ちょっと間があいた。
承前。
「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?
問題は「まつすぐにすすんでいく」ことの内容をどの程度まで具体的に想像できるかにかかっている。「今まで通りの道を逸れずに」とか「目的に向かって一直線に」とかいう説明はまるで具体的ではない。「道」「目的」とは何を意味しているかがあらためて問題になるだけだ。単に「人として正しい道を進んでいく」といったイメージでも、文脈上、齟齬を来すわけではないが、そうした読みはまあ、それまで、である(「こころ」における「正直な道を歩こうとして」を思い出してしまった。あれも、わかったつもりで読むこともできるが、具体的には何を指しているかを確定しようと思うとたちまち迷路に入ってしまう、考察の可能性を豊かにもった「授業ネタ」である)。
「も」の意味、つまり「わたくし」が妹と並列されることの意味を充分に説明できるだけの具体性をもって、と言うと、「妹の後を追って、私も真っ直ぐに天国に進んでいく」という解答にいたるのは、思考としては論理的だ。そうした解釈をつい発想して黙って苦笑している者もいるし、わざと口にして積極的に笑いを取りに行く者もいる。
一方で「妹の死を乗り越えて生きていく」では「も」の意味が無視されてしまう。「わたくし
はまつすぐにすすんでいく」のではない。あくまでも「わたくし
も」なのである。つまり単に「死ぬ」でも「生きる」でもないのである。
文脈上は前の行の「わたくしのけなげないもうとよ」を受けているという指摘をする生徒がいる。適切な指摘だ。「まつすぐにすすんでいく」とは確かに「けなげ」であることを指している。ではさらに「けなげ」とはどういうことを指しているか、と聞く。
このあたりで、単に説明の言葉を探すよりも、詩全体に視野を広げて考えるよう指示する。もっと端的に指示するなら、この部分と他の部分に共通する要素を探せ、と言ってしまう。時間をとって考えさせたいが、生徒の根気と授業時間に制限がありそうなら、「まつすぐにすすんでいく」の前の部分と、49行目からの「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」を読み比べよ、と指示する。何か気付くことはないか?
さらに時間をおいて考えさせたいが、これでもやはり問いが漠然とし過ぎて、生徒には考えようがないかもしれない。考え倦ねている様子が見られたら、端的に、両者に共通する要素はないか、と聞いてもいい。そしてもう一カ所、結びつけて考えて欲しい箇所がある、と付け加える。そしてさらに、以前の授業の考察が伏線になっている、とも言う。
ここまで誘導すると、気付く生徒が現れる。
両者はともに「他人のために生きる」という点において重ね合わせることができるのである。
このフレーズを提示したとたんに、何割かの生徒の中では、ある論理が焦点を結ぶはずだ。「腑に落ちる」という感覚である。
だがもちろん、その論理を言葉にして説明することが、同様に容易なわけではない。
「また人に生まれてくるときは、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます」は誰の言葉か? 言うまでもなく、今しも死にゆく妹の言葉でしかあり得ない。妹は何を言っているのか? 「苦しまないように」という否定形ではなく、「また人に生まれてくるときは」どのようにしたいと言っていることになるのか?
例によって問いを微分していく。
「自分のことばかり」であることを悔やんでいるということは、本当は「自分のことばかり」ではなく、すなわち「他人のために」生きたかったということだ、と考えることに無理はないはずだ。何に苦しんでいたの? と聞く。もちろん「病気で」という答えは返ってくる。他に考えられる可能性は? と聞けば、例えば「貧乏で生活が苦しかった」などという答えも出てくる(宮澤家は裕福だったから現実とは合致していないかもしれないが)。あるいは病気以外の、自分に関する何らかの悩みだって可能性としては想像していい。ともあれ、そうした阻害要因によって、「自分のことばかり」であったことを悔いているとすれば、可能ならば「他人のために生きる」ことこそ、彼女の本望であったはずなのだ。それが叶えられないで死にゆく者の言葉として「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」が読めることを確認する。
一方で「まつすぐにすすんでいくから」の前の部分はどうか?
ここは先の「なぜ頼んだのか?」の考察が伏線になっている。兄にみぞれをとってきてくれと頼む妹の要請が、自らの欲求に因るものではなく、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたのだと語り手は考える。死の間際にありながら、それでも他人のことを考える妹の「けなげ」さに対して語り手は「ありがたう」と言っている。それを受けて「わたくしも」なのである。とすれば、「まつすぐにすすむ」とは、妹がそうしていたように、あるいはそうしたかったように「他人のために生きる」ことにほかならない。ここは、そうして妹の遺志を継ぐことの宣言を理由として、妹が安心して天に召されることを願っているからこその「から」なのである。
さて、こうした考察によって初めて明らかになる一節があるはずだ。こうした賢治の願いを引き受けた表現があるはずだ、と問えば誰かしら気づく生徒がいる。
55行目の「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」の中の「みんなとに」である。
この「みぞれ」「雪」は、いわば妹の死に水、末期の水である。それが「天上のアイスクリーム」などという甘やかなイメージに変換されたからといって、「みんなとに」もたらされる理由はない(改稿された後の「兜率の天の食(じき)」には衆生を救うイメージが付加されているが)。それなのに「みんなとに」がここに挿入される必然性は、ここがいわば、妹の死後、妹の遺志を継いで兄が「みんなのために生きる」ことを妹への手向けの言葉として宣言しているからである。
「永訣の朝」という詩が、妹の意志を継ぐことを宣言することで妹を看取る兄の祈りを主想とする詩であることを、「から」で表される「理由」が「理由」になっている論理を明らかにすることで読み取ってきた。
こうした、この詩の主想の捉え方自体は特別に目新しいものではない。だがそれは必ずしもこの詩を「読む」ことによってもたらされる認識であるとは限らない。我々教師は、実は宮澤賢治が農民のために一生を捧げた教師であるといった伝記的事実を事前に知っており、それをガイドラインにして詩を読んでいる。だがそうした賢治の祈りは、いわば詩の「外部」から持ち込まずとも実は目の前の詩の言葉を丹念に読むことによって読み取れるのである。
我々は授業において宮澤賢治という人物について教えようとしているわけではないし、「永訣の朝」という詩について教えているのですらない。国語の授業をしているのである。生徒自身が目の前のテキストを「読む」のである。
以下次号 「『Ora』とは誰か、『雪』のイメージ」