純粋に期待してとか流行に乗ってとかいうのではなく、いわば浮世の義理で映画館に行くことにした。
そうして、『破』と『Q』をもう一度見直して、レイトショーに行く。映画館に行くことも、それがレイトショーであることも、なかなか非日常で良い。そういうシチュエーションにワクワクしないでもない。
だが結局手放しで「良かった」とか「感動した」とか言う気になれずモヤモヤ。
とにかくわからないことだらけなので考察サイトなどあれこれ目を通したり。
これがまた「ああ、なるほど」となるわけでもない。
それは充分分かっても良いことなのに、観客がうかつだったからわからなかったのだ、と思い知らされるようなことではなく、推測に飛躍がありすぎて、信じていいかもわからず。「わかる」ことのカタルシスがない。
あまりにモヤモヤしたままなので、決着をつけるべくもう一度観に行く。『破』と『Q』と、テレビシリーズの何話かを見直しさえして。いろいろと前よりは「解る」ことで感動するようになったかといえばそういうわけでもなかったが、もうここまでにして、いい加減「感想」をまとめる。
同じ映画を映画館で二度観るのは「カメラを止めるな」以来だ。
そして始まる映画は、相変わらず目も眩むような高い技術のアニメーションに、文字通り目も眩むようでもある。オープニングのCGの戦闘描写などは。『破』『Q』と観てさえ、さらに上をいく自己ベスト更新といった感じだ。というか、現在のアニメのベスト更新と言っても良い。
ところが、オープニングが一段落して『Q』のラストの続きとなる「第三村」のくだりになると、いつもの「エヴァンゲリオン」の鬱陶しさでげんなりしてしまう。
一方に綾波擬きが人間らしさを取り戻していくほのぼの展開があるのも、そこが感動ポイントだとはわかるものの、どうも嘘くさいと感じてしまう。こんなに「古き良き」昭和な農村が、平成やら令和やら大災害やらを経て、あっさりと復活するなんて設定を、どうにも受け容れ難い。あのおばちゃんたちの、あまりに手垢のついた「昭和な」おばちゃんぶりは何事なのか。あっさりとみんな良い人に描かれて、その裏にある大災害の傷跡も見えない。そういうリアリティのなさに、気持ちが入っていかない。
そしてシンジの「失語症」描写にうんざり。
大災害はみんなにとって多かれ少なかれ傷を残しているはずで、シンジがとりわけそれを大きく受けているわけではない。それなのに、なぜそれが許されるのか。確かにアスカ(とトウジの義父)だけがそれを許しはしないが、そこだけに共感して、周りの人々に共感できない。その疑問に対し、本人が「なぜみんなこんなに優しいんだよ!」と叫ぶのは尤もだが、その答えとして「みんなあなたが大好きだからよ」に納得がいかない。
ここがもう観客として失格なのだ。シンジが好きでなければ観ていられない。だがどうしたら彼が好きになれるのか。
そうでない身に、一連の描写は耐え難い。放浪の末に「第三村」に到着するまでに何も飲まず食わずだったのか。そんなことがないとすれば、トウジの家で、義父の怒りをかってまで出された物を食べないとか、ケンケンの家でも、口に押し込まれるまで食べない、などという描写は、絶望による無気力を、わざわざそこだけ見せているということにしかならない。
そういうふうに見えるからうんざりするのだ。
言われるままに食べるものの、積極的に礼を言わない、とか口にして吐いてしまうとかいうさりげない描写によって、シンジの心の傷を描写するならばわかるが、辻褄の合わない非現実的な描き方が、共感を拒む(首輪を観て吐くのは、それはそれでお約束的過ぎて)。
「家出」をして廃墟で蹲って何日過ごすのかわからないが、そこでようやく泣きながら「食べる」という行為に至るものの、例えば座り続ければ単純にお尻が痛くなるんじゃないのか、とか、排泄行為はどうなっているんだろう、などと思ってしまう(プラグスーツは排泄物を処理してしまうのだろうか? そうかもしれない)。
つまり廃人のように落ち込むというのが、共感不可能なほどに「わざとらしい」のだ。実際はもっと間抜けなものではないのか。辛うじて生命維持を、言われるままにであれ為し続けて、その隙間に襲ってくる絶望の深さを描写する、というような描写があればそこに共感もあろうものを。
そこから「本隊」に復帰してからの展開にも、胸熱というより、わけのわからなさばかりが先行する。
ミサトに対して見せるシンジの大人の顔は悪くなかったが、何よりも戦闘の原理がわからない。
わからなくてもいいのだ、という説もあるのだが、原理がわからないとどういうふうに感情が動くべきなのかわからない。だから「考察」なのだが、上記の通りそこにも挫折したままで見ていると、この戦闘はどういう価値をめぐって、どういう力関係が均衡しているかが解らない。
物理的な感覚もわからない。例えばヴンターなどという巨大な戦艦が何かにぶつかることの衝撃がどのようなものか、見当もつかない。そもそも物理空間でもないらしいし。そうなると危機感が抱けない。焦燥感もない。これは毎度の「スーパーマン映画の不可能性」だ。
そうするとカタルシスもないことになる。
そして問題は闘う相手のゲンドウだ。
今回は「人類補完計画」が何やら明らかになったらしいが、それが解ってすっきりするより、それが個人的な動機だったらしいことが描かれることに心底がっかりした。個人を突き動かすものが個人的な動機であることは構わない。だがそこに実現されるべき価値は、そこにも一理あると思わせてくれないと。
この不満は近いところでは『新聞記者』でも強く感じた。
ゲンドウは、ある価値の実現に向けた冷徹な現実主義者で、そこに反発するにせよ打ち倒すにせよ、充分な強さを持っていなければ力が拮抗しない。そもそもが主人公側にまるで共感可能な価値の追求が見られないというのに、それが拮抗すべき敵が同程度に「子供」だったなんて、あれにどう感動すれば良いのかわからない。
理念よりも個人の感情が動機なのだというドラマツルギーは意識的なんだろうが、それにはノれない受け手なのだ(「進撃の巨人」がやはり個人の感情が選択の動機になっているにもかかわらず、その選択を受け止めざるを得ない厳しさで描かれていると感じるのは、やはりその力の拮抗において充分にバランスがとれているからだ)。
戦いが物理的なものではなく象徴的なものになった途端に、市街戦になったところで、一旦は「胸熱」になった。象徴的な虚構であることをことわって、やっぱり肉弾戦で市街戦だよなあ、と思ったら、ここは流麗なアニメーションかとおもいきや、CGがぎこちない。なんだろうと思ったら、これは意図的なのだ。「街が破壊される」のではなく、「模型が動く」。建物が壊れるのではく、散らかる。
あれっと思っていると、そのまま背景画を突き破って「スタジオ」空間に入ってしまう。
ああなるほど、こういうことにしたいのか、と思っていると例のテレビ放送を連想させる白黒の線画の試験的なカットを入れたりして、ラストは実写の市街地空撮に移行する。
このメッセージには共感できたし、その開放感は一度目に観た時にも悪くない印象だった。
しかしこれを本当に感動的な「卒業」と感じるためには、たぶんまず「入学」が必要なのだ。テレビシリーズから全ての劇場版まで観ているにもかかわらず、とうとう「入学」しないうちに「卒業」を迎えて、少しだけその開放感と喪失感を味わったものの、やはり決して良い観客ではないのだった。