山津波を描いた同名のディザスター・ムービーがあるようだが、そちらではない。確かにこんな一般名詞をそっけなくころがしておいたのでは、同名の映画ができてしまっても無理はない。この間の『Unknown』しかり。
とはいえこちらはドイツ映画で、原題もドイツ語。
有名な「看守と囚人」実験(スタンフォード監獄実験)をモデルにした映画は『es』『エクスペリメント』と観ているが、ネットで調べてみると関連してこの『THE WAVE』のこともしばしば話題にのぼっている。米カリフォルニア州サクラメント・カバリー高校教師の歴史教師、ロン・ジョーンズが1969年に行った「ザ・サード・ウェーブ」実験と呼ばれる試みを基にした映画だ。
元の実話は、組織的な「実験」というより、ある教師個人によるある種の教育「実践」だ。人はナチスのようなファシズムにどのように順応していくのか、という問題意識によって、集団主義的な統制による授業を試してみたところ、一週間のうちに高校生たちはすっかり「党」への忠誠心に支配され、それ以外の社会との間に様々な問題を起こしたという。
映画はこの「実践」の開始初日から、終了までの一週間の物語である。
ドイツ映画とはいえ、例のヨーロッパっぽさがなくてアメリカ映画のようだ。ファシズムをテーマにした物語ということで、そのことに特別な意味を見いだしたくもなるのだが、トルコ人が登場人物として配されるくらいで(それはそれで物語の重要な要素の一つではあったのだが)、アメリカでもドイツでも意識せずに見てしまえる。つまり「なんだかわからないヨーロッパ映画」としてではなく、エンターテイメントか、社会派の映画として観ても良さそうだという感触だったのだった。そういえば『es』もドイツ映画で、やはりアメリカの作品と同じように見られる感触だった。『ハンナ・アーレント』もそうか。
ということで怯まずに評価する。
さて、さまざまなことを考えさせられた。だが、映画として満足かと言えば、大いに不満足である。ネットでは絶賛の声も多いが、いいのか、あんなもんで?
最初は馬鹿にしていたファシズムに、生徒はすぐにのめりこんでしまう、というのが「実験」による知見のはずだが、映画を観ていてもどうにもそんな実感は得られなかった。一人、いじめられっ子として登場する一人の男子高校生がのめり込んでいく様子はそれなりに「わかる」と感じられたが、それ以外の大多数の生徒は、部分的には面白がったりするものの、到底「のめり込む」ような必然性を感じなかった。
最初のうちは、どこまで本気? というような感じでその実習に参加していく。教師を敬称付きで呼ぶことにせよ、直立不動で発言することにせよ、まあしょうがない、という感じで実行し始める。だがそれが生徒を惹きつけていく必然性が描かれているようには見えない。「しょうがない」のまま1日目を終えているように見えるのに、二日目にはノリノリになっている。どうも共感できない。
たぶん「恐怖」が描かれていないのだ。例えば、指示に対して気楽に応じていた生徒に対して、一応、学校という場における権威と、授業における約束が強制力を働かせて、気楽に構えていた生徒に、反抗することに対する思いがけない恐怖を感じさせられたら、その後でその支配に服することとそこから生まれる陶酔が描けそうなのだが、主人公の教師は、とりあえずそのように振る舞うものの、どうも本気らしく見えない。
たぶんそれは最初の設定で、彼が「独裁制」を選んだのが不本意だったからだ。物語の最初に、主人公は「無政府主義」の実習を希望しているが、それは年長の教師が先に授業計画を提出してしまい、心ならずも「独裁制」に回されることになる。その後、どこかで本気になったようにも見えない。とりあえず誠実に授業に取り組もうとは思っているらしいが、演技であれ何であれ「本気」を決意した描写がない。
実話の方では、教師自らの発案で実行している。本気で「独裁」したいと思わなくとも、その実験を成功させたいとは、本気で思うはずだ。映画ではその動機の強さがわからない。だから「そういうことになってるだろ?」といった曖昧な要請で生徒に指示しているように見えて、そこに「恐怖」が感じられない。
同時に、集団に所属すること、支配者に隷属することの陶酔も、なんだか唐突に生じているように見える。全員足踏みに興奮したくらいで、それはまあ退屈な授業より「面白い」ひとときではあったろうが、陶酔を生み出しているようには見えない。
「恐怖」が描けないのは、主人公の本気さの問題もあるが、日本の高校と、映画の中の高校の違いでもある。支配に「恐怖」が感じられるということは、支配に対する不満がありながら、不服従に伴う不利益が大きいということだ。支配をやすやすと受け入れるならば、あるいは不服従に不利益がないのなら「恐怖」は生じない。反抗的な不良男子生徒が気楽に、いつものように反抗すると、主人公がクラスから彼らを追い出す。あるいは理念的に、そういうやり方に賛成できない真面目な女子生徒がクラスから出ていく。
だが日本だったら、そこにはもっとはるかに大きな抵抗があるはずだ。社会的な進路の選択についても固定的だし同町圧力も強い。だから、教師の不愉快な命令に反抗することには多大な心理的エネルギーを必要とするはずで、だからそこには思い切った行動をとることに対する「恐怖」が生ずる。いわば保身の為に生じたそうした恐怖の代償として、それ以降の隷属に積極的に身を任せてしまうということは大いにありそうなのだが、そうした前提が、この映画にはない。
だから、前述の、カースト下位の男子生徒についてはわかるものの、全体としては「こういうことってありそうだよなあ」というような観客の恐怖にはつながらないのだ。
ところで彼についてはなぜわかるのか。それはいわゆる「スクールカースト」という制度・体制が、ファシズムという、支配者の下でのある意味での平等によって消滅したことによって、新たな自己承認が可能になったからだ。だからそうした体制が崩壊して、またもとのカースト制度に戻ることが彼には耐えられない。
だから彼のエピソードについては実に巧みに、劇的に描かれていたと思う。演じていた役者の演技も素晴らしかったし、カタストロフの会場の描写も見事だった。
