結局10回の連載になったが、今回でひとまず終わりである。折を見て書き下ろそうとは思っているし、ブログ自体もちょこちょこと読み返して、修正していくだろうが。
さて、「永訣の朝」という詩を教えるというのなら触れなければならない問題はまだある。「まがつたてつぱうだまのやうに」は考察のネタとしては、ちょっとだけ面白かったが結論は出ない。28~30行目の「……ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまつてゐる/わたくしはそのうへにあぶなくたち」にいたっては未だに何のことかわからない(もちろんそれなりの解釈も想像もするが、それが妥当なものだという納得はない)。
あるいはどうみても意味ありげに繰り返される「二」という数字の意味についても、なんのアイデアもない。なぜ陶椀を「ふたつ」持つのかも、賢治が妹と自分の思い出である陶椀二つを切り離して考えられないからだ、などという解釈を聞いても、だからどうした、と思うばかりである(このへんが、自分はこの詩の良い読者ではないなあと思うところだ)。だから、なぜ賢治は陶椀を「ふたつ」持って出たのか? などと授業で聞く気にはなれない。
それよりも問いたいのは次のことがらである。
39行目「(Ora Orade Shitori egumo)」は誰の言葉か? 「Ora」とは誰を指しているか?
もちろん結論はわかっている。だからこんなことを授業で問う国語教師は多くはあるまい。だがそれは賢治の自註と、連作の「松の針」などから「わかる」のであって、この詩を読んだだけでそれが確定できるわけではない。教科書の註には「私は私で独り行きます」という意味だと書いてあるだけで「私」が誰を指しているかは書いていない。
こちらがそれを「教える」ことなく、生徒に問うてみる。必ずどのクラスでも兄と妹で見解は分かれる。見解が分かれるということは考察の余地があるということだ。
だから問題は、そのように考える根拠と、そうだとすると、詩の中でこの一節がどのような意味を持っていると考えるか、である。
丸括弧で括られている他のふたつ「あめゆじゆ…」「うまれて…」が明らかに妹の言葉だから「(Ora…)」もそうなのだと言うことは容易い。だが丸括弧に括られている言葉とそうでない詩行とは、そもそも方言と標準語という違いがあるのであり、つまり口に出された言葉を書き取った(らしく見える)ものに括弧が付されているのだとすれば、その語り手が統一されている保証はない。むしろ、ひらがなとローマ字、三文字下げになっていない、といった差異によって、「(Ora…)」だけが他の二カ所と区別されるはずだとも言える。したがってこの台詞は兄の言葉だと考えるべきだ、と主張することもできる。つまり形態上はどちらであると言いうる根拠はない(三文字下げについては、校訂上のミスだったという説もあるが)。
内容的にみると、残していく兄を案じて、妹が別れを告げた言葉だとも、妹との別れを受け入れようとする兄の決意の言葉だとも受け取れる。どちらの言葉であるかを、二つの可能性それぞれについて生徒自身が先入観抜きに検討することこそ学習なのであって、教師が結論を提示することに意味があるのではない。どちらの言葉であっても、それを納得しようと読むことが、この一行を挟む「けふおまへはわかれてしまふ」という兄の思いに自らを重ねることになるのである。
そして前後の行に目を向けるとき、36行目の「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」の「いつしよ」が「ひとり」になってしまうこと、44行目で再び繰り返される、「けなげないもうとよ」という呼びかけにこめられた悲痛な思いは、それがどちらの言葉であっても、いっそう読者にそれと感じられるはずだ。
この部分を取り上げる問いとしては、なぜこれがローマ字で書かれているのか、という問いが一般的である。だが、この問いはそれほど魅力的な問いではない。それがこの詩全体を読むことにつながっていかないと思うからだ。
たとえば、「独りで行きます」というトシの言葉に衝撃を受け、それを受け入れたくないという思いがこの言葉を異国の言葉のように書かせているのだ、などという定説は、否定はしないが魅力的でもない。それは「降る/沈む」のところでもふれたが、なぜ作者がそう書いたのか、に発想が偏りすぎていて、どうにも信用ならないからだ。賢治自身は、原稿ではこれ以外の二カ所もすべてローマ字で書いてから一度全てひらがなに直し、最終的にこの言葉だけをローマ字に戻したのだという。こうした成立過程は、賢治の中で、このローマ字がどのような効果を読者にもたらすかについての計算が働いていることを感じさせる。それは悲痛の余りそう書かざるを得なかった詩人、などという「作者神話」とはどうみてもズレてしまう。やはり、なぜ作者はこう書いたのか、ではなくまず、これは読者にどのような印象を与えるか、と問うべきなのだ。そしてその検討過程で、それが作者の意図によるものかどうかを推測すべきなのだ。
