2015年11月27日金曜日

『ニック・オブ・タイム』(監督:ジョン・バダム)

 幼い娘を謎の二人組に人質にとられて、知事の暗殺を命じられる会計士という役どころの、まだ若いジョニー・デップはまあどうでもいい。
 それよりクリストファー・ウォーケンだ。暗殺を計画する側の悪役なんだが、贔屓目に見ているせいか、どこかで真相が明らかになると、実は良い人だったりするんじゃないかという期待をしていたが、結局そんなどんでん返しはなくて、やっぱり単なる殺し屋だった。しかも杜撰な計画を実行にうつしているところが、冷酷な殺し屋の魅力もなくて残念。
 やたらと時計が映されるなあと思っていたら、だいたい映画のリアルタイムでドラマが進行しているって設定なのか。どうもそういうスリルがなかったのは、計画の最中にバーで飲んでいたり、かくたる宛もなく靴磨きを頼ったり、緊迫感に欠ける展開が目立ったからだ。
 ジョニー・デップ映画のこの印象は、そういえば『ツーリスト』以来だ。

2015年11月24日火曜日

『ラスト・キング・オブ・スコットランド』

 フォレスト・ウィテカーといえば『バンテージ・ポイント』の良い人ぶりが印象的なんだが、アカデミー主演男優賞を獲ってるとは聞いていた。それがこの映画に違いないと見当付けて観た。観始めて、これは間違いないと思って、後で調べてみると豈図らんや、そうであった。
 ウガンダの独裁者、イディ・アミンに関わることになったイギリス人医師から見たアミンの独裁ぶりを描く。
 なんといってもウィテカー演ずるアミン大統領が怖い怖い。
 もちろん、怖いだけなら主人公はウガンダに残ったりしなかった。アミンは魅力的でもあるのだ。豪放磊落な言動が背後に猜疑心に苛まれる臆病な人格と同居していて、容易に独裁者的な非人間的な振る舞いに転換しそうな気配を常に漂わせている怖さが、見ていてスリリングなこと。

 映画自体は危機をくぐりぬけて脱出という結末のカタルシスを感じさせながら、アミン独裁が終わるわけではないという後味の悪さも残す。哲学的なテーマに感じ入るというわけでも、精緻に組み上げられたストーリーを堪能するといった映画でもなく、手放しで満足はせず、良くも悪くもウィテカーの演技の圧倒的な映画。

2015年11月10日火曜日

『見知らぬ医師(原題「WACOLDA」)』(監督ルシア・プエンソ 2013年)

 古い映画なのかと思って観ていると、一昨年の映画か。物語が1960年のパタゴニアなのだが、画面の古びた空気がほんとに60年代の映画なのかと思わせる。
 その空気感の美しいこと。キタノ・ブルーじゃないが、前編、青みのかかった画面に、背景には峰峰に雪を残した山脈がいつもあって、パタゴニアらしい風が吹いている。
 物語はナチスドイツの将校、ヨーゼフ・メンゲレの逃亡時代を描いた実話に基づく。
 だが哀しいかな、どう受け取ればいいのか、結局分からなかった。感触から言えば、そんなにいい加減に作られているようには思えないのだが、どういう物語として構成されているつもりなのかがわからないままだった。きっとこちらの読解力不足だ。
 謎めいた場面があったりするわけではない。象徴的表現に満ちているわけでもない。もちろん、原題にもなっている人形が、メンゲレの人体に向ける視線の隠喩になっていることはわかるのだが、それがわかって、さて、メンゲレが実は冷酷な非人間的な人物として描かれていたのかどうか、よくわからない。少女に対する治療が、実は実験だったのかどうかもわからない。どっちかとして描かれているんだろうけど。
 解釈するための枠組みがどうも用意できないのだ。困ったものだ。もしかしたらものすごく面白い映画だったりしたのだろうか。安っぽい感じはまったくなかったのだが。

2015年11月1日日曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 10 「Ora」とは誰か、「雪」のイメージ

 結局10回の連載になったが、今回でひとまず終わりである。折を見て書き下ろそうとは思っているし、ブログ自体もちょこちょこと読み返して、修正していくだろうが。

 さて、「永訣の朝」という詩を教えるというのなら触れなければならない問題はまだある。「まがつたてつぱうだまのやうに」は考察のネタとしては、ちょっとだけ面白かったが結論は出ない。28~30行目の「……ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまつてゐる/わたくしはそのうへにあぶなくたち」にいたっては未だに何のことかわからない(もちろんそれなりの解釈も想像もするが、それが妥当なものだという納得はない)。
 あるいはどうみても意味ありげに繰り返される「二」という数字の意味についても、なんのアイデアもない。なぜ陶椀を「ふたつ」持つのかも、賢治が妹と自分の思い出である陶椀二つを切り離して考えられないからだ、などという解釈を聞いても、だからどうした、と思うばかりである(このへんが、自分はこの詩の良い読者ではないなあと思うところだ)。だから、なぜ賢治は陶椀を「ふたつ」持って出たのか? などと授業で聞く気にはなれない。