さて、不満はまだある。
映画にリアリティを感じなかったのは、こうした「実習」がどんなふうに運営されているのかがどうもよくわからなかったことにもよる。高校における、こうした「実習」というのがどうも想像しにくい。日本でも「総合的な学習の時間」とか、コース制のある学校での「実習」にはそれに類する試みを実施する余地はあるのかもしれないが、映画のように継続的な授業の枠で、しかも専門性のない教師がそれを担当するという設定に無理があると感じた。
元になった実話では、実施したのは歴史教師だ。だが映画では「短大出の体育教師」という設定だった。これは教師集団における彼の劣等感がこの実習に彼をのめりこませたのだと、行為の必然性の根拠になっている。そこは一応「考えて」あるのだ。
だが「短大出の体育教師」にこうした実習をすることに無理がある。さて、「独裁制」を実習で学びましょう、といって、何をするというのだ。歴史教師がさまざまな歴史的エピソードをロールプレイングしようということなら、企画は立ちうる。だがそんな専門性がないはずの「短大出の体育教師」に何ができるのか。だから、具体的に、生徒がのめりこんでいく過程がわからなかった。
同時に、むしろ「体育教師」になら「独裁制」の実習も可能なはずだ。それを実行している運動部顧問が、日本にもしばしばいる。映画の中で描かれる水球チームの指導でこそ、それを日常的に行っていても良さそうなもんだ。そこでは実行できないから2流コーチだったのが、「実習」を通して、そちらもうまくいくようになった、というような展開には、残念ながら映画の一週間の中ではならなかった。
さて、ネットで見る「実話」は、もっと面白くなりそうな想像をかきたててくれる。
ネットの記述によると、こうした「実習」を始めたところ、生徒の成績が向上したという。これはどういうことだろう。1週間のうちに向上が表れるような「成績」とは何のことだ? しかもそれは「実習」を実施していないクラスとの比較でなければならないはずだ。どういう形でそうした成績が評価されるのだろう。
ともあれ、これは描かれなくてはならない。ドイツの快進撃がなければナチス・ドイツは国民に支持されなかったはずだ。
だが映画ではそれはどのように描かれていたのか。
こうした全体主義的統制は、ある面では成功をもたらすはずだ。「良い先生」「カリスマコーチ」はヒトラーと同一線上にいるのかもしれない。
基本的には良くできた、面白い映画だと言っていいのだろう。だが、関心があるからこそあれこれ考えさせられもし、不満も言いたくなってしまうのだ。
2017年9月29日金曜日
2017年9月28日木曜日
『Unknown』-DVDの再生不良で
オススメのソリッド・シチュエーション・スリラー映画とかなんとかいうサイトで紹介されている映画をTSUTAYAで探して。
『Unknown』という題名の映画は二本あり、そういえばリーアム・ニーソンの方は観たことがあるのだった。あれっ? ここ3年のうちではないのか? そんなに昔ではない気がするのだが。
さて、大作のあちらと違って、こちらはSSSだから金はかかっていない。
…はずなのだが、始まって早々に閉鎖空間以外の展開が並行して描かれ、思いの外、金がかかっているじゃないかと思い直される(ま、といってやはり大作ではない)。
この、SSSなのにそれ以外の展開が挿入されるパターンは『Saw』だし『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』だし(同じプロデューサーなのだっけ)。
これは基本的に物語を立体的にする、良い構成だ。
加えて今作は、閉じ込められた5人が皆、薬品の影響で記憶を失っており、徐々によみがえる記憶がフラッシュ・バックすることで、さらに立体感を増す。
なかなかよくできていると思いながら見ていると、最後の15分くらいでDVDの再生が不良となり、よくわからないうちに終わってしまった。
なんてことだ!
観ていて、物語を面白くする上で、こうした方がいいだろうな、というアイデアが二つ、ただちに思いつく。
記憶が戻るにつれて、ただ真相が明らかになっていく、というだけはつまらない。観客に対して、こういう物語なのだろうという「真相」をミスリードしておいて、それをひっくり返す、いわゆるどんでん返しはぜひ必要。『メメント』とか『マニシスト』がそうだったっけ。
今作でも、どんでん返しは仕掛けられていたらしいが、どうなんだろ。どの程度の仕掛けだったものやら、
もう一つは、記憶を失っている状態でとりあえず助け合って脱出しようとしているうちに生まれた、いわば「ストックホルム症候群」のような仲間意識が、記憶が戻ってからの現実と齟齬を起こしつつ、現実の方を凌駕する、というような展開があるといいなあ。
観客にとっては映画が始まってからが世界の始まりだから、彼らは「仲間」なのだ。「仲間」になったのだ。それが「真相」をひっくり返す、というような構造には快感がありそうだ。
今作がそうなっていたのかどうかも、やっぱり未確認なのだった。
残念。
『Unknown』という題名の映画は二本あり、そういえばリーアム・ニーソンの方は観たことがあるのだった。あれっ? ここ3年のうちではないのか? そんなに昔ではない気がするのだが。
さて、大作のあちらと違って、こちらはSSSだから金はかかっていない。
…はずなのだが、始まって早々に閉鎖空間以外の展開が並行して描かれ、思いの外、金がかかっているじゃないかと思い直される(ま、といってやはり大作ではない)。
この、SSSなのにそれ以外の展開が挿入されるパターンは『Saw』だし『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』だし(同じプロデューサーなのだっけ)。
これは基本的に物語を立体的にする、良い構成だ。
加えて今作は、閉じ込められた5人が皆、薬品の影響で記憶を失っており、徐々によみがえる記憶がフラッシュ・バックすることで、さらに立体感を増す。
なかなかよくできていると思いながら見ていると、最後の15分くらいでDVDの再生が不良となり、よくわからないうちに終わってしまった。
なんてことだ!