そして、これがローマ字であることの効果について、筆者は特別な見解を持っていない。わざと意味をとりにくくしているのだろうと思うのは、読者として意味が分かりにくいからだ。というか、註がなければわかるはずもない。だがそれならば「あめゆじゆ…」も「うまれて…」も同じだ。ともかくも、すぐにはわからない、というクッションが必要なのであって、わかったときに、それが妹の言葉であろうが兄の言葉であろうが、「独りで行く」ことの痛みを感じさせることになるという効果をねらってローマ字なのだろうとは思う。
こんなことも、とりあえず問うてみて生徒の発想に触れてみれば案外面白いと感ずるかも知れないが、こちらの見解としてとりわけ語りたいとも思わず、今回は扱わなかった。
さて「永訣の朝」の授業もこれで終わりである。授業は実際には「『から』の謎」で終わった。「Ora」についての考察は、途中で扱ったクラスがひとつあったきりだ。
だが詩の読解としては少々付け加えるべきことがある。最初の「なぜ頼んだのか?」の段階で考察した「なぜ兄を『いつしやうあかるくする』ことになるのか?」についてである。
妹がみぞれをとってきてくれと頼むにあたっての想定としてはあれでいいと思う。だが、むろんこれは兄の想像であって、妹の意図がそのとおりだったとは限らない。また、妹が仮にそうした頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと考えたとしても、実際に兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図をくみ取ったからでもあるが、またそれだけでもないとも思う。つまり「妹の最後の頼みを叶えることができた」というだけでないく、そこには、妹の要請に応じて病室に持ち帰るのが「雪のひとわん」であるということ自体が作用しているように感ずるのだ。
「こんなさつぱりした雪のひとわん」「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわん」「雪と水とのまつしろな二相系をたもち/すきとほるつめたい雫にみちた/このつややかな松のえだから/わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべもの」「この雪は…あんまりどこもまつしろなのだ」「このうつくしい雪」「天上のアイスクリーム」「聖い資糧」といった形容によってイメージされる「みぞれ/雪」は、まぎれもない聖性を帯びたものとして、妹の死を浄める存在であるように感じられる。
だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでである。それすら兄の妄想じみた穿ちすぎの推測だと言ってもいい。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「みぞれ/雪」を頼んだことも、それが兄を救うための妹の気遣いであったとすら信じているのかもしれない。
ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、この「みぞれ/雪」が兄にとってはまぎれもなく聖性を帯びたものであることは読み取らなければならない。それについては、今回の一連の授業過程の中には折り込めなかった。今後の課題である。
さて、「永訣の朝」という詩を教えるというのなら触れなければならない問題はまだある。「まがつたてつぱうだまのやうに」は考察のネタとしては、ちょっとだけ面白かったが結論は出ない。28~30行目の「……ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまつてゐる/わたくしはそのうへにあぶなくたち」にいたっては未だに何のことかわからない(もちろんそれなりの解釈も想像もするが、それが妥当なものだという納得はない)。
あるいはどうみても意味ありげに繰り返される「二」という数字の意味についても、なんのアイデアもない。なぜ陶椀を「ふたつ」持つのかも、賢治が妹と自分の思い出である陶椀二つを切り離して考えられないからだ、などという解釈を聞いても、だからどうした、と思うばかりである(このへんが、自分はこの詩の良い読者ではないなあと思うところだ)。だから、なぜ賢治は陶椀を「ふたつ」持って出たのか? などと授業で聞く気にはなれない。
それよりも問いたいのは次のことがらである。
39行目「(Ora Orade Shitori egumo)」は誰の言葉か? 「Ora」とは誰を指しているか?
