よせばいいのに観てしまった。
センチメンタルで悪くないお話だとも思う。むしろ素人監督としては、意外に真っ当に作ってるなあ、と感心していた。
「小品」ならばこういう味わいも許す。だが2時間近い映画では手放しで高評価はできない。単なる「センチメンタルで良い話」では。
とりわけ、最後近くの伊藤淳史の演技は、あれだけうまい役者を使っておきながら、やはり演出の方向が間違っていると思う。最近のドラマで満島ひかりや瑛太の演技をすごいと思うときの「強い感情の放出」は、何も取り乱して絶叫するとか怒鳴るとかいう大げさな演技によって観客に感じ取れるわけではない。丁寧なリアリティの積み重ねと抑えた演技によってバネが圧縮されるようにして放出されているはずだ。
終盤で、ゴミの中から題名の「日記」を探す場面、手当たり次第に半透明のゴミ袋を破いて、目指す日記をみつけるとその場で読み出し、あろうことかその場で返事さえ書く。だがその場には、ゴミの収集係が複数名、脇で立ち尽くしているのである。
現実にはあまりにも不自然と感じられる行動をとらせてしまうと、そこに強い感情を乗せても、観客には共感できない。むしろ散らかったゴミを片付ける係の人の怒りを想像して、そちらに共感してしまう。映画の物語の動向とまるで関係なく。
そんなふうに観客の気を散らすのは、どうみてもマイナスだと思うのだが。
徒らに「ドラマチック」を狙って余計なことをするな! という感じである。
2015年4月30日木曜日
2015年4月29日水曜日
映画版『寄生獣』
もちろん期待はしていない。山崎貴に期待していないのだが、あの『ALWAYS 三丁目の夕日』や『永遠の0』の、映画人による高評価は何なのだろう。もしかしてヒット作を生む監督は、それだけで業界から大事にされるということなのだろうか。『リターナー』だけは、息子の小さい頃に一緒に見て、面白かった記憶があるのだが。
で、実に予想通りのつまらなさだった。
原作を、3話読み切りだった最初の短期連載の時から読んで、大いにハマってきた十数年来のファンには、いくつかの改変がどうにも納得できない。深夜に放送しているアニメも、1話だけ見て、どうにも情けなくなってしまったのだが、どうしてわざわざ原作を変えるのが、よりによってつまらない方向なのだろう。原作をそのまま、ひたすら良心的にアニメにした『虫師』のような素晴らしい仕事は、しかしクリエーターには軽視されてしまうのだろうか。
改変が、虚仮威しに「すごい」と言わせたいのだろうという意図が見え透いている演出に傾いて、あの、愚直にリアリティを追った原作の凄さを損なっている。例えば島田をしとめた石くれの遠投を、どういうわけで弓で射るという演出にするのか。あそこは、寄生獣の細胞によって能力の高まった新一とミギーの共同作業として、あの遠投に説得力と凄みを感じたのに、弓なんて、新一の能力を感じられないばかりか、どうして突然、弓道の達人になれてしまうのかも、ミギーの細胞がどうして糸状になってまであの強度を保てるのかも納得できない。
原作と違うところをいちいちあげつらって、だから駄目だというつもりはない。原作が、読む者を否応なく興奮させていく力をどうしてもっているのか、むしろ謎ではある。その分析にこそエネルギーを使うべきかとも思う。とまれ、改変にケチをつけなくても、そもそも、島田の校内での凶行とそれによって起こるパニックの演出はなぜあんなに平板なのか。
あ、それはそういえば、テレビ放送用のカットのせいなのか?
で、実に予想通りのつまらなさだった。
原作を、3話読み切りだった最初の短期連載の時から読んで、大いにハマってきた十数年来のファンには、いくつかの改変がどうにも納得できない。深夜に放送しているアニメも、1話だけ見て、どうにも情けなくなってしまったのだが、どうしてわざわざ原作を変えるのが、よりによってつまらない方向なのだろう。原作をそのまま、ひたすら良心的にアニメにした『虫師』のような素晴らしい仕事は、しかしクリエーターには軽視されてしまうのだろうか。
改変が、虚仮威しに「すごい」と言わせたいのだろうという意図が見え透いている演出に傾いて、あの、愚直にリアリティを追った原作の凄さを損なっている。例えば島田をしとめた石くれの遠投を、どういうわけで弓で射るという演出にするのか。あそこは、寄生獣の細胞によって能力の高まった新一とミギーの共同作業として、あの遠投に説得力と凄みを感じたのに、弓なんて、新一の能力を感じられないばかりか、どうして突然、弓道の達人になれてしまうのかも、ミギーの細胞がどうして糸状になってまであの強度を保てるのかも納得できない。
原作と違うところをいちいちあげつらって、だから駄目だというつもりはない。原作が、読む者を否応なく興奮させていく力をどうしてもっているのか、むしろ謎ではある。その分析にこそエネルギーを使うべきかとも思う。とまれ、改変にケチをつけなくても、そもそも、島田の校内での凶行とそれによって起こるパニックの演出はなぜあんなに平板なのか。
あ、それはそういえば、テレビ放送用のカットのせいなのか?
