この間、題名を挙げたもののいまいち記憶がないなと思っていたのだが、観てみると、そもそも観た覚えがなかった。いや、記憶に残らなかっただけかもしれない。
アルカトラズ刑務所からの脱獄映画だとは、題名から知れる。知っていて観ている。そのつもりで期待し、かつ名作と評判が高い映画なのだが、ひたすら地味だった。別に派手であってほしいというわけではない。でも、何を楽しめばいいのか。
いや、考えれば「良い映画」的要素はいっぱいあったような気もする。キャラクターはそれぞれ立っているし、囚人同士の友情やら、憎たらしい所長の鼻を明かす爽快感もある。脱獄の計画の段階のサスペンスはもちろん丁寧に描かれている。
にもかかわらず、結局、これで終わり!? 的なガッカリ感で終わった。言葉に挙げて数えられるほどには、それぞれの要素が面白さにつながっているように思えなかったのだ。脱獄にかける執念や、その能力の高さということなら『破獄』や、同じアルカトラズを舞台にした『ザ・ロック』の方がよほど見応えがあったし、刑務所での悲喜こもごもをドラマとして描くなら『ショーシャンクの空に』にはるかに及ばない。
脱獄にともなうサスペンスがあった、といいつつ、どうにも計画がうまくいきすぎて呆気ないという感じがしてしまうところと、クリント・イーストウッドが、どうしても脱獄したいという動機を強く持っている人物に感じられない、というところに問題があるような。
どうしても出たい、だが困難だ、という葛藤の原動力となる双方の力が、いずれも弱く感じたのだった。
ドン・シーゲルとクリント・イーストウッドといえば『ダーティー・ハリー』だが、あれに比べてもよほど地味だ。
2015年10月31日土曜日
2015年10月27日火曜日
秋刀魚
台湾の漁船が公海上で乱獲するから日本の近海で秋刀魚が不漁だと何度かニュースで見ていたので今年は機会がないかと思っていたら、まずまずの安い秋刀魚が出回っているので、今年も秋刀魚の煮物を作る。小ぶりのが5匹で200円くらいになったら。
かつてレシピを見たことも、調味料の量をはかったこともないが、失敗したことがない。ぶつ切りにして圧力鍋に放り込み、醤油と味醂と砂糖と生姜で味付けして煮るだけ。骨まで柔らかくなってそのまま食べられる。
うまい。
かつてレシピを見たことも、調味料の量をはかったこともないが、失敗したことがない。ぶつ切りにして圧力鍋に放り込み、醤油と味醂と砂糖と生姜で味付けして煮るだけ。骨まで柔らかくなってそのまま食べられる。
うまい。
2015年10月23日金曜日
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 8 「から」の謎 1
前回までの語り手のいる場所についての考察は、詩の中を流れる時間についての把握や、賢治の世界認識のありかたにまでいたる、案外に広い射程に至る考察であった。もともとは「コペルニクス的転回」のスペクタクルを筆者が楽しんでいただけだったのだが。
さて残るは、この詩の主想に至る考察を導く問いである。
前回触れた27行目「雪のさいごのひとわんを…」は、「段落分け」の回にも触れたとおり、25行目の「おまへはわたくしにたのんだのだ」に返っていく。こういうのを何と言う? と聞く。「倒置法」は中学以来馴染んだ詩の技法である。
では22行目の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」はどこにかかる?
23行目は「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインでつながらないし、24・25行目「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ」でも意味不明だ。「倒置法」のやりとりを枕にしておいたのは、前を遡って探すことにも誘導するためだ。しばらく考えさせておく。だが見つからない。
つまりこの「から」はどこにも続かない。かかっていない。では何だ?
何だと言われて、生徒は答えに窮する。考えさせるのは一瞬でいい。何のことはない、つまり文末が省略されているのである。何が省略されている? 何を補う? 何に続く?
これはとりわけ難しい問いではない。「安心して逝きなさい」「心配しないで天国に行ってくれ」…。
さて、ここからが問題である。
「から」は理由を表す接続助詞だ。「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?
しばらく考えさせてから、考えるための糸口を提供する。「も」は並列を表す副助詞だが何と何を並列しているか?
言うまでもなく、妹と兄(わたくし)である。これを条件に入れて「まつすぐにすすんでいく」ことが何を意味しているかを、より具体的に説明せよ、と問う。
読者は、ここがとりわけ「分からない」とは思っていないはずだ(少なくとも授業前の筆者はそうだった)。したがってここまでのやりとりは、既にわかっていることを微分しながら確認しているだけである。省略も理由も並列も、特に考えるでもなく「分かる」。
だがなぜそれが「理由」になるのかを説明しようとすると、俄にその確信が曖昧になる。
この項続く 「『から』の謎 2」
さて残るは、この詩の主想に至る考察を導く問いである。
では22行目の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」はどこにかかる?
