2018年1月3日水曜日

『人狼ゲーム ビーストサイド』-演技の緊張感

 このシリーズでは評判の高い本作を、ようやく。
 現在までの6作では、その後の活躍からすると最も「大物」女優である土屋太鳳と森川葵を揃えた本作は、確かにここまでに観た最初の3作では一番印象的だった。
 それはやはり若手俳優たちの演技によるところが大きいと思う。
 シチュエーションが限定されて、舞台空間に大きな動きがなく、基本的には心理ドラマであるようなこのシリーズでは、登場人物の感情が大きな「動き」とならざるをえず、しかも年配の「ベテラン」俳優が安定した、安心感を与えるようなお芝居の空気感を作ることもできないとなると、いやでも若手俳優たちの演技に映画の緊張度が委ねられる。おそらく監督は、この映画における「演技」の重要性を役者たちに強く意識させたはずで、役者たちはそれぞれに「自然さ」や「激しさ」や「斬新さ」についての創意工夫を迫られたのだろう。
 そしてそれはそのまま物語の緊張をも感じさせるのである。
 まるでそれぞれの場面で役者たちが求められている演技の緊張度が画面に溢れているような感じなのだ。もちろん第1作3作も程度の差はあれ、みんなよくやっているなあと感心はした。だが、総合的な力はこの第2作が高かったと思う。それは土屋太鳳にせよ森川葵にせよ、芸達者な青山美郷にせよ小野花梨にせよ、である。

 ところでこのシリーズに対する不満は本作にも共通している。じっくりと考えてしまえば、おそらく「突っ込みどころ」はいっぱいあるのだろう。ネットでの感想記は総じて「映画」について書いているブログのもので、本当に人狼ゲームに通じている人から見るとどうなのかを知りたいところではある。
 だがやはり、ゲームのルールを実際の生き死にに転換することの難しさを乗り越えることに説得力を持たせるほどの練り込みはされていない。終盤で村人の男子が殺された後に、人狼が女だと男子を殺すのは無理ではないかという意見が登場人物から発せられたが、それを考えてしまうとそもそもこの物語は成り立たないのだ。人狼が村人を殺すのはゲームのルールによって確実なのであって、実際にできるかどうか難しいかも、などという可能性を考慮すべきとなるとルールが意味をなさなくなる。
 だが本当はそこを考えてどうこのゲームのルールを設定すべきかが問題のはずなのだ。もちろん難しい課題だ。「投票によって~が吊られました」「人狼によって村人が殺されました」ということになっている、というだけでは面白くない。リアルな感情の動きも何もない。登場人物たちが実際にやるからこその痛みである。だが実際にやるとなると、本当にいつもそれが「やれる」かどうかが不確定になる。
 だが、そこを考えることによって、勝利のため、あるいは脱出のための工夫を凝らす登場人物たちの物語はいくらでも膨らんでいくはずだ。

 もうひとつ。単に論理と心理のゲームとしての人狼ゲームの面白さをもうちょっと表現すればいいのに、とも思う。
 それぞれの人物の発言から考えうる可能性はすぐに果てしなく複雑な分岐をする。それが正直なのか嘘なのか、どの程度ゲームのルールを把握している人物なのか、どんな動機によって動いているか(ゲームの勝利だけが目的とは限らない)、あるいは発言だけでなく、どの投票によって誰が誰を指したのか、といった情報を組み合わせていって、真剣にこのゲームに勝とうとする(そこには命がかかっているはずなのだ)人物たちの戦いを描こうとすればいいのに。
 もちろんそれは観客側がどれほど真剣に頭を使うかという問題でもある。が、映画は考えるための時間を作ってくれない。上映をストップさせて紙にまとめてじっくり考えるというようなことはできない。
 だからせめて、登場人物たちがそれを真面目に考えてはくれないのか。考えの足りない観客に代わってその可能性を考えることによってこそ真剣な勝負において生まれる迷い、焦燥、昂揚、恐怖を観客に伝えることができるのではないか。
 
 最後に舞台となる、どこかの研修施設のような建物から出た主人公が、人気のない田舎道を歩くシーンは妙に印象的だった。田舎といっても「農村」とかいう風景ではない。主人公は緩やかな坂を下っているから、建物がある程度の標高にあったことがうかがわれ、といってアスファルトに街路樹のある風景は人里離れた山林などというわけでもない、微妙な田舎さなのだ(ロケ地はどうも御殿場らしい)。
 そんな特徴のない風景が、閉鎖空間での息詰まる物語の後で、まるで異世界のように感じられるのだった。

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