2025年8月31日日曜日

『僕らの力で世界があと何回救えたか』

 文化祭クラス演劇は、今年度2クラス。1年生クラスは本番で観るタイミングがとれないんで、通し練習の時にトリプルキャストのうち2回を観た。これはまあ今後に期待ということで、当日の方で何とか3年生のを。約90分の長丁場だが、この公演しかない、という回を。

 高羽彩という作家の『僕らの力で世界があと何回救えたか』は、題名からもう期待できる。タイムループかパラレルワールド設定に違いない。短い惹句からすると、そこに青春の喪失、的な要素もあるらしい。ますます期待に満ちている。

 さて実際にどうだったかというと、期待以上だった。文句なく素晴らしかった。脚本は、物語の起伏に満ちていて、サスペンスも、人物の葛藤も十分に描き込まれてエモーショナルでもある。世のほとんどの物語には、それはないだろうというような無理な展開や描写があるものだが、それもない。無理のない言葉で、豊かな物語が紡がれていく。

 そして、それを惜しみなく実現している役者陣が素晴らしい。頑張ってはいるが、惜しい、などと思う役者がいない。それどころか、演劇部でもない各生徒が、台詞回しのクリアさも自然さも感情表現も、驚くべき完成度で実現している。いや安易な形容ではなく、本当にこれは驚くべきことだ。そして驚くべきことにこれがダブルキャストだというのだ。

 舞台美術はシンプルそのもの。黒い布をかけた背景に、教室の机と椅子が数脚置かれているだけ。凝った大道具もなければ転換さえない。観客の想像力で物語を補完させる。文化祭で舞台美術に手がかかるのはリスクが大きい。それだけの人手が確保できるのかも、完成度が低いとマイナスになってしまうような要請も。それなしにできる物語は文化祭向きでもあった。

 そう、脚本選びは、文化祭で演劇を実行する上で決定的に重要な過程で、ここを安易にやり過ごしてしまうととても残念なことになってしまうのだが、この最初の条件を最高の形で乗り切った上で、その物語の可能性を十分に実現したクラスの力はいくら賞賛してもしたりない。

 これまで経験した数多くの文化祭クラス演劇というだけでなく、演劇部やアマチュア演劇、プロの舞台まで含めても出色の、最高級のエンタテインメントだった。


2025年8月19日火曜日

『スクリーム4.6』-堂々たる

 『スクリーム』第5作の面白さが忘れられず最新作が観たくなって、『6』を途中まで観て、どうにも『4』が見直したくなって、途中で『4』をまるまる見通し、その後で『6』の後半を見通す。一晩で2本。

 特に挟むような考察はない。ただ大満足だった。再鑑賞の『4』もやはり面白かったし、最新作の『6』も遜色ない。「パターン」を超えるような新展開があると毎回言っているが、まあ今回の、レギュラー陣がみんな生き残るはうれしいイレギュラーでもありつつ、まあそれほど驚くような展開ではなく、それよりもみんな刺されても元気すぎるだろ、というのがちょっとやり過ぎ感があるが、基本はハッピーエンドを歓迎したい。

 堂々たるエンタテインメント・シリーズ。

『恐怖のメロディ』-今となっては

 クリント・イーストウッド監督作はいずれコンプリートしようと、ようやく第一作を。

 主人公に対するストーカーの話だとは知っていたが、そのままそのとおりだった。そしてそれ以上に面白いわけでもなかった。残念ながら。たぶん、ストーカーが今ほど一般的でなかった頃にはそれなりに衝撃作ではあったのかもしれない。が、今となってはもはや、想像や期待までにも達しない。『13日の金曜日』『ハロウィン』的なホラーを「期待」してしまうせいかもしれない。最後は呆気ない、と言う感じ。『エスター』が比較に思い浮かんでいるせいか。

