2014年8月22日金曜日

『マレフィセント』観た

 夏休み唯一の子供達とのお出かけで『マレフィセント』を観てきた。
 最初の方の映像美や躍動感は、こういうのが映画館で観ることの快感だよなあ、と大いに満足だったのだが、見終わる頃には不満の方が克ってしまった。
  ムーア国の映像美が一見の価値があるのは認めるとして、いかんせん脚本の浅さが致命的だった。ディズニー映画ってのは、そういうところはシステマチックにある水準を超えるように創ってくるはずなのに。どうしたことか。
 作品批評に「ないものねだり」をするのは筋違いだとは思うものの、やはり「こうあってほしい」という期待の地平にそって作品享受をするしかない観客は、期待するものを与えてくれない作品に不満を抱いてしまう。だから映像美もアンジーの演技も王女の可愛らしさもカラスのイケメンぶりも、それ自体をプラスに数えることはできるものの、そのあまりに薄いドラマツルギーに不満を覚えてしまうのを禁じえない。
 例えば葛藤とその解決がドラマツルギーの基本だとすると、「眠れる森の美女」の「葛藤」は王女が目覚めないことであり、その目覚めが一つの大きな物語的な「解決」を構成するはずであると「期待」される。だが、「マレフィセント」では、この、「葛藤」期間があまりに短かすぎる。王女の目覚めに向けた試行錯誤や苦闘の描写があまりに薄い(これはアニメでも同じだった)。
 万事がこのとおりなのだが、中でも、王になってからのステファンが単なる悪役になってしまうところがドラマを生成させない最大の要因だと思う。ステファン王と王妃の、オーロラに対する思いが描かれていない分、マレフィセントとの間に緊張を作れない。オーロラがどちらに付くのが物語として正解なのかが迷うようでなければ、ドラマとしてのハラハラもドキドキもないではないか。
 ステファン王の変貌も、そこに「一理」を認められるような、充分に共感可能なものでないと、単なる主人公の「敵」として、打ち倒すべき対象でしかなくなるではないか。
 例えば鉄の茨の描写も、そうしたドラマ作りの浅さを示す恰好の例だ。
 城の入口の鉄の茨は、ステファン王が鍛冶屋に造らせていたものは何か? という謎の解答としてビジュアル的にインパクトがあったが、そのわりに注意して通れば通れてしまうだけで、マレフィセントの侵入を防ぐのに何の意味もなかった。
 ムーア国の茨と対になっている鉄の茨は、どうみてもマレフィセントとステファン王それぞれの心の隠喩になっているはずだ(だからこそ大団円でムーア国の茨は消え去るのだ)。それならばステファン王があれほど偏執的に鍛冶屋に造らせていた鉄の茨は、マレフィセントの侵入を完全に阻止してしまわなければならない。
 そして、ステファン王の心がマレフィセントを受け入れるかどうかで揺れるときにこそかろうじて鉄の茨は、マレフィセントを城内に通すことを可能にするはずだ(王になる前のステファンにはその迷いがあった)。
 だが鉄の茨は、そのおどろおどろしいビジュアルだけで、いともたやすくマレフィセントを通してしまう(だからといってステファン王がマレフィセントを心の中では実は受け入れているのだ、などどいう解釈の余地はまるでない)。だからこそ、鍛冶屋に造らせていたのはマレフィセントを捕らえた網の方だったのかなあ、なぞとぼやけた理解しかできないくらいに、その描き方は曖昧だ。

 お話づくりの面白さ、上手さという観点からしてもあの脚本はない、というのが息子の意見だった。アニメと同じ展開を見せておいてから、マレフィセントとステファンの子供時代の関わりは後から挿入的に描く方がよかろう、と。
 例えば「真実の愛のキスで目覚める」という付帯条件をマレフィセントがなぜ付けたのかは、子供時代が先に描かれてしまうとあっさりわかってしまうが、そこまではアニメと同じ展開で見せておいて、そうした条件をつけた「真実の愛なんてない」というマレフィセントの絶望を、後から子供時代のステファンとのエピソードを描いて観客の前に提出すれば、「そうだったのかあ!」という納得の快感(伏線とその回収)を生じさせることも可能なのに。
 良かれ悪しかれ、観客はアニメのストーリーを想起しつつ観るだろうから、それを納得させることと、なおかつ裏切ることを当然、仕掛けとして想定すべきなのだ。それが、ただなんとなく「アニメと同じ」「アニメと違う」としか思えないようにしか参照されていかない。
 あれほど手間も金もかけた映画が、その魅力を挙げることができるにもかかわらず、結局これほどちゃちなドラマしか描けていないなんて、あまりに勿体ない、とただただ残念なのだった。

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