2015年1月1日木曜日

「クリスマスの約束 2014」、「紅白歌合戦」、Fab Cushion

 大晦日にようやく帰省した娘がいて、食事時はにぎやかになるけれど、それ以外には大晦日、元日と、それほど普段と変わったことをしない。お餅を食べたくらい。
 で、昨日ようやく「クリスマスの約束 2014」を観た。2001年の第一回からすべて観ているし、ほとんど録画を残している身としては、今回の「ほぼ過去の総集編」は、あれこれ感慨もあったが、勿論不満でもあった。思えば2009年のメドレー合唱は確かに感動的ではあったが、あれ以来面子が固定して、年を追って興味は薄れるばかり。今年のオープニングの合唱も、よりによって「最後のニュース」のあの念仏のようなAメロをユニゾンで歌うって何? 歌が始まった途端、一緒にテレビの前にいた家族そろって失笑してしまった。あのメンバーが揃って出演する限り、興味が薄れるというか、正直「うんざり」という感じだ。
 みんなそう思ってるんじゃなかろうか? とネットで観てみると、実に的確な感想を述べている人がいて感心した。
 人は孤絶するよりも人と結びつくほうがいい。一般的にはその通りだけれど、ひりひりした孤独の中でしか生まれない美しさも確かにあり結びつくことで失われていくものもある。 それは幸福ではないかもしれないが失われていくものだ。 ずっと #クリスマスの約束 を見てきて感じるのはそういうこと。
この人のその後のツイートを見ても、相当に信用できる人であると感じた。
 「クリスマスの約束」は、最後にもう一曲だけ、今年収録の曲を放送したのだが、それが、前日に「名盤ドキュメント」を観たばかりの細野晴臣だったから、 これはいくらなんでも期待せざるをえなかった。それにしても古くからのオフコース&はっぴいえんどファンではあるが、小田さんと細野さんのからみってのは想像できなかった。坂本龍一あたりが両方に関わりがあるとはいえ、いわゆる「はっぴいえんど系」のミュージシャンに小田さんが関わっている例はほとんどないはずだ(ユーミンと矢野顕子がちょっと、くらい)。
 で、期待した共演曲は、期待したとおりには、はっぴいえんどの曲にはならなかったのが惜しまれるが、もちろん「Smile」は良い曲だし、良い演奏だった。こういうのが並ぶのなら来年からも「クリスマスの約束」に期待してもいい。

 さて、上記のツイッターでは、昨夜の「紅白」のサザンオールスターズの出演のことにも言及されている。「歌合戦」そのものはほとんど観なかったが、たまたまサザンの登場した前後は観ていたのだった。ネットでも話題の、政治的メッセージを含んだ曲を演奏する桑田の姿勢は全面的に支持してもいい。だがはっきり言って、音楽的にはまるで面白くなかった。手慣れた曲調の曲を、何の新鮮味もなく繰り返して、しかも「定番」の良さがあるかといえばそうでもなく。サザンに良い曲・好きな曲はいっぱいある。が、昨夜の二曲はちっとも。
 それと、問題のメッセージ色の強い歌詞に、若干の不満もある。「教科書は現代史をやるまえに時間切れ そこが一番知りたいのに なんでそうなっちゃうの?」というのは、それはそれで尤もだという思いもありつつ、でも知りたいなら自分で知ればいいのだから、学校教育は、自分では知ろうとしない事柄こそを強制的に知らしめるべきだという思いもあるのである。学校教育は生徒のためにあるのではなく、共同体のためにあるのだ。本人が知りたいのなら情報は溢れているのだから、自分から分け入っていけばいい。
 とはいえ一方で、強制的に知らしめるものだという前提を認めた上で、やはり現代史をこそ教えるべきだとも思う。よく言われていることだが、歴史教育が、現代史から遡って構成されないのは不合理で非効率ではないか? それは歴史が現在との関連を欠いた「よそごと」になってしまう弊に陥っている現状を考えると、当然思い至る発想なはずだ。それはやはり、それを実現しようとするには、社会科教員の授業がルーチン化できないことに起因する怠慢なんじゃなかろうか(と他人事だと無責任なことを言う)。

