2025年3月15日土曜日

『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』-言葉のスパーリング

 討論の場面はテレビで放送されているのを観たことがあったが、映画としてまとめられているものをあらためて。

 三島や全共闘と学生運動、そして三島の自決まで、背景を説明する必要はもちろんある。

 問題はゲストの内田樹や平野啓一郎、小熊英二や橋爪大三郎のコメントだ。残念ながら、有効に使われているとは感じなかった。内田樹と平野啓一郎についてはいくらか討論のガイドとして有益なコメントもしているが、瀬戸内寂聴や小熊英二あたりはほとんどカットしても良かった。

 やはり討論の中身をどう捉えるかに不全感が残った。どのテーマについても、ほとんど何を議論しているのかわからない。三島への問いについても何を聞いているのかわからないし、それに対する三島の答えもどうかみあっているのかわからない。

 とりわけ芥正彦とのやりとりは、応酬が複数回にわたるだけに、わからなさがどんどん蓄積していく。ここに、現在の芥のコメントを上積みしても、何かが理解される期待はまるでできない。現在の芥の語ることもほとんど韜晦で、それ自体が現代詩のようだ。

 それでも、議論自体を三島が楽しんでいるらしいユーモアに満ちたやりとりが楽しいとは言える。抽象度の高い言葉の応酬をしつつも、赤ん坊を抱いて、そのうちあっさり場を去る芥のやりとりも、それ自体がユーモラスでもある。

 何か言葉でスパーリングしているような。


 でもどうにも、読解の必要も否定できないもどかしさがある。どんな枠組みで語られているのか。あれらの応酬が。


『ダンケルク』-間然するところないが

 未見のクリストファー・ノーラン作品ではあったが、最近『チャーチル』を観て、それにまつわる『映像の世紀 バタフライエフェクト』なども見返し、入りやすくなったところで本作を。

 さすがノーラン。冒頭のフランスの住宅街を主人公たち兵士が歩いて行く後ろ姿と舞い散るビラをスローで捉えるカットから、映画的な質の高さが満ち満ちている。物語はサスペンスに満ちていて、必要な劇的要素は揃っている。

 「ダンケルクの大撤退」については、ある意味での成功という結末は決まっているのだから、そこへ向かって着地させればハッピーエンドは約束されている。カタルシスはある。

 だが、文句なく凄い作品だったというような感動があるわけではなかった。これは映画制作者たちのせいではない。映画は間然するところがない。とにかく金のかかった、エキストラを大量に動員した画面も、船が倒れるスペクタクルをたっぷりと描く撮影も、燃料切れでプロペラが停まってから着陸するまで、ゆっくりと滑空する戦闘機の切なさと安堵感と、戦場から戻って故郷へ向かう列車の中で不意に車窓に映る田園風景も。映画的には文句なく凄い。

 が、それでも観るものとの出会いの魔法が起こるかどうかは偶然に左右されるのだ。



2025年3月11日火曜日

『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』-揺れるカメラ

 日本産「ループ」ものといえばヨーロッパ企画の上田誠だが、本作はまだ他に作品を知らない竹林亮と夏生さえりのオリジナル。

 その後繰り返されるエピソードが出そろう一周目から、ループであることが明らかになる二周目まで、アイデアがとにかく盛りだくさん。半信半疑の主人公が徐々に信じていく過程も楽しい。

 ループに記憶を保持しておければ、いろんなことに習熟していく。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』だ。

 ループが起こっているとするとどういうことが起こりうるか、どういう楽しみが設定できるかを、とにかく考え尽くして盛り込んでいる。そのアイデアの数はとにかく驚異的で、そのうえ、カットも豊富で編集のテンポもきわめて達者、映画的センスの良さは驚くべき。

 ものすごく楽しいタイプの映画だなと思って観ていたが、3分の2ほど進んで、最初のループ脱出の鍵が間違っていたことがわかってからの展開が、やや不満ではある。展開が、情緒を重視した人情話に傾いていく。

 もちろん、それが成功していれば、面白い以上に感動的になりうる。アイデアの数では双璧だと思える『カメラを止めるな』が成功しているように。

 が、そこはそうでもない。仲間との協力で、絆の大切さに気づきました、的な。

 惜しい。


 ところでどうも画面が常に揺れるのは、あえて手持ちカメラで撮っているらしいのだが、いちいち三脚でFixの構図を作らないことが、あのカットの多さを可能にしているのだろうか。

 興味深い。

 


2025年3月10日月曜日

『人狼ゲーム デスゲームの運営人』-運営の裏側を描く

 「人狼ゲーム」シリーズでは、テレビシリーズの『人狼ゲーム ロストエデン』が、ゲーム会場以外の「外」の物語を並行して描いていて新鮮だったが、本作は舞台裏の運営の行動を描く。面白くなるかどうかは賭けだな、という印象だったが、案の定面白くはない。だが最後に設定の裏が明かされるどんでん返しは悪くなかった。お、最後にそう捻るか、といくらか感心した。

 が、全体にはこちらの努力不足もあって、頭脳ゲームとしての面白さが伝わるとは言い難い。せっかく頭脳戦が二重に展開する設定にしたというのに、それが十分には活かされない。どんでん返しの驚きだけでなく、そうした設定によって論理ゲームとしての複雑さを増したというのに。

