めて出会う文章である。それを授業でどう扱うかは、その都度考えなければならない。だから、国語の先生は、おそらく数学の先生に比べて、はるかに授業準備に手間がかかっているはずである。
 だがもちろん、国語の授業は個々の文章の「内容」を教えるわけではない。「『おのずから』を感じ取る」を教えるわけでもないし、「こころ」を教えるわけでもない。ただそれらを使って、国語科の学習となる何事かを、生徒とともに「する」(あるいは生徒に「させる」)のである。そのための授業の方法論、メソッドは「使い回せる」。例えば「要約」や「段落分け」や「章題(小見出し)を付ける」などの作業は、よく知られたメソッドである。だが授業の大半を占めているであろう「発問」というメソッドは教材毎に考えなければならないから、「使い回す」にしてもやはり準備に手間のかかることは間違いない。

 さて、そうしたメソッドの中で、やはり手間はかかるに違いないが、やってみると面白く、学習としても有益であると思われるのが、以前から度々書いてきた「読み比べ」である。
 昨年度の授業が充実していたのは、この「読み比べ」にあたって、使用していた教科書の収録教材がきわめて有用だったことにも拠る。それは、あるときには奇跡的とも思える取り合わせだった。そしてそれは、どうやら、ほとんどの場合、編集部も気づいていない偶然によるらしいのである。
  この教科書は「教える」に適した教科書というよりむしろ「使う」に適した教科書なのである。

 これから何回かに分けて、1年間の授業で起こった、取り合わせの妙から生まれた化学反応の諸相を記録にとどめておく。

 使用する教科書は第一学習社の「高等学校 国語総合」である。

p.s
 投稿としては先行する「塩一トンの読書」についての記事は、これら第一学習社「高等学校 国語総合」の一年間の授業より後に行った授業について書いたものであり、そこでもまた、これから書く授業で読んだいくつかの文章と「塩一トンの読書」を「読み比べ」たのだった。

2015年3月9日月曜日

『Tightrope』

 映画『タイトロープ』。といってもクリント・イーストウッドのではない。前田日明がプロデュースしている格闘技イベント「THE OUTSIDER」の選手たちを追ったドキュメンタリー映画だ。「THE OUTSIDER」を見続けている(まあDVDレンタルでのみ、だが)身としては気になって、観てみた。
 面白かった。感動的だったとか、すごい、とかいうほどではないが、ドキュメンタリーをみる満足感は充分感じさせてくれた。
 強い感情の発露が観る者の心を動かす、ということは無論ある。そういう瞬間が捉えられれば、ドキュメンタリー作品はとりあえず成功だ(そういう瞬間をカメラが捉えるのはたぶん、難しい)。
 だがさらにいえば、平たく言えば「それぞれの人にはそれぞれの人生がある」である。スポーツ観戦をするにも、それぞれの選手の背景がわかると思い入れも深くなる。応援したり勝って喜んだり負けて悔しくなったり。「THE OUTSIDER」のDVDでも、試合の映像の前にはそれぞれの選手の紹介が収録されているのだが、毎度やりすぎなくらいの「物語」を作っている。かつて一世を風靡した「PRIDE」の、いわゆる「煽り映像」はそのレベルがきわめて高かったが、それは昔ながらのプロレスの「アングル(リング外でのストーリー展開)」の進化形だったのだろう。
 器用に作っているなあ、と思ったら、監督の本田昌広は劇映画を何本も撮っているベテランなのだった。
 ラスト近く、試合に負けてほどない若い選手が、職場の片隅で考え事を止めて、やおらシャドー・ボクシングをするシーンは美しい映像だった。

2015年3月8日日曜日

『川の底からこんにちは』

 最近は、初回以来、全くテンションを落とさない驚異的な『問題のあるレストラン』と、その宣伝のために再放送している『最高の離婚』の坂元裕二脚本の二作品と、受験が終わってリビングに長居することができるようになった娘と見始めた『THE WALKING DEAD』のシーズン3を見ついでいて、まとめて映画を観る時間をとれないのだが、その隙間を縫って、録画されているものを消化する。
 例によって事前情報なしの『川の底からこんにちは』。
 最初の方をしばらく観て、なんだこの脱力系の映画は、と、いったん止めて情報を集める。
 『舟を編む』は映画、原作ともに未見、未読だが、あれだけの評価なのだからそれなりなんだろうという期待もある。で、その石井裕也監督のデビュー作だというので続けて観てみた。
 だが、どうにもだめだった。これはきっと相性だ。ネットでは高評価の人も多い。誰の、どんな欲求に応えているんだろうなあ。どうもわからん。
 「しょうがない」という諦めの閉塞感から「しょうがない」から「がんばるしかない」という転換をするところにうまく気持ちが乗れれば面白く感じるんだろうと思うのだが、そこが乗れなかった。ただ言ってるだけ、という感じが拭えず。そういう、努力による事態の好転を説得力をもって描くのはきわめて難しいのだが、それができれば、そういう物語は大歓迎なのだが。
 もうひとつは、わざとハズしたギャグが面白いかどうかだが、これもまるで求めていない。この感じは『Party7』のどうしようもなさだ。
 ということで、相性、相性。

 ただ、最近「ウェディング・マッチ」「ごめんね青春」で、我が家での評価がうなぎのぼりの満島ひかりにかろうじて救われてはいた。強い感情を放出して、なおかつ観る者をそれにシンクロさせてしまうのが良い役者の条件のひとつなんだろうが、それができる人だ。そうした「熱演」を目指して空回りの絶叫系演技をしてしまう役者も多い中で。
 もちろんそれはそれを支える脚本と演出あってのことだが。それでもこの映画に関してはこの脚本と演出のひどさにもかかわらず、かろうじて満島ひかりが演技自体の力で無理矢理エネルギーを放出しているかのような印象があった。