2015年4月20日月曜日
映画5本
『見えないほどの遠くの空を』について書き倦ねて1ヶ月ほど経ってしまったという事情は前々回書いたが、それで滞っていた間の映画鑑賞について、まとめて記す。まとめてかまわないくらいに、書くことが思いつかない。
ただ、『見えないほどの遠くの空を』を観た直後にこれを観たことが何やら妙な偶然ではある。堀越二郎こそ「遠く」を見続けた人ではないか。
もちろん例によって「AC」(アダルト・チルドレン。当時の言い方では。その後の言い方では「厨二」)全開の台詞回しは、ひたすら鬱陶しい。映像演出と言いこの台詞回しと言い、観客に対する嫌がらせを意図的にやっているのではないかというのは、あながち邪推でもない気がする。
さて、映画としてはよくできてはいる。デンゼル・ワシントンもジョン・トラボルタも文句なくうまい。が、脚本がどうにも。ラストへ向けて、どんな予想外の展開が待っているのかと期待していると、何も起こらずに終わる。うーん、もったいない。こんなにうまく映画を撮る人なのに。
ケビン・コスナーだというのに、なんだこのB級感は。家族のドラマかと思いきや、そのままクリーチャーもののホラーなのだった。それなのに、あの家族の葛藤は必要? あった方がドラマに厚みが増すということもあるんだろうが、どうにも不整合のまま。
肝心のクリーチャーは、宇宙からやってきた生物とかいう設定ではないのに、今までどうやって生きてきたのか、全く不明。そして、姿を現すまでは凶暴そうなのに、姿を現すと気持ち悪いが、弱い。どうにもならない。
これだけのアニメーション・ワークが、『エヴァンゲリオン』同様、単なる贅沢な蕩尽に終わっている。そしてそれが快感になっているわけでもなく、ひたすらもったいなくて、残念。
『風立ちぬ』(監督:宮崎駿)
あらゆるメディアに批評が出回りすぎて、今更感想が言えない。初期ジブリのように、問答無用に「面白い」とは言えないが、感動的だと感じたのも確かだ。子供向けとは思えないのだが、一緒に観ていた高校生も中学生も面白かったと言っていた。だがその面白さが、これと指摘できる形では意識できないのだ。ただ、『見えないほどの遠くの空を』を観た直後にこれを観たことが何やら妙な偶然ではある。堀越二郎こそ「遠く」を見続けた人ではないか。
『エヴァンゲリオン 劇場版Q』(監督:庵野秀明)
前がどうなっていたのかとか、全然思い出せないまま、とりあえず決着をつけなければという義務感で観るのだが、とにかくわからない。たぶん、前作を見直してもわからない。とにかく凄い作画のオンパレードであることだけはわかる。だが、物語的にも、アニメーション的にも、何が何やらわからない。画面の中で動いているものが、どういう状況のどの部分なのか、どういう全体像の物体のどの部分なのかがわかるように描かれているのかがそもそも怪しい。もちろん例によって「AC」(アダルト・チルドレン。当時の言い方では。その後の言い方では「厨二」)全開の台詞回しは、ひたすら鬱陶しい。映像演出と言いこの台詞回しと言い、観客に対する嫌がらせを意図的にやっているのではないかというのは、あながち邪推でもない気がする。
『サブウェイ123 激突(The Taking of Pelham 1 2 3)』(監督:トニー・スコット)
よくできたパニック・サスペンスだが、どうも、主演のデンゼル・ワシントンが『アンストッパブル』を連想させるなあと思っていたら、監督が同じだった。調べてみるとデンゼル・ワシントンでは『デジャヴ』も観ている。『エネミー・オブ・アメリカ』も観てるな。だが『トップ・ガン』は観てない。そうか、トニー・スコットという監督は『トップ・ガン』の人か。さて、映画としてはよくできてはいる。デンゼル・ワシントンもジョン・トラボルタも文句なくうまい。が、脚本がどうにも。ラストへ向けて、どんな予想外の展開が待っているのかと期待していると、何も起こらずに終わる。うーん、もったいない。こんなにうまく映画を撮る人なのに。
『ネスト(原題:The New Daughter)』
なぜ英語の題名なのに、同じ英語で邦題をつける? そして、どちらにせよ、あまりにわかりやすく映画の内容を予想させて、本当にその通りなのだ。ケビン・コスナーだというのに、なんだこのB級感は。家族のドラマかと思いきや、そのままクリーチャーもののホラーなのだった。それなのに、あの家族の葛藤は必要? あった方がドラマに厚みが増すということもあるんだろうが、どうにも不整合のまま。
肝心のクリーチャーは、宇宙からやってきた生物とかいう設定ではないのに、今までどうやって生きてきたのか、全く不明。そして、姿を現すまでは凶暴そうなのに、姿を現すと気持ち悪いが、弱い。どうにもならない。
『ももへの手紙』(監督:沖浦啓之)
『人狼』は、やはり押井守の世界に引っ張られてそれなりの面白さがあったのだろうが、『もも』ではすっかりジブリだ。『トトロ』だの『千と千尋の神隠し』だの『もののけ姫』だののモチーフが見え隠れして、まるで新味はなし。台風の近づいてくる雨雲や風の描写などがすばらしいアニメーションではあったが、『ネスト』と続けて一緒に観ていた娘も一言「つまらない」だった。結局、脚本なのだ。ここでもまた、毎度のことながら。これだけのアニメーション・ワークが、『エヴァンゲリオン』同様、単なる贅沢な蕩尽に終わっている。そしてそれが快感になっているわけでもなく、ひたすらもったいなくて、残念。
2015年4月19日日曜日
『見えないほどの遠くの空を』2 ~テーマ
承前
もう一つは、この映画の語ろうとする「テーマ」についてである。
そう、この映画はあからさまに「テーマ」を語る。映画どころか、監督がツイッターで語っている。しかも何本もの連続ツイートで、喋る喋る。いいのか、監督が自作についてこんなに饒舌で? これはどうみても地雷ではないのか?