  それよりも問いたいのは次のことがらである。
 39行目「(Ora Orade Shitori egumo)」は誰の言葉か? 「Ora」とは誰を指しているか?
 もちろん結論はわかっている。だからこんなことを授業で問う国語教師は多くはあるまい。だがそれは賢治の自註と、連作の「松の針」などから「わかる」のであって、この詩を読んだだけでそれが確定できるわけではない。教科書の註には「私は私で独り行きます」という意味だと書いてあるだけで「私」が誰を指しているかは書いていない。
 こちらがそれを「教える」ことなく、生徒に問うてみる。必ずどのクラスでも兄と妹で見解は分かれる。見解が分かれるということは考察の余地があるということだ。
 だから問題は、そのように考える根拠と、そうだとすると、詩の中でこの一節がどのような意味を持っていると考えるか、である。
 丸括弧で括られている他のふたつ「あめゆじゆ…」「うまれて…」が明らかに妹の言葉だから「(Ora…)」もそうなのだと言うことは容易い。だが丸括弧に括られている言葉とそうでない詩行とは、そもそも方言と標準語という違いがあるのであり、つまり口に出された言葉を書き取った(らしく見える)ものに括弧が付されているのだとすれば、その語り手が統一されている保証はない。むしろ、ひらがなとローマ字、三文字下げになっていない、といった差異によって、「(Ora…)」だけが他の二カ所と区別されるはずだとも言える。したがってこの台詞は兄の言葉だと考えるべきだ、と主張することもできる。つまり形態上はどちらであると言いうる根拠はない(三文字下げについては、校訂上のミスだったという説もあるが)。
 内容的にみると、残していく兄を案じて、妹が別れを告げた言葉だとも、妹との別れを受け入れようとする兄の決意の言葉だとも受け取れる。どちらの言葉であるかを、二つの可能性それぞれについて生徒自身が先入観抜きに検討することこそ学習なのであって、教師が結論を提示することに意味があるのではない。どちらの言葉であっても、それを納得しようと読むことが、この一行を挟む「けふおまへはわかれてしまふ」という兄の思いに自らを重ねることになるのである。
 そして前後の行に目を向けるとき、36行目の「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」の「いつしよ」が「ひとり」になってしまうこと、44行目で再び繰り返される、「けなげないもうとよ」という呼びかけにこめられた悲痛な思いは、それがどちらの言葉であっても、いっそう読者にそれと感じられるはずだ。

  この部分を取り上げる問いとしては、なぜこれがローマ字で書かれているのか、という問いが一般的である。だが、この問いはそれほど魅力的な問いではない。それがこの詩全体を読むことにつながっていかないと思うからだ。
 たとえば、「独りで行きます」というトシの言葉に衝撃を受け、それを受け入れたくないという思いがこの言葉を異国の言葉のように書かせているのだ、などという定説は、否定はしないが魅力的でもない。それは「降る/沈む」のところでもふれたが、なぜ作者がそう書いたのか、に発想が偏りすぎていて、どうにも信用ならないからだ。賢治自身は、原稿ではこれ以外の二カ所もすべてローマ字で書いてから一度全てひらがなに直し、最終的にこの言葉だけをローマ字に戻したのだという。こうした成立過程は、賢治の中で、このローマ字がどのような効果を読者にもたらすかについての計算が働いていることを感じさせる。それは悲痛の余りそう書かざるを得なかった詩人、などという「作者神話」とはどうみてもズレてしまう。やはり、なぜ作者はこう書いたのか、ではなくまず、これは読者にどのような印象を与えるか、と問うべきなのだ。そしてその検討過程で、それが作者の意図によるものかどうかを推測すべきなのだ。
 そして、これがローマ字であることの効果について、筆者は特別な見解を持っていない。わざと意味をとりにくくしているのだろうと思うのは、読者として意味が分かりにくいからだ。というか、註がなければわかるはずもない。だがそれならば「あめゆじゆ…」も「うまれて…」も同じだ。ともかくも、すぐにはわからない、というクッションが必要なのであって、わかったときに、それが妹の言葉であろうが兄の言葉であろうが、「独りで行く」ことの痛みを感じさせることになるという効果をねらってローマ字なのだろうとは思う。
 こんなことも、とりあえず問うてみて生徒の発想に触れてみれば案外面白いと感ずるかも知れないが、こちらの見解としてとりわけ語りたいとも思わず、今回は扱わなかった。