23行目は「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインでつながらないし、24・25行目「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ」でも意味不明だ。「倒置法」のやりとりを枕にしておいたのは、前を遡って探すことにも誘導するためだ。しばらく考えさせておく。だが見つからない。
つまりこの「から」はどこにも続かない。かかっていない。では何だ?
何だと言われて、生徒は答えに窮する。考えさせるのは一瞬でいい。何のことはない、つまり文末が省略されているのである。何が省略されている? 何を補う? 何に続く?
これはとりわけ難しい問いではない。「安心して逝きなさい」「心配しないで天国に行ってくれ」…。
さて、ここからが問題である。
「から」は理由を表す接続助詞だ。「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?
しばらく考えさせてから、考えるための糸口を提供する。「も」は並列を表す副助詞だが何と何を並列しているか?
言うまでもなく、妹と兄(わたくし)である。これを条件に入れて「まつすぐにすすんでいく」ことが何を意味しているかを、より具体的に説明せよ、と問う。
読者は、ここがとりわけ「分からない」とは思っていないはずだ(少なくとも授業前の筆者はそうだった)。したがってここまでのやりとりは、既にわかっていることを微分しながら確認しているだけである。省略も理由も並列も、特に考えるでもなく「分かる」。
だがなぜそれが「理由」になるのかを説明しようとすると、俄にその確信が曖昧になる。
この項続く 「『から』の謎 2」
2015年10月21日水曜日
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 7 ~語り手はどこにいるか その3
さて、語り手が詩の最初から「おもて」にいるとすると、6行目の「みぞれはびちよびちよふつてくる」と15行目の「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」の違いはどうなるか?
生徒たちから出てきた「降る」は「軽い・速い」、「沈む」は「重い・遅い」は、否定する必要もないが、それほど重要でもないと思う。確かにこの「みぞれ」の水分含有量は多いが、それは「沈む」の方が、というわけではない。「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として、いわばニュートラルな、無色透明な動詞だ。だから「びちよびちよ」と降るみぞれは、最初から水を多く含んでいるのである。
そして「沈む」という動詞に語り手の気分が反映しているであろうという見解にも首肯しない。最初から語り手が庭先にいるという想定で読み下してみると、6行目と15行目の時間的経過は、問題にするほどには感じられない。気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のである。とりわけ6行目から15行目に向かって気分が「沈む」ような変化があるようには感じない。
ではなぜ「沈んでくる」なのか?
賢治がなぜ「沈む」という動詞を選んだのか、と考えることは留保しよう、と先ほど述べた。そう、まずは読み手が「沈む」をどう読むか、である。そしてそれが本当に筆者の表現したいことなのかを推測すべきなのだ。
筑摩書房の「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。」などという読みは、そうした読者としての印象を無視しているとしか思えない。それは「沈む」という動詞が持っている「視線を下に向ける」という性質をどうにか説明しようとした挙げ句、「みぞれは…沈んでくる」という実際の詩の言葉を無視してしまった惨状だ(それともまさか、本当にそう読んだのか? 一読者として)。
「沈んでくる」は確かに雲を見上げてみぞれの落ちてくる光景を捉えた表現だ。「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられているとしか受け取れない。もちろんそれは6行目も同じで、だからこそ見上げる視線だと考えられるのは、「ふつてくる」の時点で既にそうなのだ。「ふつてくる」が横から見た視線だ、などという指導書の説明はそうした自然な解釈を無視して、語り手が室内にいるという想定から無理矢理説明を組み立てていることによるものに過ぎない。
一方でその文型に「沈む」という動詞をはめこむとどういうことになるか?
語り手はみぞれの落ちてくる雲を見上げながら、同時に自分が「底」にいるのだと感じている、ということだ。「沈む」が見下ろす視線をイメージさせるとすれば、語り手は空を見上げながら、同時に見上げる自分を、「底」にいる自分を、広い空間から見下ろしているのである。
こんなことがありうるか? 何の問題もない、と一読者としての筆者は感ずる。言葉によって構成された虚構が、複数の視線の複合体として捉えられている状態など、珍しいものではない。先に挙げた「彼が部屋の中に入った」なども、イメージしようとすれば、いくつかの方向の視線の交錯した映像として浮かぶ。スタイリッシュな映像を作りたい映画監督ならば、いくつかの方向からのカメラで撮影した短いカットをつないで、その動作や表情や周囲の部屋の造作などから、多くの情報を観客に見せることができるはずだ。小説の、あるいは詩の一節を読む読者にも、同様の映像イメージを脳内に出現させることが可能なのである。「沈む」という動詞と「~から~くる」という不整合な文型が、そうした、二重の映像を同時に生み出しているのである。
こうした解釈は、詩の中のどの言葉と響き合っているか?