観ていて、物語を面白くする上で、こうした方がいいだろうな、というアイデアが二つ、ただちに思いつく。
記憶が戻るにつれて、ただ真相が明らかになっていく、というだけはつまらない。観客に対して、こういう物語なのだろうという「真相」をミスリードしておいて、それをひっくり返す、いわゆるどんでん返しはぜひ必要。『メメント』とか『マニシスト』がそうだったっけ。
今作でも、どんでん返しは仕掛けられていたらしいが、どうなんだろ。どの程度の仕掛けだったものやら、
もう一つは、記憶を失っている状態でとりあえず助け合って脱出しようとしているうちに生まれた、いわば「ストックホルム症候群」のような仲間意識が、記憶が戻ってからの現実と齟齬を起こしつつ、現実の方を凌駕する、というような展開があるといいなあ。
観客にとっては映画が始まってからが世界の始まりだから、彼らは「仲間」なのだ。「仲間」になったのだ。それが「真相」をひっくり返す、というような構造には快感がありそうだ。
今作がそうなっていたのかどうかも、やっぱり未確認なのだった。
残念。
2017年9月22日金曜日
『花とアリス殺人事件』-面白さに満足
この間の『打ち上げ花火~』の流れで、未見だった『花とアリス殺人事件』を見た。
確かロトスコープを使ってるんだっけと思いながら、なんだかアニメの「ピーピング・ライフ」を思い出しながら見ていた。
あちらは人物をCGで動かしているんだろうが、なんだろう、セリフの生っぽさが先にある感じが似ているのか。ロトスコープも、生身の人間が演じている「間」が、なんともいえずおかしみを生んでる。「ピーピングライフ」も、たぶんセリフの収録が先で、後から人物を動かしてるんだろうという気がする。
笑いの感じも似ていると言えば似ている。
ということはつまり、映画的な特別さはそれほどなかったのだった。岩井俊二が作る「世界」とでもいうような、特別な時空間があるというような感じは。
それでがっかりしたかといえばそんなことはない。充分に面白かった。蒼井優のアリスは、中学生にしてはいささか声が老けているが、とぼけていたり、そのわりに激しいリアクションがあったり、面倒くさがったり活動的だったり、観ていて実に面白いキャラクターだった。
どうして登場シーンがアンバランスなのかとは思ったが、鈴木杏の花の方も、後半に出てきて結局すっかりアリスに並んでしまう存在感が『花とアリス』だなあ、と満足。
あの強烈な「むつむつみ」は何だか知っているような気がすると思ったら鈴木蘭々か! そういえば「Love Letter」に似たようなキャラクターで出てたっけ。
ロトスコープの効果だかなんだか、アリスが街中を走っているシーンが、ただその映像だけで劇的なのはなんなんだろうな。
確かロトスコープを使ってるんだっけと思いながら、なんだかアニメの「ピーピング・ライフ」を思い出しながら見ていた。
あちらは人物をCGで動かしているんだろうが、なんだろう、セリフの生っぽさが先にある感じが似ているのか。ロトスコープも、生身の人間が演じている「間」が、なんともいえずおかしみを生んでる。「ピーピングライフ」も、たぶんセリフの収録が先で、後から人物を動かしてるんだろうという気がする。
笑いの感じも似ていると言えば似ている。
ということはつまり、映画的な特別さはそれほどなかったのだった。岩井俊二が作る「世界」とでもいうような、特別な時空間があるというような感じは。
それでがっかりしたかといえばそんなことはない。充分に面白かった。蒼井優のアリスは、中学生にしてはいささか声が老けているが、とぼけていたり、そのわりに激しいリアクションがあったり、面倒くさがったり活動的だったり、観ていて実に面白いキャラクターだった。
どうして登場シーンがアンバランスなのかとは思ったが、鈴木杏の花の方も、後半に出てきて結局すっかりアリスに並んでしまう存在感が『花とアリス』だなあ、と満足。
あの強烈な「むつむつみ」は何だか知っているような気がすると思ったら鈴木蘭々か! そういえば「Love Letter」に似たようなキャラクターで出てたっけ。
ロトスコープの効果だかなんだか、アリスが街中を走っているシーンが、ただその映像だけで劇的なのはなんなんだろうな。
2017年9月20日水曜日
『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作
ベン・アフレックとサミュエル・L・ジャクソンだから、悪い映画ではなかろうと、それ以外の予備知識なしで録っておいたのだが、いやこれは拾い物だった。
髭のないベン・アフレックはこんな間延びした顔だったんだな、などと呑気に観始めたのだが、ソツのない描きぶりにあれよと見続けてしまう。
ベンの弁護士とサミュエルの元アル中の保険外交員が、ハイウェイでの車線変更(チェンジング・レーン)がきっかけで接触事故を起こす。ベンは裁判に必要な書類を事故現場に置き忘れ、車の動かなくなったサミュエルは子供の親権をめぐる裁判に遅れて親権を失う。そこから要求と互いの行為への怒りが、脅迫や嫌がらせの応酬にエスカレートしつつ、それぞれの人生に対する見直しへとスライドしていく。