 確かにストーカー、イブリンのキャラクター造型はうまいといえばうまい。妄想と現実の境目が曖昧になって、バランスの良い現実的な判断ができなくなっていく過程とか。

 だが、完全に現実的な判断力を失わずに、それでも執着してしまうぎりぎりの線、イブリン主観ではなく、観客の共感が得られるバランスでストーキングが描かれればもっと面白くなるのではないかと残念。

 伏線を張ってそれを回収するシーンの衝撃など、うまいと思える展開はあるのだが、はやり時代の問題だと思われる。


2025年8月14日木曜日

『コラテラル』-驚くべき

 見放題終了につられて8年ぶりに見直してみた。いやはや驚くべき面白さだった。やはり。

 その素晴らしさは前回記事に詳しい。

2025年8月12日火曜日

『スクリーム(2022)』-満足の新作

 『スクリーム』シリーズ第4作の前作は2011年で、1から3までを見直した上で観たのは、ブログ開始前、10年以上前だった。娘と一緒に観たのは覚えているが、記憶力の良い彼女ほどにはこちらは詳細を覚えていない。ストーリーはもちろん、誰が犯人だったかも。ただ、おそろしく面白いシリーズであることは間違いなく、ウェス・クレイブンの評価は『エルム街の悪夢』よりもこちらの方で支えられている。

 さて、ウェス・クレイブン亡き後、シリーズとしては完全にそのままの設定で時間も経過して、シリーズのレギュラーも、生き残りはちゃんと出演するというサービス。

 シリーズの特徴である、映画内に、ホラー映画に対する批評を織り込むユーモアは健在で、そのための役割がちゃんと前シリーズオタク少年の姪という設定も楽しい。

 基本的には命を狙われる危機から逃れる、命をかけた鬼ごっこのサスペンスでできている物語なのだが、もう一つ、誰が犯人なのかという興味が物語を引っ張る。これも、このシリーズの特徴で、犯人を複数にしておくことで、あるエピソードではこの人を犯人候補から外すしかない、という推論が、結局全員を候補から外すことになってしまうという展開を実現している。うまい。

 好奇心も恐怖も、最後のカタルシスも文句のないレベルでできている。数々のフランチャイズムービーシリーズでも、外れのない良作。

2025年8月9日土曜日

『だから僕はあの人の真似をする』-皮肉

 知人の劇団の舞台は皆勤賞なのだが、毎年そのことを書き留めておくのを怠って、第2回以来の第7回公演。

 木下順二の『巨匠』という演目なのだが、これは以前から教科書の加藤周一の文章に言及があるので知っていた。行く直前に調べて、ああ、あれかと思い至った。

 ナチス支配下のポーランド。「知識人」を処刑しようとするゲシュタポの前で、旅回りの老俳優が、自分が「俳優」であるかどうかを証明しようとする。「俳優」ならば知識人として処刑されるが、当面の仕事である役所の簿記係ならば逃れられる。だが老人は自らが俳優であることを証明するために『マクベス』の一場面を演じて、処刑される。

 加藤周一の紹介に拠れば、老人が演じたのは、同じ場所にいた俳優志望の若者に、戦時下にあって失われない芸術を見せるためだという。だが実際のその場面にはとりわけそういった描写はなく、老人はもっぱら自らのアイデンティティの証明のために命をかけたように描かれている。老人は、有名俳優からの紹介状を肌身離さず持っていて、ことあるごとにそれを人に見せていたのだが、ここでも自分が俳優であることの証明としてそれをドイツ将校に見せると、あっさり破り捨てられてしまう。その途端、老人は自分が俳優であることを証明するために『マクベス』を演ずることを将校に申し入れる。アイデンティティの証明のために命をかける、という主題は明確であるように見える。

 だが、よく観てみると、老人は処刑のために外へ連れ出される際に、室内を振り返って若者を見る。その時に若者にも照明が当てられ、そこで何かの交感が生じていることが示される。長い間。なるほど、加藤周一の言っている、若者に見せるために、ポーランドの芸術の継承のために老人は演じたのだ、という解釈はそこから出てくるのか。

