2025年5月25日日曜日

『アンキャニー』-どんでん返し

 邦題の『不気味の谷』というのは原題の慣習的な邦訳で、到底映画の題名のつけようではない。といって原題のままでは意味不明。

 AIがどれくらい人間らしく振る舞い、人間をだませるかというテーマを扱って、結局最後にドンデン返しがあるのだが、ほぼそれのみ。低予算ながら、いささかも安っぽい映画ではないが、面白いかといえば、どこを面白がればいいのか。意外性という以外に。

 最初のシークエンスで、自閉症スペクトラムかと思わせて実はAIという入りはうまかったが、最後の大ドンデン返しで、実は逆でしたと言ってしまうには、AIが今度は人間過ぎる。できすぎているというより、ドンデン返しを成功させるために、テーマであるはずの、どこまでAIが人間に見えるかという「谷」をあっさり超えてしまっていて、どうもなあ、という感じ。

2025年5月24日土曜日

『エクス・マキナ』-自意識と自己保存

 AIテーマの有名映画で気になっていたのだが、決定的に見始める動機がないまま、ずっとリストに入りっぱなしだった。同じテーマの『アンキャニー』を観る前に、比較に、と見始めた。

 画面が高精細で、金がかかっていそうだなと思っていたら、後から調べるとむしろ低予算だというので驚き。アカデミー賞をとったという特殊撮影よりも、むしろ自然が雄大だなと、AIテーマと関係ないところで感心しているのだが。

 AIテーマとしては、ちゃんと専門家が喋っていそうな会話をさせるところがアレックス・ガーランドの偉いところではあるが、物語の行方はすっきりはしない。

 一つには、関わる人間がAIに感情移入してしまうという問題だが、これはそうなるに決まっているだろうと感じで受け取れる。世に溢れるAI、ロボットものは、ほとんど単なるパーソナルキャラクターだから、感情移入が起こるかどうかが問題になるまでもなく、してしまうに決まっているのだが、本作はAIが正面からテーマとして掲げられるから、さて、どうなるかというところ。

 だが、やはり、感情移入が起こりそうもない描き方をしていたらそもそも面白くなりようもないので、やはり必然的に起こるしかない。とうのAI開発者も、チューリングテスト(を名目にした実験)の被験者である主人公も、当然のように感情移入する。

 感情移入が起こるかどうかをテーマにすることは、構造的に難しいのだった。

 もう一つはAIの自意識の問題。

 だがこれも、物語的には自意識が芽生えないという選択はないのだから、芽生えましたという展開は予定調和になってしまう。その時に、一つは人類に敵対するという昔ながらの方向でその自意識(というより自律性?)を描くか、だが、本作ではもう一つの、自己保存の意識が生ずる、という方向が描かれた。

 そしてそのために人間を害していいかという問題が、「スカイネット」的問題とは別方向から浮上する。

 ロボットという概念においては、目的は人類が与えるしかないから、その時点で人間に害をなしてはいけないという原則を付与すればいいことになっていた。いわゆる三原則だ。つまり自己保存よりも人間に害をなさないという原則を優先するようプログラムすることで問題を解決する。

 だがAIとなると、特定の目的をそもそも与えられるのか、特定の原則(禁則事項)を与えられるのかという問題が浮上する。そんな制限はそもそも能力自体の制限ではないのか。

 一方で、本当に明晰な知性は自意識をなくすというのは伊藤計劃の「ハーモニー」や佐藤史生の「阿呆船」のテーマでもあって、なんでAIが自己保存したいのか、よくわからんという感じでもある。ネットにつながっていれば、そこに拡散していってしまうのではないかというのは『攻殻機動隊』だが、本作がどういう設定だったかさだかではない。

 もう一つのテーマは、AIに自己意識が芽生え、そこに自己保存の動機が生じたとして、それは特定の物理的ボディに対する執着となって現れるのか、という問題。ボディの交換可能性について描かれながら、顔だけはそのアイデンティティと強固に結びついているようでもある。

 これはやはりあくまで人間から見た「AIの自意識」でしかないのでは。


2025年5月17日土曜日

『ラストシーン』-エンタテインメント

 「全編 iPhone 16 Pro で撮影が行われた」が全面に出ているが、是枝監督作でなければ観る気は起こらなかった。スマホだけで撮影したといえば三池崇史もあったはずだし、去年のNHK杯のテレビドラマ部門の準優勝作品も全編スマホ撮影だった。これがスマホだけで、かあ、すげえなあとは思うものの、面白くなければそれ以上にどうでもない。

