2014年8月31日日曜日

『デストロ246』「ヨルムンガンド」

 うちには「ヨルムンガンド級」という言葉があって(というか私が使っているだけだが、子供にはもはや通じるようになっている)、これは戦艦をドレッドノートに因んで「超弩級」とかいうときと同じ、ある基準、水準を意味するのだが、「ヨルムンガンド級」というのはそういうわけで「世界蛇(ヨルムンガンド)のように大きな」ものを指すというわけではなく、マンガを評するときに、「最高水準である」ことを示す我が家だけに通用する表現だ。言うまでもなく「ヨルムンガンド」とは高橋慶太郎の、あれである。
 「ヨルムンガンド」の最初の3~4巻くらいまで買った頃から、この作品は私にとって最高水準の評価を維持しているのだが、同じような時期に同水準のマンガをいくつか読んで、それらをまとめて「ヨルムンガンド級」というように個人的に意識するようになったのだった。例えば『刻刻』(堀尾省太)であり、『ナチュン』(都留泰作)であり、『GUNSLINGER GIRL』(相田裕)であり、『ナツノクモ』(篠房六郎)であり、『BLACK LAGOON』(広江礼威)であり、『HELLSING』(平野耕太)であり、もうちょっと遡れば『MOONLIGHT MILE』(太田垣康男)であり、『プラネテス』(幸村誠)であり、『無限の住人』(沙村広明)である(もちろんこんな列挙では到底網羅してはいない)。私見では、この水準のマンガは前世紀には十数作を数えるのみだったのが、今世紀に入って俄に数倍増したと思う。上に列挙した作品はそれぞれ、前世紀のマンガ作品群に置いてみれば、突出した水準で屹立したはずだが、今世紀においてはマニアックで「知る人ぞ知る」作品として割拠しているように見える。で、この中で特に優れているというわけではないが口に馴染んだのがたまたま「ヨルムンガンド級」という言い方だった。「ナチュン級」ではあまりにマニアックすぎるかも、というくらいの選択だ(そもそもうちの子ですらまだ『ナチュン』を読んでいない。たぶん)。
 で、読んだ本のことをちゃんと覚えておけないから、ある程度まとまってからようやく単行本数冊をまとめて読むのが常である現在の私なのだが、それでも高橋慶太郎の『デストロ246』は、単行本を見つけるのに合わせて間をあけてでも一冊ずつ読んでしまう。4巻も、まあ3巻から半年だから、前巻の展開がすっかりわからなくなっていて、という程の支障もなく、買ってきた十冊くらいの本の最初に手をつけてしまう。
 この中で、天才女子高生が「ハリウッド映画とか、アレじゃん。全部とは言わないけど『家族の絆』みたいなのにオチつくのばっかじゃん!」と言う場面があって、あれっと思った。最近観た「ハリウッド映画」が立て続けにまさしくそれだったからだ。『マイレージ、マイライフ』(原題:「Up in the Air」 監督:ジェイソン・ライトマン)と『マイ・ルーム』(原題:「Marvin's Room」 監督:ジェリー・ザックス)。
 二本とも堂々たるA級映画であり、実際に良くできていて、面白かった。「ヨルムンガンド級」とはいわないが、良い映画だと言っていい。だがどちらも結局「家族の絆が大事」って映画だよなあ、と思っていたところにちょうど『デストロ246』の台詞がカブって、タイムリー! と思ったのだった。
 長い前置きの割に言いたかったのはそれだけ。

