2025年11月29日土曜日

『時をかける少女』ーさまざまな不満

 細田守作品としては、細かいテレビ作品やCMと今公開中の『果てしなきスカーレット』以外では唯一まだ観ていなかった大メジャー作品にして出世作を、ようやく。テレビで放送されるたび、場面場面は断片的に観ていたのだが、通して観たのは初めて。

 我々の世代はNHKの少年ドラマシリーズの「タイムトラベラー」から、思春期の角川映画の大林宣彦監督の原田知世主演版に続く「古典」作品として認識されているが、細田守作品としては、『オマツリ男爵』と『サマーウォーズ』の間だし、あちこちでも評判も良いから、と当然期待して観る。

 だが最近作に感じるのと同じような細かい違和感が積み重なってノれず、がっかりだった。なんということか。名作じゃなかったのか。

 全体としては、アニメ的面白さを出すためにリアリティが犠牲になることを厭わない演出がだめだった。そこらじゅうに突っ込みどころがあって、だがそれはアニメ的ということで不問に付すべき描写だと言いたいのだろう。だがそういうのがありすぎるともう感情移入もできず、醒めてしまう。例えば消火器を投げる場面で、やたらと重そうに持つ描写があるが、消火器が重量挙げのバーベルのように重かったら扱えないのだから、そんな描写は不合理だ。あるいは坂道で転がって擦り傷や打ち身ができるのはいいが、痛そうに見せるために転んだ直後に青あざや流血があるのは不合理だ。そういう突っ込みどころが無限にある。「劇的」だったり「可笑しさ」だったりとして見せようとするこういう描写が、「鬼太郎」や「デジモンアドベンチャー」ではかまわないのに、この、リアルであるべき物語で、かえって殊更にリアルに描かれてしまうから受け入れがたい。

 だいたい、主人公達の習慣となっている野球ごっこの設定も、受け入れがたいほど不合理で、どう受け入れて良いかわからない。あのグラウンドは何なのか、なぜよりによって三人でやるのは不便な野球なのか(卓球などではなく)。あるいはなぜ三人は部活をしないであんな習慣を身につけたのか。部活をやらないで帰り道に習慣で何かをするなら「セトウツミ」のように駄弁るか、ゲームでもしていればいいのだ。「桐島、部活~」のバスケットだって、それがどういう意味を持った習慣なのかに明確な論理があった。本作の野球は、たぶん、三人の良い思い出のような意味合いで捉えさせたいということなのだろうが、まるで不自然で、行動原理が読めない。何なんだこの人達は。

 いや、欠点をあげつらうより魅力だ。それも問題なのだ。

 タイムリープが主要設定なのに、それがどういう理屈で起こせるのか全くわからない。もちろん、タイムマシンの理論的説明などを求めているわけではない。物語内での法則性がわからないのだ。何だか助走をつけて高く跳躍すると時間を過去に遡るのだが、どういう跳躍が成功するのか、それくらいの時間を遡れるのか、そもそも最初の跳躍で、それが「方法」なのだとなぜ主人公が推測したのかもわからない。「跳びたい」という思いがあれば「時をかける」ことができるという「法則」を吞めと観る者に要求する。だが一方で、その跳躍はまるで切実ではない「くだらないこと」だとも言われている。それに有限の機能を使ってしまったことに後悔が描かれたりもしている。作品の論理が矛盾している。

 また、物語を駆動しているはずの「絵」がまるでそのような意味を持った絵に見えず、どういう理屈かもわからない。原作の、核戦争を防ぐためのタイムリープだという方がよくわかる。ケンソゴルが未来に帰るべき理由も切実だ。確か少年ドラマシリーズの最も感動的だったのは、別れた二人が再会しても、もう相手のことを忘れているというラストシーンだったような記憶があるのだが、本作の「別れる」は、それよりもずっと子供っぽい喪失感だ。もちろんそれは意図的でもあるようだし、それはそれで切なくに描かれてもいたのだが、問題は、主人公と未来人の関係は、そこまではそういうふうに描かれているか?

