2015年6月30日火曜日

『ルームメイト』(原題「Single White Female」)

 今邑彩の「ルームメイト」をひとから借りて予備知識無しに読んで感心していたら、その少し後でそれがベストセラーになっているという記事を新聞で見た。妙なシンクロだと思っているとあれよと映画化と、あろうことか武富健治が漫画化する。映画も好意的な評価を見たりして、いずれは観たいと思うし、武富健治の漫画は連載では追わなかったがこれもいずれは単行本で読もう。
 というわけで『ルームメイト』だが、こちらは20年以上前のアメリカ映画。ルームメイトが実はサイコで…って話だろうとは思っていると、はたしてまったくそのとおりなのであった。そしてまったくそれ以上ではないのだった。悪いところはない。そつなくできている。サイコなルームメイトがじわじわと異常性を表して、とうとう監禁された主人公が反撃に転ずる、というあまりの予想通りの展開は、もうその恐怖の細かい仕掛けと演出だけが頼りのはずだ。これがあまりに凡庸。まったく予想を超えない。せめてどんでん返しがあるかと思っているといきなり放送が終わる(こういうテレビ放送はエンドロールを流さないので)。
 残念。週末に観るべきだった。

2015年6月27日土曜日

『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』

 気乗りはしなかったが、初期OVAやTV版、マンガと旧劇場版3作はもちろん全て観ており、とりわけ『機動警察パトレイバー 2 the Movie』を邦画No1と評価しているからには、何か、落とし前をつけねば、といった感じで観る。
 劇場公開の短編をいくつかと、次の『首都決戦』のプロローグ的なエピソードをテレビの映画枠に収めた放送。

 気乗りしないのは、これまで押井守の実写に総じて感心しなかったからだ。一部で評価の高い『アヴァロン』も面白くなかったし、劇場で観た『紅い眼鏡』ももちろん退屈だった(だが一晩中押井作品を観るという特異な企画で、明け方近くに観ていたラスト近くで妙に感動してしまったから、特別な印象はある)。
 劇場版の押井監督の1,2は上記のように邦画の中でも特別の位置にある。だが、脚本の伊藤和典が書き下ろした1の小説版は、そっくりそのままの小説化であるにもかかわらず、まるで面白くなかったのが、実に興味深かった。映画はもちろん総合評価であり、「脚本も凄い」と思っているにもかかわらず、映画の凄みは、その小説にはまるで感じなかった。2の小説版は押井の手になるもので、こちらは映画とはかなり違った角度から書かれており、これは面白かった(押井の小説は『獣たちの夜 BLOOD THE LAST VAMPIRE』も面白かった)。
 これは、映画に対する評価が、結局のところ総合評価でしかありえないことを示している。『バトルロワイヤル』の評価が高いことは原作の力ではなく深作欣二の力なのだろうし、先日の『生贄のジレンマ』も、仮に脚本が練り込まれたとしても、必ずしも良い映画になったとは限らないということだ。

 で、『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』だが、期待しなかった分、強い不満も感じなかった。むしろ意外と面白い、とさえ思った。
 それでも、押井守のアニメに比べて、その力のないことは否定しがたい。
 実写映画は、恐らく「現場」が存在することで、とにかく無駄な映像が山のように積み上がってしまうのだろう。最初から描くことでしか存在を許されないアニメと違って、その映像は、作品の緊張感をぐずぐずにしてしまう。アニメの押井作品のような特別な世界を現出させることはない。
 『機動警察パトレイバー 2 the Movie』がどれほどリアリティを目指しても、それは「実写のよう」になることではないし、『アヴァロン』があえてアン・リアルな映像を作っても、やはり撮影現場の空気感が作品からは感じられて、のめりこめない。
 それでも実写映画を作るのは、やはり制作が楽しいからなのか? 単にオファーがそれなのか? 誰が押井の実写を求めているのか?

