2018年11月24日土曜日

『ボヘミアン・ラプソディ』-劇場でこそ観る価値あり

 今話題の、クイーンのフレディ・マーキュリーの伝記映画。機会があって映画館に観に行くことになった。
 正解だった。映画館で観なければ感動も5割減だ。たぶん。
 感動的だという評判がある一方で、アメリカでの評論家による評価は低いらしい。ドラマ部分が弱いのだ。
 それも、共感できる人にとっては感動的なのかもしれないが、そこにはちょっと腰が引けてしまった。主人公の苦しみに共感できずに、ちょっとメンドウクサイと思ってしまったのだった。ブライアン・メイのキャラクターはものすごく好みだったが、それだけでは。
 一方で、何が良かったって、そりゃあ音楽だ。フレディ加入前のバンドの演奏シーンからもう、何だかいい音楽だぞ、と思ってしまった。
 これは音響の良さ、というか単純に音量の豊かさが観客に与える感動でもある。とりわけクイーンのファンというわけではない。だが、知っていた曲も、今までの印象よりも遙かに心揺さぶる音楽として体験されたのだった。
 そしてとりわけ例のライブ・エイドのステージは、そこまでのドラマへの思いが被さって、本当に感動的だった。
 ドラマとしても音楽としても、たぶん『Jersey Boys』の方がわずかに上だと思うんだが、劇場で観るというシチュエーションのせいで、音楽映画としては良い観賞体験ができた。

2018年11月18日日曜日

『マリオ~AIのゆくえ~』-真面目にこの問題を考えていない

 ある機会に『散歩する侵略者』の舞台を見損ね、黒沢清の映画版もまだ見ていないのだが、それで前川知大を意識するようにはなった。
 その前川知大脚本ということでNHKのドラマ『マリオ~AIのゆくえ~』を、先日の『カラスになったおれは地上の世界をみおろした。』に続いて観てみた。
 それにしても『カラス~』の題名の最後の句読点にせよ、『AIのゆくえ』にせよ、その言語感覚はどうなの? 正直、とてもひどいと思うのだが。もっとも『AIのゆくえ』の副題はまあNHKのセンスのなさなのかもしれないが。前川知大本人だとしたら残念。
 さて『マリオ』は『カラス~』ほどひどくはなかったが、それでもがっかりだった。映像的には、いい意味でテレビドラマっぽくはなく、その「世界」を作ろうとしていたが、いかんせん脚本が安っぽくて。
 イジメだとか親子のディスコミニュケーションとか、描かれている問題が類型的なのも残念だが、とりわけ不満なのは、人間でない知性体が世界をどう認識するかという問題に対して、充分な考察をしていない点だ。
 この問題についてはその昔、「パラサイト・イブ」に大いなる衝撃を受けた。充分な科学的教育を受けていると思われる作者が、信じられないほど何も考えていないように見える物語を書いていることに。あれほど人間と違う生命形態をしている知性体が、まるで俗っぽい人間のような感情の表出をしていて、そんな物語を書くことには、何か深遠な意図があるのかと勘ぐらずにはいられないほどの(そしてその意図はわからないから、単に呆れてしまうしかない)衝撃だった(それでもこの小説が評価されてしまったことに、さらに衝撃を受けもしたのだった)。
 このジャンルでは『ソラリスの陽の下に』が極北だろうが、あそこまでいってしまうと、人間との比較が困難になるので、やはり『アイ・ロボット』とか『寄生獣』とかいったあたりが興味深いのだが、そういった意味で最も心を動かされたのは『ターミネーター』のテレビシリーズ『ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ』だった。『2』のシュワルツェネッガーのターミネーターは人間的過ぎるし、敵ターミネーターは単なるロボットだが、『ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ』の少女ターミネーター、キャメロンや敵ターミネーターのキャサリン・ウィーバーやAIの「ターク」などは、何を考えているのかわからないAIがキャラクター化されていて、毎回ドキドキしながら観たものだった(それだけに未完打ち切りは残念でならない)。
 「何を考えているかわからない」というのは「何も考えていないだろう」と思わせてしまっては駄目なのだ。考えているに違いない、だがそれがどのようなものなのかわからない、と思わせなければ。
 さらに期待するならば、AIが人間の肉体を持ったなら、どのように世界を認識し、どのように思考するか、という問題について、真面目に考えて物語を作ってほしかった。あれで考えているつもりとは言わせない。真面目に専門家の現状認識を取材して、そこに真面目に考察を加え、誠実に物語に仕立てるのなら、あんなに安っぽくなるはずがない。
 こういうのは単なる無い物ねだりのいちゃもんであるはずはない。それを宣伝文句にしている以上。