 さて「永訣の朝」の授業もこれで終わりである。授業は実際には「『から』の謎」で終わった。「Ora」についての考察は、途中で扱ったクラスがひとつあったきりだ。
 だが詩の読解としては少々付け加えるべきことがある。最初の「なぜ頼んだのか?」の段階で考察した「なぜ兄を『いつしやうあかるくする』ことになるのか?」についてである。
 妹がみぞれをとってきてくれと頼むにあたっての想定としてはあれでいいと思う。だが、むろんこれは兄の想像であって、妹の意図がそのとおりだったとは限らない。また、妹が仮にそうした頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと考えたとしても、実際に兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図をくみ取ったからでもあるが、またそれだけでもないとも思う。つまり「妹の最後の頼みを叶えることができた」というだけでないく、そこには、妹の要請に応じて病室に持ち帰るのが「雪のひとわん」であるということ自体が作用しているように感ずるのだ。
 「こんなさつぱりした雪のひとわん」「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわん」「雪と水とのまつしろな二相系をたもち/すきとほるつめたい雫にみちた/このつややかな松のえだから/わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべもの」「この雪は…あんまりどこもまつしろなのだ」「このうつくしい雪」「天上のアイスクリーム」「聖い資糧」といった形容によってイメージされる「みぞれ/雪」は、まぎれもない聖性を帯びたものとして、妹の死を浄める存在であるように感じられる。
 だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでである。それすら兄の妄想じみた穿ちすぎの推測だと言ってもいい。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「みぞれ/雪」を頼んだことも、それが兄を救うための妹の気遣いであったとすら信じているのかもしれない。
 ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、この「みぞれ/雪」が兄にとってはまぎれもなく聖性を帯びたものであることは読み取らなければならない。それについては、今回の一連の授業過程の中には折り込めなかった。今後の課題である。

『セクター5 第5地区』(原題:VAMPYRE:NATION)

 邦題が「第9地区」のパクリであることは、別に隠そうとはしていないだろうが、まるわかりである。「第9地区」のエイリアンがヴァンパイアになった、吸血鬼特区のお話。
 もちろんこの邦題からわかるとおりB級である。だが低予算映画がつまらないとは限らない。アイデアと志次第だ。だがどちらもあまりなかった。まじめにこの映画のつまらなさを論ずるサイト、ブログは偉いと思う。そんな情熱はわかない。いっそ怒りを覚える、という動機で書きたくなるわけでもない。金がかかっていることは間違いないのに、残念なことだ。
 ついでに、ゾンビとともに、ヴァンパイアというのも、素材としては面白いかも知れない、とも思った。どちらも人間が「なる」ものとしての両義性があるからだ(原ヴァンパイアみたいなものもいるらしかったが)。さらにウィルス感染で単なる巨大吸血蝙蝠と化した、元ヴァンパイアを交えての三つどもえという設定は、描き方次第で面白くなるだろうな。
 残念なことだ。