次々と展開するお話をコントロールする脚本の出来には脱帽。これだけのスピード感で、これだけ起伏のあるエピソードを次々と詰め込んで、そこにどんな感情を付加していくかを充分に計算している。事態の収拾をはかろうとあがいたり、相手への怒りのあまり報復してそれを台無しにしたり、それでも反省して自分の人生を良いものにするために努力したり、それぞれの行動に充分の動因が働いている。
そしてそのストーリーを描くための演技も演出も編集も文句のつけようのないうまさだ。親権を得るために戦うはずだった裁判に備えて、車の中で考えていた口上を言う間もなく裁判が終了し、それでも虚しく、芝居がかった口上を言いかけるが、無情にも裁判官に遮られてしまうシーンの滑稽さと哀しさ。裁判官がまったく自然な仕事ぶりをする常識人で、悪役なぞに描かれないバランス感覚。失意のサミュエルが、ベンの必要とするファイルを、裁判所入口のゴミ箱に投げ入れるシーンに観客が感じる焦燥の強さ。
裁判事務所の共同経営者としての成功を守るか、倫理的な満足を選ぶかという選択は、それこそ「羅生門」のような観念的で、まるで現実感のない問題設定と違って、その成り行きに感情移入してドキドキした。依頼人の財団からの詐取の首謀者、事務所の上司である義父を演ずるシドニー・ポラックがまた良い。許される行為ではないはずなのに、自分の行為に対する信念の揺らぎはない。自分が救っている人間の方が多いという確信が自分の行為を支えているという哲学を語る場面は迫力があった。
そして最初の車線変更が、最後には人生の車線変更へとつながる物語全体の構成は、本当に見事だった。最後のハッピーエンドを甘くなく描くことのできるバランス感覚は驚嘆すべきものだ。
これがまたなんともはや呆れたことにネットでの評価は賛否半ばするのだった。口を極めて酷評する人も多い。
登場人物たちが不愉快?
もちろんわが身可愛さの保身も感情的な嫌がらせも醜い。
一方で可能な限り紳士的に、常識的に振る舞おうとする努力も描かれていて、選択の難しさは充分描かれている。
話の展開が退屈?
あれほどの起伏と速度で展開するストーリーが退屈?
いやはや、人の感じ方はこんなに理解しあえないものなのか。
そうすると先日の『打ち上げ花火~』も、あれに感動したり面白がったりする人もいてもおかしくないわけだ。
髭のないベン・アフレックはこんな間延びした顔だったんだな、などと呑気に観始めたのだが、ソツのない描きぶりにあれよと見続けてしまう。
ベンの弁護士とサミュエルの元アル中の保険外交員が、ハイウェイでの車線変更(チェンジング・レーン)がきっかけで接触事故を起こす。ベンは裁判に必要な書類を事故現場に置き忘れ、車の動かなくなったサミュエルは子供の親権をめぐる裁判に遅れて親権を失う。そこから要求と互いの行為への怒りが、脅迫や嫌がらせの応酬にエスカレートしつつ、それぞれの人生に対する見直しへとスライドしていく。
次々と展開するお話をコントロールする脚本の出来には脱帽。これだけのスピード感で、これだけ起伏のあるエピソードを次々と詰め込んで、そこにどんな感情を付加していくかを充分に計算している。事態の収拾をはかろうとあがいたり、相手への怒りのあまり報復してそれを台無しにしたり、それでも反省して自分の人生を良いものにするために努力したり、それぞれの行動に充分の動因が働いている。
そしてそのストーリーを描くための演技も演出も編集も文句のつけようのないうまさだ。親権を得るために戦うはずだった裁判に備えて、車の中で考えていた口上を言う間もなく裁判が終了し、それでも虚しく、芝居がかった口上を言いかけるが、無情にも裁判官に遮られてしまうシーンの滑稽さと哀しさ。裁判官がまったく自然な仕事ぶりをする常識人で、悪役なぞに描かれないバランス感覚。失意のサミュエルが、ベンの必要とするファイルを、裁判所入口のゴミ箱に投げ入れるシーンに観客が感じる焦燥の強さ。
裁判事務所の共同経営者としての成功を守るか、倫理的な満足を選ぶかという選択は、それこそ「羅生門」のような観念的で、まるで現実感のない問題設定と違って、その成り行きに感情移入してドキドキした。依頼人の財団からの詐取の首謀者、事務所の上司である義父を演ずるシドニー・ポラックがまた良い。許される行為ではないはずなのに、自分の行為に対する信念の揺らぎはない。自分が救っている人間の方が多いという確信が自分の行為を支えているという哲学を語る場面は迫力があった。
そして最初の車線変更が、最後には人生の車線変更へとつながる物語全体の構成は、本当に見事だった。最後のハッピーエンドを甘くなく描くことのできるバランス感覚は驚嘆すべきものだ。
これがまたなんともはや呆れたことにネットでの評価は賛否半ばするのだった。口を極めて酷評する人も多い。
登場人物たちが不愉快?
もちろんわが身可愛さの保身も感情的な嫌がらせも醜い。
一方で可能な限り紳士的に、常識的に振る舞おうとする努力も描かれていて、選択の難しさは充分描かれている。
話の展開が退屈?