2015年6月26日金曜日

『生贄のジレンマ』(監督:金子修介)

 『人狼ゲーム』『王様ゲーム』に続いて、「ソリッド・シチュエーション・スリラー」「バトルロワイヤル」「生き残りゲーム」枠で。
 そういえば深作欣二『バトルロワイヤル』も、かなり以前ではあるが観てる。タランティーノはじめ、外国でも評価が高い映画版は、やはり原作の10分の1も面白いとは感じられなかったが、それでも今思えば、映画的な面白さには満ちていたと思う。こういうのが好きじゃないと映画ファンとはいえないんだろう、とは思う。だが原作の面白さも感動もほんのわずかしか感じられなかったのは、やはり私が「小説」的な面白さに感応しやすいということなんだろう。

 ところで『生贄のジレンマ』である。どこかで原作の書評を見て、面白そうだとは思っていた。映画の監督も金子修介だし、上・中・下という長丁場もむしろ「我慢してつきあったが故の感動(というねじくれた楽しみ)」を感じられるんじゃなかろうかという期待もあって、3巻まとめてレンタルしてきた。
 最初の設定紹介からしばらくは面白くなりそうな期待があった。そう、「生き残りゲーム」ものは「タイムリープ」もの同様、物語を作りたい素人がアイデアを盛り込むには恰好の器なのだ。この設定・ルールで生き残りをそれぞれが考えるとしたら…と考えるだけで、無限にドラマが生まれてきそうだ。
 だが物語が進行するにつれ、これはだめだという感じが強くなってくる。みんな頭が悪すぎる。「生き残るためにしそうなこと」をしている気配があるのは、主要登場人物の周辺だけで、そのいくつかのチャレンジが潰えると、それ以上のアイデアが出てこない。時間が経つにつれて絶望が支配して、誰も何もしなくなる、という展開はあってもいい。だがその前に、時間が経つほどにみんながそれぞれアイデアを思いついて次々と試す、という展開がまず描かれるべきではないか。
 登場人物がみんな頭が悪すぎるというのは、つまり作り手の頭が悪すぎるということだ。あまりにも最初から思いつきそうないくつかの行動以外に、描かれていない場所で描かれていない関係者がそれぞれに生きて、時間を過ごしている、という感触がない。
 これはそこに生ずるであろうドラマの描き方についても同様である。ゲームとしての可能性がまるで考察されていないように、それに巻き込まれた人間達が過ごす時間の中で生きる「ドラマ」が、まるでありがちな学芸会レベルである。しかもやはり主要登場人物の周辺に生ずるそれしか描かれない。どんな端役の人物にだって、誠実に焦点をあてれば息をのむドラマが起こっているはずなのに。こんな極限状態ならば。
 結局、脚本と演出の問題なのだ。脚本は「このルールを生きる」ことの可能性をぎりぎりまで考察し、アイデアを出し尽くすべきだし、演出は「このルールを生きる」ことをぎりぎりまでリアルに想像すべきである。そうすればこんなひどいことになるわけがない。役者陣の演技には大いに失望させられたが、これはつまり演出の問題である。これほどの極限状況におかれた者達がどれほどの振幅で感情を動かすか、その狂気も、(期待することの難しい希望かもしれない)崇高さも、監督がリアルに想像できていないから、若い役者達にそれを要求できないのだ。
 金子修介は学生時代に講演を聴いたことがあり、そのときに制作中だった『1999年の夏休み』はその後観て、印象深い映画の一本だ。『毎日が夏休み』も大好きだし、『平成ガメラ』シリーズも面白かった。その彼にしてこの無惨な作品はどういうわけだろう。
 凡作ができてしまうのはやむをえない。なんであれ「面白さ」を生み出すのは容易ではなかろう。だが、大人が何百人も集まって、こんな惨状を止められないのは、日本の映画制作の問題なのだろうと漠然と思わざるをえない。上記のような高い志をもっていなくてさえ、こんなにつっこみどころ満載な展開、描写はいくらなんでも放置してはいけないんじゃないかという当たり前の良識をもった人間が、なぜ責任ある立場にいないのか。穴の中に落ちた者達が屋上で目覚める必然性はあるのか、とか、死んだ人間の中で、なぜ彼女だけが都合良く生き返るのか、とか、死んでいないのになぜその前に死んだとしか思えない描写を入れるのか、とか、中学生でも不審に思うはずの馬鹿な演出をなぜこれでもかと並べてしまうのか。