 そういえば『デストロ246』も『マレフィセント』と同じく、男が何もできないお話だ。だが別にここにある符合に特別な意味づけをしようなどという気は、毛頭ない。

2014年8月30日土曜日

「君が僕の息子について教えてくれたこと」「A-A'」追記

 昨夜書いた「君が僕の息子について教えてくれたこと」から連想したあれこれについては、ツイッターの方でも「この感想は不謹慎ではないはずだ」と書いたとおり、「面白い」という表現が誤解されるかもしれないという可能性をかすかに危惧している。ましてSFを連想し、異星人やアンドロイドを引き合いに出して「君が」や「この星」を語ろうとすることがさらに反発をまねくのではないか、とも思う。
 だが私が「君が」や「この星」に感じる面白さは、いわゆる「センス・オブ・ワンダー」だ。文字盤無しでは日常会話ができない東田さんが、あのように文法の整った文章を書ける不思議! そして書き上がった文章を元に講演したときにはまた何を言っているのわからなくなるというシーンにまた驚く。外に表れた通常のコミュニケーションのありようからは、彼の内面がどのようなものであるのかは、知ることができないのだ。それが、ワープロの文字変換を通して、またその応用である文字盤を使った会話において初めて、あのように共感可能なものであったり、やはり不思議な世界認識であったりすることが知れるのだ。これこそセンス・オブ・ワンダーである。そして日頃「表現できないことは考えてもいないんだ」なぞと言っている自らの言動を深く反省したりするのである(私にそう言われた方々、本当に申し訳ない)。

 今回私が連想した「A-A'」については、「これって、今時はやりの高機能自閉症のことじゃないの?!」と書いているブログを今日見つけてしまい、やはり同じように考える人がいるのだと納得した。
 →「萩尾望都「A-A'」に驚嘆する」(「わにの日々-アラフィフ編」より)
 2年前に書かれたこのブログの記事では、「うちの若息子はガチでADDなので、色々、ADDに関する文献を読んだりしましたが、かくいう私自身がADDだった。」と書かれていて、「A-A'」について「萩尾氏の先見の妙というか、人間観察の目の鋭さに、今更ながら驚きました。」と評されている。そのような前提があって読むと、なるほど「A-A'」はそのように読める作品なのだった。
 「A-A'」についてはクローンという目を引く題材を扱っているから、語られる切り口も専らクローン人間という設定をめぐってのものだ。確かにそこでは「アイデンティティの分裂」というテーマが興味深い。あの彼女を前の私の知っているあの彼女と同一人物として認めて良いか? 自分が他にもいるとしたら、この自分は何なのか?
 だが以前から私はそれよりも「感情の表現が普通と違う人の感情のありよう」というテーマに奇妙に惹かれるものを感じていた。ラストシーンで無表情のアディが無表情のまま流す涙に同調してこみ上げてしまうあの感動が「この星のぬくもり」と同じだとは、今回の「君が僕の息子について教えてくれたこと」が両者を繋ぐまで気づかなかった。

「君が僕の息子について教えてくれたこと」「この星のぬくもり」

 ツイッターでも触れたNHKのドキュメンタリー「君が僕の息子について教えてくれたこと」を再放送で見直してみると、最初に見たときには途中から偶然見始めたと思っていたのだが、冒頭のほんの数十秒のみが未見で、ほとんど全部見ていたのだった。やはりいくつかの場面でこみ上げてしまったし、相変わらず興味深いとも思い、勢いで「この星のぬくもり」(曽根富美子)を十数年ぶりに読み返した。何度となく読み返しているマンガだが、これも相変わらず感動的で、やはり面白い。
 「君が」も「この星」も、自閉症者が自らの心中を的確な言葉で表現することでようやく我々に彼らの心中がいくらかでも想像することが可能になっているという稀なケースを実現しているのだが、これはある種の異星人もの、あるいはアンドロイドものの優れたSFが可能にしている面白さを連想させる。たとえば「パラサイト・イブ」は、あんなに突拍子もない生命体(細胞内のミトコンドリアが自立した意識を持った生物であるという設定)を描いているにもかかわらず、その意識があまりに俗物な人間であることに心底白けたものだが、「寄生獣」やTVシリーズの「ターミネーター:サラ・コナー・クロニクルズ」は、人間的な類推でその心理を想像していると、時折疑心にかられるという微妙な描写をしていて実に面白かった。この究極の形である「惑星ソラリス」は類推がほとんど通用しない異生命体(かどうかも怪しいが)を描いていたが、あそこまでいくと「面白い」が「感動的」ではない。
 この、「心理を類推することが妥当かどうかを改めて考え直させる」作品として最も感動的なのは、萩尾望都の「A-A'」だと思う。「何を考えてるかわからない」という他人の認識(というか読者の認識)が充分に明晰であって、なおかつ本人の、共感可能な感情が他人の目に垣間見えた時こそそれらの作品は感動的になる。「君が」も「この星の」も「A-A'」もそうだ。そしてそれらは感動的であると同時に、やはり面白いのである。