こうしたテーマの対立は、なんだかとても懐かしい。70年代的だと言ってもいい(60年代的?)。学生運動に象徴されるような理想主義と、三無主義に象徴されるような現実主義。ある時期まではどうみても「立派」な理想主義が幅をきかせていたのが、それに対するカウンターとしての現実主義が、それこそ文字通りのリアリティを持って若者の共感を勝ち得るようになったときの感触は、何となく子供心に感じていたような気がする。
それはそのまま次のミレニアムまで主流であり続けて、だから主人公は『ここにいるだけ』を撮ろうとしている。そうした認識が優勢であり続けることの理由はわかる。社会が複雑になればなるほど、社会に対する無力感は増すばかりであり、そうなれば「ここ」がいいのだと言うしかバランスはとれない。
その中で「遠く」を目指すというテーマは新鮮、というより反動的だ。ただそれはかつてのような「理想主義」ではなく、劇中では「パンク」と表現されていた。ヒロインの言うところの「もっとめちゃくちゃでいいのに」だ。
そういえば日常を指向する四畳半フォークと破壊を指向するパンクが同じく70年代に台頭したことは、それぞれ同じように「理想主義」への、別方向の反動だったのだろうか。
さて、こうしたテーマの提出に対して私が最初に連想したのは、樹村みのりの1974年の短編「贈り物」だった。劇中で語られる「ここにいるだけ」のプロットは、まるで「贈り物」なのだった。
カウンターはいつも新鮮だ。差異こそ情報なのだから、反対側に移動した時に境界を超える瞬間は、精神に刺激を与えてくれる。夏の冷房も冬の暖房もそうした快感だし、オバマ大統領の「Change」も、政治家がよく口にするマニフェスト、「改革」も、中身が何だかわからなくても、何だか良いことのようなイメージだけがある。
『見えないほどの遠くの空を』がこうしたテーマを語るのも、そうした反動が、ともかくも魅力的に見えているということではないのか?
だが、それを表現するのに、会社を辞めるというのはどうなの?
主人公は大学を卒業後、映像制作の会社に入って、クライアントの依頼に従って不本意な作品制作をしている。そこで「幽霊」に出会って映画のテーマとなる「見えないほどの遠くの空を」目指し続けるべきだという主張を聞かされ、その後、会社を退職する。
この展開を見ながら、はからずもつい最近「MOVIEラボ」で岩井俊二がしていた話を思い出してしまった。岩井俊二も同様に映像制作会社で、クライアントの要求に従う「仕事」をしながら、徐々に自分の造りたいものを実現させていったというのだ。
それができないこの映画の主人公に、どんな「遠く」を目指すことが可能だというのか? 見当もつかない。どんな希望も見出せない。
もちろんそうした認識は映画の中でも、友人の口から表明されてはいる。曰く「インドにでも行くつもりか?」。「インドに行く」が「遠くを目指す」ことへの揶揄だとしても、にもかかわらず、この主人公はバイトをして金を貯めて、アメリカくらいには行きそうである。それは「インドに行く」ことと大同小異ではないのか?
そもそも、最初に主人公の語る「ここにいるだけ」が、まるで樹村みのりの「贈り物」もどきでありながら、やはりそれが「擬き」にすぎないところが、カウンターのテーマを説得力の欠けたものにしている。
「ここにいるだけ」のラストで、劇中の主人公は、ヒロインに向かって
この台詞が「贈り物」の「夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならない」の緊張した美しさに対峙しうるはずもない。「贈り物」の語っている生きる姿勢は、裏側に「浅間山荘」の狂気を湛えた日常に生きることのぎりぎりの決意なのだ。
もちろん、この映画の最終的な姿勢が「勝ったようなものさ」を否定するところにあるのは承知している。だが、否定するつもりだから最初から安っぽくていいのだと監督(兼脚本)が考えているとすれば大勘違いだ。バランスするカウンターは、強ければ強いほど互いを高め合う。安い台詞を否定しても、こちらが軽くなるばかりだ。
だから結局ヒロインの語る「見えないほどの遠くの空」も、J-Popの「ここではないどこか、今ではないいつか」を連想させてしまう。あまりに空疎なこのフレーズに比べれば「今ここで生きる」の方がまだしも健全な気がしてしまうのだ(そういえば神田沙也加の曲に、この定番フレーズに「だがそれはどこなんだろう」という突っ込みを入れている歌詞があって、ちょっと感心したことがある)。
以上、もやもやとした観捨てておけない感じを語ろうとして、どうも批判ばかりを並べてしまったが、それでもこういう映画に対する基本姿勢は、「観捨てておけない」である。どうも気になる。こういうのはやはり一種の愛情と言うべきなんだろう。
ところで、出ている役者をみんな「無名」と表現したが、渡辺大知は最近複数回テレビで見たし、主演の森岡龍が、再放送している「あまちゃん」に、主人公・アキの父親役・尾見としのりの若い頃の役で出ていたことを知って、なんだかこうしてひそかに世界はつながっていくのか、と妙な感慨を抱いたり。
もう一つは、この映画の語ろうとする「テーマ」についてである。
そう、この映画はあからさまに「テーマ」を語る。映画どころか、監督がツイッターで語っている。しかも何本もの連続ツイートで、喋る喋る。いいのか、監督が自作についてこんなに饒舌で? これはどうみても地雷ではないのか?
