なるほど良い場面はある。1910年頃の光溢れる昼下がりの海辺はクラシカルな美しさで1980年の映画とも思えない。あるいは人物が画面の右側に不自然に寄っているなあと思っていると、画面の左側の空間に入っている人影が物語にからんでくるあたりは、一応映画の文法、効果を心得てる感じではある。音楽もたっぷりロマンチックで美しい。あるいは、少々の伏線回収もされていて、ああ、とも。
だが全体としては感心するのは難しい。
まず、自己催眠によってタイムリープするという設定は、斬新と言うには無理がありすぎてついていけなかった。あっさり成功するわけではなく、いちおうの苦労はしているが、それも頑張って自己暗示をしているわりには、成功するとあっさりと1910年に存在してしまう。そもそもやるのなら、最初のところで、もうちょっと行きつ戻りつの試行錯誤があれば、過去に行くことの不安定さが表現されて、そのサスペンスが、ポケットに入っていたコインによって現在に引き戻されてしまうという展開につながるはずなのに。
そして、エンディングのアンハッピーエンドも許し難い。これは好みの問題ではある。あの筋立てならば、喪失感を伴った現実への復帰でなければならないはずだ。
何より、「運命の出会い」に入り込めない。いきなり二人とものめり込みすぎだろ。肖像写真を見ただけの女優に惹かれて、現在を捨てて過去にタイムリープしてしまうには(確かにいささか、現在に倦んでいる様子は描かれるにせよ)、唐突すぎてノれない。相手の女優も、最初こそためらっているが、あれよとその気になって、どうにも「運命の人」という以上の理由付けはないのだった。
折しもテレビドラマの「ボク、運命の人です。」を見ているところなのだが、これは、神様に「運命の相手だ」と言われて出会う男女が、運命の計らいやら本人たちの努力やらで少しずつ距離を縮めていく話だ。距離の縮め方にはこれくらいのなじませ方が必要なのだ。
あるいは映画という長さならば『ローマの休日』はさすがにゆるぎなき名作だった。あれは「運命の人」というのとは違うが、1日という長さで惹かれ合っていく男女が充分に感情移入可能な必然性で描かれていた。もちろんそれはあの「休日」という特殊性にもよるのだが、それにしてもあの「喪失感を伴った現実への復帰」は見事だった。
本作がなぜそれを目指さずに、いたずらな悲劇でありながら、幻想の中でハッピーエンドにするなどと二重に許し難い結末にするのか、全く理解できない。