生徒に問うてみる。必ず答える生徒はいる(どこのクラスでもそうした答えが出てきた)。
14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。
そして逆に、そうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないか。この地上を「空気の底」「大気の底」と捉える認識は、科学的な認識と宗教的な認識が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人を表したのがこの「沈んでくる」という表現なのではないかと考えるのだ。
さて、語り手のいる場所についての以上のような見解は、詩の中を流れる時間の捉え方についても変更を迫る。
冒頭から12行目「とびだした」までが時間順に沿っているというのが従来の捉え方だ。だが、冒頭から「おもて」にいるとすれば、そこが詩の中の「現在」であり、詩の展開に沿って時間が進行しているのではなく、むしろ時間は遡っていく。語り手の思いは遡って「おもて」に飛びだす場面が回想され、一旦14・15行目で現在に戻るものの、再びさらに遡って、飛びだすにいたるきっかけとしての妹の言葉の発せられた時点へと戻る。
先に
そして後半では36行目に「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」という遠い過去のイメージが重なってくるものの、基本的には時間は遡ることなく、むしろ掉尾では未来へ思いを馳せることになる。
生徒たちから出てきた「降る」は「軽い・速い」、「沈む」は「重い・遅い」は、否定する必要もないが、それほど重要でもないと思う。確かにこの「みぞれ」の水分含有量は多いが、それは「沈む」の方が、というわけではない。「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として、いわばニュートラルな、無色透明な動詞だ。だから「びちよびちよ」と降るみぞれは、最初から水を多く含んでいるのである。
そして「沈む」という動詞に語り手の気分が反映しているであろうという見解にも首肯しない。最初から語り手が庭先にいるという想定で読み下してみると、6行目と15行目の時間的経過は、問題にするほどには感じられない。気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のである。とりわけ6行目から15行目に向かって気分が「沈む」ような変化があるようには感じない。
ではなぜ「沈んでくる」なのか?
賢治がなぜ「沈む」という動詞を選んだのか、と考えることは留保しよう、と先ほど述べた。そう、まずは読み手が「沈む」をどう読むか、である。そしてそれが本当に筆者の表現したいことなのかを推測すべきなのだ。
筑摩書房の「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。」などという読みは、そうした読者としての印象を無視しているとしか思えない。それは「沈む」という動詞が持っている「視線を下に向ける」という性質をどうにか説明しようとした挙げ句、「みぞれは…沈んでくる」という実際の詩の言葉を無視してしまった惨状だ(それともまさか、本当にそう読んだのか? 一読者として)。
「沈んでくる」は確かに雲を見上げてみぞれの落ちてくる光景を捉えた表現だ。「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられているとしか受け取れない。もちろんそれは6行目も同じで、だからこそ見上げる視線だと考えられるのは、「ふつてくる」の時点で既にそうなのだ。「ふつてくる」が横から見た視線だ、などという指導書の説明はそうした自然な解釈を無視して、語り手が室内にいるという想定から無理矢理説明を組み立てていることによるものに過ぎない。
一方でその文型に「沈む」という動詞をはめこむとどういうことになるか?
語り手はみぞれの落ちてくる雲を見上げながら、同時に自分が「底」にいるのだと感じている、ということだ。「沈む」が見下ろす視線をイメージさせるとすれば、語り手は空を見上げながら、同時に見上げる自分を、「底」にいる自分を、広い空間から見下ろしているのである。
こんなことがありうるか? 何の問題もない、と一読者としての筆者は感ずる。言葉によって構成された虚構が、複数の視線の複合体として捉えられている状態など、珍しいものではない。先に挙げた「彼が部屋の中に入った」なども、イメージしようとすれば、いくつかの方向の視線の交錯した映像として浮かぶ。スタイリッシュな映像を作りたい映画監督ならば、いくつかの方向からのカメラで撮影した短いカットをつないで、その動作や表情や周囲の部屋の造作などから、多くの情報を観客に見せることができるはずだ。小説の、あるいは詩の一節を読む読者にも、同様の映像イメージを脳内に出現させることが可能なのである。「沈む」という動詞と「~から~くる」という不整合な文型が、そうした、二重の映像を同時に生み出しているのである。
こうした解釈は、詩の中のどの言葉と響き合っているか?
生徒に問うてみる。必ず答える生徒はいる(どこのクラスでもそうした答えが出てきた)。
14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。
そして逆に、そうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないか。この地上を「空気の底」「大気の底」と捉える認識は、科学的な認識と宗教的な認識が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人を表したのがこの「沈んでくる」という表現なのではないかと考えるのだ。
さて、語り手のいる場所についての以上のような見解は、詩の中を流れる時間の捉え方についても変更を迫る。
冒頭から12行目「とびだした」までが時間順に沿っているというのが従来の捉え方だ。だが、冒頭から「おもて」にいるとすれば、そこが詩の中の「現在」であり、詩の展開に沿って時間が進行しているのではなく、むしろ時間は遡っていく。語り手の思いは遡って「おもて」に飛びだす場面が回想され、一旦14・15行目で現在に戻るものの、再びさらに遡って、飛びだすにいたるきっかけとしての妹の言葉の発せられた時点へと戻る。
先に
27行目「雪のさいごのひとわんを…の「…」は何を意味しているのかという疑問を提示しておいた。それは、遡った時間を再び現在に戻す、いわば「我に返る」瞬間の落差を表しているのだといえる。したがって、ここを境として詩全体を二つに分けるという捉え方は妥当なものだと思われる。
28行目…ふたきれのみかげせきざいに」
そして後半では36行目に「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」という遠い過去のイメージが重なってくるものの、基本的には時間は遡ることなく、むしろ掉尾では未来へ思いを馳せることになる。
2015年10月20日火曜日
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 6 ~語り手はどこにいるか その2
承前
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」の語り手は室内にいる。とすればこれは窓から外を眺めた光景であるはずだ。
15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすればこれは見上げる視線で捉えた光景であるはずだ。
これは実感に合っているだろうか?