『見えないほどの遠くの空を』では、世界不況が深刻化し、グローバリゼイションが進み、情報が世界を埋め尽くす中、遙かかなたを目指すということは可能なのか、というテーマを赤裸々に語りたいと思ったのである。主人公が大学の映画サークルで作ろうとした『ここにいるだけ』は、「絶望をある種のやすらぎと思い定めて<ここで>生きる」というメッセージをのせた映画だ。それに対して反対していたヒロインが語るのは「あくまでも未来を<遠くを>目指す」べきという主張である。ヒロインは、幽霊になってまで主人公の前に現れて、そうした主張を繰り返す。
『見えないほどの遠くの空を』の主人公は、絶望をある種のやすらぎと思い定めて<ここで>生きるのか。あくまでも未来を<遠くを>目指すのかで逡巡している。そんな古典的なテーマを描きたかった。
こうしたテーマの対立は、なんだかとても懐かしい。70年代的だと言ってもいい(60年代的?)。学生運動に象徴されるような理想主義と、三無主義に象徴されるような現実主義。ある時期まではどうみても「立派」な理想主義が幅をきかせていたのが、それに対するカウンターとしての現実主義が、それこそ文字通りのリアリティを持って若者の共感を勝ち得るようになったときの感触は、何となく子供心に感じていたような気がする。
それはそのまま次のミレニアムまで主流であり続けて、だから主人公は『ここにいるだけ』を撮ろうとしている。そうした認識が優勢であり続けることの理由はわかる。社会が複雑になればなるほど、社会に対する無力感は増すばかりであり、そうなれば「ここ」がいいのだと言うしかバランスはとれない。
その中で「遠く」を目指すというテーマは新鮮、というより反動的だ。ただそれはかつてのような「理想主義」ではなく、劇中では「パンク」と表現されていた。ヒロインの言うところの「もっとめちゃくちゃでいいのに」だ。
そういえば日常を指向する四畳半フォークと破壊を指向するパンクが同じく70年代に台頭したことは、それぞれ同じように「理想主義」への、別方向の反動だったのだろうか。
さて、こうしたテーマの提出に対して私が最初に連想したのは、樹村みのりの1974年の短編「贈り物」だった。劇中で語られる「ここにいるだけ」のプロットは、まるで「贈り物」なのだった。
あの人が残したのはそうした切符だった。もちろんそれは天国いきの切符ではない。あの人からわたちたちに手わたされた時、それは意味をかえてしまった。監督の榎本憲男の歳から考えて、樹村みのりも「贈り物」も、知っている可能性は充分ある。そして、そうだとすると、彼は70年代から引きずってきたであろうそうしたテーマへの現時点での解答として、あえて「天国」を目指すと宣言しているのだ。
あの人が残したのは、夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならないことへの切符だった。
カウンターはいつも新鮮だ。差異こそ情報なのだから、反対側に移動した時に境界を超える瞬間は、精神に刺激を与えてくれる。夏の冷房も冬の暖房もそうした快感だし、オバマ大統領の「Change」も、政治家がよく口にするマニフェスト、「改革」も、中身が何だかわからなくても、何だか良いことのようなイメージだけがある。
『見えないほどの遠くの空を』がこうしたテーマを語るのも、そうした反動が、ともかくも魅力的に見えているということではないのか?
だが、それを表現するのに、会社を辞めるというのはどうなの?
主人公は大学を卒業後、映像制作の会社に入って、クライアントの依頼に従って不本意な作品制作をしている。そこで「幽霊」に出会って映画のテーマとなる「見えないほどの遠くの空を」目指し続けるべきだという主張を聞かされ、その後、会社を退職する。
この展開を見ながら、はからずもつい最近「MOVIEラボ」で岩井俊二がしていた話を思い出してしまった。岩井俊二も同様に映像制作会社で、クライアントの要求に従う「仕事」をしながら、徐々に自分の造りたいものを実現させていったというのだ。
それができないこの映画の主人公に、どんな「遠く」を目指すことが可能だというのか? 見当もつかない。どんな希望も見出せない。
もちろんそうした認識は映画の中でも、友人の口から表明されてはいる。曰く「インドにでも行くつもりか?」。「インドに行く」が「遠くを目指す」ことへの揶揄だとしても、にもかかわらず、この主人公はバイトをして金を貯めて、アメリカくらいには行きそうである。それは「インドに行く」ことと大同小異ではないのか?