 さて音楽ネタでもう一つ。キューピーの「ノンオイルきざみ玉ねぎドレッシング」のCM
の音楽が妙に良いぞと思って調べてみたらここに辿り着いた。
Fab Cushion(ファブ・クッション)、覚えておこう。今日の収穫。

2014年12月30日火曜日

「名盤ドキュメント はっぴいえんど『風街ろまん』」

 アナログのマスターテープをミックス前の状態で聴きながら、制作時のエピソードを関係者に訊くという企画は『MASTER TAPE ~荒井由実「ひこうき雲」の秘密を探る~』と同一シリーズかと思っていたのだがそういうわけではなくて、新しく始まった「名盤ドキュメント」と称するシリーズの井上陽水「氷の世界」、佐野元春「ヴィジターズ」に続く第3弾なのだった。上記全て見ているが、同様の企画は海外でもスティービー・ワンダーの「メイキング・オブ『キー・オブ・ライフ』」で見たことがあるし、ザ・バンドの「メイキング・オブ『ザ・バンド』」はDVDを持っている。どれも興味深い。
 とりわけ今回のはっぴいえんどは、私が中学生の時に初めてレコード屋でレコードを買ったのがベスト盤の『CITY』だったこともあり(『風街ロマン』でこそないが)思い入れも深い。「夏なんです」「花いちもんめ」あたりは中学生の頃に最も好きな曲に数えても良いほどに思い入れがあったし、「風をあつめて」はここ十年来、夏のライブでは唯一入れ替わりのない定番のレパートリーだ。
 もちろん番組としてはまるで食い足りない。テレビということで一般視聴者を対象として中途半端に想定しているのが既に全く間違っている。最初からこんな番組は思い入れのある者しか見ないのだ。わかりきった解説はばっさり省いていい。星野源など出す必要は全くない。
 それよりもジャケットイラストの宮谷一彦(漫画家としての諸作品はほとんど持っている)こそ出演させてほしかったが、そうでなくともそもそも全曲解説にはなってないではないか。また、言及されているにしても充分な分析もされているとは言い難い。佐野史郎と高田漣も有効活用しきれず勿体ない。
 ついでに無論「風をあつめて」は好きな曲だが、どうしてあればかりが「名曲」として特別扱いされるのか。カバーが多いのは、単に歌いやすいからではないのか。原曲を超えるカバーなどできるはずもない唯一無二のバージョンである「夏なんです」の方が、私にとってよほど特別な一曲だ。その意味では佐野史郎が、夏の喫茶店で「夏なんです」がかかるのを聴くのは人生の中でもそうとう幸せな一瞬のひとつだ、と語ったのは我が意を得たり! の思いだった。
 そういえば書いていて思い出したのだが、高校一年生の時の美術の授業で、自分の好きな曲で架空のレコードジャケットを作るという課題の時に「夏なんです」のジャケットを描いたのだった。卒業時に提出したそれを返してもらえないかと先生の所へ言いに行ったが結局見つからず、謝られたが実に残念だった(というか、今もって残念きわまりない)。
 とまれ、初心者向け基本情報や星野源や「風をあつめて」ばかりに集中しすぎた解説を省けばもっと、と思いはするものの、それでもともかくも全体としては興奮を抑えきれずに観てしまった。
 そしてなにより、この場に大瀧詠一がいないのはいかにも残念だが、生きていてもきっと大瀧は出演しなかっただろうな。それでも大瀧のコメントがどんなものだったか、その興味深さを考えると、その喪失感は計り知れない。

