2021年10月23日土曜日

『大統領の陰謀』-準備が足りない

 以前途中まで観て止まっていたのを、『マラソンマン』に駆動させて。同じ年に作られた、同じ脚本家の、同じダスティン・ホフマン主演映画。

 ウォーターゲート事件にまつわるあれこれを知らずに観ると面白さが半減。というのは、一度観て、ネットであれこれ調べてもう一度早送りで観直しながら感じたことだ。

 もちろん語り口も役者陣も一流の手触りはまざまざとあり、これぞジャーナリズム魂、というような感じ入り方をすべきなんだろうけれども、観ていて愉しいとすると、先にあれこれと知っていることが劇中に登場するからなんだろうとも思う。想定されるアメリカ人の観客には「常識」のことは殊更に説明されない。

 たとえばこれがかのディープ・スロートのことなのか、というのはしばらくわからなかった。そうなると、おおっ、きたきた、という感じにはならないのだ。

 それと、名前が覚えられないのと、その人物の事件への関与が把握できないのは、楽しみを著しく損なう。

 というわけですごい映画であることはわかるし、エンターテインメントでもあるのだろうけれど、感動した、というには準備が足りなかった。

 もちろん『新聞記者』を観ることより価値がある体験であるのは間違いないが。


2021年10月20日水曜日

『ババドック』-メタファーとしてのホラー

  誰かが高評価しているというので。

 後から調べてみるとフリードキン監督だったのだが、どういうわけか。

 いや、面白かったのだが。ホラーというよりはサイコサスペンスだった。オカルト要素があるのかどうか怪しんでいると、大方はサイコな理屈で収まる。その意味では実に精神的な緊迫感は高い。

 夫を事故で失い、息子はADHDで問題を起こしてばかりの主人公が、次第に追い詰められていく。クリーチャーは主人公自身の心のメタファーであろうとすぐわかる。

 とにかく描写が丁寧で的確、実に辛い。生活の辛さから、息子がいなければと思ってしまう母親の気持ちがリアルに伝わる。

 それを乗り越えられそうな、物語の最後の最後で、物理的にはオカルティックな現象が描写されるが、それもまあ心象描写の暗喩だと考えてもいい。そしてクリーチャーを滅ぼしておしまいかというと、地下室に「飼っておく」という結末は秀逸だった。

 心の闇は完全に消し去ることなどできず、飼い慣らすしかないのだと。

2021年10月16日土曜日

『マラソンマン』-正統派サスペンス

  ダスティン・ホフマンにロイ・シャイダー、ローレンス・オリビエと名優を揃え、アカデミー脚本家の手になる堂々たるサスペンス映画。

 ナチス・ドイツから戦後闇に流れたダイアモンドの行方をめぐって、メンゲレをモデルにしたナチ党員と、アメリカの諜報機関(のようなもの?)の双方に狙われる、不幸な大学院生をダスティン・ホフマンが演じている。完全な巻き込まれ型の犯罪もので、素人の主人公にはどんな対抗手段があるかというと、題名にある「マラソン」という特技のみ。いや、それが対抗手段というわけではないか。題名からして、それを使って闘うのかと思っていたが、期待したほどそれが劇的に使われるわけではなかった。とりあえず敵の手を逃れるくだりで、さすがに「走って逃げる」という有効利用はなされたのだったが。

 とすると、題名にまで取り上げられるマラソンが、何か別の象徴的な意味を持っているのかと考えてみたが、わからない。アベベが、映像や主人公の部屋のポスターで観客に印象づけられるのだが、それがなんなのか。走ることに何か哲学的な意味やら意志の強さなどが象徴されるというならわかるが、結局主人公はそういう人物としては描かれているようには見えない。

 恋人役の存在もなんとも落としどころが見つからない。実は敵の関係者でしたという「実は」要員ではあるのだが、そのまま裏切るでも、敵を裏切って主人公に味方するでもなく、中途半端に死ぬだけなのは、どういう感情を観客に起こさせたいのかよくわからない。

 という不全感はあるものの、総じて演出は驚くほど上手く、サスペンス映画としての質はとても高い。面白かった。

 冒頭近くのカーチェイスも、トンネルの中でデモ隊の自転車に囲まれ、ひやひやしながらトンネルを出るところで背景に凱旋門が見えるカット、パリのオペラ座の壮麗な建築と闇の深さ。暗闇からサッカーボールがこちらに跳んでくるカットは『牯嶺街少年殺人事件』ではないか。あれは、これを真似したのか!