そもそも、最初に主人公の語る「ここにいるだけ」が、まるで樹村みのりの「贈り物」もどきでありながら、やはりそれが「擬き」にすぎないところが、カウンターのテーマを説得力の欠けたものにしている。
「ここにいるだけ」のラストで、劇中の主人公は、ヒロインに向かって
けれどこれからは、お前と一緒に、小さくても確かなものの中に幸せを見つけようと思うんだ。それができたら勝ったようなものさ。と語って、ヒロインの肯定を待つ。監督の「ここにいるだけ」はこの台詞を肯定する意図を持って作られようとしていた。それにヒロインが異を唱えるのだ。そこから、あくまで「遠く」を目指すべき、というこの映画のテーマが語られるのだが、その前に、待て、なんだこの安っぽい台詞は。「勝ったようなものさ」って、何事だ、このチャチい言葉遣いは。
この台詞が「贈り物」の「夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならない」の緊張した美しさに対峙しうるはずもない。「贈り物」の語っている生きる姿勢は、裏側に「浅間山荘」の狂気を湛えた日常に生きることのぎりぎりの決意なのだ。
もちろん、この映画の最終的な姿勢が「勝ったようなものさ」を否定するところにあるのは承知している。だが、否定するつもりだから最初から安っぽくていいのだと監督(兼脚本)が考えているとすれば大勘違いだ。バランスするカウンターは、強ければ強いほど互いを高め合う。安い台詞を否定しても、こちらが軽くなるばかりだ。
だから結局ヒロインの語る「見えないほどの遠くの空」も、J-Popの「ここではないどこか、今ではないいつか」を連想させてしまう。あまりに空疎なこのフレーズに比べれば「今ここで生きる」の方がまだしも健全な気がしてしまうのだ(そういえば神田沙也加の曲に、この定番フレーズに「だがそれはどこなんだろう」という突っ込みを入れている歌詞があって、ちょっと感心したことがある)。
以上、もやもやとした観捨てておけない感じを語ろうとして、どうも批判ばかりを並べてしまったが、それでもこういう映画に対する基本姿勢は、「観捨てておけない」である。どうも気になる。こういうのはやはり一種の愛情と言うべきなんだろう。
ところで、出ている役者をみんな「無名」と表現したが、渡辺大知は最近複数回テレビで見たし、主演の森岡龍が、再放送している「あまちゃん」に、主人公・アキの父親役・尾見としのりの若い頃の役で出ていたことを知って、なんだかこうしてひそかに世界はつながっていくのか、と妙な感慨を抱いたり。
2015年4月18日土曜日
『見えないほどの遠くの空を』1 ~映像トリック
観た映画のことだけは書き留めておこうというのがこのブログの基本ルールだ。
実は3月9日の『Tightrope』の記事の後、4本の映画を観ているのだが、その1本目の感想を書こうと思って書けないまま、映画の記事は止まってしまっていた。それでブログの更新自体も滞っていた。その間「『読み比べ』というメソッド」を連載したりしていて、さらに「感想」が滞った。そのあおりで映画を観ること自体も滞った。
ようやくアップする。3月9日に観た『見えないほどの遠くの空を』(監督:榎本憲男)の感想。
観て以来書き倦ねて一ヶ月以上過ごしてしまった。観捨ててはおけないのだが、かといってものすごく感動したとか感心したとか感服したとかいうようなことは全くなく、観ている最中も、なんだこの稚拙な映画はと思いつつ、でも途中でやめるという選択肢は全くなく、何かに落とし前をつけなければ、とでもいったような感じで最後まで観たのだった。
この感じは、ハリウッド映画を観ているのと全く違ったものだ。『Mr&Misスミス』や『昼下がりの情事』などを観るという体験は、まさしく「映画」を観るという体験の粋に違いないのだが、一方で『見えないほどの…』のような映画を観る時にも、それとは全く違った「映画」を観るという感覚を味わう。そしてこれはまた、『川の底からこんにちは』のような商業ベースの邦画を観る時とも全然違う感覚だ。あるいはヨーロッパなどの「芸術」作品としての映画を観る時ともまた違う。
ハリウッド映画が作り手の現場を想像させないほどの完璧さで異世界を作り上げて、それがもう一つの「現実」であるかの感触を感じさせるのに対して、自主制作に近い邦画を観る時には、それは作品を見ているというよりは制作者の頭の中や、制作現場そのものを見ているような感触があるのである。
だからこそなんだかあれこれと考えてしまう。否応なく「自分だったら…」と考えさせられてしまうのだ。
そもそも大学の映画サークルを舞台にしているというのだから、もうどうしようもなく素人臭がしてくるのは必然だ。自己言及的で閉塞的な世界観になることは避けられない。おまけに映画サークルのメンバーだけで主たる登場人物が占められていて、その多くは無名の若手役者だ。演技も稚拙でいかにもの「お芝居」だ。制作の事情を調べてみると、とにかく低予算で作ったものだという金のかかってなさも、実にチャチい感じを醸し出しているのだ。
だがそれでも、映画が面白くなるかどうかには、決定的な制限を加えるわけではない。ほとんど関係者のボランティアでできているという制作費の少なさが宣伝になっている『COLIN』が、アマゾンのカスタマー・レビューの惨状にもかかわらず、私にとっては最上級の賛辞を惜しまない傑作であるように、一本だけなら何とでもなるはずなのだ。
だが結局『見えないほどの…』は、やはりどうしようもなく素人臭い、凡作であることから逃れられていないのだった。
それでもなおかつ、どうにも観捨てておけない、そのひっかかりを、二つの点から語ってみる。
ひとつはその、映画的技法、もっと言えば映像トリックについてだ。
画面の中に登場して、観客には見えている人物が、実は物語の中には存在しない、という設定で描かれる映像作品がある。
そのトリックの最も効果的な使用例として永遠に語り継がれるだろう傑作が言うまでもなく『シックス・センス』だが、そこがメインテーマではないものの、かなりの驚きを感じさせてくれた行定勲の『今度は愛妻家』や、序盤だけだが青山真司の『東京公園』、アニメーション作品では『東京マグニチュード8.0』など、その使用例はいくつか思い出される。井上ひさし作、黒木和雄監督の映画版「父と暮らせば」もそうだったかな?