 芸術をはじめとする文化を破壊する者に抗して芸術の価値を宣言する声を聞き取ることができるのは、はからずも芸術を理解することのできる目を持っていたドイツ将校、つまり破壊者自身だったという皮肉。


2025年8月8日金曜日

短編舞台3本

 地区の高校演劇部の合同講習会に行くことになった。門外漢なので、最後の舞台の感想のみ。

 3日間連続で、初日に配られる台本を、3日目の最後に上演する。3チームに分かれ、それぞれにシナリオが配られる。役者は各チーム20名ほど。音響と照明はそれぞれに各チーム5,6名か。それぞれに1,2名の先生が演出・指導にあたる。

 演目はそれぞれ30分程度。

 Aチームは、舞台上にコの字に並べられた椅子に全員が座って、その中の何人かが入れ替わりで前に出て、自分の経験した、他人とのすれ違いのエピソードを語る。母親との、ゲーム仲間との、恋人との。エピソードに関わる場面を演ずるために、舞台上のそれ以外の演者が随時前に出て場面を成立させるために協力する。ある時は関係する登場人物として、ある時は「群衆の声」として。ある時は「風」として(登場人物の服を引っ張ってはためかせることで「風」を表現する)。

 最後のエピソードは鎌倉遠足の班行動で迷子になる話。友達が先導するコースが山道に向かってしまい、すっかり登山になる。これは何か象徴的なことを意味しているのかと思うと、素直に遠足での迷子というエピソードなのだった。だが、大変な思いをして山の上まで出ると、眼下に鎌倉の街がひろがって、空に虹が架かるという結末が突然の救いとして憂鬱なこの物語を締めくくる。「空にかかった虹を私は忘れないだろう」というモノローグによって、そこまでの不愉快な感情のもつれが回収される見事な物語。

 終わってから聞いてみると、講習会に先立って生徒から「最近あった不愉快な出来事」を集めておいて、それを再構成したのだそうだ。特別な仕掛けが物語にとって必ずしも必要ではないという、ある種のお手本かもしれない。とにかく見る者の感情を逆撫でしておいて最後に順撫でして納める。 


 Bチームは鬼ヶ島に人間の大使館ができて、人間の高校生が鬼の高校に一人で転校してくる物語(講習会参加の演者を、1クラスの生徒として全員使うことができる演目だ)。前半は仲間はずれに負けずに関わろうとしながら、少しずつ信頼を勝ち取って鬼の高校生たちと合唱を実現する。そこで大団円かと思いきや、後半では人間の移住者が増えて、増えたからこそ融和しようとしない人間グループと鬼グループが対立するという展開。

 差別や争いといった普遍的なテーマが、現実のあれこれを連想させるように展開するのは見事だった。皮肉なのは、差別や争いを乗り越える象徴として世界中で演奏されるジョン・レノンの「イマジン」の「想像してごらん、国境なんてない」が、最後に「国境があった時には平和だったのに」と逆転されて語られることだ。理想としての共産主義に対して、共有地の悲劇を乗り越えるための分断の可能性が示唆される。ちょうど参院選で躍進した参政党が、外国人排斥ともとれる主張を「差別ではなく区別です」と説明していることなどを思い出す。

 高校演劇で有名な青森中央高校の作を短縮したものだそうだが、構造のわかりやすさはうまいが、時々、「言葉」に含蓄がなくて薄く感じられるのが残念だった。


 Cチームは横光利一の「蠅」の翻案。演者チームを二つに分けて、同じ物語を繰り返すのだが、2回目の方はパロディになって、観客の笑いを誘うことが狙いとなっている。

 これは残念ながら「蠅」の舞台劇化が適切かという問題と、単なるギャグになっていく後半が「楽しい」と感じられるかという好みの問題で、あまりのれなかった。


 それにしてもともかくも演劇を作り上げる現場は、観客として、というより、作っている生徒たちの充実感が伝わってくるから、良い体験だよなあと思える。