 ロイ・シャイダーが暗殺者に襲われるシーンと、最後近くの銃撃シーンは、スローで観直すと、恐ろしく丁寧に殺陣が構成されていて、それが見事な編集で完璧に組み上げられている。

 物語に不全感があって、全面的に拍手喝采というわけにはいかなかったが、本当に良くできた映画だった。 

2021年10月10日日曜日

『ソウ・レガシー』-映画における倒叙トリック

 思い入れのある『Saw』シリーズだが、ネットの評判は芳しくない。期待はせずに観てみる。

 残酷描写を期待しているわけではない。テレビシリーズの『ハンニバル』や新シリーズの『ひぐらしのなく頃に』はそこが愉しくもあったのだが、最初からそこに対する期待が高いと、よほどのことがないと驚かない

 そもそも『Saw』シリーズにそれを期待してはいない。

 旧シリーズ『Saw』の魅力の一つは、ジグソウの哲学が何やら神妙な感じがすることだった。長台詞で死生観を語るジグソウには、良い俳優だと感心することしきりだった。命をかけたゲームを通して、新たな死生観を体験者が手に入れるという、まあそれはそれで無茶な理屈か、ジグソウ俳優の演技で、もっともらしく感じられたのだった。

 ところが、本作は残念ながらそこは無茶に過ぎなかった。そんなことでこんなゲームに巻き込まれ、結局あっさり死ぬのか、という残念展開だった。

 それよりも、『Saw』シリーズを見続けたのは、毎度感心するようなお話作りのうまさゆえだった。SSSでありながら、外でのドラマが並行して描かれ、それが意外な形で関わってくるという展開の醍醐味。乙一の小説などで時々仕掛けられる、読者(観客)をあえて誤解させるトリック。

 こちらの方は満足。

 並行して描かれる二つの場面に時間差があるらしいことは次第にわかってくるのだが、それがあのような形で一致するときには、これぞ『Saw』シリーズ、と拍手を送りたくなる。


2021年10月9日土曜日

『シャイニング』-「世界遺産」的

 クールの変わり目でアニメの新シリーズをチェックするのに忙しいのだが、アニメを見続けていると洋画を見たくなって、かつホラーを何か、と、録画したままになっていた本作を。

 何十年ぶりかわからないが、『ゼイリブ』に比べても覚えているような自覚だったのだが、まあ似たようなものだった。やっぱり覚えているのはあちこちで引用される場面ばかりだった。

 さてそうして観直した印象としては、いささか拍子抜けだった。さして怖くはない。ジャック・ニコルソンの演技はむろん迫真だったが、それはそういうものだと思って観てしまえば、それ以上に驚かされるような恐怖はないし、直截的な恐怖は物理的なものだ。

 そして、ジャック・ニコルソンが狂気に染まっていく過程は、思いのほかあっさりと、急な印象なのだった。もっとジワジワとそうなっていくのかと思っていたが。

 いつキレるかわからない人の怖さは、もうちょっとバランスが微妙で、どっちに転ぶかわからない時にこそ怖いのであって、本作の父親/夫は、早い段階でもう危険な人になってしまっていて、後は物理的攻撃を避ければいいだけなのだ。子供が逃げるときにはそれなりにハラハラするものの、それも結局は単純な機転であっさりと逃れてしまい、あっさりと退治されてしまう。「シャイニング」はどこに使われたのだ。

 もう一人の「シャイニング」の持ち主の、あまりにあっさりの退場といい、原作の「シャイニング=超能力」をまるで活用しないならば、なぜこの原作なのかわからない。といってホラーとしての愉しさを極めるつもりとも思えない。


 見所は舞台となるホテルの豪華さ、壮麗さだな。そこはなんだかすげーなと思ってみていた。そこまでの道のりの大自然とか、冬には2階くらいまでが雪に埋まってしまう過剰さとか。

 それは何だか、テレビの「世界遺産」を観てるような感動なのだが。

 原作はそのホテルこそ脅威の根源なのだそうだが、映画は過去の事件の怨霊と父親の焦燥感が脅威の原因としか感じられなかった。 

2021年10月3日日曜日

『ゼイリブ』-過剰とアンバランス

 40年前の本作を観たのは30年以上前ではある。眼鏡を掛けたときにインベーダーが骸骨のような姿で見えるという、ただそれだけの基本設定は、その時の記憶だか、あちこちで引用されるせいだかで明瞭にイメージできるのだが、主人公がどんな人物で物語がどう展開するのかの記憶はまるでなかった。

 大衆煽動的な資本主義に対する批判というコンセプトと、馬鹿げて長い殴り合いのシーンを褒める言説がネットに散見されるのだが、全然ピンとこない。プロレスラーが演じる主人公の殴り合いは、やはりプロレスで、格闘技を見慣れた目からは空々しい。

 問題の資本主義批判にも感心しない。インベーダーとなれば外部から来たということだが、眼鏡を掛けたときに、インベーダーと人間が明確に区別されてしまうというのは、本質的に間違ったイメージだ。誰もが、程度はともあれ「骸骨」であり、それは外部から来たものではないだろう。

 人間の側にも、そちら側に与する裏切り者たちがいる、というのがそれを表しているのだという理解はできないこともないが、それにしても単純な2項対立の構図が決定的に変わってしまっているわけではなく、その批評性にも疑問がある。

 途中の、路地での打ち合いの場面は、建物の壁が左右に迫る圧迫感が照明で演出されて非日常感が現出していた、とても映画的なシークエンスだった。こういうところが、低予算映画監督の腕の見せ所だな。

 それにしても『遊星からの物体X』以外のカーペンター映画は、どうにも安っぽいのに驚かされる。その中で面白くなるかどうかは作品毎に差がありすぎて、それだけ『遊星からの…』が屹立した傑作だということか。