 もったいのは、今作でも人狼側を明かしてしまっていることからくる「ネタバレ」感だ。誰のどの言葉が信用できるのかを本当に疑いながら、ちゃんとその解釈の可能性について考えさせる強制力が観客に対して働いていないと、観ている緊張感も、そこからの意外な展開がもたらす感動も生まれない。

 人を殺すためのハードルに関する緊張感が決定的に欠けているという、シリーズの致命的な欠陥を補うには、せめて頭脳戦を本当に緊張感を持って描くしかないのに。


2025年3月6日木曜日

『チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』-演説の功罪

 画面の映画的な質は極めて高い。編集や演出も実に見せる。どんどん物語が進んでいく。

 とはいえ、物語はシンプルで、ドイツに対して徹底抗戦するか停戦交渉をするかの2択に迷って、結局戦うことで、当面の窮地を脱するまでが描かれているだけで、邦題の「ヒトラーから世界を救った」は全く大風呂敷もいいところだ。

 対立する論理は緊密だ。宥和・交渉派のハリファックス卿と交戦派のチャーチル。現実的には交渉する方が良いとも思える。それが何か陰謀論のように描かれているわけではなく、現実的な判断として十分な説得力をもつように描かれている。

 対するチャーチルが徹底抗戦を訴えるのも、徒な玉砕主義ではなく、今後の展開を考えれば、ここで譲歩するのは避けるべきだという判断であり、これは拮抗する。

 ドラマを作る葛藤も、危機を逆転しての攻勢も、物語としては良くできている。面白かった。

 だがどうも腑に落ちない思いも残る。結局チャーチルが国民や議会を説得するのは演説なのだ。その演説は、ほとんどヒトラーがドイツを狂気に導いた演説と変わらないではないかと思えてしまうのだった。

 結果や語られる論理を十分に精査して、両者の演説は違うのだと言うのは難しい。どちらも要するに他人の感情に訴えて煽る。そこに違いは見出せない。目的としても結果としても、そこに虐殺のための虐殺が行われたか否かの違いはある。だが、ドイツ国民も、それを目的として支持したわけではない。ならば国民にとっての両指導者に何の違いがあるか。

 西洋的な演説の功罪。


2025年2月28日金曜日

『マイ・インターン』-ハートウォーミングなコメディという枠組み

 ロバート・デ・ニーロとアン・ハサウェイの共演で、アン・ハサウェイがデ・ニーロのインターンになる話なのだと思って観始めると、予想に反して、アン・ハサウェイの女社長に、デ・ニーロの隠居さんが、インターンとして再就職するというお話なのだった。

 どちらであれ、予想されるハートウォーミングなコメディという枠組みからはみ出ない。その範囲ではとても楽しい映画だった。微妙なすれ違いもありながら、信頼を醸成し、徐々に距離を縮める。笑いどころも、ワクワクする動きのある展開もある。少女が、ピンクの服を着たあの子と指さす方向を見ると、遊具に群がる子供たちがみんなピンクの服を着ている、とか、鍵は植木鉢の下にあるはずだからすぐに見つかると予告して、行ってみると植木鉢が数十個あるとか、同じパターンの笑いを誘って、ちゃんと成功しているのは、一人で見ていたのではなく、娘と一緒に観ていたからかもしれない。

 親子ほどの年の差だが、既婚者であるアン・ハサウェイとデ・ニーロの恋愛が描かれる可能性について、観客は予想する。デ・ニーロの家族は描かれない。そのうち、配偶者が亡くなっていることが語られる。

 片やアン・ハサウェイの夫の浮気が語られる。出張先のホテルで、アン・ハサウェイの部屋にデ・ニーロが招き入れられ、二人でベッドで語らう。

 確かにそういう可能性について映画は観客を誘導する。だが結局、デ・ニーロはインターン先の会社に、似つかわしい相手を見つけ、アン・ハサウェイは夫と和解する。

 ハートウォーミングなコメディという枠組みは守られるのだった。


2025年2月16日日曜日

『ビリーバーズ』-凡作だが

 山本直樹の原作は通読していないが、連載を何度か目にしたことはあり、カルト教団の話だとは知っている。で、見てみるとあまりに予想通りの狂信を描くばかりでそれ以上のものは描かれない。映画としての文法も凡庸でカットもだらだらと冗長。途中で早送りにしないと見てられん、という凡作だったのだが、なぜかアマプラの評価は高い。

 予想通りのカルトの狂信が描かれていたっていいのだ。描き方が細やかで、なるほどこれは怖いと思わされればまた面白く見られもするんだろうに、そんなことはない。狂信への共感が湧いてくるようには描かれていないのだ。ひたすら他人事のように感じてしまう。

 にもかかわらず、エピローグで狂信から醒めた主人公が現在の生活にふとカルトの夢を見る一瞬は何やら印象深く、高評価もこれにひっぱらられているのかもしれない。

 この、時空の隔たりのようなものを物語に持ち込むのは、安易とも言えるが、やったもん勝ちだとも言える。どう受け取ったものか。