だが生徒からは、
どういうことだろうか。
この不整合を解消するアイデアはないか、と問いかけても良い。が、これはかなりな難問だし、そもそもこれを不整合だと見なさないと強弁されては、考察を促すこともできない。窓の中からだって、空を見上げて「ふつてくる」ということは可能だし、筑摩書房のように「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている」と言うこともできる(よくもまあこんな無理矢理な「トンデモ」解釈を思いついたものだと思うが)。
だが、ここまでの「了解」に納得していない生徒がいる可能性もないわけではない。これは考察に値する問題である。時間をとって考えさせたかった。
実際に今回の授業では時間もとれなかったが、誘導するのなら「語り手の場所」と「視線の向き」を一致させる解釈はできないか? と素直に聞いてみたい。もっとはっきりと誘導してしまうのなら、本当に語り手は室内からみぞれが「ふつてくる」のを見ているの? と聞いてもいい。
教師がこんなふうに言えば、生徒はそうでない可能性を考えざるをえない。考えてほしい。そのとき何が起こるか?
筆者が誘導しようとしているのは次のような「読み」である。
語り手は、詩の最初から屋外にいるのである。
生徒に想像させる。語り手はみぞれの降る庭にいる。「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」という語りかけは、枕元にいる語り手が目の前の妹に呼びかけているのではなく、屋外から室内への呼びかけなのである。「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という語り手は、既に「おもて」にいて、その場の様子を、妹のいる室内から見た時と違って「へんにあかるい」と表現しているのである。
驚くべき認識の変更が訪れないだろうか。これはちょっとした「コペルニクス的転回」である。
したがって「うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」もまた、屋外にいて、空を見上げているのである。視線の向きは「降る」の印象と整合する。
では、そもそも最初の語り手を室内にいるものと考えた根拠であるところの「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」はどうなるのか?
回想なのである。屋外に佇む語り手が、自分が外にいる事情を回想しているのである。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今ここにいるのである。
さて、最初のところで語り手は屋内にいるのだという読みは、御大吉田精一をはじめとして、上に見た指導書にあるように世の大勢を占めている。
白状すると、実は筆者もまた、疑うことなく語り手が室内にいるものと考えていた。妹の枕元にいる語り手が窓から、みぞれの降る外を見ているのだと思っていた。だがこれは、上の二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものではない。単にそうした解釈しかしていなかったというだけなのだ。
はじめから外にいる、という読みを筆者に提示してくれたのは、当時高校2年生の息子である。
彼が受けた授業でも、当然のように室内にいる語り手を前提とした解説がなされ、それを前提として「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いが説明され、「(あめゆじゆとてちてけんじや)」リフレインの4回のうち、最初の2回と後の2回の違いは何か、と問われたのだそうだ(前二つは室内で妹に語られたものであり、あと二つは回想である)。そうした解説に違和感を感じた息子は、彼自身にとって自然な読みとして、語り手が詩の最初から外にいるものとして読んだのである。
授業の意義はここにある。それぞれ読者は自分の読みを相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものである。それ以外の「読み」の可能性は視野に入らないからである。だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味があるのである。
最初は何の疑いもなく、語り手は室内にいるものとして読んでいた。だが一度、最初から外にいるという読みについて本気で想像してみると、筆者にはもう、そうとしか思えない。
本当に、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する論者はいるのだろうか。
授業では、教師の主張する結論を教えることが目的ではないから、できれば生徒自身にその妥当性を比較させたい。だが、これも今回は充分な時間がとれず、生徒からの意見はかろうじて一つだけ聞けたにとどまった。
室内にいるのなら「ふつてくる」ではなく「ふつている」ではないか、というのである。
もちろんこれは「室内ではあり得ない」と確信するだけの絶対性のある根拠ではない。だが少なくとも一つは説得力のある根拠が挙がったのは収穫だった。
筆者にとって説得力があると思える根拠は、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」である。「この」は、既に外にいる語り手が発している言葉だと感じる。現に行為しつつあることの表現ならば単に「くらいみぞれのなかに飛びだした」が自然である。
そう思ってみると冒頭の「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」も、現に妹の枕元にいるのだとしたら「いもうとよ」と呼びかける意図がよくわからない。妹は熱にうなされて朦朧として外を見ることができないとでも考えればいいのだろうか。あるいは単に眠っているか。