『猿の惑星 創世記』

 この間の「暗い未来の映画って大好き」の「暗い未来の映画」といえば『ソイレントグリーン』だろ、というのは我々の世代には相当の共感を持ってもらえるものと信じているが、もうひとつ『猿の惑星』シリーズもあの時代の誰もが知っているお話だ。尤も映画のタッチは「暗」くはない。だが「人類衰退」物でもあり、「核戦争で地球が滅亡」物でもあるところが、60~70年代のSFだ。「終末」物SFは我々の原体験である。
 それに比べると新しい『猿の惑星』は、この後に人類の衰退が待ち構えていようと、あまり「暗」くもないし、第一、未来でもない。そうしたSFっぽさを味わう映画というよりは、ひたすらエンターテイメントとして楽しめる映画だった。最初からシーザー達、猿の動きのCG合成の見事さは、やはり三池崇史や山崎貴とは違う。そこがクリアされれば後は脚本で、その構成も申し分ない。シーザーの人間社会での生き辛さもちゃんと伝わってくるし、施設に収容されてからそこの支配者になっていく過程には映画的なワクワク感が満載だった。
 ただ、ラストは最近のいくつかの洋画同様、不全感を拭えなかった。ウィルス感染はどうなった? それにミュアウッズ国定公園の森はチンパンジーの棲めるような環境なのか? そこに棲んだとて、そのあとに間違いなく決行されるであろう人類による猿殲滅作戦を免れまい。良い人ではあるが思慮に欠ける主人公とシーザーの別れの悲しみを超えて、なんとなくメデタシメデタシ的な空気で終わってどうする?
 と思っていたら、調べてみると、あれは単にカットされているのであって、上記二つもちゃんと次の『新世紀』につながるように解決しているのだった。メデタシメデタシ。

2014年12月29日月曜日

『鈴木先生』

 テレビドラマが放送されていた2011年はまだ東北大震災から1ヶ月余りしか経っていなかったなんて、今ではまるでその時の感じが思い出せないのだが、ともかく一緒に観ていた息子と共に、当時テレビ放送されていた連続番組としては毎週、最も楽しみにしていたのははっきりと覚えている。原作は「ヨルムンガンド級」だから、丁寧につくりさえすれば間違いはないのだが、観始めてすぐ期待以上だと興奮した。エンドロールを見ると脚本はまだ「リーガル・ハイ」で評価を不動にする前の(しかし『キサラギ』で期待絶大の)古沢良太だし、画作りがどうみてもテレビドラマではなく映画のそれだった。長谷川博巳も面白い役者だと思ったし、生徒たちも総じてうまい。とうとう来春からNHK朝ドラの主役になってしまう土屋太鳳も、この時に初めて知った。
 それが記録的な低視聴率と数々のテレビ賞受賞という正反対の評価を同時に受けていると知ったときには不思議な気がしたのだが、恐らくそれは原作も同じだ。一般には誰もが知っているとは言い難いが、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞もしている。知り合いには薦めたいが一般に有名になって欲しいというわけでもない。
 さて劇場版だが、テレビドラマを超えるものではむろんなかった。原作では鈴木先生的な教育効果が、最初は少数の生徒からクラス全体に拡大していって、最終的には学校全体を巻き込むことになる。その最も見所となるのは基本的には討論である。認識が次々と更新されていくダイナミクスにこそ『鈴木先生』という物語の最大の魅力があるはずだ。だからクラスレベルにまで拡大したところで終わったテレビシリーズに続く劇場映画は、それが学校全体を巻き込んだ討論会になる原作終盤をこそ描いて欲しかった。確かに生徒会選挙は描かれ、そこでの北村匠海の演説は悪くなかった。が、「認識の更新」は一回きりで、「次々と」というほどのダイナミクスを生み出すには至らなかった。
 で、映画的にはやはり立て籠もり事件をメインに据えることになるのは致し方ないか。だが、実写映画で見てしまうと、学校立て籠もりだのレイプだのといった展開はどうにも無理があって違和感が強すぎた。原作はもともとどうみても「やり過ぎ」感満点な描写を笑いながら受け入れるのが読者のお約束になっている過剰性をもったマンガなのだ。それをそのまま実写映画にするのは辛い。風間俊介演ずる立て籠もり犯の鬱屈も充分に描かれてはいず、行動が唐突に感じられてしまったし、小川が飛び移る校舎の間隔は広すぎて、映画的なギミックというよりは、映画そのものをシリアスな物語のテーマに不釣り合いなちゃちな「お話」に堕してしまっていた。
 それでも悪い印象ではなく見終えられたのは、北村匠海の演技が凄かったからだ。上記の演説場面ではなく、選挙結果を受けて会長就任を受け入れる逡巡を表現したシーンである。たっぷりの間をとった演技が、演ずる「出水」の潔癖さと思慮深さと意志の強さを印象づける素晴らしい演技だった。驚いて見ていたら、そのシーンの終わりに横にいた息子も同時に「すごい」と言って、はからずも同じ感銘を受けていたのがわかったのだった。
 余談ながらエンドロールを見ていて、ロケに使われた中学校が私の出身中学校の隣の中学校、連れ合いやその一族の通った(姪が現在も通っている)中学校であることを知ってびっくり。学校の屋上から見えているのは富士市の街なのだった。

