2014年8月25日月曜日

「日々の」 ~『華氏451』

 映画を観たから書かなきゃという義務が生ずるのか、書くために観るのか。
 眠い、と思いつつ、明日と言わずに書いてしまおう。


 今日はフランソワ・トリュフォー『華氏451』。トリュフォーは多分『隣の女』と『アメリカの夜』しか見ていないのだが、どちらも、魔術のように「映画」が立ち上がる瞬間が描かれている、それはそれは見事な映画だった(ような記憶がある。どちらも30年くらい前に見た映画なので、記憶の中で変質していないとも限らないが)。それに比べて、この古色蒼然とした無残なSFは何事だ。2年後の『2001年宇宙の旅』が今見ても古びていないのに比べて(といいつつ、やはりここ30年くらいは観ていないのだが)、画面全体から古さが滲みだしている。演出も美術もストーリーも。とりわけ合成画面は笑うしかないようなチープさが悲しい(「華氏」が1966年、「2001年宇宙」が1968年)。

 中学高校で好きだったレイ・ブラッドベリは、代表作の一つである「華氏451度」に関しては読まずに過ごしてしまい、映画の評価だけで原作まで貶めるつもりはないのだが、結局、本って人類にとって大事だ、というメッセージ以上の何を受け取ればいいのかわからなかった。そのメッセージだけが切々と感じられればそれはそれで良いのだろうが、どうも、「そういうことです」と頭で理解させられただけのようにしか感じられず。
 佐野洋子の「嘘ばっか 新釈・世界おとぎ話」の「ありときりぎりす」は、効率第一のアリが、キリギリスによって芸術にめざめる瞬間を、それはそれは切実に描いていたものだが、(まあそれとは違った対立だが)本を害悪と見なす社会の中で、本の魅力にとりつかれることの切実さを、ちっとは精妙に描いてくれないものかと。これは「ないものねだり」なのだろうか。
 リンダとクラリスが同じ俳優なんだろうな、とは思っていたのだが、これを使って、実は片方は主人公の心の中にしかいない存在で…とかいう驚愕の真相が明らかになるような展開も期待したのだが、そんな仕掛けはなく。
 うーん、最後の「本の人々」の村(?)の詩的な描写は美しかったが。

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