それより、妹の枕元から離れて「おもて」へ「飛びだした」語り手が、「おもて」に出てみると、そこは中から見ていたのとは違って「へんにあかるいのだ」と、その不安定な、落ち着かない思いを語りかけているということではないか。
実はネット上で世の好事家や教師の意見を漁ってみた。基本的には最初は室内にいるものとして読む見解ばかりしか見つからない。筆者もその一人だったわけだ。
だが一人だけ、語り手は最初から外にいるという読みを提示しているのを見つけた。中央大学附属高校の長谷川達哉教諭である。
驚愕した。彼とは浅からぬ因縁がある。こんなところで彼の名に出くわそうとは。
彼の挙げる根拠は9行目の「これらふたつのかけた陶椀に」だ。語り手は今初めて陶椀を手にしたわけではなく、それは既に手の中にある。とすればこの言葉を発するより前に既に語り手は外にいるのである。卓見である。
すると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインはどういうことになるか。
最初語り手が室内にいるとすると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」は、横たわるトシの姿に重なって詩の中に流れることになる。あるいは、最初のそれは直接話法としての台詞だとでも考えるのか。そうした妹の台詞に突き動かされるように「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだ」したのであろうか。
だが、最初から外にいるのだとすると、リフレインは4回とも同じトーンで繰り返されているということになる。外にいる自分の使命を常に証すものとして、さっきの室内で聞いた妹の言葉が繰り返されるのだ。
この項、続く
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」の語り手は室内にいる。とすればこれは窓から外を眺めた光景であるはずだ。
15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすればこれは見上げる視線で捉えた光景であるはずだ。
これは実感に合っているだろうか?
「ふってくる」の方は、家の中から外を見やっての情景として印象づけられるが、「沈んでくる」の方は、みぞれが地面=底にいる自分に向かって降ってきて、自分がそのみぞれを仰ぎ見ている情景という印象が強い。(大修館「指導資料」)
「ふつてくる」は室内から見える雪の様子を捉えているが、「沈んでくる」は外に出た「わたくし」に向かって降ってくる雪の動きの印象を捉えた表現となっている。(明治書院「指導書」)
「ふつてくる」の方は、室内から戸外に降るみぞれに対して眼差しを向けた表現であり、「沈んでくる」は、実際に戸外においてみぞれを感じながら、自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。「みぞれはびちよびちよふつてくる」と「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」から、さらに「みぞれはさびしくたまつてゐる」と言い換えられている。詩の世界における場面展開と時間の経過がこれらの書き分けによって見事に表現されている。(筑摩書房「学習指導の研究」)いずれの解説でも「ふつてくる」は室内から外を眺める視線であり、「沈んでくる」は外にいて見上げる視線である。
だが生徒からは、
「降る」は視線が上を向いているような気がするのに対し、「沈む」は下を向いているような気がする。という意見が出ていた。語り手の視線の方向と、動詞が元々持っている意味とは食い違っている。
どういうことだろうか。
この不整合を解消するアイデアはないか、と問いかけても良い。が、これはかなりな難問だし、そもそもこれを不整合だと見なさないと強弁されては、考察を促すこともできない。窓の中からだって、空を見上げて「ふつてくる」ということは可能だし、筑摩書房のように「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている」と言うこともできる(よくもまあこんな無理矢理な「トンデモ」解釈を思いついたものだと思うが)。
だが、ここまでの「了解」に納得していない生徒がいる可能性もないわけではない。これは考察に値する問題である。時間をとって考えさせたかった。
実際に今回の授業では時間もとれなかったが、誘導するのなら「語り手の場所」と「視線の向き」を一致させる解釈はできないか? と素直に聞いてみたい。もっとはっきりと誘導してしまうのなら、本当に語り手は室内からみぞれが「ふつてくる」のを見ているの? と聞いてもいい。
教師がこんなふうに言えば、生徒はそうでない可能性を考えざるをえない。考えてほしい。そのとき何が起こるか?
筆者が誘導しようとしているのは次のような「読み」である。
語り手は、詩の最初から屋外にいるのである。
生徒に想像させる。語り手はみぞれの降る庭にいる。「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」という語りかけは、枕元にいる語り手が目の前の妹に呼びかけているのではなく、屋外から室内への呼びかけなのである。「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という語り手は、既に「おもて」にいて、その場の様子を、妹のいる室内から見た時と違って「へんにあかるい」と表現しているのである。
驚くべき認識の変更が訪れないだろうか。これはちょっとした「コペルニクス的転回」である。
したがって「うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」もまた、屋外にいて、空を見上げているのである。視線の向きは「降る」の印象と整合する。
では、そもそも最初の語り手を室内にいるものと考えた根拠であるところの「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」はどうなるのか?