2014年8月29日金曜日

TBS 『日曜劇場』~おやじの背中

 TBSの「日曜劇場」は今「おやじの背中」というシリーズを放送中だ。
 これがまことにおどろくべき企画で、「日本を代表する」脚本家10人がオリジナルの1時間完結の脚本を書き下ろす、というのだが、このメンバーを見て、シルヴェスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーの共演だという「エクスペンダブルズ」のCMを見たときの衝撃を思い出してしまったのだった。ジェイソン・ステイサムだのブルース・ウィリスだのといった売れっ子を並べるところもすごいが、なんといってもスタローンとシュワといったオールド肉体派が同じ映画に出て、しかもちゃんとアクション映画だというところがすごい(観てないけど)。
 かたや「おやじの背中」もすごい。ステイサムだのウィリスだのにあたる岡田惠和や井上由美子、橋部敦子、三谷幸喜という売れっ子を揃えるのもすごいが、ここになんと鎌田敏夫(77歳)・倉本聰(80歳)・山田太一(80歳)という、ものすごい超ベテランを並べているのだ。肉体派のアクション俳優と違って「現役」脚本家であることは可能ではあるんだが、もはや「売れっ子」とは言い難いこれらの重鎮を、これでもかと並べる企画がよく実現したものだ。さらにドルフ・ラングレンにチャック・ノリスにジャン=クロード・ヴァン・ダムといった格闘家出身の映画スターを、これでもかと並べる「やり過ぎ」感もすごいし、こっそりランディ・クートゥアやアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラなんていう、つい最近まで現役だった本物の格闘家を登場させてしまう悪趣味(いや、観てないのでちゃんとリスペクトされてるのもかもしれないが)も、悪のりが過ぎるだろ、とつっこみたくなる(なおかつ「エクスペンダブルズ3」にはメル・ギブソンとハリソン・フォードの出演も予定されているというから、もはやなにをかいわんや)。これに対抗して(別に対抗する必然性はないが)、悪のりついでに宮藤官九郎を引っ張り出せれば完璧だったのに。ここに木皿泉や池端俊策といった実に渋い面子がラインナップされているところはミッキー・ロークとジェット・リーにあたるのかもしれないが、個人的には今は亡き田向正健が倉本聰・山田太一とラインナップされているのを見たかった。

 さて、未見の「エクスペンダブルズ」はともかく、「おやじの背中」は、毎週録画しているのだが、楽しみで次々見てしまうというわけでもなく、この「気になる」感に決着を付けるためになんとか消化しているという感じ。
 スタローンやシュワルツェネッガーのアクションに切れがあるという期待はできないが、さすがに鎌田・倉本・山田も、30年前に心を奪われる思いで追っていた彼らのドラマ群のような切実さは、もうないのだった。ならばしみじみとした滋味のようなものが醸し出されてきているかというとそういうわけでもなく、やはり(決して良い意味ではなく)枯れているのだった。それともむしろ三人とも、連続ドラマで見たい脚本家なのかもしれない。1時間完結のような、TVドラマとしては謂わば「短編」のような作品では、三人の、連続ドラマならではの贅沢な時間の使い方でこそ描ける人間の描写が難しいのだろうか。

 現在までの7話では、2話の坂元裕二「ウェディング・マッチ」が出色だった。恐るべき面白さだった。脚本と鶴橋康夫の演出と役所広司と満島ひかりの演技が見事に咬み合って、嘘だろ、と思うほどのテンションの高い会話劇の面白さが展開していた(絶叫系の「テンションの高い」演技を熱演と称するのと違って、感情の行方を見届けずにはおけない、観客の注意を振り回すテンションの高さ)。最高の賛辞を送りつつ、最後の「マッチ」が戯画的になってしまったのと、あの結末は惜しむべき瑕疵だと思う。これは父の期待に応えることが自己目的化してしまっている娘が、そこからの独立を図って葛藤するって話だと思う。とすると、やっぱり痣だらけの顔でバージンロードに並ぶ二人を描かなきゃだめだと思ったんだけど。
 娘と一回見て、後で息子にもさわりだけ見せようとしてそのまま終わりまで見てしまった。見終わった息子がしばらく後で「なんか切なくなってしまった」と呟いていたのは意味深だった。挫折したギターのことか、中途半端だった柔道のことか、実現しなかった共作脚本の上演のことか、と内心あれこれ推し量って口にはしなかったが(まあそのうちこれを読むかもしれないが)。

