2025年8月9日土曜日

『だから僕はあの人の真似をする』-皮肉

 知人の劇団の舞台は皆勤賞なのだが、毎年そのことを書き留めておくのを怠って、第2回以来の第7回公演。

 木下順二の『巨匠』という演目なのだが、これは以前から教科書の加藤周一の文章に言及があるので知っていた。行く直前に調べて、ああ、あれかと思い至った。

 ナチス支配下のポーランド。「知識人」を処刑しようとするゲシュタポの前で、旅回りの老俳優が、自分が「俳優」であるかどうかを証明しようとする。「俳優」ならば知識人として処刑されるが、当面の仕事である役所の簿記係ならば逃れられる。だが老人は自らが俳優であることを証明するために『マクベス』の一場面を演じて、処刑される。

 加藤周一の紹介に拠れば、老人が演じたのは、同じ場所にいた俳優志望の若者に、戦時下にあって失われない芸術を見せるためだという。だが実際のその場面にはとりわけそういった描写はなく、老人はもっぱら自らのアイデンティティの証明のために命をかけたように描かれている。老人は自分が俳優であることの証明として、有名俳優からの紹介状を持っていたのだが、それをドイツ将校に見せると、あっさり破り捨てられてしまう。その途端、自分が俳優であることを証明するために『マクベス』を演ずることを将校に申し入れる。アイデンティティの証明のために命をかける、という主題は明確であるように見える。

 だが、よく観てみると、老人は処刑のために外へ連れ出される際に、室内を振り返って若者を見る。長い間。その時に若者にも照明が当てられ、そこで何かの交感が生じていることが示される。なるほど、加藤周一の言っている、ポーランドの芸術の継承のために老人は演じたのだ、という解釈はそこから出てくるのか。

 芸術をはじめとする文化を破壊する者に抗して芸術の価値を宣言する声を聞き取ることができるのは、はからずも破壊者自身が芸術を理解することのできる目を持っていたからであるという皮肉。

2025年8月8日金曜日

短編舞台3本

 地区の高校演劇部の合同講習会に行くことになった。3日間連続で、初日に配られる台本を、3日目の最後に上演する。役者はもちろん、音響と照明も。ただし大道具チームの「箱」は一部、使われたようだが、脚本チームの脚本はこの3日間ではお披露目されず。

 門外漢なので、最後の舞台の感想のみ。

 3チームに分かれ、それぞれにシナリオが配られる。役者は各チーム20名ほど。音響と照明はそれぞれに各チーム5,6名か。それぞれに1,2名の先生が演出・指導にあたる。

 演目はそれぞれ30分程度。

 Aチームは、舞台上にコの字に並べられた椅子に全員が座って、その中の何人かが入れ替わりで前に出て、自分の経験した、他人とのすれ違いのエピソードを語る。母親との、ゲーム仲間との、恋人との。エピソードに関わる場面を演ずるために、舞台上のそれ以外の演者が随時前に出て場面を成立させるために協力する。ある時は関係する登場人物として、ある時は「群衆の声」として。ある時は「風」として(登場人物の服を引っ張ってはためかせることで「風」を表現する)。

 最後のエピソードは鎌倉遠足の班行動で迷子になる話。友達が先導する道が山に向かってしまい、すっかり登山になる。これは何か象徴的なことを意味しているのかと思うと、素直に遠足での迷子というエピソードなのだった。だが、大変な思いをして山の上まで出ると、眼下に鎌倉の街がひろがって、空に虹が架かるという結末が突然の救いとして憂鬱なこの物語を締めくくる。「空にかかった虹を私は忘れないだろう」というモノローグによって、そこまでの不愉快な感情のもつれが回収される見事な物語。

 終わってから聞いてみると、講習会に先立って生徒から「最近あった不愉快な出来事」を集めておいて、それを再構成したのだそうだ。特別な仕掛けが物語にとって必ずしも必要ではないという、ある種のお手本かもしれない。とにかく見る者の感情を逆撫でしておいて最後に順撫でして納める。 


 Bチームは鬼ヶ島に人間の大使館ができて、人間の高校生が鬼の高校に一人で転校してくる物語。参加の演者を、1クラスの生徒として全員使うことができる演目。前半は仲間はずれに負けずに関わろうとしながら、少しずつ信頼を勝ち取って鬼の高校生たちと合唱を実現する。そこで大団円かと思いきや、後半では人間の移住者が増えて、増えたからこそ融和しようとしない人間グループと鬼グループが対立するという展開。

 差別や争いといった普遍的なテーマが、現実のあれこれを連想させるように展開するのは見事だった。皮肉なのは、差別や争いを乗り越える象徴として世界中で演奏されるジョン・レノンの「イマジン」の「想像してごらん、国境なんてない」が、最後に「国境があった時には平和だったのに」と逆転されて語られることだ。理想としての共産主義に対して、共有地の悲劇を乗り越えるための分断の可能性が示唆される。ちょうど参院選で躍進した参政党が、外国人排斥ともとれる主張を「差別ではなく区別です」と説明していることなどを思い出す。

 高校演劇で有名な青森中央高校の作を短縮したものだそうだが、構造のわかりやすさはうまいが、時々、「言葉」に含蓄がなくて薄く感じられるのが残念だった。


 Cチームは横光利一の「蠅」の翻案。演者チームを二つに分けて、同じ物語を繰り返すのだが、2回目の方はパロディになって、観客の笑いを誘うことが狙いとなっている。

 これは残念ながら「蠅」の舞台劇化が適切かという問題と、単なるギャグになっていく後半が「楽しい」と感じられるかという好みの問題で、あまりのれなかった。


 それにしてもともかくも演劇を作り上げる現場は、観客として、というより、作っている生徒たちの充実感が伝わってくるから、良い体験だよなあと思える。