 小説やマンガには、最近、生徒に借りて読んで驚嘆した「鳥籠ノ番(つがい)」(陽東太郎)などのように、ルールから派生しうるドラマを、ゲーム的にもドラマ的にも満足できるレベルで展開した作品がいくつもある。「カイジ」「ライアー・ゲーム」「DEATH NOTE」などの堂々たる作品群は、人気、知名度ともに人口に膾炙しているといっていい。だがこれらの名作も、おそらく映画にしてしまえばその面白さは保てないだろうと思うから、映画は観ない。
 上記のような小説やマンガは、少人数(一人)で考え抜く、という作業を経ているのだろうと思う。これが、映画は時間や費用の制限が、「考える」ことよりも優先されてしまうという制作上の事情によって、上のような惨状を生じさせるのだろう。
 だがせめて、脚本を複数人のチームによって練るといった、たぶんゲーム業界やハリウッド映画・ディズニー映画ではひろく行われているであろう方法を、なぜ日本映画は採用しないのか。一人で書かれる脚本があってもいい。だが、この手のシチュエーションものは多面的な考察が命である。せめて「みんなで考える」ことでもしてレベルを保証して、小説のような低コストのジャンルならば「仕方ない」とも思える「無惨」さをなんとか回避してほしいと、他人事ながら思ってしまう。

 それにしても三部作で4時間あまりである。これも自分の責任とはいえ。

2015年6月15日月曜日

the band apartとTHE BAWDIES

 久しぶりにTUTAYAへ行ってみて探してみると、ウワノソラとかルルルズとかChouchouとか、やっぱりない。インディーズはどこまで置くんだろ。ceroがあったが、あれはメジャーなのか。
 で、the band apartとTHE BAWDIESを数枚。


2015年6月13日土曜日

『アパリション-悪霊-』

 時折、無性にホラー映画を観たくなる。どういう欠如に対する欲求なのかわからないので、どういう法則性があるのかはわからない。岸田秀あたりに言わせると、ホラー映画を観たがるのは、自我をわざと不安定にさせないと退屈だからだ、ということなのだが、安定しすぎて退屈な時に観たくなっているのかどうかは、点検したことがないので、とりあえず不明。
 で、そういう時用にと、深夜に放送されていた「戦慄のホラー」とかいう惹句の『アパリション-悪霊-』を録画しておいたのだが、気になって観てしまった。「そういう」時だとも言えないタイミングで。
 だめだった。『王様ゲーム』ほど、作り手の正気を疑うような出来ではないのだが、『パラノーマル・アクティビティ』とどこが違うのかまったくわからない。『パラ』の方が、ビデオ撮影による悪霊の存在確認という新味があって良かったくらいだ。
 悪霊の存在について、いやに大げさな大風呂敷を広げるのも印象が悪い。理屈も強引だし、黒沢清の『回路』っぽい、こちら側の世界が変わってしまったかのようなラストも、言葉でそういうほど、画としては感じられない。
 ジャンクな食べ物をとりあえず食べたい時用にやはりとっておくべきだったか。

2015年6月7日日曜日

『王様ゲーム』(監督:鶴田法男)

 この間の『人狼ゲーム』つながりで、観てみたくなった。好物のSSSではあるが、この出来は到底容認できない。
 アイドルの一人や二人は拒否するものではないが、グループが総出演ということから予想されるレベルというものがある。
 だが、それさえ下回る劣悪な作品だった。こういうのが小説や漫画ならまだわかる。ましてケータイ小説なら不思議はない。コストがかからなければ、どれほど劣悪な作品だって、世に送り出される可能性があることに不思議はない。だが、映画となれば、関わっている人間の数も費やされる金もケータイ小説に比べると桁違いに莫大なもののはずだ。それが、どうしてこのように劣悪なままで完成まで至ってしまうのかは本当に不思議だ。
 誰が観たって、それこそ中学生が観たって、突っ込みどころ満載の、そこら中が破綻しまくった設定・展開・演出のオンパレード。なぜ誰かがどうにかしようと言い出さないのか。言い出していくらかは食い止めてそれでもこの噴出なのだろうか。脚本家は投げ出してしまったのだろうか。プライドも評価も。何が彼をそれほどに自暴自棄にしてしまったのだろう。
 一方で、いくら破綻があったって、面白ければいいのだ、というポリシーも、それはそれで認める。だがどこだ? どこに面白さがあるのだ?
 たぶん、もともと出演者を知っている必要はあるのだろう。キャラクターの掘り下げがまるでないことが、ドラマを全く感じさせない原因なのだが(だからサスペンスも喜びも悲しみもない)、画面に映った姿が、おなじみのアイドルであると感じられる観客ならば、その重ね合わせと、そのギャップとで、キャラクターを把握できるのだろう。つまり一見さんお断りなのだ。
 それにしても、アイドル映画でありながら、とりわけ主演の二人にこれほど魅力がないのもまた不思議だった。どうしてこんなに不自然に濃いメイクをして撮ってしまうんだろう。そういうキャラクターがどこかのファンには求められているとしても、それはどうみても高校生の役ではないはずだ。
 脚本がひどいことは言うまでもないが、映画の責任は監督が負うものだ。どういうわけで黒沢清や清水崇が鶴田法男を評価しているのかわからないが、とりあえず今までも感心できる鶴田作品を観ていないものの、といってそれほどひどい映画だとも思わなかった。だが、こんなにひどいものは初めてだ。これを消せない汚点だとは思っていないのだろうか。本人は。
 もちろん現場には一人ではどうにもならない空気だの流れだの情勢だのがあるかもしれない。どうしたって「面白く」はならないかもしれないし、時としてしょうがないかと諦めも妥協もする場面もあるだろう。だが、これは誰もが看過してしてしまっていいレベルの破綻か?