 追記
 「そのうち読」んだ息子に言わせると「そんな意味深な話じゃないよ」だそうな。久しぶりに面白いTVドラマを見て、そういう面白い番組をいくつか見ていた中学生の頃を思い出したんだそうな。今や実生活を大いに面白がっている高校生活が2年以上続いて、そういう感覚が懐かしく思われたんだと。ふーん、そうなのね。

2014年8月25日月曜日

「日々の」 ~『華氏451』

 映画を観たから書かなきゃという義務が生ずるのか、書くために観るのか。
 眠い、と思いつつ、明日と言わずに書いてしまおう。


 今日はフランソワ・トリュフォー『華氏451』。トリュフォーは多分『隣の女』と『アメリカの夜』しか見ていないのだが、どちらも、魔術のように「映画」が立ち上がる瞬間が描かれている、それはそれは見事な映画だった(ような記憶がある。どちらも30年くらい前に見た映画なので、記憶の中で変質していないとも限らないが)。それに比べて、この古色蒼然とした無残なSFは何事だ。2年後の『2001年宇宙の旅』が今見ても古びていないのに比べて(といいつつ、やはりここ30年くらいは観ていないのだが)、画面全体から古さが滲みだしている。演出も美術もストーリーも。とりわけ合成画面は笑うしかないようなチープさが悲しい(「華氏」が1966年、「2001年宇宙」が1968年)。

 中学高校で好きだったレイ・ブラッドベリは、代表作の一つである「華氏451度」に関しては読まずに過ごしてしまい、映画の評価だけで原作まで貶めるつもりはないのだが、結局、本って人類にとって大事だ、というメッセージ以上の何を受け取ればいいのかわからなかった。そのメッセージだけが切々と感じられればそれはそれで良いのだろうが、どうも、「そういうことです」と頭で理解させられただけのようにしか感じられず。
 佐野洋子の「嘘ばっか 新釈・世界おとぎ話」の「ありときりぎりす」は、効率第一のアリが、キリギリスによって芸術にめざめる瞬間を、それはそれは切実に描いていたものだが、(まあそれとは違った対立だが)本を害悪と見なす社会の中で、本の魅力にとりつかれることの切実さを、ちっとは精妙に描いてくれないものかと。これは「ないものねだり」なのだろうか。
 リンダとクラリスが同じ俳優なんだろうな、とは思っていたのだが、これを使って、実は片方は主人公の心の中にしかいない存在で…とかいう驚愕の真相が明らかになるような展開も期待したのだが、そんな仕掛けはなく。
 うーん、最後の「本の人々」の村(?)の詩的な描写は美しかったが。

休日の映画 ~『のぼうの城』『グッドウィル・ハンティング』

 見た映画や読んだ本の記録をつけておきたいとは、もう数十年来思ってきたことなのだが、いっこうに実現しないまま過ごしてきた。
 で、ブログという形式はまさにそれをやるためにあるんじゃないか、とは思うものの、実行しようとすると結構に負担だ。題名だけ示してもしょうがないから、ちょっと気の利いた感想くらい言わないと、とか考えるとなおさら。