『見えないほどの…』でも、観ている最中、たぶん映画の中頃あたりで、どうもそれを狙っているのじゃなかろうかと思いだし、そういうオチになる可能性を想定しつつ見ていたら、オチというほど終盤ではなく、わりとあっさりとその可能性が肯定されてしまう。「そうだったのか!」というには軽すぎる。「やっぱり、ね」くらいだ。
このトリックは、わざとその人物に特別な映像処理をせず、他の登場人物と同じ位相にいるもののように見せることが前提となる。その上で、登場人物とごく自然に会話をさせる。観客には単なる登場人物の一人として映る。だが実は彼・彼女は劇中には存在しないことが、後から知らされる。
こうしたトリックについても、その設定の分岐点はいくつかある。
画面に映っているのが物語内現実において存在していない人物(例えば既に死者とか、誰かの妄想上の人物とか)であることを、最初から観客に知らせているかどうか。
奇しくも、最近我が家では大ヒットだった宮藤官九郎の「ごめんね青春」と古沢良太の「デート」では、いずれも主人公の死んだ母親が、主人公だけに見える妄想として画面の中に登場していた。これは、第一話の最初のしばらくだけ、視聴者にも単なるドラマの出演者の一人なのだろうと思わせておいて、しばらくしてそれが主人公の想像の中だけにしか登場しない人物なのだと知らせる、という手法を採っていた。
そこでは、そうだとわかって以降の描写では、そうした「お約束」を揺るがすような展開にはならないから、そうした映像トリックが特別な感興を引き起こすようなものにはならない。妄想であれ何であれ、単なる登場人物の一人となる(ただしそれぞれ、母親が死ぬときのエピソードは紹介され、それは観客の涙を誘うドラマになり得ているのだが)。
『あの花』の略称で呼ばれるテレビ・アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』も、幼い頃に死んだはず少女が登場するのだが、これは最初の登場シーンから、主人公には彼女が死んでいるという自覚があり、それを視聴者にも明示しているため、彼女は最初から「幽霊」であることが明らかである。ただ、他の登場人物には彼女が見えない、という設定になっているから、視聴者の目には見えている彼女が見えていないという、他の登場人物の認識を、視聴者側に想像させるのが「お約束」だった。時折は他の登場人物の視点から見た映像が視聴者にも提供される。彼女を透明人間のように描いて、彼女の動かした鉛筆だけを宙に浮かべるとか、彼女と会話する主人公を一人芝居のように描いたりして、視聴者の想像を補助していた。
だがまあ、それもそういう「お約束」だとわかればそれまでだ。ともかく、その人物が主人公の妄想なのか何か霊的な存在なのかもまた、やはり分岐点の一つではある。
さらに、見ている主人公の側が、対象となる人物が存在しないことを自覚しているかどうかが、さらなる分岐点である。
『今度は愛妻家』『東京マグニチュード8.0』の一方は、画面上は他の登場人物と変わらず登場しているその人物が実は劇中には存在していないことに自覚的であり、一方は自覚していないが、いずれも、存在していないということを観客に知らせないまま物語が語られ続ける、という手法を意図的に用いている。だから後からその事実を知らされた観客は、いなくなってしまったその人物の喪失感にあらためて共感するとともに、振り返って、伏線としてそのヒントがあちこちに散りばめられていたことに気づく。
『シックス・センス』ではさらにそれを捻って、その「自覚の欠如」を、よりによってその人物にわりふるという離れ業をみせる。
さて、『見えないほどの…』ではどうか?
まず、死んだヒロインの双子の妹が現れるというのはそういう設定だから受け入れるとして、さて、彼女の姿を意味ありげに画面から消してしまう(ただし、彼女がカメラからの死角にいるような口実を作ってはいる)とか、現れ方や消え方を唐突にするとかいった演出が、これはそういうことかと徐々に勘の良い観客に感じさせていくのだが、さてその真実をどうやって観客の前に明らかにするかが問題である。つまり第三者の目には彼女が映らないということをどう劇中で描くか?
上記作品群はその処理がうまいがゆえにそうしたトリックが生きていたのである。彼女が見えていない第三者の反応があからさまなら、実は彼女が存在しないことはすぐに観客に知れてしまうし、全く第三者が登場しなかったり、同一場面で彼女にかかわらないままでは、真実が知れた後に「そうだったのか!」という驚きも起こらない。例えば『シックス・センス』では、第三者が、存在しない人物をわざと無視しているのだろうと観客に思わせておいて(それはもちろん物語上の必然性によって)、実は単に第三者にはその人物が見えていなかったのだと後からわかって膝を打つ、というような処理がされているわけである。
『見えないほどの…』の場合、徐々にヒントを出しながら、そうなのか? という可能性に観客を引きつけていくのだが、さて、種明かしがされたときに、それを観客がどう納得するか、という点でどうにも座りが悪い。劇中では、他の登場人物によって、彼女は主人公の「妄想」だと断じられる。主人公が、存在しない、目に見えない「彼女」と語らっている現場を見ているからだ。主人公は単にその正気を疑われるだけだ。そしてそうであることが、観客にそのまま伝えられる。こうした設定の説明があまりにあっさりすぎて、膝を打つほどの感興を引き起こさないうえに、いなかった人物に対する喪失感もそれほど起こらない。
さてつまりは「妄想」なのかと考えるには、どうも主人公はまともに見える。そこまでオカシクなっているようには描かれない。どうも妙だと思ってみていると、結局は「幽霊」なのだと説明される。
だが始末の悪いことに、そうした真実が明らかになるまで、彼女は単なる登場人物として自然に描かれすぎる(とはいえ無論、素人芝居のこの映画のレベルにあった「自然」である)。それは、彼女が「幽霊」であるという真相とどう見ても不整合である。脚本や演出が、真相を糊塗しようと、彼女を一人の人物として描いているうち、少なくとも「幽霊」であるという自身のアイデンティティを自覚しているはずの彼女がそんなふうに振る舞うはずがないという態度をとったりしているのだ。
それともあれを、幽霊の彼女の「演技」だとでもいうのだろうか。
例えば彼女のTシャツに赤いパンツという何でもない服装でさえ、「幽霊」の衣装としては違和感がありすぎる。そうした衣装は、何でもないからこそ、それはどこから調達したのかと疑問が拭えない。例えば注意深く見ると生前の彼女のある場面の服装と同じであるとかいった伏線でもないのである。それともあれは、幽霊の彼女が「演技」のためにわざと選んだ服装なのか?