あれほどの起伏と速度で展開するストーリーが退屈?
いやはや、人の感じ方はこんなに理解しあえないものなのか。
そうすると先日の『打ち上げ花火~』も、あれに感動したり面白がったりする人もいてもおかしくないわけだ。
2017年9月19日火曜日
『野火』 -ゆっくりと血肉化していけば
このタイミングでこの映画を観るつもりになったのは、先日「羅生門」論の中で大岡昇平の『野火』に触れたものの、実は未読のはったりであることに後ろめたさもあり、といって小説を読むより先に以前から気になっていた塚本晋也版『野火』を観ることにした、という情けない事情による。
さて、ブログを検索してみると、塚本晋也はここ3年見ていなかったのだな。『HAZE』や『悪夢探偵』を観たのはそんな以前とは思えないので、たぶん3年よりちょっと前。
本作は、そんな塚本晋也監督作品で、大岡昇平の原作も、話の枠組みは知っている、という限りにおいて、想像を超える映画とは思えなかった。
「想像」というのは「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」といった評価の枠組みであり、それらは無論高いレベルで描かれている。だが、それ以上のものを見せてくれるのでは、という期待をしてしまっていたのが、そうでもなかった。
ジャングルなどの自然の美しさが、ちゃんとそれと感じられるくらいの映像で描かれ、それと戦争の対比はいい。役者たちの醸し出す味も充分味わい深い。監督自ら演ずる主人公が所謂「鬼気迫る」演技をするのも、リリー・フランキーが、どうして本職じゃないのにこんなにうまいのかと思うようなとぼけた狡猾さ、憎たらしさを出しているのも評価できる。中村達也はもともと良い顔をした人だったが、これもミュージシャンの余技とは思えない存在感だった。
だがそこで評価すべき映画ではないはずだ。この映画はやはり「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」…をこそ真っ当に感じさせるべきであり、それは確かに成功している。ネットの反応では、そもそもそれを見たがる人による評であるせいか、総じて高い評価を得ている。
それでも、それ以上、ではなかった。
たとえば、以前の作戦の失敗か、兵士の死体がごろごろと転がったままのフィールドを越えて向こうに行かねばならない作戦を実行に移すべく夜になるまで待った主人公たちが、闇に紛れてようやく動き出すと、いきなり目映いライトが点いて一斉射撃を受ける。その緩急は映画的には上手いなあと思う。
だが、それに続く過剰な阿鼻叫喚の地獄絵図は想像のうちだ。塚本晋也ならそれくらいやるだろうと思う。
つまり地獄絵図の過剰さでは「リアル」とか「狂気」は描けないのだ。その描写はよく思いついたなあ、とか、おお、よくできてるじゃん、とか、むしろ不謹慎な感想を抱いてしまう。だからネットにあるような「トラウマになりそうな…」といった感想はなかった。
エピローグの、日本家屋の静謐と戦場の落差はすごかったが、そこでのトラウマは、やはり見たことのあるような場面に感じた。同時に、それもまた過剰だと感じた。あれが毎晩のことなら日常への復帰はできていないというべきだ。
だからそれは、それができている人のリアルではない。
映画から受ける感銘より、むしろ公式HPのメイキングの方が面白かった。困難の克服というありふれたドラマツルギーが、ちゃんと読む者を面白がらせてくれる。
同時にこの映画を応援したいという感情も高まる。
恐らく、「戦争」について考える時、折に触れ思い出して、ゆっくりと血肉化していけばいいのだろう。それが擬似的であれ、徐々に体験として定着しくように。
さて、ブログを検索してみると、塚本晋也はここ3年見ていなかったのだな。『HAZE』や『悪夢探偵』を観たのはそんな以前とは思えないので、たぶん3年よりちょっと前。
本作は、そんな塚本晋也監督作品で、大岡昇平の原作も、話の枠組みは知っている、という限りにおいて、想像を超える映画とは思えなかった。
「想像」というのは「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」といった評価の枠組みであり、それらは無論高いレベルで描かれている。だが、それ以上のものを見せてくれるのでは、という期待をしてしまっていたのが、そうでもなかった。
ジャングルなどの自然の美しさが、ちゃんとそれと感じられるくらいの映像で描かれ、それと戦争の対比はいい。役者たちの醸し出す味も充分味わい深い。監督自ら演ずる主人公が所謂「鬼気迫る」演技をするのも、リリー・フランキーが、どうして本職じゃないのにこんなにうまいのかと思うようなとぼけた狡猾さ、憎たらしさを出しているのも評価できる。中村達也はもともと良い顔をした人だったが、これもミュージシャンの余技とは思えない存在感だった。
だがそこで評価すべき映画ではないはずだ。この映画はやはり「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」…をこそ真っ当に感じさせるべきであり、それは確かに成功している。ネットの反応では、そもそもそれを見たがる人による評であるせいか、総じて高い評価を得ている。
それでも、それ以上、ではなかった。
たとえば、以前の作戦の失敗か、兵士の死体がごろごろと転がったままのフィールドを越えて向こうに行かねばならない作戦を実行に移すべく夜になるまで待った主人公たちが、闇に紛れてようやく動き出すと、いきなり目映いライトが点いて一斉射撃を受ける。その緩急は映画的には上手いなあと思う。