 で、今日は二本観た。録画するテレビ放送の映画を消化するのもいっぱいいっぱいで。

 『のぼうの城』は、期待したよりも(といいつつ無視できずに録画してしまったのだが)面白かった。野村萬斎はもちろん、どこにもここにも出てくる佐藤浩市はやっぱり安定して、演出がはずしさえしなければ良い演技をするし、成宮や榮倉のように時代劇向きでない役者まで、なかなかに観る者の感情を共振させるような演技をしていたのだった。いやもちろん榮倉を大根だと言うことは可能だが、それでもいろいろな場面でそれぞれの登場人物が快哉を叫ぶとき(実際に叫んでいるというわけではなくとも)、その叫びに観客が同調してしまうようなうまい演出がされていたと思う。
 それでも、籠城ものの知恵比べ、技比べ、人間としての度量比べみたいな見応えは、たとえば「ダイハード」みたいなスタンダードはもちろん、私にとっては永遠の名作「冒険者たち~ガンバと15ひきの仲間」のような幾重にも重ねられた攻防の妙と比べると当然ながら軽いのだった。「獅子の時代」の会津戦争の籠城戦も、まああれは時間のかけかたが違うから比べるのに無理があるが、はるかに重厚な人間ドラマを見せてくれたし、それらの名作群とはやはり比すべくもない。
 だがせめて映画館で一息に、集中して観れば、かなり面白い映画だったかもしれない。映画館の暗闇で2時間くらい映画を見続けるというシチュエーションが、「籠城」という状況に感情移入をさせやすくするかもしれない。テレビで、しかも途中に日を挟んで観るなんて、映画にとってフェアな批評にならないかなあ。やっぱり。

 もう一本。『グッドフィルハンティング』はさすがの鉄板名画。最後の「君は悪くない」連呼で折れて全面和解にいたるところは、感動的と言うべきか白けるというべきか迷うところではあったが(どっちの感想も同時に抱いたのだった)。
 森博嗣の犀川先生ものでも、「天才」をどう描くかは難しいよなあとよく思っていた。天才にあらざる作者がどうやって天才を描けるだろう。しかもそれがちゃんと天才として感じられるように。
 一つの方法は、凡人の「時間」を超越することであり、脚本の段階でのリサーチが手堅ければここはクリアできる。この映画でもここをしっかり抑えて、「時間」を凝縮できるウィルの天才ぶりを描いていたが、もう一方の、認識の深さや複雑さについては、むしろわざとウィルを凡人として描いていたと考えるべきなのだろう。
 それより、観ていて何度か「うまい!」と(文字通り、隣で観ていた娘に向かって口に出して)唸ってしまったのは、たとえば彼女との会話。自分をさらけ出すことに対する恐れから、素直になれない感情のせめぎ合い、思考の迷い(しかもそれは無論、愚鈍さの表れではなく明晰であるからこその迷い)が、見事に描けていた。この機微が見事に演じられていたマット・デイモンもロビン・ウィリアムズも、アカデミー賞に値するのは納得。

2014年8月23日土曜日

今年のライブ

 毎年夏の恒例の「ふるさと祭」のライブは、練習不足の去年より練習での演奏が良い出来だったので楽しみにしていたのだが、リハの雨から文字通り暗雲立ちこめていたのだった。
 で、ほとんどリハできないまま臨んだ本番では、やっぱりDI経由のエレアコが音圧低くてほとんど聞こえないか、PAの方で上げてもらうとハウりまくって、打ち込みのリズムとのバランスもとれず、残念な出来だった。ギターのピックアップの問題かもしれず、準備不足だとしたら悔いが残る。
 来てくれた方々、申し訳ありません。
 良い演奏を心掛けて、来年にリベンジを期す。

 あ、一応こういうのは記録としてセットリストを付けとくべきだな。

1.イージュー☆ライダー(奥田民生)
2.世界はそれを愛と呼ぶんだぜ(サンボマスター)
3.強く儚い者たち(Cocco)
4.スワロウテイル・バタフライ(Yen Town Band)
5.ブルーでハッピーがいい(ショコラ)
6.ハロ/ハワユ(ナノウ)
7.風をあつめて(はっぴいえんど)
8.Drifter(キリンジ)
9.おわりのはじまり(くらげP)