2018年11月11日日曜日

『LOOPER』-満足

この手のハリウッド的SF映画としてはお手本のように面白いエンターテイメント映画だった。
 ルーパーという設定の独創性だけでも大したものだし、未来なのに「ラッパ銃」をはじめとするアナクロなガジェットと、宙に浮くオートバイなどの未来的ガジェットがアンバランスに同居する未来社会の描き方も、無理をせずに成功している。細かい演出も手際がいい。
 脚本も、タイムリープを扱って充分に面白い。伏線を張って回収して…。
 これ以上の映画評は宇多丸さんの分析が素晴らしく、もう付け加えることもない。


『カラスになったおれは地上の世界をみおろした。』-愚にもつかない

 キリンジの「エイリアンズ」が主題曲だというので観てみたが、脚本といい演出といい、愚にもつかぬ代物だった。結構なキャリアのあるベテランが脚本兼演出だったのだが。物語も安直、演出としてもまるで「人間」を描いていない。1時間半を勿体ないことをした。製作費を思いやると、そちらの方が勿体ないのだが。
 しかも「エイリアンズ」は最初にちょっと流れるだけでエンディングテーマも別だし、効果的でもないし。
 ただ、鴉の視点だというドローン撮影の映像はそれだけで惹きこまれる。なんだか安直だ。演出力も問われず、ただ日常にない映像だから、それだけで映像体験として感情を揺さぶる。ずるい。
 それと酒井美紀が出演していたのだが、声があまりに「おばさん」でびっくりした。あの「白線流し」の女子高生が。『Love Letter』の中学生が。

2018年11月3日土曜日

『Jellyfish』-苦苦な青春映画

 東京に出ている娘に、東京国際映画祭の上映作品を観ないかと誘われた。そういえばこの間テレビで東京国際映画祭の紹介番組をやっていたのだが、縁がないものと見逃した。見ておけば良かったとは思ったものの、見たとてこれを紹介したかどうはわからない。これは上映映画の大半を占めるコンペティション部門ではなく「ユース」部門という、若者向けの映画の一編なのだった。
 若者向け? いやはや、ほろ苦いというよりも苦苦いというべき青春映画だった。
 父親がいないのに、母親はまるで生活能力がなく、小学生の妹弟の面倒を見ながら家計を支えている15歳の主人公がコメディアンを目指す物語、という紹介だったが、予想したような、苦労の中で成功を夢見てがんばる、というような明るい希望の感じられる物語ではなかった。
 むしろ救いのない状況の中で、かろうじて逃避的にコメディのネタをノートに書くのだが、状況はどんどん悪化していくばかりで先が見えない。とりあえずラスト、すべてを放棄して逃げだそうとしてやめた主人公を、コメディを奨めた芸術科目(らしき)教師が追いかけてきて寄り添うという場面で終わるのが救いではある。精神的に寄りかかれる大人が辛うじてでも見つけられたのは、そこまでの物語の状況からすれば随分と救いだし、彼の仲立ちによってこの先に公的な機関の介入が、それなりに状況を改善させるはずだという見通しも立つ。
 
 それにしても、同じ年ごろの登場人物を描いて『君の膵臓を食べたい』などと頭の中で比較してみると、まるで違う世界の物語だなあと、その落差に眩暈がする。
 『膵臓』の、主人公の孤独もヒロインの死も、甘い。「厳しい」の対義語としての「甘い」ではなく、「苦い」の対義語としての「甘い」である。それを味わうことが快感であり、かつ不健康にもなりかねない、嗜好品のもつ性質としての「甘い」である。不幸が甘いのである。
 それに比べてこの映画の苦いこと。この「良薬」は一体何に効くというのか。多分「人間」を見るという経験になるという意味で。
 物語の背景に社会が感じられるかどうかという点でも、恐ろしく対照的な2作である。『Jellyfish』には、明らかにその町の置かれた社会的状況が物語に透けて見える。寂れた地方都市やそこに存在する社会的格差が。
 それに比べて『膵臓』はどこに存在する場所で起こった物語だというのだ(そういう意味であれは「ファンタジー」である。)。それを目的とした物語でない以上、そんなことを求めても仕方がないのだろうが、それにしてもなんと子供じみたお伽噺であることか。甘い。
 それだけに、『Jellyfish』の「苦い」状況の中で生きる主人公の必死さが、観終わって思い出しても胸に迫ってくる。

 東京国際映画祭という催しは今までまるでノーチェックだったが、来年からは事前に計画して、もうちょっとまとめていくつかの作品を観ようかという気になった。
 映画館で映画を観ることの経験の特殊さはやはり尊重していい。