回想なのである。屋外に佇む語り手が、自分が外にいる事情を回想しているのである。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今ここにいるのである。
さて、最初のところで語り手は屋内にいるのだという読みは、御大吉田精一をはじめとして、上に見た指導書にあるように世の大勢を占めている。
白状すると、実は筆者もまた、疑うことなく語り手が室内にいるものと考えていた。妹の枕元にいる語り手が窓から、みぞれの降る外を見ているのだと思っていた。だがこれは、上の二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものではない。単にそうした解釈しかしていなかったというだけなのだ。
はじめから外にいる、という読みを筆者に提示してくれたのは、当時高校2年生の息子である。
彼が受けた授業でも、当然のように室内にいる語り手を前提とした解説がなされ、それを前提として「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いが説明され、「(あめゆじゆとてちてけんじや)」リフレインの4回のうち、最初の2回と後の2回の違いは何か、と問われたのだそうだ(前二つは室内で妹に語られたものであり、あと二つは回想である)。そうした解説に違和感を感じた息子は、彼自身にとって自然な読みとして、語り手が詩の最初から外にいるものとして読んだのである。
授業の意義はここにある。それぞれ読者は自分の読みを相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものである。それ以外の「読み」の可能性は視野に入らないからである。だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味があるのである。
最初は何の疑いもなく、語り手は室内にいるものとして読んでいた。だが一度、最初から外にいるという読みについて本気で想像してみると、筆者にはもう、そうとしか思えない。
本当に、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する論者はいるのだろうか。
授業では、教師の主張する結論を教えることが目的ではないから、できれば生徒自身にその妥当性を比較させたい。だが、これも今回は充分な時間がとれず、生徒からの意見はかろうじて一つだけ聞けたにとどまった。
室内にいるのなら「ふつてくる」ではなく「ふつている」ではないか、というのである。
もちろんこれは「室内ではあり得ない」と確信するだけの絶対性のある根拠ではない。だが少なくとも一つは説得力のある根拠が挙がったのは収穫だった。
筆者にとって説得力があると思える根拠は、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」である。「この」は、既に外にいる語り手が発している言葉だと感じる。現に行為しつつあることの表現ならば単に「くらいみぞれのなかに飛びだした」が自然である。
そう思ってみると冒頭の「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」も、現に妹の枕元にいるのだとしたら「いもうとよ」と呼びかける意図がよくわからない。妹は熱にうなされて朦朧として外を見ることができないとでも考えればいいのだろうか。あるいは単に眠っているか。
それより、妹の枕元から離れて「おもて」へ「飛びだした」語り手が、「おもて」に出てみると、そこは中から見ていたのとは違って「へんにあかるいのだ」と、その不安定な、落ち着かない思いを語りかけているということではないか。
実はネット上で世の好事家や教師の意見を漁ってみた。基本的には最初は室内にいるものとして読む見解ばかりしか見つからない。筆者もその一人だったわけだ。
だが一人だけ、語り手は最初から外にいるという読みを提示しているのを見つけた。中央大学附属高校の長谷川達哉教諭である。
驚愕した。彼とは浅からぬ因縁がある。こんなところで彼の名に出くわそうとは。
彼の挙げる根拠は9行目の「これらふたつのかけた陶椀に」だ。語り手は今初めて陶椀を手にしたわけではなく、それは既に手の中にある。とすればこの言葉を発するより前に既に語り手は外にいるのである。卓見である。
すると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインはどういうことになるか。
最初語り手が室内にいるとすると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」は、横たわるトシの姿に重なって詩の中に流れることになる。あるいは、最初のそれは直接話法としての台詞だとでも考えるのか。そうした妹の台詞に突き動かされるように「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだ」したのであろうか。
だが、最初から外にいるのだとすると、リフレインは4回とも同じトーンで繰り返されているということになる。外にいる自分の使命を常に証すものとして、さっきの室内で聞いた妹の言葉が繰り返されるのだ。
この項、続く
2015年10月19日月曜日
陽月メグミ という人
連日の「永訣の朝」論はちょっと息切れして、お休み。
先日、Esperanza SpaldingをYou-tubeで漁っていてこういう人にたどりついた。すごい。恐ろしいアマチュアがいる。関西の人みたいだが、関東に来る機会もあるらしいから、ちょっと情報を追いかけて、可能なら出かけてみようか。
先日、Esperanza SpaldingをYou-tubeで漁っていてこういう人にたどりついた。すごい。恐ろしいアマチュアがいる。関西の人みたいだが、関東に来る機会もあるらしいから、ちょっと情報を追いかけて、可能なら出かけてみようか。
2015年10月18日日曜日
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 5 ~語り手はどこにいるか その1
実は「永訣の朝」を授業で扱おうと思ったのは、次の点について考えてみたかったからだ。
例文で示す。
aは室内でbは室外(廊下?)である。aではドアから入ってくる彼の顔が見える。bではドアの内部に消える彼の背中が見える。
これは生徒にもわかりやすい例だ。すぐに適切な答えが返ってくる。
それに比べて「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの文は、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。
だが実は「彼は部屋の中に入った。」でさえ、事態は充分に具体的だが、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。
答えを提出させるより先にもう一つの問いを投げかけておく。
次の二つの表現はどう違うか?