もちろん結論はわかっている。だからこんなことを授業で問う国語教師は多くはあるまい。だがそれは賢治の自註と、連作の「松の針」などから「わかる」のであって、この詩を読んだだけでそれが確定できるわけではない。教科書の註には「私は私で独り行きます」という意味だと書いてあるだけで「私」が誰を指しているかは書いていない。
こちらがそれを「教える」ことなく、生徒に問うてみる。必ずどのクラスでも兄と妹で見解は分かれる。見解が分かれるということは考察の余地があるということだ。
だから問題は、そのように考える根拠と、そうだとすると、詩の中でこの一節がどのような意味を持っていると考えるか、である。
丸括弧で括られている他のふたつ「あめゆじゆ…」「うまれて…」が明らかに妹の言葉だから「(Ora…)」もそうなのだと言うことは容易い。だが丸括弧に括られている言葉とそうでない詩行とは、そもそも方言と標準語という違いがあるのであり、つまり口に出された言葉を書き取った(らしく見える)ものに括弧が付されているのだとすれば、その語り手が統一されている保証はない。むしろ、ひらがなとローマ字、三文字下げになっていない、といった差異によって、「(Ora…)」だけが他の二カ所と区別されるはずだとも言える。したがってこの台詞は兄の言葉だと考えるべきだ、と主張することもできる。つまり形態上はどちらであると言いうる根拠はない(三文字下げについては、校訂上のミスだったという説もあるが)。
内容的にみると、残していく兄を案じて、妹が別れを告げた言葉だとも、妹との別れを受け入れようとする兄の決意の言葉だとも受け取れる。どちらの言葉であるかを、二つの可能性それぞれについて生徒自身が先入観抜きに検討することこそ学習なのであって、教師が結論を提示することに意味があるのではない。どちらの言葉であっても、それを納得しようと読むことが、この一行を挟む「けふおまへはわかれてしまふ」という兄の思いに自らを重ねることになるのである。
そして前後の行に目を向けるとき、36行目の「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」の「いつしよ」が「ひとり」になってしまうこと、44行目で再び繰り返される、「けなげないもうとよ」という呼びかけにこめられた悲痛な思いは、それがどちらの言葉であっても、いっそう読者にそれと感じられるはずだ。
この部分を取り上げる問いとしては、なぜこれがローマ字で書かれているのか、という問いが一般的である。だが、この問いはそれほど魅力的な問いではない。それがこの詩全体を読むことにつながっていかないと思うからだ。
たとえば、「独りで行きます」というトシの言葉に衝撃を受け、それを受け入れたくないという思いがこの言葉を異国の言葉のように書かせているのだ、などという定説は、否定はしないが魅力的でもない。それは「降る/沈む」のところでもふれたが、なぜ作者がそう書いたのか、に発想が偏りすぎていて、どうにも信用ならないからだ。賢治自身は、原稿ではこれ以外の二カ所もすべてローマ字で書いてから一度全てひらがなに直し、最終的にこの言葉だけをローマ字に戻したのだという。こうした成立過程は、賢治の中で、このローマ字がどのような効果を読者にもたらすかについての計算が働いていることを感じさせる。それは悲痛の余りそう書かざるを得なかった詩人、などという「作者神話」とはどうみてもズレてしまう。やはり、なぜ作者はこう書いたのか、ではなくまず、これは読者にどのような印象を与えるか、と問うべきなのだ。そしてその検討過程で、それが作者の意図によるものかどうかを推測すべきなのだ。
そして、これがローマ字であることの効果について、筆者は特別な見解を持っていない。わざと意味をとりにくくしているのだろうと思うのは、読者として意味が分かりにくいからだ。というか、註がなければわかるはずもない。だがそれならば「あめゆじゆ…」も「うまれて…」も同じだ。ともかくも、すぐにはわからない、というクッションが必要なのであって、わかったときに、それが妹の言葉であろうが兄の言葉であろうが、「独りで行く」ことの痛みを感じさせることになるという効果をねらってローマ字なのだろうとは思う。
こんなことも、とりあえず問うてみて生徒の発想に触れてみれば案外面白いと感ずるかも知れないが、こちらの見解としてとりわけ語りたいとも思わず、今回は扱わなかった。
さて「永訣の朝」の授業もこれで終わりである。授業は実際には「『から』の謎」で終わった。「Ora」についての考察は、途中で扱ったクラスがひとつあったきりだ。
だが詩の読解としては少々付け加えるべきことがある。最初の「なぜ頼んだのか?」の段階で考察した「なぜ兄を『いつしやうあかるくする』ことになるのか?」についてである。
妹がみぞれをとってきてくれと頼むにあたっての想定としてはあれでいいと思う。だが、むろんこれは兄の想像であって、妹の意図がそのとおりだったとは限らない。また、妹が仮にそうした頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと考えたとしても、実際に兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図をくみ取ったからでもあるが、またそれだけでもないとも思う。つまり「妹の最後の頼みを叶えることができた」というだけでないく、そこには、妹の要請に応じて病室に持ち帰るのが「雪のひとわん」であるということ自体が作用しているように感ずるのだ。
「こんなさつぱりした雪のひとわん」「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわん」「雪と水とのまつしろな二相系をたもち/すきとほるつめたい雫にみちた/このつややかな松のえだから/わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべもの」「この雪は…あんまりどこもまつしろなのだ」「このうつくしい雪」「天上のアイスクリーム」「聖い資糧」といった形容によってイメージされる「みぞれ/雪」は、まぎれもない聖性を帯びたものとして、妹の死を浄める存在であるように感じられる。
だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでである。それすら兄の妄想じみた穿ちすぎの推測だと言ってもいい。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「みぞれ/雪」を頼んだことも、それが兄を救うための妹の気遣いであったとすら信じているのかもしれない。
ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、この「みぞれ/雪」が兄にとってはまぎれもなく聖性を帯びたものであることは読み取らなければならない。それについては、今回の一連の授業過程の中には折り込めなかった。今後の課題である。
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