2025年10月4日土曜日

『Last Letter』-弱い

 9年前の公開の時にも映画館に行こうかどうしようかと迷いはしたのだが行かずじまいで、結局アマプラの見放題終了間近におされて。

 岩井俊二は、あるときはわかりにくいがあるときはわかりやすい。どういう発想で作られているのかわからないカットや台詞があったりもするのに、喋るとわかりやすいことばかり言う。そのまま作品もそうだったりする。

 そして本作はきわめてわかりやすい映画だった。そして、薄かった。密度が低かった。これがアンサーになっているのは明白な劇場映画第一作『Love  Letter』は、比べてみれば濃い。色んな要素が詰め込まれている。エピソードの数も、そこで企図されている映画的面白さの要素も。

 それに比べてこれはなんと平板なのか。代筆による文通という設定は『Love  Letter』ゆずりだが、あちらがその設定からさまざまな展開を描いていたのに比べ、本作はいくらもそうした展開をしない。主人公が姉に代わって書いている手紙と、娘達が母親に代わって書いている手紙の2系統が進行するという工夫をするなら、それらがどう干渉してどんな事件を巻き起こすかと期待される。していると、何も起こらない。それぞれに、実は我々が書いていましたと明かされる平板な展開があるだけ。


 大人になることの喪失感が描かれるのは岩井自身の年齢を感じさせて、それは大いに描いてほしかった。生徒会長で絶世の美少女の広瀬すずが、悪い男につかまって零落した挙げ句に自死する設定も、森七菜にとっての「ヒーロー」たる神木隆之介が、書けない小説家で貧しいアパートに一人暮らしという設定も、胸の痛む話ではあるが、それは描かれれば映画の強さではある。「悪い男」に豊川悦司、「書けない小説家」に福山雅治という配役も皮肉が効いている。ここに、いかにもな悪い男や冴えない中年を置いては興ざめだ。

 だがこれを映画の強さと感じさせるには、広瀬すずと神木隆之介の高校生時代がもっと輝いていなければならない。まるっきり不足していたと思う。あれでは零落の喪失感は弱い。

 そうなると、最後に描かれる希望も弱い。

 ただ広瀬すずの涙だけは強かった。

2025年9月22日月曜日

『僕達はまだその星の校則を知らない』

 『御上先生』にがっかりしたがこれはどうか。

 最初のうち、登場人物がカメラ目線で状況を説明したりするメタな演出などにハシリ、これはどうなの、と思ったが、全校集会で壇上に上がった生徒会長(男子)がスカートをはいていて、翌日から休み続けるという謎の展開で見せるのはなかなかうまい。結局良い話におさまって良かったと思ったのだが、この1話、終盤で見直したら大感動してしまった。表現されているのは「友情」の一つのありようなのだが、これを安っぽかったり暑苦しかったりせずに切実で抑制が効いていて、深慮に支えられていると感じさせる脚本の力と役者陣の仕事に敬意を表したい。

 その後も、とりわけ若手俳優陣の熱演に支えられて感動的なエピソードが描かれるのは『最高の教師』以来だ。

 とても愛おしいドラマだった。

2025年9月21日日曜日

『何者』-いたい

 どこでやら高評価だったので。

 原作は途中まで読んだ覚えがあるが、映画を観ながらも、まったく記憶がよみがえらなかった。一方で就職活動をする大学生の話、という枠組みからは、全く意外性のない展開ではある。

 展開はともかく、語り口は実にうまい。就職活動に奔る周囲の大学生を見下しながら、自分は何か価値のあることをやろうとしていると思っている登場人物の語ることなど、実にそれらしい。これは明らかに言葉の力のあることがわかる芸で、おそらく原作の小説からもってきたものだろう。どういう言葉遣いに、バランスの悪い過剰な自意識が表れるか、それをいかにもな例で示してみせる。

 就職活動に対する取り組み方に、それぞれの価値観が表れる。実際はどういうふうに合否が決まるのかはもうちょっと不明なはずだが、物語では必然性のある形で合否が決まっていく。それがそれぞれの心のどんな波紋を広げていくか、静かなサスペンスに満ちた描写で描かれ、それがいくつかの局面で噴出する。いたい。いわゆるイタい人物ではない誰もが、同様にいたい。それはとてもリアルだ。

2025年9月20日土曜日

『地震のあとで』-モヤモヤ

 村上春樹原作のドラマ。録画してから4話全部を観るまでに半年くらいかかった。

 評価は難しい。画面も音楽も、なんだか高級そうではある。演出の井上剛は『クライマーズハイ』『いだてん』だし、脚本の大江崇允は『ドライブ・マイ・カー』の共同脚本だ。演出が弛緩したところがあるわけではないし、出演陣は岡田将生に堤真一に佐藤浩市と超一流。

 しかしなんともモヤモヤした挙げ句に原作を読んでみた。

 原作もおんなじだった。まったく同じモヤモヤが村上春樹の小説にもある。そういう意味ではとてもよくできた映像化であり、舞台を30年後の現在に移しているからどうだということもなく、多くの人の手を借りて世に出ることの意味があるのやら。