ただ、こういうときに、作者はなぜ変えたのか、と問うことには留保がいる。結局のところそんなことはわからないではないか、という気も実のところ教師にもしているのであり、それを生徒に本気で考えさせるというのは、ある種の欺瞞がつきまとうからである。本気で教師がそれを問うているのなら、それはそれでついて行けない、という感触を生徒に与えてしまうかもしれない。
だが、少なくとも読者の我々は、自分自身がどのような違いを感じるかについては本気で考えることができる。自分の心に問いかければいいからだ。そしてその違いは、作者の意図したものではないかと常に推測しつつ、自問自答は続くはずだ。
だから「なぜ作者は『沈む』にしたのか?」ではなく「『沈む』だとどのような印象になるか?」と聞かなければならない。
しばらく時間をとって考えさせ、話し合いに持ち込み、ある程度の考察が進み、狙い通りの話題が展開している様子が聞こえてきたら「この二つの問いを関係づけて考えているグループはあるか?」と問う。時折こんなふうに話し合いに拍車をかける。
生徒の答えやすいのは「ふってくる」と「沈んでくる」の違いの方だ。発言を整理して教室全体に提示する。
「ふってくる」の方が、下降の様子が相対的に「軽い・速い」、「沈んでくる」の方が「重い・遅い」。それは「降る/沈む」、「みぞれ」のイメージに直結する。
全体が納得したら、こうした違いがどうして生じているのか、と問い直す。聞いてみると、理由の説明は二つの方向から考えられるようだ。「降る/沈む」という動詞そのものの違い。そして文脈の違い。
まず、「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?
誰も「降る」と「沈む」の違いがわからないはずはない。だがその違いを明晰に語ることが容易なわけではない。だから、考えることに意義はある。考えているうちに語る糸口を見つける生徒が必ず現れる。
動詞自体の違いを明らかにするための糸口は二つ。
一つ目。 「降る」は空気中を下降する様子であり、「沈む」は主に液体中を下降する様子を表している動詞だと説明する生徒が現れる。「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのはそういうわけである。したがって同じ「みぞれ」でも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。
もう一つ。「降る」は視線が上を向いているような気がするのに対し、「沈む」は下を向いているような気がする、という印象を語る者がいる。「降る」は「~から降る」、「沈む」は「~へ沈む」の形で使われることが多い、という発見を語る者もいる。もちろん「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」である。
実際に詩の中では、「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、形の上で違いはない。だが、動詞自体が持っている文脈的習慣とでもいうべきイメージは、この詩の言葉からイメージを作る際にも影響しないはずはない。
この、「降る」は見上げるイメージ、「沈む」は見下ろすイメージ、という印象は適切か?
もう一つ、両者の表現の違いを文脈から考えた生徒の見解は、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化として「沈む」の方が重くなっている、というものだ。「沈む」は「液体中を下降する」というだけでなく「気分が沈む」という慣用表現で日頃から馴染んでいる。したがって、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は「沈んで」いく。こちらも、詩に描かれた情景は基本的に感情の表現だ、と何度か言っている。
ここまで検討しておいて、授業者の見解はまだ明らかにしない。だが実は、「沈む」の方が水分含有量が多いというのは必ずしも適切な印象ではないと思っているし、感情の「重さ」の変化を表しているとも思っていない。
だが、だからといって、ここまでの検討が無駄だとは思っていない。「永訣の朝」を読むことよりも、国語の授業であることが本来の目的だからだ。
そして一方、視線の向きについてはいくらか修正がいるが、重要で適切な見解だと思っている。これはこの後の展開と関係させて検討するつもりである。
もう一つの問い「語り手の場所」はどうだろう?
生徒の発言は一本道にとはいかないが、紆余曲折を経て、大体のところ、詩の最初の4分の1ほどは病室内、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外、というような解釈に落ち着く。屋外であることの根拠を挙げさせると、33行目の「このつややかな松のえだから」や41行目の「あのとざされた病室」が挙がる。そのまま室内に戻った様子はないことを確認する。
この見解は、先ほどの「ふつてくる」と「沈んでくる」の視線の向きの印象と食い違ってはいないか?
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」では、右の想定に拠れば語り手は室内にいる。一方15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすれば、室内にいる語り手が窓から外を眺める際には、視線は相対的に横向きであり、屋外にいる語り手に映る「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」という情景は、見上げる視線で捉えられているはずではないか。
どういうことだろうか。
以下次号 「語り手はどこにいるか2」
この詩において、語り手はどこにいるか?文学の分析方法としては一般的な「語り手」という概念は、もちろん生徒には馴染みがない。だからこの問い方では何のことか生徒はわからない。すぐに付け加える。「この詩の情景を語っている視点はどこにあるか?」。さらに「この詩を読んで思い浮かぶ情景は、どこにあるカメラから撮影されているか?」。
例文で示す。
a.彼は部屋の中に入ってきた。カメラはどこにあるか?
b.彼は部屋の中に入っていった。
aは室内でbは室外(廊下?)である。aではドアから入ってくる彼の顔が見える。bではドアの内部に消える彼の背中が見える。
これは生徒にもわかりやすい例だ。すぐに適切な答えが返ってくる。
それに比べて「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの文は、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。
だが実は「彼は部屋の中に入った。」でさえ、事態は充分に具体的だが、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。
答えを提出させるより先にもう一つの問いを投げかけておく。
次の二つの表現はどう違うか?
