『ガントレット』に続いてソンドラ・ロックとの共演による、心温まる「男」映画。ガンマンがショーを行う「偽物」であるしかないような現代のアメリカのほろ苦さが巧みに描かれる。食い詰めたサーカス団で列車強盗をやることになり、本当に? と思っていると単に列車としばらく併走して終わるだけのエピソードは実に巧かった。
ほろ苦さを描きつつも、最後はかなり脳天気なハッピーエンドで終わる。
『ガントレット』に続いてソンドラ・ロックとの共演による、心温まる「男」映画。ガンマンがショーを行う「偽物」であるしかないような現代のアメリカのほろ苦さが巧みに描かれる。食い詰めたサーカス団で列車強盗をやることになり、本当に? と思っていると単に列車としばらく併走して終わるだけのエピソードは実に巧かった。
ほろ苦さを描きつつも、最後はかなり脳天気なハッピーエンドで終わる。
「未体験ゾーンの映画たち2016」の宣伝で気になってレンタルなどを探したがずっと見つからずにいたのが、思いがけずアマプラで。
ループ物だとはわかっている。冒頭近くから入り込む階段のループは安上がりで、ほとんど自主映画レベル。のわりに長い。
次にメキシコかアメリカ南部かの草原を走る車がループに閉じ込められる。これも基本的には階段と同じで、どちらへ行っても同じ場所に帰ってしまう、というパターン。
そういえば「ループ物」といえば時間のループが定番だが、これは空間のループに閉じ込められるパターンなのだった。
さて、ここからの脱出やら原因の究明やらというのがループ物の展開の必須要件だが、ループがシンプルでどうにもならないということか、そこの展開はあまりなく、とにかく長い時間を、繰り返して過ごしていたことだが知れるばかり。その蓄積を示す描写は、前半の安上がりぶりからすると意外なほど物量で偏執狂的な描写をしてくる。そこはまあちょっとした見所ではある。
が、結局謎解きやら脱出やらのカタルシスがない。ループの謎解きが、あまりにわかりにくすぎる。かつ、深淵な思想がありそうで、だからどうしたという印象しかもてない、実は中2なだけではないのかという疑いが捨てきれない理屈でループが想定されているのだった。メタファーとしてもそれほど感じるところのない、どういう必然性があるのかわからない設定だった。
年来の課題は、こうして残念な結末に終わったのだった。
『ボーン』シリーズの最初の3作はたぶん2回ずつ観ている。どれがどれの場面だったのかもう混同しているが、とにかくどれも驚くべき出来だと思った。マット・デイモンではない『ボーン・レガシー』も凄い映画だった。ああいう映画を日本が作ることはほとんど絶望的だと思われる。
さてマット・デイモンとしては4作目の本作もまたすごかった。ストーリーとしてはいささか単純に過ぎるという気もする。主人公が復讐という動機で動きすぎているところが、らしくないなあ、とも思う。降りかかる火の粉を払うという動機で動いていた前作までに比べると。
だが、2回に及ぶカーチェイスの凄さは、本当に感嘆すべきもので、どれほどの準備をして、これがなしえているのか、見当もつかない。
法的な問題だけでなく、アニメでなら作れるかといえば、現状でこれほどのイマジネーションを可能にするアニメスタジオがあろうという期待はできない。
ハリウッドのすごさ。ポール・グリーングラスのすごさ。
戦後5年の時点で書かれた三好十郎の戯曲。2時間の舞台を鈴木杏の一人芝居で見せる。この演技が圧巻だった。「知識人」の語る理念・観念に一時心酔した娘が終戦で裏切られて「殺意」を抱くが、やがて相手の人間的弱さに触れて許すまで。
演劇が大衆のものではなくインテリのものであることを示すような戯曲だが、いや面白かった。
観たのはたぶん20年以上前だから、もちろん細かいところはまるで覚えていない。ラストのバスが蜂の巣になる銃乱射シーンはすごいシーンだとは思ったが今観るとどうなのか。クリント・イーストウッドが主演だとは覚えていたが、監督でもあったか。
警察上層部の汚職を巡る裁判の証人を、警察とマフィアがグルになって消そうとする。証人の護送を任されるイーストウッド演ずる警官もろとも殺そうと、実に派手な銃乱射をくりひろげる。ラストのバスだけでなく、最初は木造家屋が一軒潰れるし、次にパトカー、そしてバスなのだった。
両側から銃撃すると味方に当たるから、囲んでの銃乱射は非現実的なのだが、まあこの大げさな描写こそをやりたかったのだということはよくわかる。題名がそれなんだし。もうほとんどそこにしか意味はない。追い詰められた二人の逆襲とかいうストーリーにそれなりのカタルシスはあるものの、それよりまあやりすぎだよなあという感想が先に立つ。当時のイーストウッドらしいダーティヒーロー映画として観るしかないのだな。
評判が良いらしい作品なので観ておこうと。
アニメーションの質は高かったし、ポンポさんのキャラクターも魅力的ではあるのだが、作品全体としては満足できなかった。
「ヒロインが魅力的に撮れれば映画は成功」という台詞が劇中にあるにもかかわらず、劇中劇の主演女優が魅力的ではない。どういうわけだか、声優があまりに大根でこれは完全にキャスティングのミスなのだが、物語自体も、シンデレラガールとしてのヒロインがどういう魅力を持っているのか、ちっとも描けていないのだ。単に可愛い女の子の「絵」を描くことはできる。このヒロインはそれ以上ではない。毎度の、いかにもアニメ的なドジっ娘描写にも魅力はないし、言動なりエピソードなりで何か特別なものを見せないで、どう感情移入すればいいのか。
これはまあ難しいことではある。劇中の何かの魅力は、その魅力を受け止める登場人物の反応を見せることで、それがあると見なすことを読者・観客に納得させるというお約束もある。だからポンポさんなり主人公なりがヒロインの魅力に反応しているからには、それは「ある」ということにしておくべきなのかもしれない。
だがそれはそれである種の理屈を立ててもほしい。最近観ている「ブルーロック」は、いちいち理屈を立てるところが魅力だ。サッカーの強さは、現実には速さや力強さや判断の的確さの積み重ねで差がつくだけだとも言えるのだろうが、それだけでない、何かがそこに起こっているのだ、といえる「何か」を考えてほしい。そういうのがなしに、ただ主人公が強くても、だからなんだという気もしてしまうのだ。以前「星合いの空」の試合の演出に呆れたのはそういうことだった。
そして、劇中でニャカデミー賞を獲ることになる作品の描き方にも疑問がある。そんなにうまくいくかという、ご都合主義を感じて冷めてしまう展開はまあ放っておいてもいいが、問題は「作品は大衆のためにではなく、誰か一人の人のために作れば良いのだ」というテーゼが語られ、それがために成功したのだという理屈になっているはずなのに、問題の「ポンポさんのため」という理屈がどのように成立しているのかわからない。単に長い映画が好きではないと言ったポンポさんに合わせて90分にしたというだけなのだ。それはポンポさんの要望にあわせたということではあるが、それでどうその映画が良いものになったのかはわからない。
とにかく物作りへの情熱が描かれるお話は好意的に受け取られやすい。それが映画となれば、映画関係者は感情移入したくなるだろう。
だがどうにも理屈が立っていない。