あるいは、彼女との邂逅の後、別れた彼女がその場から離れていく後ろ姿を映すのも、どうにも違和感があった。「幽霊」がいったいどこへ向かって歩いていくのか。なぜ話をし終えて、カットで場面転換、としないのか。
結局、映像トリックを仕掛けようとした志は悪くないとしても、その処理はうまくいっているとは言い難い。
続く。
実は3月9日の『Tightrope』の記事の後、4本の映画を観ているのだが、その1本目の感想を書こうと思って書けないまま、映画の記事は止まってしまっていた。それでブログの更新自体も滞っていた。その間「『読み比べ』というメソッド」を連載したりしていて、さらに「感想」が滞った。そのあおりで映画を観ること自体も滞った。
ようやくアップする。3月9日に観た『見えないほどの遠くの空を』(監督:榎本憲男)の感想。
観て以来書き倦ねて一ヶ月以上過ごしてしまった。観捨ててはおけないのだが、かといってものすごく感動したとか感心したとか感服したとかいうようなことは全くなく、観ている最中も、なんだこの稚拙な映画はと思いつつ、でも途中でやめるという選択肢は全くなく、何かに落とし前をつけなければ、とでもいったような感じで最後まで観たのだった。
この感じは、ハリウッド映画を観ているのと全く違ったものだ。『Mr&Misスミス』や『昼下がりの情事』などを観るという体験は、まさしく「映画」を観るという体験の粋に違いないのだが、一方で『見えないほどの…』のような映画を観る時にも、それとは全く違った「映画」を観るという感覚を味わう。そしてこれはまた、『川の底からこんにちは』のような商業ベースの邦画を観る時とも全然違う感覚だ。あるいはヨーロッパなどの「芸術」作品としての映画を観る時ともまた違う。
ハリウッド映画が作り手の現場を想像させないほどの完璧さで異世界を作り上げて、それがもう一つの「現実」であるかの感触を感じさせるのに対して、自主制作に近い邦画を観る時には、それは作品を見ているというよりは制作者の頭の中や、制作現場そのものを見ているような感触があるのである。
だからこそなんだかあれこれと考えてしまう。否応なく「自分だったら…」と考えさせられてしまうのだ。
そもそも大学の映画サークルを舞台にしているというのだから、もうどうしようもなく素人臭がしてくるのは必然だ。自己言及的で閉塞的な世界観になることは避けられない。おまけに映画サークルのメンバーだけで主たる登場人物が占められていて、その多くは無名の若手役者だ。演技も稚拙でいかにもの「お芝居」だ。制作の事情を調べてみると、とにかく低予算で作ったものだという金のかかってなさも、実にチャチい感じを醸し出しているのだ。
だがそれでも、映画が面白くなるかどうかには、決定的な制限を加えるわけではない。ほとんど関係者のボランティアでできているという制作費の少なさが宣伝になっている『COLIN』が、アマゾンのカスタマー・レビューの惨状にもかかわらず、私にとっては最上級の賛辞を惜しまない傑作であるように、一本だけなら何とでもなるはずなのだ。
だが結局『見えないほどの…』は、やはりどうしようもなく素人臭い、凡作であることから逃れられていないのだった。
それでもなおかつ、どうにも観捨てておけない、そのひっかかりを、二つの点から語ってみる。
ひとつはその、映画的技法、もっと言えば映像トリックについてだ。
画面の中に登場して、観客には見えている人物が、実は物語の中には存在しない、という設定で描かれる映像作品がある。
そのトリックの最も効果的な使用例として永遠に語り継がれるだろう傑作が言うまでもなく『シックス・センス』だが、そこがメインテーマではないものの、かなりの驚きを感じさせてくれた行定勲の『今度は愛妻家』や、序盤だけだが青山真司の『東京公園』、アニメーション作品では『東京マグニチュード8.0』など、その使用例はいくつか思い出される。井上ひさし作、黒木和雄監督の映画版「父と暮らせば」もそうだったかな?