だが、それに続く過剰な阿鼻叫喚の地獄絵図は想像のうちだ。塚本晋也ならそれくらいやるだろうと思う。
つまり地獄絵図の過剰さでは「リアル」とか「狂気」は描けないのだ。その描写はよく思いついたなあ、とか、おお、よくできてるじゃん、とか、むしろ不謹慎な感想を抱いてしまう。だからネットにあるような「トラウマになりそうな…」といった感想はなかった。
エピローグの、日本家屋の静謐と戦場の落差はすごかったが、そこでのトラウマは、やはり見たことのあるような場面に感じた。同時に、それもまた過剰だと感じた。あれが毎晩のことなら日常への復帰はできていないというべきだ。
だからそれは、それができている人のリアルではない。
映画から受ける感銘より、むしろ公式HPのメイキングの方が面白かった。困難の克服というありふれたドラマツルギーが、ちゃんと読む者を面白がらせてくれる。
同時にこの映画を応援したいという感情も高まる。
恐らく、「戦争」について考える時、折に触れ思い出して、ゆっくりと血肉化していけばいいのだろう。それが擬似的であれ、徐々に体験として定着しくように。
2017年9月17日日曜日
『人狼ゲーム -クレイジー・フォックス』-根本的なジレンマ
『人狼ゲーム』シリーズは、どうも2作目の『ビースト・サイド』の評判が高いらしいのだが、行きつけのTSUTAYAになく、3作目の『クレイジー・フォックス』を借りてきた。
『ファイナル・ディスティネーション』シリーズと同じく、観始めることに対するハードルが低いから、借りてきた数枚のうち、どうも先に観てしまう。
さて1作目の『人狼ゲーム』はなかなか悪くなかった。それに比べるとこの3作目はまるで食い足りない出来だった。サスペンスにしろ頭脳戦にしろ、人間ドラマにしろ、全体に薄味。無名新人俳優たちの演技は総じて悪くなかったから、そのあたりの演出はいいのだが、やはり脚本の工夫が足りない。
最もサスペンスを盛り上げるはずの、「誰が3人目の人狼なのか」という謎も、当の「人狼」がシルエットで登場して、別の人物に「お前かよ」と言わせておいて、さてそこから引っ張るのかと思ったら、すぐあとのシーンで正体を明かしてしまう。
「人狼ゲーム」自体の経験は相変わらずないので、どのあたりが実際のゲームの勘所なのかはわからない。しかもそれを現実世界に移植した場合におこる変数の高次元化を、どこまで論理的に整合させているかは、正直頭が追いつけない。
だが『サクラダリセット』がやっているようには緻密な論理構成をしていなさそうなのはわかる。
例えば、各自がカードを見るときに「他人に見せても知らせてもいけない」というルールがあったって、現実に同じ部屋で一斉に見たら、横から見えてしまったり、思わず口に出したりしてしまうとかいう事態が当然起こるはずだ。それが起きないことになっている。それを防ぐ手だてが主催者側から図られているという説明もない。
あるいは夜、人狼が村人を殺しに行く時には大騒ぎをしているのだから、当然みんなに正体が知れてしまうはずなのだが、それもないことになっている。人狼が村人を殺すったって、ゲームとして「殺した」ことになっているというのと違って実際に人狼女子が村人男子を殺すことができるものか。それを可能にする設定をしないのはやはり物語の手抜きだ。
ゲームとしての「人狼ゲーム」は、参加者が進んで参加しているから、メンバーはルールを把握したうえで、ルールを守ろうという動機付けが強く、しかも架空の設定で展開してるのだからルールも守りやすい。
ところが映画ではルールも知らないメンバーが、進んで参加しているわけでもない、現実の空間で展開するゲームだから、ルールの破綻は容易いはずだ。それなのに、それは起こらないことになっている。つまりゲームのルールを現実に適用するためのハードルが考慮されていないのだ。
これがこの映画(原作も含めて)の根本的なジレンマだ。ゲームが現実に起こったとすると、そこに参加した人間にとってそれがどれほど過酷なものになるか、というのがドラマの動因になるはずなのに、それを現実的に引き起こすために解決しなければならない問題を無いことにしているから、結局、肝心のゲームを、いかにも作り物の「ゲーム」としてしか展開させられていないのである。
そうしたジレンマを本気で解消しようというほどの意志は、この制作者たちにはないのだった。1作目について書いた時の期待は、結局かなえられず、それでも「期待」を抱けた1作目に比べて、失望に終わった本作にはがっかりせざるをえないのだった。
『ファイナル・ディスティネーション』シリーズと同じく、観始めることに対するハードルが低いから、借りてきた数枚のうち、どうも先に観てしまう。
さて1作目の『人狼ゲーム』はなかなか悪くなかった。それに比べるとこの3作目はまるで食い足りない出来だった。サスペンスにしろ頭脳戦にしろ、人間ドラマにしろ、全体に薄味。無名新人俳優たちの演技は総じて悪くなかったから、そのあたりの演出はいいのだが、やはり脚本の工夫が足りない。
最もサスペンスを盛り上げるはずの、「誰が3人目の人狼なのか」という謎も、当の「人狼」がシルエットで登場して、別の人物に「お前かよ」と言わせておいて、さてそこから引っ張るのかと思ったら、すぐあとのシーンで正体を明かしてしまう。
「人狼ゲーム」自体の経験は相変わらずないので、どのあたりが実際のゲームの勘所なのかはわからない。しかもそれを現実世界に移植した場合におこる変数の高次元化を、どこまで論理的に整合させているかは、正直頭が追いつけない。
だが『サクラダリセット』がやっているようには緻密な論理構成をしていなさそうなのはわかる。