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」5・6行目と14・15行目はほとんど同じだからこそ、この「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いは何を意味しているのかを考える余地がある。
15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」
ただ、こういうときに、作者はなぜ変えたのか、と問うことには留保がいる。結局のところそんなことはわからないではないか、という気も実のところ教師にもしているのであり、それを生徒に本気で考えさせるというのは、ある種の欺瞞がつきまとうからである。本気で教師がそれを問うているのなら、それはそれでついて行けない、という感触を生徒に与えてしまうかもしれない。
だが、少なくとも読者の我々は、自分自身がどのような違いを感じるかについては本気で考えることができる。自分の心に問いかければいいからだ。そしてその違いは、作者の意図したものではないかと常に推測しつつ、自問自答は続くはずだ。
だから「なぜ作者は『沈む』にしたのか?」ではなく「『沈む』だとどのような印象になるか?」と聞かなければならない。
しばらく時間をとって考えさせ、話し合いに持ち込み、ある程度の考察が進み、狙い通りの話題が展開している様子が聞こえてきたら「この二つの問いを関係づけて考えているグループはあるか?」と問う。時折こんなふうに話し合いに拍車をかける。
生徒の答えやすいのは「ふってくる」と「沈んでくる」の違いの方だ。発言を整理して教室全体に提示する。
「ふってくる」の方が、下降の様子が相対的に「軽い・速い」、「沈んでくる」の方が「重い・遅い」。それは「降る/沈む」、「みぞれ」のイメージに直結する。
全体が納得したら、こうした違いがどうして生じているのか、と問い直す。聞いてみると、理由の説明は二つの方向から考えられるようだ。「降る/沈む」という動詞そのものの違い。そして文脈の違い。
まず、「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?
誰も「降る」と「沈む」の違いがわからないはずはない。だがその違いを明晰に語ることが容易なわけではない。だから、考えることに意義はある。考えているうちに語る糸口を見つける生徒が必ず現れる。
動詞自体の違いを明らかにするための糸口は二つ。
一つ目。 「降る」は空気中を下降する様子であり、「沈む」は主に液体中を下降する様子を表している動詞だと説明する生徒が現れる。「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのはそういうわけである。したがって同じ「みぞれ」でも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。
もう一つ。「降る」は視線が上を向いているような気がするのに対し、「沈む」は下を向いているような気がする、という印象を語る者がいる。「降る」は「~から降る」、「沈む」は「~へ沈む」の形で使われることが多い、という発見を語る者もいる。もちろん「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」である。
実際に詩の中では、「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、形の上で違いはない。だが、動詞自体が持っている文脈的習慣とでもいうべきイメージは、この詩の言葉からイメージを作る際にも影響しないはずはない。
この、「降る」は見上げるイメージ、「沈む」は見下ろすイメージ、という印象は適切か?
もう一つ、両者の表現の違いを文脈から考えた生徒の見解は、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化として「沈む」の方が重くなっている、というものだ。「沈む」は「液体中を下降する」というだけでなく「気分が沈む」という慣用表現で日頃から馴染んでいる。したがって、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は「沈んで」いく。こちらも、詩に描かれた情景は基本的に感情の表現だ、と何度か言っている。
ここまで検討しておいて、授業者の見解はまだ明らかにしない。だが実は、「沈む」の方が水分含有量が多いというのは必ずしも適切な印象ではないと思っているし、感情の「重さ」の変化を表しているとも思っていない。
だが、だからといって、ここまでの検討が無駄だとは思っていない。「永訣の朝」を読むことよりも、国語の授業であることが本来の目的だからだ。
そして一方、視線の向きについてはいくらか修正がいるが、重要で適切な見解だと思っている。これはこの後の展開と関係させて検討するつもりである。
もう一つの問い「語り手の場所」はどうだろう?
生徒の発言は一本道にとはいかないが、紆余曲折を経て、大体のところ、詩の最初の4分の1ほどは病室内、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外、というような解釈に落ち着く。屋外であることの根拠を挙げさせると、33行目の「このつややかな松のえだから」や41行目の「あのとざされた病室」が挙がる。そのまま室内に戻った様子はないことを確認する。
この見解は、先ほどの「ふつてくる」と「沈んでくる」の視線の向きの印象と食い違ってはいないか?
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」では、右の想定に拠れば語り手は室内にいる。一方15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすれば、室内にいる語り手が窓から外を眺める際には、視線は相対的に横向きであり、屋外にいる語り手に映る「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」という情景は、見上げる視線で捉えられているはずではないか。
どういうことだろうか。
以下次号 「語り手はどこにいるか2」
登録:
投稿 (Atom)