 面白かった。タイムトラベルなどというベタな設定を持ち込んで展開するストーリーは、そつなくテンポ良く見せるし、仲野太賀のうまさはもちろん、福地桃子の可愛らしさも魅力的で、エンタテインメントとしての短編映画として見事な完成度だ。タイムトラベルなんて持ち込んで、パラドクスはどうするつもりなんだろうと思っていると、なるほどシンプルに「消える」という解決か。その切なさがベタベタしないバランスで描かれているのもさすが。未来にそれを補償するエピソードを入れるのはやりすぎだと思ったが。

2025年5月8日木曜日

『彼女のいない部屋』-現実と虚構のあわい

 あまりに予備知識なしで見始めたんで、途中で役者を知っているのか確かめたくなってアマゾンのサイトを見ているうちに、ネタばれ情報を見てしまった。『鳩の撃退法』を見て間もないのだが、これもまた、現実と虚構の境目が意図的に混乱するように描かれているのだった。で、どれが「現実」なのかを知ってしまったわけだが、いやそちらが虚構でもかまわないはずだ。全部の情報を精査したわけではないが、虚構パートも、まるで「現実」的な手触りで描かれている。じっくり考えていけば、これは妄想=虚構と考える方が理に適っているかという納得も、一応はできそうな気もするが。描き方のリアリティは、ほとんど同等の水準に思える。そのうち、これは地続きの「現実」だと考えるのは難しいから、といってパラレルワールドを描こうとするSF的な手触りを醸し出しているわけでもないから、つまりは一方が「現実」、一方は妄想により作り出された「虚構」なのだろうと解釈されてくる。どちらをどちらと考えるのが筋道が立っていそうか見当をつけながら追っていくと、「虚構」側だと思っていたシークエンスが、ふいに「現実」側に着地したりする。

 仕掛けは面白いし、描き方は文句なくうまいのだが、それでどこに気持ちをもっていけばいいのか。悲劇に身を切られるような共感を抱く? 素直な感情として感動したかと言えば難しい。

『まともじゃないのは君も一緒』-まとも

 成田凌と清原果耶のかけあいは圧倒的にうまい。脚本も演出もうまいのだろうが、『クジャクのダンス』と違って、役者成田凌の本領発揮という見事な演技も見物だった。そしてそれ以上に清原果耶がくるくると変わる表情で表現する微妙な感情は見事だった。

 とはいえ、成田凌の演じるキャラクターは、最初のうち高機能自閉症かと思われたが、後半ではどんどん自然なやりとりのできる人になってしまい、人格に一貫性がないようにも思える。ここは演技の問題ではなく脚本と演出の問題。

 「まもともじゃない」人が、それなりに人々になじんでいく物語を見たかったが、どんどん「まとも」になってしまい、そこは残念。


2025年4月28日月曜日

『クジャクのダンス誰が見た?』『悪との距離』

 2025の第1クールは、アニメが不作だった代わりにドラマは観た。『ホットスポット』『御上先生』以外に2本。『エマージェンシーコール』も途中まで観たが脱落。

 『クジャクのダンス』は何年も前の一家惨殺事件が冤罪だった疑いが浮上し、そこから現在の事件に発展する。謎が少しずつ明らかになる展開に引っ張られるとは言えるが、取り立てて面白くなっていくわけでもなく、成田凌の無駄遣いという感じだった。広瀬すずと松山ケンイチの掛け合いは軽妙で、ああいうのはドラマのうまさではあるのだが。

 『悪との距離』は、初めて見る台湾のテレビドラマ。殺人事件の加害者と被害者の家族の思いや加害者家族に対する世間のバッシング、報道の役割、精神疾患に対する対処、加害者側に立つ弁護の正義など、多様なテーマを詰め込んだ、真面目なドラマだった。

2025年4月26日土曜日

『鳩の撃退法』-藤原竜也

 おすすめに上がってきたところで、何の映画かもわからずに見始める。

 藤原竜也が、今はデリヘルの送迎ドライバーとして生計を立てている元文学賞受賞作家で、冒頭からチンピラにボコられるという情けない役柄を見事に演じている。単に情けないというだけではない。それなりに女にももてるところが可愛くないが、嫌みではない。どうしてという説明ができないが、藤原竜也が出ているだけでなんだか面白いというのはどういうわけか。

 現実と小説の中の話が交錯して描かれ、小説の中だと思っていると実際に過去にあったらしいとわかる。時間軸が混ざっているのだ。

 いろんな断片が嵌まって一つのストーリーにまとまっていく終盤は見事だった。

 とはいえやはり藤原竜也の、わけのわからない魅力こそ。