2016年11月27日日曜日

『ツイスター』 -悪くはない娯楽作品ではあるが

 なんだかそれほど面白くなりそうな予想ができなくて長いこと手を付けずにいたのだが、放送してるのを見つけて。でも始まってみると監督はヤン・デ・ボンだし、脚本はマイケル・クライトンだし、スピルバーグが制作だし。超豪華制作陣だな。
 素直に面白かった。ハラハラドキドキは充分に盛り込まれていて、娯楽作品としては申し分ない。危険に飛び込みたがる連中の高揚感はよく描かれている。ロマンス要素はまあどうでもいい。縒りを戻すヒーロー&ヒロインは吊り橋効果なんじゃねえかとも思うし。有名な「牛」は、なるほど印象的だった。当の牛にしてみれば酷い目に遭ってるんだろうが、どうにも惚けたおかしみがあって。「あ、また牛!」「さっきのと同じ牛だと思うよ…」とか。
 まあでもそれ以上のものではないな。何かがひどく印象に残るというようなものでは。「アトラクション・ムービー」というのは確かにそんな感じ。

『首吊り気球』 -奇想の現前は遥か

 とりあえずホラー映画を観たくて。伊藤潤二のマンガが適切に映画化できるとは思えないが、とりあえずホラー映画になってればいいか。だが伊藤潤二のマンガはそもそもホラーではあるまい。怖くなどない。奇想漫画とでもいうべきものだ。全体があの線で埋め尽くされた画面でなければ、あの奇想は現前すまい。精密なアニメなら、あるいはそれらしいものは作れるだろうが、それはホラー映画ではあるまい。実写映画でホラーを作ろうとして、だが伊藤潤二のマンガを原作とすることにはほとんど意味はない。
 で、結局『首吊り気球』は悲惨なコメディになっていた。合成の特撮では、怖いわけもなし、といって奇想が現前するはずもなし。程度の低い悪ふざけにしか見えなかった。
 オムニバスとしてそれぞれが独立した作品だから、清水崇の『悪魔の理論』は、特撮ではなく、人間の心理サスペンスを描いて良かった。
 三宅隆太の『天井裏の長い髪』は、テレビドラマのクオリティで、どうでもよかったが、この人、ラジオで宇多丸と実に奥の深い映画談義をしているのだ。あの造詣で、作品はこれか、というこの落差はなんなのだろう。

2016年11月26日土曜日

『ER~救急救命室』 -映画作りの層の厚さ

 最初のNHKの放送がもう20年前のことだが、今観るとどんな感じなのだろうと、深夜の映画枠でなぜか2本立てで放送されているのを録ってみた。
 オープニングのERの戦場のような描写を観て、これは一人で観るのはもったいないと、当時一緒に観ていた連れ合いを誘って観る。
 当時は、とにかく毎回見事な脚本に圧倒され、アメリカの映画文化の層の厚さ、システマチックなドラマ作りのノウハウの蓄積に感嘆していたのだが、今観ると、演出やらカメラワークやら編集やらといった技術的な面でも圧倒的なのだった。
 「戦場のような」(劇中でははからずも「地獄のような」という表現が使われたが)、という比喩は、忙しさを戦いに喩えているわけだが、忙しさとは同時並行的に事態が展開しているということだ。一人の人間のやるべきことがいっぱいある、ということではなく、複数の患者の治療が同時に行われていて、それぞれのER(エマージェンシー・ルーム)がフル稼働している様子を、カメラが自在に動き回りながら描写していくのだ。その中に笑いあり、痛みあり、ドラマあり、キャラクター造型あり、シチュエーションの解説あり、恐ろしく情報量の多いシークエンスが冒頭から続く。その脚本といい、演出といい、編集といい、役者陣の質の高さといい、到底日本の制作陣には実現できないだろうと思われる。
 その中で、20年前のアメリカの現実が、今の日本には当時より身近に感じられる。
 とはいえ、アメリカと日本の間には、宗教や銃に対する距離に大きな隔たりがあるから、同じような状況になるとは言えまい。
 そして映画・ドラマ作りの層の厚さも、一向に縮まる気配はないのだった。

2016年11月20日日曜日

『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する

 『わが母の記』も重厚な作りだったが、これも、画面全体がとにかく重厚だ。これくらいに作ってくれると、とりあえず歴史の勉強にでも、と観る気になる。太平洋戦争の終結を宣する詔勅がどのように作られ、どのように告げられたのか、そこにかかわる人々がどのように思い、行動したのか。ドラマとしてもドキュメンタリーとしても見応えがあるに違いない。
 さて、実際のところどうか。
 充分と言っていい程度に満足した。
 会議での決定にいたるプロセス、そこに持ってくる各大臣・閣僚の背後のしがらみからくる力関係が、もちろん史実・事実だとは言わないが、いかにもありそうに描けている。そういうことはきっとあったろうと想像される。それぞれがどこにこだわり、どこで面子を保ち、どんなに信念を貫こうとし、何を守り、何を諦めたか。
 もちろんそれは会議の決定だけでなく、その会議に影響を及ぼす周囲の状況であり、会議の決定によって影響される人々の思いでもある。
 こうした混乱と人々の努力の果てに、少なくとも現在の形での今の日本があるのだと思うと、神妙な気持ちにもなる。

