2018年11月18日日曜日

『マリオ~AIのゆくえ~』-真面目にこの問題を考えていない

 ある機会に『散歩する侵略者』の舞台を見損ね、黒沢清の映画版もまだ見ていないのだが、それで前川知大を意識するようにはなった。
 その前川知大脚本ということでNHKのドラマ『マリオ~AIのゆくえ~』を、先日の『カラスになったおれは地上の世界をみおろした。』に続いて観てみた。
 それにしても『カラス~』の題名の最後の句読点にせよ、『AIのゆくえ』にせよ、その言語感覚はどうなの? 正直、とてもひどいと思うのだが。もっとも『AIのゆくえ』の副題はまあNHKのセンスのなさなのかもしれないが。前川知大本人だとしたら残念。
 さて『マリオ』は『カラス~』ほどひどくはなかったが、それでもがっかりだった。映像的には、いい意味でテレビドラマっぽくはなく、その「世界」を作ろうとしていたが、いかんせん脚本が安っぽくて。
 イジメだとか親子のディスコミニュケーションとか、描かれている問題が類型的なのも残念だが、とりわけ不満なのは、人間でない知性体が世界をどう認識するかという問題に対して、充分な考察をしていない点だ。
 この問題についてはその昔、「パラサイト・イブ」に大いなる衝撃を受けた。充分な科学的教育を受けていると思われる作者が、信じられないほど何も考えていないように見える物語を書いていることに。あれほど人間と違う生命形態をしている知性体が、まるで俗っぽい人間のような感情の表出をしていて、そんな物語を書くことには、何か深遠な意図があるのかと勘ぐらずにはいられないほどの(そしてその意図はわからないから、単に呆れてしまうしかない)衝撃だった(それでもこの小説が評価されてしまったことに、さらに衝撃を受けもしたのだった)。
 このジャンルでは『ソラリスの陽の下に』が極北だろうが、あそこまでいってしまうと、人間との比較が困難になるので、やはり『アイ・ロボット』とか『寄生獣』とかいったあたりが興味深いのだが、そういった意味で最も心を動かされたのは『ターミネーター』のテレビシリーズ『ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ』だった。『2』のシュワルツェネッガーのターミネーターは人間的過ぎるし、敵ターミネーターは単なるロボットだが、『ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ』の少女ターミネーター、キャメロンや敵ターミネーターのキャサリン・ウィーバーやAIの「ターク」などは、何を考えているのかわからないAIがキャラクター化されていて、毎回ドキドキしながら観たものだった(それだけに未完打ち切りは残念でならない)。
 「何を考えているかわからない」というのは「何も考えていないだろう」と思わせてしまっては駄目なのだ。考えているに違いない、だがそれがどのようなものなのかわからない、と思わせなければ。
 さらに期待するならば、AIが人間の肉体を持ったなら、どのように世界を認識し、どのように思考するか、という問題について、真面目に考えて物語を作ってほしかった。あれで考えているつもりとは言わせない。真面目に専門家の現状認識を取材して、そこに真面目に考察を加え、誠実に物語に仕立てるのなら、あんなに安っぽくなるはずがない。
 こういうのは単なる無い物ねだりのいちゃもんであるはずはない。それを宣伝文句にしている以上。

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