2014年12月25日木曜日

『トゥモロー・ワールド』

 全く予備知識無しに観始めてすぐ、菅野よう子作品時代の坂本真綾のとりわけ素晴らしい曲の一つ「ピース」の冒頭の「暗い未来の映画って大好き」というフレーズを思い出してしまった。坂本真綾のいうのは恐らく『ブレードランナー』あたりなんだろうが、我々の世代はすべからく『ソイレントグリーン』を思い出すべしである。まあそれはともかく『トゥモロー・ワールド』である。いやはやおそるべき映画だった。「暗い未来」が画面の中に実在している。そしてその退廃的な空気がなんだか懐かしくも重苦しい。そして美しいのである。
 とにかく「画」としての美しさがいちいち尋常じゃない。ロケにしてもセットにしても、光の当たり方から角度から、考えずに撮っていてはああいう画は撮れないはずだ。だからといってもちろん、美しい風景を撮った環境ビデオなどではなく、緊迫感溢れるSFサスペンスなのである。
 いちいちの演出も考え抜かれている。カメラをどこから撮って、そこで登場人物達やら物語の動向やらがどんな動きを見せるかを、細心の注意を払って演出しているのが端々から感じ取れる。
 とりわけラスト近くの戦闘シーンの緊迫感は尋常じゃなかったし、驚異的な長回しにも心底驚かされ、「映画」としてはオールタイム・ベスト10クラスだぞと興奮して、それにしてはアルフォンソ・キュアロンって監督は知らんなあ、などと暢気に思っていた浅薄を今となっては恥じる。調べてみると『ゼロ・グラビティ』で今年話題だった監督じゃないか。それどころか、うちの子供達とも共通認識の『ハリー・ポッター』シリーズ最高傑作『アズガバンの囚人』も監督している。あれは実に面白い映画だったが、まあ原作が良いのかも知れぬと思っていたから、今回のことでやはり監督の力量でもあるのだとあらためて認識した。
 で、驚異の長回しは、やはりそれが“売り”なのだった。ネットでの言及もいちいちそれだ。で、なおかつ“驚異の”は、特殊な技術で合成することによって実現したものだと知って感心しこそすれ、がっかりはしなかった。三池崇史とか山崎貴とかのCG合成には大抵の場合がっかりしてしまい、なぜこれを実写にする、アニメにすればいいのに、と思わされるのに、外国のこの手の特殊撮影の技術の高さはどういうわけだろう。日本がこういう分野で明らかに遅れをとっているのは不思議だ。まあその分、二次元アニメに特化して人材が集中しているということか。
 だからといって映像技術がただ素晴らしい映画だったというわけではない。物語を追う流れのどの断片も、熟慮をこらしたらしい細心の演出がなされていると感じさせる「映画」的描写力が素晴らしいのである。ついでにいえば、冒頭の爆発といい、ジュリアン・ムーアの死亡にいたる襲撃シーンといい、椅子に座る後ろ姿のマイケル・ケインが自殺しているのかと思わせてただの居眠りだとわかるシーンといい、赤ん坊の出現で戦闘が中断したと思ったらたちまち再開するシーンといい、いちいち観る者の予断を裏切るギミックもサービス精神旺盛だ。
 惜しむらくは、結局物語的には弱かったことだ。そこが文句なしにベスト10クラスと評価しきれない瑕疵ではある。もちろん大きな瑕疵でもある。『トゥモロー・ワールド』という偽英題(英語かと思いきや邦題だという。原題は『Children of Men』だって。)のがっかり感は許すとしても。赤ん坊が生まれなくなった世界の絶望感は、胸に迫るほどの共感力はなかったし、だから赤ん坊の存在で戦闘が停まって、人々が道を空けるシーンは感動的ではあったが、もっと大きな物語の中にこのエピソードが位置付けられなかった期待外れは否めない。

