2024年10月8日火曜日

『鬼太郎の誕生 ゲゲゲの謎』-アクション

 娘たちは劇場で観てきたが、そこまで興味がもてなかったが、『舞姫』に似ているので観てみて、という生徒の申し出があって。

 なるほど、主人公とヒロインの関係は豊太郎とエリスにずいぶん似ている。ヒロインが主人公に依存的なのもそれゆえの媚態も。

 一方で我々世代にはいやおうなく『犬神家の一族』でもある。これはどうみてもわざとだ。

 それはともかくどうかというと、途中までの田舎の田園風景が妙に良い雰囲気だと思っていたが、鬼太郎父が活躍しだすとアクションのレベルが上がる。乱闘シーンでは、他のシーンとはレベルの違う作画で、驚嘆のアクションを見せる。

 こりゃすごいと思っていたが、その後のヒロインの悲劇を描くクライマックスから、さらに展開する本当のクライマックスまで、作画のレベルが落ちるだけでなく、キャラクターの造型まで、ちゃちなテレビアニメレベルになってしまう。大人の鑑賞に堪える映画なのかと勝手に期待していたが、残念ながら子供だましだった。

 主人公二人の関係性だけは何だか良い雰囲気だったなあと、思い出すとちょっと良い感じではある。

2024年10月6日日曜日

『Fall』-脚本作りのお手本

 よくできていた。面白かった。そして怖かった。ホラーでもこの怖さはめったにない。とにかく高さが。 

 地上600m以上ある鉄塔の上に登る動画配信者が、梯子の崩落で頂上にとり残されるSSS。設定は海底に残される『47m』であり、スキー場のゴンドラが停まる『フローズン』であり、沖合の岩場に残される『ロスト・バケーション』であり、岩に手を挟まれて動けない『127時間』であり。


 設定がシンプルならあとはアイデアと演出。これがもう申し分なくよくできていた。この窮地でどんなことがおこりうるか。どんな手段を試行錯誤するか。

 確かにクライミングの基礎として支点の確保を怠るやら、手を取り合うことで相手を引き上げるなど、無理な描写もある。

 とはいえ、真っ当な頭の使い方と、冷静で強い意志を保とうと努力する登場人物が描かれないとウンザリしてしまうので、その点でもとても好印象。出来の悪いホラーはバカを登場させてパニックを起こさせることが怖さを演出しようとする。その点、本作の二人はとても頑張った。その健闘こそが恐怖と焦燥を引き立てるし、救助の多幸感を強めてくれる。


 そして途中で触れた要素が、全て後で活かされるという、ストーリー作りのお手本のような見事な脚本だった。

 その中でも、とりわけ大がかりな仕掛けの一つには大いに感心した。

 恐ろしいことが起こると、実は夢でした、という演出はありふれている。だがその逆をいく。それを比較的長い叙述トリックとして見せ、クライマックスで真相が明かされた後に、それを解決のための手段に使い回す。その残酷さもカタルシスも充分に物語の強さを保証している。

 良い映画だった。


2024年10月5日土曜日

『エスター ファースト・キル』-前作再評価

 サイコ・ホラーの佳作『エスター』の続編であり、前日譚。

 監督は交代している。とはいえ宣伝では好評だったので期待していた。主役のエスターを、当時12才だったイザベル・ファーマンが、25才になって、そのまま演じている。

 悪くない。が、一筋縄ではいかない意外な展開になったなあと思っていると、いささかあっさりと終わる。なるほど、これは前日譚という設定のせいである。モンスターを倒して終わりになる前作とは違うのだ。

 倒したかと思うと簡単には決着しないモンスターと言えば『13日の金曜日』のジェイソンであり、『ハロウィン』のブギーマンであり、第一作の『エスター』のエスターがそうだった。

 ところが前日譚である本作では、エスターが勝者であることは予め決められている結末だから、相手を一般人とする以上、決着はあっさりするしかないのか。

 それにしても、単に筋立てというだけでなく、ジャウム・コレット・セラの演出は巧みだったのだと、決して悪くない本作を観ても、やはり一段上の前作を再評価してしまうのだった。



『対峙』-赦す

 高校における銃の乱射事件といえばいかにもアメリカでありそうだという気がするが、ウィキペディアではたとえば「2006年から2017年までに271件」の銃乱射事件があったとある。あまりに茶飯事になって、日本人には特定の事件が記憶に残らない。

 そうした「ありそうな」事件の一つの、自殺して既にこの世にはいない犯人と被害者、いずれも当時高校生だった2人のそれぞれの親が「対峙」する、というのが本作の設定だ。セラピストが仲介し、教会の司祭館らしき一部屋に4人が集まる。原題は『Mass』。集まる、の意味なのだろう。

 評価が高いことから観始めたのだが、なるほどすごい。会話劇としての脚本から俳優4人の演技まで、設定の重さに釣り合う緊密なドラマを生み出している。演技のすごさは演出の確かさでもあろうし、それをまた見事に撮影・編集している。