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 9 「から」の謎 2

 ちょっと間があいた。承前。

 「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?
 問題は「まつすぐにすすんでいく」ことの内容をどの程度まで具体的に想像できるかにかかっている。「今まで通りの道を逸れずに」とか「目的に向かって一直線に」とかいう説明はまるで具体的ではない。「道」「目的」とは何を意味しているかがあらためて問題になるだけだ。単に「人として正しい道を進んでいく」といったイメージでも、文脈上、齟齬を来すわけではないが、そうした読みはまあ、それまで、である(「こころ」における「正直な道を歩こうとして」を思い出してしまった。あれも、わかったつもりで読むこともできるが、具体的には何を指しているかを確定しようと思うとたちまち迷路に入ってしまう、考察の可能性を豊かにもった「授業ネタ」である)。
 「も」の意味、つまり「わたくし」が妹と並列されることの意味を充分に説明できるだけの具体性をもって、と言うと、「妹の後を追って、私も真っ直ぐに天国に進んでいく」という解答にいたるのは、思考としては論理的だ。そうした解釈をつい発想して黙って苦笑している者もいるし、わざと口にして積極的に笑いを取りに行く者もいる。
 一方で「妹の死を乗り越えて生きていく」では「も」の意味が無視されてしまう。「わたくしまつすぐにすすんでいく」のではない。あくまでも「わたくし」なのである。つまり単に「死ぬ」でも「生きる」でもないのである。
 文脈上は前の行の「わたくしのけなげないもうとよ」を受けているという指摘をする生徒がいる。適切な指摘だ。「まつすぐにすすんでいく」とは確かに「けなげ」であることを指している。ではさらに「けなげ」とはどういうことを指しているか、と聞く。
 このあたりで、単に説明の言葉を探すよりも、詩全体に視野を広げて考えるよう指示する。もっと端的に指示するなら、この部分と他の部分に共通する要素を探せ、と言ってしまう。時間をとって考えさせたいが、生徒の根気と授業時間に制限がありそうなら、「まつすぐにすすんでいく」の前の部分と、49行目からの「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」を読み比べよ、と指示する。何か気付くことはないか?
 さらに時間をおいて考えさせたいが、これでもやはり問いが漠然とし過ぎて、生徒には考えようがないかもしれない。考え倦ねている様子が見られたら、端的に、両者に共通する要素はないか、と聞いてもいい。そしてもう一カ所、結びつけて考えて欲しい箇所がある、と付け加える。そしてさらに、以前の授業の考察が伏線になっている、とも言う。
 ここまで誘導すると、気付く生徒が現れる。
 両者はともに「他人のために生きる」という点において重ね合わせることができるのである。
 このフレーズを提示したとたんに、何割かの生徒の中では、ある論理が焦点を結ぶはずだ。「腑に落ちる」という感覚である。
 だがもちろん、その論理を言葉にして説明することが、同様に容易なわけではない。
 「また人に生まれてくるときは、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます」は誰の言葉か? 言うまでもなく、今しも死にゆく妹の言葉でしかあり得ない。妹は何を言っているのか? 「苦しまないように」という否定形ではなく、「また人に生まれてくるときは」どのようにしたいと言っていることになるのか?
 例によって問いを微分していく。
 「自分のことばかり」であることを悔やんでいるということは、本当は「自分のことばかり」ではなく、すなわち「他人のために」生きたかったということだ、と考えることに無理はないはずだ。何に苦しんでいたの? と聞く。もちろん「病気で」という答えは返ってくる。他に考えられる可能性は? と聞けば、例えば「貧乏で生活が苦しかった」などという答えも出てくる(宮澤家は裕福だったから現実とは合致していないかもしれないが)。あるいは病気以外の、自分に関する何らかの悩みだって可能性としては想像していい。ともあれ、そうした阻害要因によって、「自分のことばかり」であったことを悔いているとすれば、可能ならば「他人のために生きる」ことこそ、彼女の本望であったはずなのだ。それが叶えられないで死にゆく者の言葉として「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」が読めることを確認する。
 一方で「まつすぐにすすんでいくから」の前の部分はどうか?
 ここは先の「なぜ頼んだのか?」の考察が伏線になっている。兄にみぞれをとってきてくれと頼む妹の要請が、自らの欲求に因るものではなく、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたのだと語り手は考える。死の間際にありながら、それでも他人のことを考える妹の「けなげ」さに対して語り手は「ありがたう」と言っている。それを受けて「わたくしも」なのである。とすれば、「まつすぐにすすむ」とは、妹がそうしていたように、あるいはそうしたかったように「他人のために生きる」ことにほかならない。ここは、そうして妹の遺志を継ぐことの宣言を理由として、妹が安心して天に召されることを願っているからこその「から」なのである。

 さて、こうした考察によって初めて明らかになる一節があるはずだ。こうした賢治の願いを引き受けた表現があるはずだ、と問えば誰かしら気づく生徒がいる。
 55行目の「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」の中の「みんなとに」である。
 この「みぞれ」「雪」は、いわば妹の死に水、末期の水である。それが「天上のアイスクリーム」などという甘やかなイメージに変換されたからといって、「みんなとに」もたらされる理由はない(改稿された後の「兜率の天の食(じき)」には衆生を救うイメージが付加されているが)。それなのに「みんなとに」がここに挿入される必然性は、ここがいわば、妹の死後、妹の遺志を継いで兄が「みんなのために生きる」ことを妹への手向けの言葉として宣言しているからである。

 「永訣の朝」という詩が、妹の意志を継ぐことを宣言することで妹を看取る兄の祈りを主想とする詩であることを、「から」で表される「理由」が「理由」になっている論理を明らかにすることで読み取ってきた。
 こうした、この詩の主想の捉え方自体は特別に目新しいものではない。だがそれは必ずしもこの詩を「読む」ことによってもたらされる認識であるとは限らない。我々教師は、実は宮澤賢治が農民のために一生を捧げた教師であるといった伝記的事実を事前に知っており、それをガイドラインにして詩を読んでいる。だがそうした賢治の祈りは、いわば詩の「外部」から持ち込まずとも実は目の前の詩の言葉を丹念に読むことによって読み取れるのである。
 我々は授業において宮澤賢治という人物について教えようとしているわけではないし、「永訣の朝」という詩について教えているのですらない。国語の授業をしているのである。生徒自身が目の前のテキストを「読む」のである。

 以下次号 「『Ora』とは誰か、『雪』のイメージ」