2018年1月28日日曜日

『二十四時間の情事』-とりあえず感想保留

 『二十四時間の情事』とは一体なんたる邦題か。原題のカタカナ表記で『ヒロシマ・モナムール』でいいじゃないか。
 アラン・レネは『去年マリエンバートで』も観ていないので、これが初めてかな。
 なんだかすごい映画だとは思ったが、批評どころか感想を言うのも、現状ではお手上げ。いずれ観直してじっくりと。とりあえず、ヒロインの故郷、ヌウェールの風景が、白黒にもかかわらずこの世のものとも思えないくらい綺麗だったのが衝撃的だった。どうやって撮るとああいうことになるのか。ロケハンの問題なのか撮影の問題なのか画面設計の問題なのか。
 いやそれよりも原爆という現実をどう受け止めるかという問題を考えるべき映画であることはわかっているのだが。いずれまた。

2018年1月21日日曜日

『ラスト・ベガス』-お伽噺+アメリカンコメディ

 豪華キャストで描くハリウッド製コメディ。主役の4人、マイケル・ダグラス、 ロバート・デ・ニーロ、モーガン・フリーマン、ケヴィン・クラインがみんなアカデミー俳優で、何か重厚なドラマを見せてくれるのかと思いきや、結局コメディだったな。
 もちろんこういうのは、安定のハリウッド映画だ。ブロードウェイ・ミュージカルの伝統なんだろうか。クスリと笑わせて気持ちをハッピーにさせるセリフのやり取りが見事で、このレベルの脚本は日本では宮藤官九郎くらいしか観たことがない(舞台劇ではもうちょっとあるんだろうか)。
 面白かった。だがどうも暇つぶし感が拭えない。粋なおじいさんたちの、ちょっと苦いところもあるけれど基本はハッピーなお伽噺ということろで、こういう物語の摂取が生きる糧になるはずなんだが。

2018年1月14日日曜日

『言の葉の庭』-風景の勁さとドラマの弱さ

 『君の名は』の一つ前の新海誠作品。
 木の葉と雨と風のおりなす庭園の風景は文句なくきれいだが、物語の弱さは否めない。
 それでもクライマックスの階段のシーンで感情が持っていかれたが、だがその後、結末までにはどうにも腑に落ちないモヤモヤが残る。これはどう落とすつもりなのだ? 15歳の高校生男子と27歳の高校教師の恋物語ということですんなり納得すればいいのか? その現実的困難が描かれるわけでもなく、その難しさを問題にしないところで描かれるお伽噺ですと明言されているわけでもなく、どのあたりに納得を落としこめばいいのかがわからなかった。
 いや、そんなの問答無用に「あり」だと受け取ればいいのかもしれない。そうするとますますドラマの弱さを感じないわけにはいかない。
 つまり設定の特殊さこそが強みになるような描き方ができているわけでなし、それを特殊視しないでドラマとして入り込むには弱くて、という。
 ではあの階段シーンは? なんとなく吊り橋効果に似た感情の動き方だったような気もする。階段の落差や踊り場の外に広がる空、駆け下りるスピードなどの空間的演出の効果。

p.s
 もう一度そのシーンだけ観たが、やはりドキドキとした感銘がある。細かくカットをわりながら、さまざまなものをアップで描く演出と、スピード感がやはり優れているんだろうとは思うが。

2018年1月7日日曜日

『グランド・イリュージョン』-嬉しい娯楽作

 4人のマジシャンがチームで大掛かりな銀行破りを企てる。『オーシャンズ11』的クライム・ムービー。『オーシャンズ』くらいに仕掛けが面白いことを期待して観てみようと。
 これが、期待以上だった。
 劇中でマジックとして実際にやっていることになっていることと映画の嘘とのブレンドの割合がわからんなあと思って観ていると、意外とちゃんと種明かしをしてくれたりして、そこはマジックなのか、とわかるあたりも楽しかったし、催眠暗示を使ったユーモアも楽しかった。キーワードを聞いたとたんにある行動をとるよう暗示をかけておく、という仕掛けを序盤から何度か見せておいて、クライマックスの、あるシーンで、いきなりそれが発動するときのユーモアと胸のすく意外性は本当にうまかった。
 とにかく脚本がよく練られている。肝心の最も大きなどんでん返しにはさほど感心しなかったが、いくつかの事件が関係づけられていく構成には感心した。筋立ての必然性ということをちゃんと考えている。観客の納得の要求に応えている。満足感が得られる。