例えば、各自がカードを見るときに「他人に見せても知らせてもいけない」というルールがあったって、現実に同じ部屋で一斉に見たら、横から見えてしまったり、思わず口に出したりしてしまうとかいう事態が当然起こるはずだ。それが起きないことになっている。それを防ぐ手だてが主催者側から図られているという説明もない。
あるいは夜、人狼が村人を殺しに行く時には大騒ぎをしているのだから、当然みんなに正体が知れてしまうはずなのだが、それもないことになっている。人狼が村人を殺すったって、ゲームとして「殺した」ことになっているというのと違って実際に人狼女子が村人男子を殺すことができるものか。それを可能にする設定をしないのはやはり物語の手抜きだ。
ゲームとしての「人狼ゲーム」は、参加者が進んで参加しているから、メンバーはルールを把握したうえで、ルールを守ろうという動機付けが強く、しかも架空の設定で展開してるのだからルールも守りやすい。
ところが映画ではルールも知らないメンバーが、進んで参加しているわけでもない、現実の空間で展開するゲームだから、ルールの破綻は容易いはずだ。それなのに、それは起こらないことになっている。つまりゲームのルールを現実に適用するためのハードルが考慮されていないのだ。
これがこの映画(原作も含めて)の根本的なジレンマだ。ゲームが現実に起こったとすると、そこに参加した人間にとってそれがどれほど過酷なものになるか、というのがドラマの動因になるはずなのに、それを現実的に引き起こすために解決しなければならない問題を無いことにしているから、結局、肝心のゲームを、いかにも作り物の「ゲーム」としてしか展開させられていないのである。
そうしたジレンマを本気で解消しようというほどの意志は、この制作者たちにはないのだった。1作目について書いた時の期待は、結局かなえられず、それでも「期待」を抱けた1作目に比べて、失望に終わった本作にはがっかりせざるをえないのだった。
『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように
この間『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』を観に行った晩、怒りのあまり、一緒に観に行った娘と、家で原作の岩井俊二版『打ち上げ花火~」を観たのだった。ずいぶん久しぶりだったが、あらためて良い映画だと思えた。会話のテンポは、子役たちの演技のせいでもあるが、編集のせいでもある。あらためてアニメ版の編集の下手さが実感されたのだった。
その後で、十数年前に一度見たきりの『少年たちは花火を横から見たかった』を見直したくなって、レンタルしてきた。
撮影から6年余り経って、20歳直前の山崎裕太と奥菜恵が、ロケ地を訪れて当時の撮影を振り返るドキュメンタリー。プロデューサーや岩井俊二自身のインタビューもあわせて、『打ち上げ花火~』がどんなふうに作られたのかがわかるのは興味深い。
とりわけ、先日はからずも「奇跡のような」と形容した、あのプールのシーンが、本当に奇跡のように出来上がったのだと知らされるくだりは感動的だった。
そして、出演者たちも言うとおり、「あの夏」が、何か実際に体験した思い出のように感じられる、というのが『打ち上げ花火~』という映画の感触なのだと、あらためて胸におちたのだった。
そうしたあの映画の魅力をあれほどまでに否定してしまったアニメ版の罪は、繰り返して言うが、重い。
その後で、十数年前に一度見たきりの『少年たちは花火を横から見たかった』を見直したくなって、レンタルしてきた。
撮影から6年余り経って、20歳直前の山崎裕太と奥菜恵が、ロケ地を訪れて当時の撮影を振り返るドキュメンタリー。プロデューサーや岩井俊二自身のインタビューもあわせて、『打ち上げ花火~』がどんなふうに作られたのかがわかるのは興味深い。
とりわけ、先日はからずも「奇跡のような」と形容した、あのプールのシーンが、本当に奇跡のように出来上がったのだと知らされるくだりは感動的だった。
そして、出演者たちも言うとおり、「あの夏」が、何か実際に体験した思い出のように感じられる、というのが『打ち上げ花火~』という映画の感触なのだと、あらためて胸におちたのだった。
そうしたあの映画の魅力をあれほどまでに否定してしまったアニメ版の罪は、繰り返して言うが、重い。
2017年9月14日木曜日
『デッドコースター』-気楽に観られる
『Final Destination』は、古くは『猿の惑星』『トレマーズ』、もうちょっと後では『Saw』『Scream』『Cube』などのようにシリーズで好きな映画の一つ。
とにかく気楽に観られる。録画したものの、ちょっと気合いがいる、というような映画がHDにどんどんたまってしまうようになりがちなところ、こういうのは録ってすぐに消費できる。
さて、どれがどれやらもちろんわからなくなっているし、観れば見覚えはあるのだが、先がどうなるかを思い出せるわけでもなく、2度にわたるどんでん返しは、やっぱりよくできているなあと感心したのだった。
とにかく気楽に観られる。録画したものの、ちょっと気合いがいる、というような映画がHDにどんどんたまってしまうようになりがちなところ、こういうのは録ってすぐに消費できる。
さて、どれがどれやらもちろんわからなくなっているし、観れば見覚えはあるのだが、先がどうなるかを思い出せるわけでもなく、2度にわたるどんでん返しは、やっぱりよくできているなあと感心したのだった。
『サクラダリセット』-まっすぐでまっとうでまえむきな
映画版ではない。原作小説も未読。