 こういう設定で両者が話をするとしたら、どんな話になるか、という想像をできるだけリアルにしてみる。感情を抑えようとしたり、それでも抑えきれず吹き出してしまう感情があったり、問いかけたり問い詰めたり(でもそれはセラピストには止められているはず)、責めたり駁したり、吐露したり隠したり。

 そして赦す。

 それを実行するために、この会合を開いたのだ。


 会合の舞台が教会で、聖歌隊が練習している声が漏れ伝わるのが、関係者に対する祝福のように聞こえるのは、まったくわかりやすい演出ではある。

 それならばもう一歩、映画としては冒頭の二人が、最後に物語に関わってほしかったとも思う。ないのかい! とツッコみたくなった。

 それがあったらさぞ余韻も深かったろうに。


2024年10月1日火曜日

2024年第3クール(7-9)のアニメ

 もしかしたらこれほど多くの放送アニメを見通したクールは初めてかもしれない。観ても良いと思える作品が揃ったということでもあり、ちょうど仕事の方が時間の自由が効くタイミングになったということもあり。

 

『ファブル』

 そのまま2クール目に入って、実写映画の2のエピソードに入った。劇場版は12話が2時間にまとめられているのか。

 それにしてもなんなのかよくわからない面白さ。アニメの質の低さにもかかわらず、毎週が楽しみになってしまう謎の中毒性。

 まあ声優陣の豪華さのギャップはすごい。それぞれに芸のあるキャラクター造形で、それが楽しみの一つでもあった。

 基本的には、無敵なのに意外と良い人、という心地よさで見せているだけなのだが、どうもこの面白さは謎だ。


『小市民シリーズ』

 米澤穂信の『古典部』と並ぶ初期、高校生シリーズ。『古典部』とは趣向が違うという話なのだが、むしろ驚くほど似ているようにしか感じない。別シリーズにしているわけがわからない。なおかつ主人公二人の絵面が、この間観たばかりの『早朝始発の殺風景』の山田杏奈と奥平大兼の二人に驚くほど重なる。で、日常系ミステリーだ。もはやどれも同じ。

 ところでこちらは京アニの『古典部』に比べても驚嘆すべきレベルのアニメーションに仕上げられている。監督の神戸守は『約束のネバーランド』以来(押井守、細田守、畠山守…、なぜ守という名のアニメ監督はこうも多いのか)。

 そのアニメーションのレベルに比して、お話がちっとも面白くない。なぜこんなに!? と言いたくなるほど。原作もこうなのか?

 クールの後半にだんだんお話が繋がって面白くなってきたが、謎解きのテンポの遅さが致命的にもどかしい。なぜこんなふうに描くことを選んでしまったのか。

 第2シーズンがあるということで、そこでまた評価が変わればいいが。


『義妹生活』

 親の再婚で同級生と義理の兄弟になって同居するという設定が既におそろしくラノベだが、ふざけたドキドキエピソードを並べる方向にではなく、ぎこちない二人の心情を丁寧に描く静かなタッチに好感を持って見続けた。物語をある程度語り進めてから、遡ってそのエピソードをもう一度別視点から語り直す仕掛けは面白い。それでこそ丁寧な心情描写もできている。

 物語の展開もそうだが、部屋の中の動かない長いカットを大胆に使う演出も(まあ省コストの要求もあるのかもしれないが)、全体にこの作品の静謐な空気感を生み出していて好感がもてた。


『恋は双子で割り切れない』

 アニメの質も高くはないし、幼なじみの双子の姉妹に同時に好かれるという、これもまたあまりにラノベの設定が恥ずかしいが、これも『義妹生活』と同じく、途中から別視点でたどり直すという手法が使われて、1話に感心した。この手法は1話だけだったが、それ以降は、端々にはさまれるオタク話の蘊蓄の厚みに驚嘆しながら見続けた。キャラクターに好感が持てるとまではいわないが、それぞれに丁寧に描かれる痛みは切ない。


『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』

 実にラノベ。テイストは『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』。ちょっとだらしないように見えて実は能力の高い主人公が可愛いヒロインに好かれている構図は既視感満載。もっと前には『涼宮ハルヒ』でもある。ヒロインは総じてツンデレ。

 日常のドタバタだけを描くなら続けないところだが、徐々に明らかになっていく設定と続いていくストーリーの流れに見続けた。

 さてこれからいよいよ生徒会長選が盛り上がっていくかというところでこのクールはおわり、2期が予告される。


『負けヒロインが多すぎる!』

 なんだか驚異的にアニメの質が高い。このクールは『小市民』シリーズという更に図抜けたアニメがあるものの、本作は本作でめったにないレベルではある。学校の中の風景や、そこで登場人物たちが見せる言動の断片がいちいち高品質で驚かされる。