 最大の問題は、物語の論理を支えるべき千昭の魅力がまるで感じられないということだ。前半には存在感もなく、設定にまつわる伏線の描写もまるでない。ミステリーじゃないんだから、暗示や示唆があって、意外性がなくなることを危惧するより、真相がわかったときの納得感が全然ないことを危惧すべきなのに、その配慮があるようには見えず、実は…と語られても、物語的な納得感のないこと甚だしくて白ける。

 人物描写としても、未来人が現代に来て、そこでどんなふうに過ごしているかということに関する想像力がまったく欠如しているように見える。時代状況の違い、生活習慣の差異に彼がどう向き合っているのかとか、未来から来たという重要事が、人物の描写に全く反映していない。未来人が未来人に見えないのは、AIやアンドロイドがまるで人間にしか見えない問題と同様、物語の根幹に関わる世界観の甘さとしか思えない。そんな風に描くのなら、なんでAIだの未来人だの異星人だのを設定する必要があるのだ。

 背景美術や空間の手触り、細かい描写のうまさは圧倒されるほどなのに、それが物語の重要な要素として描かれるべき時には、かえって粗として意識されてしまう。良い脚本であってほしいとも思うが、演出としても、そうした弱さを自覚してほしかったと、今更20年近く前のメジャー出発点となる作品について残念がり、なおかつそれでもこれが評価されて後の成功のきっかけになるという不条理に居心地が悪い。


2025年11月1日土曜日

『シビル・ウォー アメリカ最後の日』-「面白い」

 アメリカ国内の分断とジャーナリズムの問題が重要だとは思いつつ、どちらもそれほどに深く刺さってはこなかった。日本国内に分断がないとは言わないが、武力衝突に発展する可能性はとりあえずなかろう。ジャーナリズムもやはり他人事感が強くて。どうみても戦場(というより戦闘の渦中)に深入りしすぎだろと思い、「やり過ぎ」と感じてしまった。

 それよりも、単に戦争というテーマがよく描けているなあ、ということでよくできた映画ではあった。戦争になると、なんであんなに、ある線引きで他人を人でないものとして扱えてしまうのか、と。演出も演技も撮影ももちろん一級品だから、そこはもう実に「面白かった」。

 それと、ロードムービー的な展開が面白さを感じさせるのだが、あれはなんでなんだろ。『すずめの戸締まり』の低評価の中で、その要素だけは買えた。物語に伴走したという記憶が残るせいだろうか。

『メイズ・ランナー』-期待ほどでは

 公開当時は観たいと思っていたが、その後長い間経ってようやく。謎の巨大迷路という設定がもうわくわくするんだが、実際観てみると作り物感が拭えず、それほどの異世界観でもなかった。人間ドラマとしても平板だった。

 全体の設定は大がかりな『CUBE』であり『約束のネバーランド』だった。限られた世界の中ではそれなりに面白く観られるが、外へ出てしまうといっそうチャチになってしまう前例があって、続編を見続ける気が起きにくいのだった。

『アウトブレイク』-パンデミックものとしては

 十数年ぶりに見直した。面白かった印象はあるが、なんとなく記憶している場面がなかったりして、まあ初見みたいな。

 とはいえ、パンデミックものとして『コンテイジョン』と並び称される本作は、パンデミックものの重厚感としては『コンテイジョン』に一歩譲る。その分、エンタテインメントとしてはサービス満点。会話の隅々までウィットに富んだやりとりで、脚本のうまさはさすがのハリウッド大作だと感心。とはいえ夫婦の危機が乗り越えられるのは好ましい味付けかもしれないが、ヘリコプターチェイスは不必要なアクションだと思われる。軍の陰謀との対決という構図も、古めかしい。

 それよりも真っ当にパンデミックというテーマを突き詰めてほしいと思ってしまったのは、コロナを経ての鑑賞だったからか。