思いがけず2クールにわたって深夜放送されたアニメ版『サクラダリセット』が終わった。1話目を見た時に、なんだか会話の面白い話だ、というのと、ぼーっと見てると話がわからなくなるな、というのと、でもアニメ的には随分質の低い作品だ、という感想で、事前知識はなかったから、その後どうするか決めかねていた。
4話目くらいで、これはすごいかもと思い始めたのは、科白だ。
思いもかけない、まっすぐでまっとうでまえむきで、かつ知的な科白が、陳腐で恥ずかしいと思うより感動的でさえあり、これはいいかもと思って見続けるつもりになったのだが、諸事情あって何話か録り損ねて、ただでさえわかりにくい話が、いっそう追っかけにくくなった。
それでも後半の2クール目の方は、数話まとめて観るようにして、話を追えるように心がけた。そうして最後まで観た時には、ここ数年でも出色の物語体験だと言える評価となった。
アニメーションとしては最後まで、あまりに凡庸な、まるで褒めるところのない量産深夜アニメレベルを脱しなかった。まあそれでも、やたらと可愛い女の子が出てきたり、竜や騎士や剣が出てくる異世界ファンタジーだったりしないだけ、うんざりはしなかった。ただひたすらに面白みのない真面目なアニメだった。
だが花澤香菜と悠木碧の演技の見事さを思えば、これがアニメ化されたことに充分な価値があると思わざるをえない。たぶんこの先、原作小説を読んでも、この二人の声でしか読めない。そしてそれが十分に情感を盛り上げるだろうと思われる。
そしてなんといっても、たぶん原作のすばらしさだ(もちろんそれを損なわなかった高山カツヒコの構成も賞賛したい)。未読だから「たぶん」なのだが、つまりは物語の見事さだ。
複雑にからみあった論理の構築は、三原順を思わせる。三原順とは我ながら、いささか唐突な連想だとは思うが、筆者にとって、複雑な構築物としての物語についての評価の基準は三原順なのだ。
ただでさえメインの時間が巻き戻るから、今見ている物語世界がいつで、「その時点では誰が何を知っているか」についての認識が、登場人物と観客の間でずれていて、物語を追う意識が混乱する。
その上で十分に頭の良い3人の登場人物の思惑が、互いに相手を上回ろうと策略をめぐらす。それは相手も十分読んでいるだろうから、その上を行こうとすれば…と、まるで将棋や囲碁の対戦のような複雑な論理の絡み合いになる。しかも三つ巴で。
寝る前のひとときに、眠りそうな頭で見るものではない。たちまち論理についていけなくなる。だがそれだけのレベルの論理であることはわかるところに驚嘆しつつ嬉しくなる。
そして、最初のひっかかりであるところの、主人公をはじめとする登場人物たちの、まっすぐでまっとうでまえむきなこころざしが、最後まで物語を、すがすがしくも切なく感じさせた。
実に驚嘆すべき物語だった。
思いがけず2クールにわたって深夜放送されたアニメ版『サクラダリセット』が終わった。1話目を見た時に、なんだか会話の面白い話だ、というのと、ぼーっと見てると話がわからなくなるな、というのと、でもアニメ的には随分質の低い作品だ、という感想で、事前知識はなかったから、その後どうするか決めかねていた。
4話目くらいで、これはすごいかもと思い始めたのは、科白だ。
思いもかけない、まっすぐでまっとうでまえむきで、かつ知的な科白が、陳腐で恥ずかしいと思うより感動的でさえあり、これはいいかもと思って見続けるつもりになったのだが、諸事情あって何話か録り損ねて、ただでさえわかりにくい話が、いっそう追っかけにくくなった。
それでも後半の2クール目の方は、数話まとめて観るようにして、話を追えるように心がけた。そうして最後まで観た時には、ここ数年でも出色の物語体験だと言える評価となった。
アニメーションとしては最後まで、あまりに凡庸な、まるで褒めるところのない量産深夜アニメレベルを脱しなかった。まあそれでも、やたらと可愛い女の子が出てきたり、竜や騎士や剣が出てくる異世界ファンタジーだったりしないだけ、うんざりはしなかった。ただひたすらに面白みのない真面目なアニメだった。
だが花澤香菜と悠木碧の演技の見事さを思えば、これがアニメ化されたことに充分な価値があると思わざるをえない。たぶんこの先、原作小説を読んでも、この二人の声でしか読めない。そしてそれが十分に情感を盛り上げるだろうと思われる。
そしてなんといっても、たぶん原作のすばらしさだ(もちろんそれを損なわなかった高山カツヒコの構成も賞賛したい)。未読だから「たぶん」なのだが、つまりは物語の見事さだ。
複雑にからみあった論理の構築は、三原順を思わせる。三原順とは我ながら、いささか唐突な連想だとは思うが、筆者にとって、複雑な構築物としての物語についての評価の基準は三原順なのだ。
ただでさえメインの時間が巻き戻るから、今見ている物語世界がいつで、「その時点では誰が何を知っているか」についての認識が、登場人物と観客の間でずれていて、物語を追う意識が混乱する。
その上で十分に頭の良い3人の登場人物の思惑が、互いに相手を上回ろうと策略をめぐらす。それは相手も十分読んでいるだろうから、その上を行こうとすれば…と、まるで将棋や囲碁の対戦のような複雑な論理の絡み合いになる。しかも三つ巴で。
寝る前のひとときに、眠りそうな頭で見るものではない。たちまち論理についていけなくなる。だがそれだけのレベルの論理であることはわかるところに驚嘆しつつ嬉しくなる。
そして、最初のひっかかりであるところの、主人公をはじめとする登場人物たちの、まっすぐでまっとうでまえむきなこころざしが、最後まで物語を、すがすがしくも切なく感じさせた。
実に驚嘆すべき物語だった。
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