 とはいえ、あちこちは切ない感情を拾い上げてもいるものの、ラノベらしいお気楽さは否定できない。


『逃げ上手の若君』

 時々『ジャンプ』的なノリが鬱陶しいとは思ったが、総じてアニメーションの質は高く、ストーリーも動きがあって引き込まれた。とりわけ『七人の侍』を思わせる中山庄の攻防戦は面白かった。エンディングの「鎌倉style」も最高だった。


『俺は全てを【パリイ】する~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~』

『新米オッサン冒険者、最強パーティに死ぬほど鍛えられて無敵になる。』

『ダンジョンの中のひと』

『この世界は不完全すぎる』

 かつては異世界転生、剣と魔法、ダンジョン…は最初から観ずに消していたが、ここ2,3年は様子を見ることにするようになって、そのまま通しで観てしまうものも増えた。

 さて今クールはこの3本と、ゲーム内世界という『この世界は不完全すぎる』がその系統。溜めてしまうこともなく放送週のうちに観てしまえる。

 『俺は』と『新米』はどちらもやや年のいった主人公が冒険者を志し、自分が強いことに自覚がないまま無敵になっているという共通の設定がある。その無垢ぶりに好感が持てるからこそ、強いことに快哉を感じられる。

 それにしてもあるクールに同じような設定のアニメが重なることがこんなに多いのはなぜなのか。

 『ダンジョンの中の人』はこの中でもとりわけ楽しみな放送だった。ダンジョンというのは実は制作者によって管理・維持されていて、それを支える裏方の営為を描く、という設定から、ふざけるばかりのお話が続くのかとも思ったが、意外と真面目にその設定を活かした考察が展開されていて面白かった。生真面目で強い主人公に対する好感は、『ポーション頼みで生き延びます!』『悪役令嬢レベル99』に共通する。

 『この世界は』は異世界とはいえゲーム内という設定だから、異世界物のご都合主義が理由付けされて、ゲームあるあるとして語られる理知的な感触に好感がもてた。


『鬼滅の刃 柱稽古編』

 通常の1クールよりはやや短い10話分のシリーズ。

 結局アニメではずっと観ている。それほど面白いと毎回思っているわけではないが。ジャンプ的なふざけ方は好きではないし。そして、毎回、それぞれの登場人物の過去が語られる時の壮絶さが感動的、ということなのだが、それも飽和してきているとも思う。

 とはいえ、最終回で、ようやくラスボス同士が対峙してからの論理のぶつかりあいでちょっと居ずまいを正されていると、そこに主要な登場人物が集結する展開に心躍らされた。いよいよ最終決戦、決着がつくのか、と思っていると、舞台はCGも見事な無限城に移動してまだ相当にシンドイ展開になることが予告される。そのまま劇場版の制作が予告される。これはなるほどエキサイティングな展開だと言っていい。


『異世界スーサイド・スクワッド』

 DC映画の実写『スーサイド・スクワッド』は観ていない。マーベルもそうだが、観てもどんどん忘れてしまいそうではある。

 アメコミと日本のラノベの融合って面白そうでしょ、というあざとさはあるが、『進撃の巨人』などのウィットスタジオのアニメは高い品質で、そこだけは見応えがあった。

 とはいえやはり映画の方への愛着のないところでは気分にそれほどのもりあがりもなく。


『多数欠』

 最初のうち、デスゲームを支える論理ゲームの構築が意外と精緻だと感心したが、その後はだんだんキワモノめいてくる。1クールで終わらないことがわかって録り溜めたまま。

2024年9月24日火曜日

『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』-クドカンに求めるもの

 宮藤官九郎の監督・脚本作品だというので、観てみるが、手放しで面白かったとも言い難い。ギャグは効いていた。確かにクドカン作品の面白さに笑いがあるのは確かだが、それだけを求めているわけでもない。「ゆとりですが何か」の面白さも、そこではない。くすりとさせてくれるのは悪くはないが。それよりもストーリーの巧みさと人間ドラマではないか。

 もちろん輪廻転生ものとして切ない決着を見せようとはしている。だが、全体には無理矢理なギャグが邪魔していて、あんまりそれにはのれなかった。

 長瀬智也と神木隆之介のうまいことには唸ったし、音楽がのりのりなのも楽しかったが。


2024年9月22日日曜日

『プリズン13』-弛緩した

 日本版スタンフォード実験映画。期待はしていないが、やはりこれはダメそうだととばしとばし見ていても多分問題ないほど弛緩した演出。

 映画としてはひどいと思ったが、同時に、監獄が全体を「檻」として設定し、工場のようなスペースに置かれて展開するので、なんだか舞台劇のようでもあった。そう思って見ると、たぶん舞台劇ならそこそこ観られる。舞台劇には映画のようなリアリティが期待されていない。それこそ「芝居」がかった感情の表出が許される。

 そういう映画だった。