 ところでこの映画、何だかえらい豪華キャストだったのだな。マイケル・ケインとモーガン・フリーマンという大御所を並べておいて、マーク・ラファロもアカデミー男優だし、メロニー・ロランは魅力的だったし。そして極め付きは主役の「ホースメン」チームの二人ジェシー・アンゼンバーグとウディ・ハレルソンは、「ゾンビランド」の主人公一行じゃないか!

2018年1月5日金曜日

『ルー・ガルー 忌避すべき狼』-何もない

 偶然にも「人狼」続き。
 京極夏彦に義理立てて。監督の藤咲淳一は「攻殻機動隊」のTVシリーズの脚本で名を覚えてもいて。
 だが、もう何か言うのも面倒なほど、何もなかった。確か原作は面白かったはずだという記憶があるのだが、その魅力が何だったのかは思い出せず、とにかくこのアニメには、なにも心を動かされず。
 とにかく、近未来のはずの世界が、ちっとも現在の我々の住む世界と違って見えず。
 そこで繰り広げられる人間ドラマに心動かされる要素もなく。
 予断もなかったので意外性も生ずることなく。
 ここが許せん! とかいう毎度のパターンと違って、面白いものを作るのは難しいなあ、と思う。

2018年1月3日水曜日

『人狼ゲーム ビーストサイド』-演技の緊張感

 このシリーズでは評判の高い本作を、ようやく。
 現在までの6作では、その後の活躍からすると最も「大物」女優である土屋太鳳と森川葵を揃えた本作は、確かにここまでに観た最初の3作では一番印象的だった。
 それはやはり若手俳優たちの演技によるところが大きいと思う。
 シチュエーションが限定されて、舞台空間に大きな動きがなく、基本的には心理ドラマであるようなこのシリーズでは、登場人物の感情が大きな「動き」とならざるをえず、しかも年配の「ベテラン」俳優が安定した、安心感を与えるようなお芝居の空気感を作ることもできないとなると、いやでも若手俳優たちの演技に映画の緊張度が委ねられる。おそらく監督は、この映画における「演技」の重要性を役者たちに強く意識させたはずで、役者たちはそれぞれに「自然さ」や「激しさ」や「斬新さ」についての創意工夫を迫られたのだろう。
 そしてそれはそのまま物語の緊張をも感じさせるのである。
 まるでそれぞれの場面で役者たちが求められている演技の緊張度が画面に溢れているような感じなのだ。もちろん第1作3作も程度の差はあれ、みんなよくやっているなあと感心はした。だが、総合的な力はこの第2作が高かったと思う。それは土屋太鳳にせよ森川葵にせよ、芸達者な青山美郷にせよ小野花梨にせよ、である。

 ところでこのシリーズに対する不満は本作にも共通している。じっくりと考えてしまえば、おそらく「突っ込みどころ」はいっぱいあるのだろう。ネットでの感想記は総じて「映画」について書いているブログのもので、本当に人狼ゲームに通じている人から見るとどうなのかを知りたいところではある。
 だがやはり、ゲームのルールを実際の生き死にに転換することの難しさを乗り越えることに説得力を持たせるほどの練り込みはされていない。終盤で村人の男子が殺された後に、人狼が女だと男子を殺すのは無理ではないかという意見が登場人物から発せられたが、それを考えてしまうとそもそもこの物語は成り立たないのだ。人狼が村人を殺すのはゲームのルールによって確実なのであって、実際にできるかどうか難しいかも、などという可能性を考慮すべきとなるとルールが意味をなさなくなる。
 だが本当はそこを考えてどうこのゲームのルールを設定すべきかが問題のはずなのだ。もちろん難しい課題だ。「投票によって~が吊られました」「人狼によって村人が殺されました」ということになっている、というだけでは面白くない。リアルな感情の動きも何もない。登場人物たちが実際にやるからこその痛みである。だが実際にやるとなると、本当にいつもそれが「やれる」かどうかが不確定になる。
 だが、そこを考えることによって、勝利のため、あるいは脱出のための工夫を凝らす登場人物たちの物語はいくらでも膨らんでいくはずだ。