 さてこうした評価とは別に、ものすごく感動的だったというわけではむろんない。よくできていた、というようなひどく不遜な言い方で肯定しているだけだ。そして、面白さはたぶん原作の面白さであり、事実の面白さでもあるのだろう。
 映画としては役所広司の阿南陸相の人物造形は卓抜していたし、松坂桃李の畑中少佐も(「ゆとりですがなにか」で俄然、好感度の増したとはいえ)、かつての毛嫌いからすると、熱演が嫌みでもなくうまいと感じられた。
 ただ話題の本木の昭和天皇は、感嘆するほどではなかった。ああいうふうに演ずれば、ああいう感じにはなるだろ、という感想しかなかった。本物みたい、まるで本物、とかいう評があるようだが、本物の裕仁天皇を、我々の誰が知るというのか。ついでにいえば、確かに終戦時の昭和天皇は、今の本木よりも若かったのだが、我々のイメージの昭和天皇といえばすっかりお爺さんのイメージであり、やはり本木では若すぎる。
 もちろん、気品ありげに見える本木の演技は、それなりに高貴なお方に見えて悪くなかった。ただ、特別な演技には見えなかったというだけだ。

 ネットではえらく評価の高い岡本喜八監督作はまだ観ていない。こちらもいずれは観たいという期待が高まった。

2016年11月18日金曜日

『レクイエム』 -ヴァン・ダム映画として充分、でも残念

 『その男 ヴァン・ダム』で突如好意的な印象を抱いたジャン・クロード・ヴァン・ダムの映画。香港マフィアに妻を殺されたフレンチ(?)マフィアの用心棒、ヴァン・ダムが復讐する、という、ただそれだけの映画。
 ストーリーは「ただそれだけ」だし、そのわりにあちこち意味もなく説明不足でわからないところもあり、お話しとしてはどうにもならないが、そのお粗末さと不釣り合いに画は意識的に撮られていた。暗い画面が、一応の映画内世界を現出させていた。カット割りもスタイリッシュだった。ヴァン・ダムはシブく撮られていた。
 カー・アクションにバイク・アクション、ガン・アクションに、(これなくしてはヴァン・ダム映画たりえない)カラテ・アクション。それぞれに質は高い。
 充分ではないか? こういうのを求めるなら。
 妻を殺された男の嘆きが名演だというネット評は認める。拷問シーンのエグさも話題だ。だがまあ、そういうのを求めているわけじゃないしなあ、という感じではある。ヴァン・ダムに好意的にはなったが、ファンというわけではないのだった。
 アクション映画として求むらくは、手に汗握る、スピード感のある、ドライブ感のある、爽快な展開とカタルシスかなあ。そういう方面に手をかけようという気はなさそうな映画ではある。そこが一番、金も手間もかからないはずなのに。

2016年11月11日金曜日

Suchmos

 ホンダの VEZELという車のCMの曲がやたらといいぞと思って調べると「Suchmos」というバンドだそうだ。こういうのが直ちに調べられるのがネットの便利なところ。
 そしてYouTubeで何曲かを聴ける。どれもいい。今デビューしたばかりというわけでもないのに、知らずに過ごしているのもくやしい。

最初は一瞬Awesome City Clubかと思ったのだった。

そしてSuchmosのYouTubeリコメンドでbonobosというバンドについても知ってしまう。

 これはちょっと傾向が違うかな。

2016年11月1日火曜日

『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界

 『A Song Is Born』という原題は、日本人にもわかる英語なのに、これも映画の華やかなイメージを表したいからという意図なんだろうが、『ヒット・パレード』という邦題がつけられている。あくまで『ヒット・パレード』であって『Hit Parade』ではない。
 こちらはそれが当時の「ヒット」曲なのかどうかは判断できないから、次々繰り出される華やかな曲たちが邦題にふさわしいかどうかは措いておくしかないが、ともあれ音楽的には華やかというか、実に豊かである。
 音楽事典の編纂をしているクラシックの専門家たちが、当時のポピュラー音楽、ジャズに触れていく過程が、教授の一人とジャズ歌手の恋物語とともに語られる。
 監督のハワード・ホークスは他の作品を見ていないが、脚本のビリー・ワイルダーは最近見た『昼下がりの情事』にも敬服した(こちらでは監督も)。この頃のハリウッド映画のすごいこと。世界をまるごと作る手間が、想像も及ばないほどにかかっているような印象が、画面の隅々から感じられる。脚本はよく練られているし、演出も実に気配りが効いているし、セットも豪華だ。
 恋物語としては、ヒロインの心変わりが急で違和感があるが、それはつまりリアリズムではなく「ロマンチック・コメディ」として見るべきだということなんだろう。それならそれで多幸感のある世界が見事に造形されている。
 そしてこの映画ではなんといっても音楽が楽しい。戦後すぐのアメリカのジャズ事情は、これほど豊かだったのだ。俳優としても教授役の一人を演じているベニー・グッドマンや、実名で登場するルイ・アームストロングやトミー・ドーシーなどの錚々たるメンバーのセッションの楽しさは、画面に登場しない伴奏で歌うミュージカルと違って、画面の中の生演奏の豊かさだ。しかも「譜面なんかない」(劇中の台詞)、まっとうなジャズの楽しさだ。
 それとともに、そうしたジャム・セッションの楽しさだけでなく、音楽事典編纂の設定から導かれて、ジャズの歴史をたどるくだりも楽しかった。史的な正当性がどの程度保証されているのかは測りかねるが、変遷の果てにあのジャズの豊かさがあるのかと、展開毎にハッとしたり、あらためてしみじみ感じ入ったり。
 ヒロインのヴァージニア・メイヨは、たとえばオードリー・ヘップバーンのような、万人を否応なく引きつけてしまうような魅力のあるキャラクターでも美貌でもなかったが(吹き替えかもしれないが)歌声は実に魅力的だった。