 何がモヤモヤと言って、ひたすらに意味ありげ、なのだ。そして意味は確定されない。結局。村上春樹はずっとそうだ。何かを指し示していそうな象徴やらガジェットやら言葉やら展開やら形容やらが、簡単には意味を明らかにしそうもなく、だからといって意味などないのだと棄てておけない実に微妙なバランスでちりばめられている。全編にわたって。

 それを何事かと解釈することが村上春樹の楽しみでもある。ゲーム的に、ということではなく、解釈できないこととできることの間で引き裂かれるコンプレックスに翻弄されることが。

 だがなんというか、現状は、めんどくさい。ゲームにもコンプレックス・ゲームにも。


 さて、とりわけモヤモヤするのは『かえるくん、東京を救う』だな。のんのテレビドラマ出演は喜ばしいが、この設定には大いに疑問がある。まるで『ミミズの戸締まり』ではないか。ということは、同じようにここでも、この設定には納得できない。東京で大地震が起こっていないことは、かえるくんと片桐の死闘のおかげだということになっている。ということは、阪神・淡路や東北では、誰かが仕事をサボったのだ。あるいはミミズが地震を起こすのは人々の悪意の蓄積のせいであるように言われるが、それなら、震災の犠牲者はそれらの悪意の犠牲者なのか。なぜその人々が?

 この話は片桐の選民意識的優越感をくすぐるという意味で、きわめてラノベの心性に似ている。

 いいのか。ノーベル賞候補になろうって人の小説が。

 だが一方で、この作品に引きつけられる人が多いという話も聞く。なぜだ。


『メイキング・オブ・モータウン』-アメリカ現代音楽史

 モータウンレコードについての基礎知識をこの際だから仕入れようと、…などというさもしい期待をはるかに超えて面白い映画だった。

 創始者のベリー・ゴーディが、盟友スモーキー・ロビンソンと、豊富な逸話を面白く語っていくのだが、それだけでなくドキュメンタリー映画としての構成が実に見事だった。歴史を語りつつ、そこに起こる出来事が生き生きと語られていくだけでなく、モータウンレコードの果たした役割がアメリカ現代史として語られる。もちろん現代音楽史でもあるが、人種問題としてのアメリカ現代史だ。

 そして、モータウンの成功がそのシステムにあると語られるところが面白い。ベリー・ゴーディはフォードの自動車工場に勤めていた経験を活かして、音楽制作に、確固たるシステムを構築しようと意図する。利益を追求する効率重視の制作体制。

 だがもちろん、そこに個人の才能が不可欠であることも、同時にいたいほど感じられる。スモーキー・ロビンソンはもちろん、マービン・ゲイにスティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソンといった天才が、しかもとびきりのパフォーマンスで画面に登場する。

 日本の音楽制作では、しばしば音楽のわからない会社員の硬直した体制と、良い音楽のためにたたかうアーティストという構図が語られるが、本作では才能を持った集団が、良い物を作るという目的のためにしのぎを削りつつも集団として力を発揮していく姿が語られ、なおかつそこから飛び出ようとする巨大な才能のありようも語られる。制作が単なる個人の芸術的発露にとどまらない。そうした「場」の力が印象づけられる。

 ドキュメンタリーとしては、ベリー・ゴーディとダイアナ・ロスの恋愛が、危機からのロマンスとして劇的に語られるところも実にうまい。 

 モータウンの曲をライブでやりたくなった。


2025年9月19日金曜日

『真・鮫島事件』-怖さよりカタルシス

 口にしただけで呪われる噂が伝染するというアイデアは『リング』のパクリだが、思えば『リング』はビデオテープを再生するという手間がかかるところが時代だった。そこにネットの普及を前提にしてしまえば、もうパンデミックは避けられない。そのわりには少人数に災厄がふりかかるだけで終わる。

 演出は良い。怖い。ホラーだと思って観ると、にわかに画面の隅々が想像力によって怖さの源泉になる。緊張がとぎれない。ジャンプスケアを使ってくるかどうかわからないので(たぶん使うんだろうとは思って観る)。

 展開はまるで『Zoom』で、これもパクリレベルでほぼ既視感がある。 

 ただ呪いを解くためのアクションを起こす(兄弟に頼んで、部屋の中の展開の外に出る)という展開がオリジナルだが、そこに突然絡む「七つの大罪」は意味不明だし、そこら中で飛び出してくる悪霊は「伽椰子」だし、その末にせっかくはたらいてくれた兄の努力が無駄になるのは誰得なんだ。その絶望感がホラー? いや、怖さよりカタルシスだろ。

 突然、呪いの場所は柏だという設定が語られてびっくりした。


2025年9月18日木曜日

『川を越えた先』-地味なホラー

 イタリア産ホラーだが、こういうのがスタンダードかどうかは全く不明。展開もなく、情報量も少ない、実に地味な映画だった。

 森のあちこちにカメラを仕掛けて動物の生態を調べている動物学者が、狐に仕掛けたカメラの映像に導かれて「川の向こう」の廃村に赴き、そのまま川の氾濫で戻れなくって廃村で寝泊まりするうちに怪異に遭う。川を越えると異界、という設定はとても民俗学的。

 相手は幽霊なのかと思っていると、何か物理的な力も使ってくる。どうも法則がわからない。どういう描き方をしたいのかが読めない。こういうホラーは困る。