 もうひとつ。単に論理と心理のゲームとしての人狼ゲームの面白さをもうちょっと表現すればいいのに、とも思う。
 それぞれの人物の発言から考えうる可能性はすぐに果てしなく複雑な分岐をする。それが正直なのか嘘なのか、どの程度ゲームのルールを把握している人物なのか、どんな動機によって動いているか(ゲームの勝利だけが目的とは限らない)、あるいは発言だけでなく、どの投票によって誰が誰を指したのか、といった情報を組み合わせていって、真剣にこのゲームに勝とうとする(そこには命がかかっているはずなのだ)人物たちの戦いを描こうとすればいいのに。
 もちろんそれは観客側がどれほど真剣に頭を使うかという問題でもある。が、映画は考えるための時間を作ってくれない。上映をストップさせて紙にまとめてじっくり考えるというようなことはできない。
 だからせめて、登場人物たちがそれを真面目に考えてはくれないのか。考えの足りない観客に代わってその可能性を考えることによってこそ真剣な勝負において生まれる迷い、焦燥、昂揚、恐怖を観客に伝えることができるのではないか。
 
 最後に舞台となる、どこかの研修施設のような建物から出た主人公が、人気のない田舎道を歩くシーンは妙に印象的だった。田舎といっても「農村」とかいう風景ではない。主人公は緩やかな坂を下っているから、建物がある程度の標高にあったことがうかがわれ、といってアスファルトに街路樹のある風景は人里離れた山林などというわけでもない、微妙な田舎さなのだ(ロケ地はどうも御殿場らしい)。
 そんな特徴のない風景が、閉鎖空間での息詰まる物語の後で、まるで異世界のように感じられるのだった。

2018年1月1日月曜日

『エイプリル・フールズ』-こんな杜撰な設計図で

 『キサラギ』で俄然注目を集めた(我が家の中で)古沢良太は、その後『鈴木先生』のドラマと映画、『リーガル・ハイ』『デート』と追っているので、このまま当分は注目を続けてみる。
 と思ってはいるのだが、これはだめだった。
 観始めてすぐにあまりに弛緩した演出にがっかりしてしまう。『スティーブ・ジョブズ』を観た後では、こういうテレビ局がらみのメジャー作品にありがちな、細部のリアリティをいい加減にして、とりあえずの「面白可笑しい」雰囲気だけを作ろうとしてますという思惑だけが透けて見えてしまうようで。
 と思ったら『リーガル・ハイ』の演出家なのか。これもテレビドラマと思って見ると許容できるのかもしれない。そこでマイナスせずに楽しいところを探して。だが映画としてはまともに観ていられないレベルであることはどうしようもない。
 寺田進の父親エピソードや、主人公の戸田恵梨香の対人恐怖症に対する救いが、いくぶんのシリアスな「感動」を表現しようとしているのはわかるが、そこに素直に感動するためにはもうちょっと真面目に観させてほしい。他の部分の不真面目さが、真面目な場面を白けさせてしまう。残念だ。
 演出だけでなく、そもそもの鑑賞動機だったはずの脚本にも感心しなかった。まるで関係のないいくつかのエピソードが関連していくという趣向は、基本的には楽しくなりうる仕掛けではある。それは、とにもかくにも「うまい」と言わせるような精巧な構築物である必要がある。その点にしても古沢良太にして、この杜撰な構成はどうしたことかというストーリーラインだった。同性愛に目覚める男たちとか、UFOを待ち望む中学生とか、それ自体が味わい深いわけでもないエピソードが、それでも全体のエピソード間の連関の中で必要なパーツであるというようなしかけもなく、単に時間の無駄と思わせるようなエピソードの羅列になっていた。
 こういう、プロットの段階で練り込みが必要な作業は、ハリウッドに倣ってチームで当たるべきではないかと思うのだが、古沢良太のような「売れっ子」となると、立場上そうはいかないことになるんだろうか。それにしても巨額な費用のかかる映画という作り物にして、こんな杜撰な設計図で全体が動き始めるのはいかにももったいないと思われる。