2024年4月17日水曜日

『すずめの戸締まり』-「なかったこと」

 ロードムービー的なストーリー展開は『天気の子』よりよほど、見ている最中には楽しかった。一方で『天気の子』の、ほとんど唯一の魅力であるところの、後半にいくにしたがって高まる不穏な空気感は薄れた。本作の「みみず」には、あれほどの不穏な空気はない。『もののけ姫』の祟り神を連想させる(というかパクリと言っていい)描写だが、あれほどにはおどろおどろしくはない。なんというか、なんでもない、という感じ。大きな被害をもたらす、と説明されてはいるが、どうせ主人公たちはそれを食い止めるんだろうと高をくくっているから、それほど切迫感はない。

 そしてそれを食い止める手段は、「勇気を出して」戸の前まで行き、肉体的な力で「頑張って」戸締まりをしているだけのように見える。大災害を食い止めるのに、押しくらまんじゅうのような肉体的行為と歯を食いしばるがごとき頑張りがあるばかり。

 といって「死ぬのが怖くないのか」と問いかけられたヒロインが、なぜ「怖くない」のかわからない。震災を体験したというのがヒロインのキャラクターのバックボーンらしいが、それがこれほどの特異性を生んでいるという理屈がなんなのか、よくわからない。

 いくつもわからないことがあるが、最も大きな疑問はヒーローが、物語の初期段階で木の椅子に封じられてしまい、それ以降は映画の大半を動く椅子として行動することに、どんな面白さが想定されているか、ちっともわからないことだ。それでいて、ヒロインの動機の最大のものはヒーローに対する恋愛感情であるように描かれている。どこでどうしてそんな絆ができるような物語的な厚みがあったのかわからない。

 「イケメン」は命をかけるほどの動機をヒロインに抱かせるか?

 そうだとしても、それならなぜ大半は木の椅子にしてしまうのか?


 そもそも基本設定にも納得するような必然性がない。「みみず」は天災(を引き起こすもの)のメタファーだ。では要石は? 閉じ師は? 天災の発生を防ごうとしている要石が、人知れず天災の元凶たる「みみず」と戦っているという設定は、人間には何の意味ももたないし、閉じ師なる存在もまた同様。人間にとって天災は天災なのだから、それを防ぐことに人間が「努力」することはできない。人間にできることは、その被害を軽減したり復興に努めたりすることだけだ。要石や閉じ師が人知れず天災を阻止しようとしているのだとしても、それは人間には関係ない。結果的に阻止できたとしても、それは全く文字通り「なかったこと」でしかなく、そこには何のありがたみもないし、阻止できなかったことは、単なる「天災」なのだから、そこに秘められた戦いがあったかどうかは全く無意味だ。

 とすれば、これは一体どんな戦いなのか?

 例えば西洋ならばこういう戦いはすぐに神と悪魔の戦いということになるのだろうが、あれにはあれで共感できない。といって、本作の戦いがなぜ設定される必要があるのかはわからない。起こってしまった天災を「みみず」のせいだと考えたり、要石や閉じ師の敗北か怠慢だと考えることに何の意味があるのか全くわからないし、天災が起こっていないことを同様の原因に帰すことにも何の意味もあるとは思えない(西洋的な構図では神に感謝でもすればいいのだろうが)。

 ということで、基本的な設定に乗れない上に、展開上も腑に落ちないことばかり。

 それでも現実にヒットしているし。

 詰めかけた観客は一体何を面白がったのか。

2024年4月1日月曜日

『高速を降りたら』『ケの日のケケケ』『ある日、下北沢で』『島根マルチバース伝』

 年度末に放送された単発ドラマをまとめて録って次々と見た。

 どれも、それぞれに物語を作ろうとする脚本家の心意気があって、見始めてうんざりして止めるというようことはなかったが、どれも手放しで絶賛、残しておきたいと思えるようなものはなかった。が、こういうふうに物語を享受するのは精神の必須栄養素だという気もする。

 『高速を降りたら』は高速道路で東京から新潟に向かう車中の3人の男の会話劇。「男らしく」いたいと思いつつも情けない現実にどう折り合うか。3組の夫婦のそれぞれの事情が少しずつ語られていく。

 『ケの日のケケケ』はNHK創作テレビドラマ大賞作品の映像化(『高速を』の作者も以前の同賞の佳作受賞者だとか)。「不機嫌なモンスターにならないためには」というモノローグで始まるところにどきりとして、映像は実に映画的で美しい。感心して見ていたがどうも物語の感動が不足している。何だろう。感覚過敏の主人公という設定が斬新だともいえるが、「不機嫌」の原因がそうした、どうにもならない身体的な条件で、人物を巡る葛藤は思いのほか少ないのが致命的。唯一出てくる理解してくれない教師は類型的で無理があると思える。何か惜しい。あれだけの映像作品なのに。

 『ある日、下北沢で』は土岐麻子や曽我部恵一や西寺郷太が実名で出てきて、音楽も西寺というサブカル的内輪感に好感が持てないこともないが、いかんせん、物語は弱い。

 『島根マルチバース伝』は並行世界を体験できる装置で、いろんな可能性の世界を体験して、結局この現実で生きていくしかないという結論になる物語。「地方発ドラマ」という趣旨のシリーズとして「島根」という地方をフューチャーしているのだが、「この世界」と「この地方」が重なっているわけだ。