2014年12月24日水曜日

『沈黙の戦艦』

 かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』は「ヨルムンガンド級」の名作だが、その二番煎じというか“柳の下の泥鰌”商法で『沈黙』シリーズと名づけられたスティーブン・セガールの映画は、一つも観たことがなかった。というわけで初体験は第一作の『沈黙の戦艦(原題:Under Siege)』である。ついでにいえば、コンセプトは『ダイ・ハード』の丸パクリであるところも“柳”である。テロリストに占拠された船の中で、拘束を免れたスティーブン・セガールが一人、テロリストに対抗するのである。なんともはや。
 だが、楽しい映画だった。むろん大名作の『ダイ・ハード』(私的ベスト10に数えられる)のような高度に練り込まれた脚本の素晴らしさはない。が、展開はスピーディーで飽きさせないし、セガールのアクションは(抑えめではあるが)見事だった。何より、テロリストのトミー・リー・ジョーンズが素晴らしかった。『ダイ・ハード』のアラン・リックマンや『レオン』のゲイリー・オールドマン以上といっていい悪役ぶりだった。芝居のキレといい溢れる狂気といい、いやはや恐れ入った。トミー・リー・ジョーンズってのは今まで、役者としては原田芳雄と同じような位置づけで意識されていたのだが、このキャラクターは、はたして原田芳雄に演じられただろうか。
 ついでにゲイリー・ビジーの嫌味な悪役も実に板についてるのだが、どうも見覚えがあるぞと思ったら、ジェイク・ビジーの父親か! 二代続く悪役の家系!?
 それにしても主役のセガール、ずるいほど強い。安心できていいというか、サスペンスが生じないというか。でかい体で余裕の笑顔を浮かべるだけで魅力的というところもずるい。

2014年12月23日火曜日

ヤングシナリオ大賞「隣のレジの梅木さん」

 フジテレビの「ヤングシナリオ大賞」の創設は1987年というから、私が大学生の頃で、第一回の坂元裕二も第二回の野島伸司も、大体同世代。なんとなく思い入れもあって、見つけると観るようにしているのだが、四半世紀も続く有名なシナリオライター登竜門だというのに、心に残るような作品にはなかなか出会えない。
 今年度の「隣のレジの梅木さん」も、もしかしたら脚本はいいのかもしれないが、残念ながら映像化されたテレビドラマはひどいものだった。しかもそれが、基本的に脚本のせいではないかという印象を与えるのだ。人物の造型がシリアスでありながら深みに欠けて、行動が唐突にすぎる。なんら観る者に(とりあえず私に)何の共感も切迫感も感じさせない。物語の展開そのものもそうだ。主要な登場人物三人の抱える問題を並行して描きながらそれをからめる、というねらいは悪くないんだろうと思う。だからもしかしたらやはりこれは演出や編集のせいかもしれない。

 なんだかここんとこ、映画もドラマも残念な印象を語る記事ばかりだ。これはそれこそ残念な印象を読者に与えるような気がする。辛口批評が痛快、とかいうような切れ味を見せるほど書き込んでもいないしな。まあ、自分用のメモ・備忘録ということで御寛恕を。