2015年6月5日金曜日

『おとなのけんか』(監督:ロマン・ポランスキー)

 ロマン・ポランスキーだというので観始めると、面白い、面白い。止まらずに一気に観てしまった(ま、それが普通だ)。
 観始めてすぐに娘が「たぶん原作が舞台劇だ」と言うのだが、調べてみるとはたしてそうなのであった。映画化するだけの価値のある戯曲を、ジョディ・フォスターとケイト・ウィンスレットというアカデミー女優を揃えて、ロマン・ポランスキーが映画化するというのだから、面白くないわけがない。
 圧倒的な奇想を見せつけられるといった体の物語ではないが、ひたすら室内で繰り広げられる会話劇は、そこここに感情の波立つ微妙な瞬間が連続して、実に見事だ。一部には、ここは笑うとこなのかなあ、居心地の悪い思いをするところなのかなあ、などと迷うところもあったが。テーブルの上に置かれて「高かった」などと話題に上がるチューリップは、あんまりきれいじゃないよなあ、と思っていると、やはり滑稽だと感じるべき代物であるらしいことが展開の中でわかったりする。
 ネットでは「オチがない」とかいう批判もあるが、最後のエンドロールのバックで、「おとなのけんか」を余所に、そもそもの原因となった「けんか」の主の子供たちはもうすっかり仲良くなっているらしい姿が映されているじゃないか。

2015年6月2日火曜日

映画を批評するサイト

 とりあえず映画を観たことだけは欠かさず書き留めるというのがこのブログのルールだが、「観た」だけではあまりに愛想がないので感想じみたものも書き加えることになる。そうなるとそもそも監督だの出演者だのについても調べなくてはならなくなる。結構な時間がかかる。
 肝心の映画の評価についても、やはり他人の意見が気になってみてしまう。世の中にはなんと熱心な(あるいは暇な)人がいっぱいいるのだろうと驚嘆してしまうのだが、映画レビューのサイトは、どれもまずあらすじの紹介をするところから始めるのである。その点はまったく不親切きわまるこのブログでは、そもそもレビューをする気がないのである。
 レビューのための心遣いと共に、やはり見巧者が多いのにも感心させられる。信じがたいほどの熱心さで、観た映画を批評する。このサイトが珍しく気合いを入れた『見えないほどの遠くの空を』『そして父になる』のような記事を、ずらりと並べたサイトも珍しくない。
 今日は、まったく別のリンクからたどって、ずいぶん凄い記事を並べたサイトだなあと感心していたら、それがつい前回の記事でリンクを貼っておいた『はじまりのみち』をとりあげた「k-onoderaの映画批評」というサイトであったことに、途中で気づいた。なんたる偶然。
 『借りぐらしのアリエッティ』 脅威!不毛の煉獄アニメーション
などは、そのあまりの毒舌ぶりを痛快に思いつつ、その批判には実に納得させられ爽快でさえあった。
 ところがこの筆者が『かぐや姫の物語』についてはえらく高評価なのだった。
『かぐや姫の物語』生命を吹き込む魔法
これと、前回リンクした「新玖足手帖が、まったく逆の評価をしているにもかかわらず、そのどちらもに納得させられるところが面白い。アマゾンのカスタマー・レビューなどでも、高評価と低評価のどちらにも説得的なレビューが見出せることがある。面白い。