50分いただいたので、例年より多めの9曲。
メンバーが高校生の時にやってたのから、最近知ったボカロ曲まで。
今年初めての新曲はなし。

こちらがクロスフェード。


2014年8月22日金曜日

『マレフィセント』観た

 夏休み唯一の子供達とのお出かけで『マレフィセント』を観てきた。
 最初の方の映像美や躍動感は、こういうのが映画館で観ることの快感だよなあ、と大いに満足だったのだが、見終わる頃には不満の方が克ってしまった。
  ムーア国の映像美が一見の価値があるのは認めるとして、いかんせん脚本の浅さが致命的だった。ディズニー映画ってのは、そういうところはシステマチックにある水準を超えるように創ってくるはずなのに。どうしたことか。
 作品批評に「ないものねだり」をするのは筋違いだとは思うものの、やはり「こうあってほしい」という期待の地平にそって作品享受をするしかない観客は、期待するものを与えてくれない作品に不満を抱いてしまう。だから映像美もアンジーの演技も王女の可愛らしさもカラスのイケメンぶりも、それ自体をプラスに数えることはできるものの、そのあまりに薄いドラマツルギーに不満を覚えてしまうのを禁じえない。
 例えば葛藤とその解決がドラマツルギーの基本だとすると、「眠れる森の美女」の「葛藤」は王女が目覚めないことであり、その目覚めが一つの大きな物語的な「解決」を構成するはずであると「期待」される。だが、「マレフィセント」では、この、「葛藤」期間があまりに短かすぎる。王女の目覚めに向けた試行錯誤や苦闘の描写があまりに薄い(これはアニメでも同じだった)。
 万事がこのとおりなのだが、中でも、王になってからのステファンが単なる悪役になってしまうところがドラマを生成させない最大の要因だと思う。ステファン王と王妃の、オーロラに対する思いが描かれていない分、マレフィセントとの間に緊張を作れない。オーロラがどちらに付くのが物語として正解なのかが迷うようでなければ、ドラマとしてのハラハラもドキドキもないではないか。
 ステファン王の変貌も、そこに「一理」を認められるような、充分に共感可能なものでないと、単なる主人公の「敵」として、打ち倒すべき対象でしかなくなるではないか。
 例えば鉄の茨の描写も、そうしたドラマ作りの浅さを示す恰好の例だ。
 城の入口の鉄の茨は、ステファン王が鍛冶屋に造らせていたものは何か? という謎の解答としてビジュアル的にインパクトがあったが、そのわりに注意して通れば通れてしまうだけで、マレフィセントの侵入を防ぐのに何の意味もなかった。
 ムーア国の茨と対になっている鉄の茨は、どうみてもマレフィセントとステファン王それぞれの心の隠喩になっているはずだ(だからこそ大団円でムーア国の茨は消え去るのだ)。それならばステファン王があれほど偏執的に鍛冶屋に造らせていた鉄の茨は、マレフィセントの侵入を完全に阻止してしまわなければならない。
 そして、ステファン王の心がマレフィセントを受け入れるかどうかで揺れるときにこそかろうじて鉄の茨は、マレフィセントを城内に通すことを可能にするはずだ(王になる前のステファンにはその迷いがあった)。
 だが鉄の茨は、そのおどろおどろしいビジュアルだけで、いともたやすくマレフィセントを通してしまう(だからといってステファン王がマレフィセントを心の中では実は受け入れているのだ、などどいう解釈の余地はまるでない)。だからこそ、鍛冶屋に造らせていたのはマレフィセントを捕らえた網の方だったのかなあ、なぞとぼやけた理解しかできないくらいに、その描き方は曖昧だ。

 お話づくりの面白さ、上手さという観点からしてもあの脚本はない、というのが息子の意見だった。アニメと同じ展開を見せておいてから、マレフィセントとステファンの子供時代の関わりは後から挿入的に描く方がよかろう、と。
 例えば「真実の愛のキスで目覚める」という付帯条件をマレフィセントがなぜ付けたのかは、子供時代が先に描かれてしまうとあっさりわかってしまうが、そこまではアニメと同じ展開で見せておいて、そうした条件をつけた「真実の愛なんてない」というマレフィセントの絶望を、後から子供時代のステファンとのエピソードを描いて観客の前に提出すれば、「そうだったのかあ!」という納得の快感(伏線とその回収)を生じさせることも可能なのに。
 良かれ悪しかれ、観客はアニメのストーリーを想起しつつ観るだろうから、それを納得させることと、なおかつ裏切ることを当然、仕掛けとして想定すべきなのだ。それが、ただなんとなく「アニメと同じ」「アニメと違う」としか思えないようにしか参照されていかない。
 あれほど手間も金もかけた映画が、その魅力を挙げることができるにもかかわらず、結局これほどちゃちなドラマしか描けていないなんて、あまりに勿体ない、とただただ残念なのだった。