『見えないほどの…』でも、観ている最中、たぶん映画の中頃あたりで、どうもそれを狙っているのじゃなかろうかと思いだし、そういうオチになる可能性を想定しつつ見ていたら、オチというほど終盤ではなく、わりとあっさりとその可能性が肯定されてしまう。「そうだったのか!」というには軽すぎる。「やっぱり、ね」くらいだ。
このトリックは、わざとその人物に特別な映像処理をせず、他の登場人物と同じ位相にいるもののように見せることが前提となる。その上で、登場人物とごく自然に会話をさせる。観客には単なる登場人物の一人として映る。だが実は彼・彼女は劇中には存在しないことが、後から知らされる。
こうしたトリックについても、その設定の分岐点はいくつかある。
画面に映っているのが物語内現実において存在していない人物(例えば既に死者とか、誰かの妄想上の人物とか)であることを、最初から観客に知らせているかどうか。
奇しくも、最近我が家では大ヒットだった宮藤官九郎の「ごめんね青春」と古沢良太の「デート」では、いずれも主人公の死んだ母親が、主人公だけに見える妄想として画面の中に登場していた。これは、第一話の最初のしばらくだけ、視聴者にも単なるドラマの出演者の一人なのだろうと思わせておいて、しばらくしてそれが主人公の想像の中だけにしか登場しない人物なのだと知らせる、という手法を採っていた。
そこでは、そうだとわかって以降の描写では、そうした「お約束」を揺るがすような展開にはならないから、そうした映像トリックが特別な感興を引き起こすようなものにはならない。妄想であれ何であれ、単なる登場人物の一人となる(ただしそれぞれ、母親が死ぬときのエピソードは紹介され、それは観客の涙を誘うドラマになり得ているのだが)。
『あの花』の略称で呼ばれるテレビ・アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』も、幼い頃に死んだはず少女が登場するのだが、これは最初の登場シーンから、主人公には彼女が死んでいるという自覚があり、それを視聴者にも明示しているため、彼女は最初から「幽霊」であることが明らかである。ただ、他の登場人物には彼女が見えない、という設定になっているから、視聴者の目には見えている彼女が見えていないという、他の登場人物の認識を、視聴者側に想像させるのが「お約束」だった。時折は他の登場人物の視点から見た映像が視聴者にも提供される。彼女を透明人間のように描いて、彼女の動かした鉛筆だけを宙に浮かべるとか、彼女と会話する主人公を一人芝居のように描いたりして、視聴者の想像を補助していた。
だがまあ、それもそういう「お約束」だとわかればそれまでだ。ともかく、その人物が主人公の妄想なのか何か霊的な存在なのかもまた、やはり分岐点の一つではある。
さらに、見ている主人公の側が、対象となる人物が存在しないことを自覚しているかどうかが、さらなる分岐点である。
『今度は愛妻家』『東京マグニチュード8.0』の一方は、画面上は他の登場人物と変わらず登場しているその人物が実は劇中には存在していないことに自覚的であり、一方は自覚していないが、いずれも、存在していないということを観客に知らせないまま物語が語られ続ける、という手法を意図的に用いている。だから後からその事実を知らされた観客は、いなくなってしまったその人物の喪失感にあらためて共感するとともに、振り返って、伏線としてそのヒントがあちこちに散りばめられていたことに気づく。
『シックス・センス』ではさらにそれを捻って、その「自覚の欠如」を、よりによってその人物にわりふるという離れ業をみせる。
さて、『見えないほどの…』ではどうか?
まず、死んだヒロインの双子の妹が現れるというのはそういう設定だから受け入れるとして、さて、彼女の姿を意味ありげに画面から消してしまう(ただし、彼女がカメラからの死角にいるような口実を作ってはいる)とか、現れ方や消え方を唐突にするとかいった演出が、これはそういうことかと徐々に勘の良い観客に感じさせていくのだが、さてその真実をどうやって観客の前に明らかにするかが問題である。つまり第三者の目には彼女が映らないということをどう劇中で描くか?
上記作品群はその処理がうまいがゆえにそうしたトリックが生きていたのである。彼女が見えていない第三者の反応があからさまなら、実は彼女が存在しないことはすぐに観客に知れてしまうし、全く第三者が登場しなかったり、同一場面で彼女にかかわらないままでは、真実が知れた後に「そうだったのか!」という驚きも起こらない。例えば『シックス・センス』では、第三者が、存在しない人物をわざと無視しているのだろうと観客に思わせておいて(それはもちろん物語上の必然性によって)、実は単に第三者にはその人物が見えていなかったのだと後からわかって膝を打つ、というような処理がされているわけである。
『見えないほどの…』の場合、徐々にヒントを出しながら、そうなのか? という可能性に観客を引きつけていくのだが、さて、種明かしがされたときに、それを観客がどう納得するか、という点でどうにも座りが悪い。劇中では、他の登場人物によって、彼女は主人公の「妄想」だと断じられる。主人公が、存在しない、目に見えない「彼女」と語らっている現場を見ているからだ。主人公は単にその正気を疑われるだけだ。そしてそうであることが、観客にそのまま伝えられる。こうした設定の説明があまりにあっさりすぎて、膝を打つほどの感興を引き起こさないうえに、いなかった人物に対する喪失感もそれほど起こらない。
さてつまりは「妄想」なのかと考えるには、どうも主人公はまともに見える。そこまでオカシクなっているようには描かれない。どうも妙だと思ってみていると、結局は「幽霊」なのだと説明される。
だが始末の悪いことに、そうした真実が明らかになるまで、彼女は単なる登場人物として自然に描かれすぎる(とはいえ無論、素人芝居のこの映画のレベルにあった「自然」である)。それは、彼女が「幽霊」であるという真相とどう見ても不整合である。脚本や演出が、真相を糊塗しようと、彼女を一人の人物として描いているうち、少なくとも「幽霊」であるという自身のアイデンティティを自覚しているはずの彼女がそんなふうに振る舞うはずがないという態度をとったりしているのだ。
それともあれを、幽霊の彼女の「演技」だとでもいうのだろうか。
例えば彼女のTシャツに赤いパンツという何でもない服装でさえ、「幽霊」の衣装としては違和感がありすぎる。そうした衣装は、何でもないからこそ、それはどこから調達したのかと疑問が拭えない。例えば注意深く見ると生前の彼女のある場面の服装と同じであるとかいった伏線でもないのである。それともあれは、幽霊の彼女が「演技」のためにわざと選んだ服装なのか?
あるいは、彼女との邂逅の後、別れた彼女がその場から離れていく後ろ姿を映すのも、どうにも違和感があった。「幽霊」がいったいどこへ向かって歩いていくのか。なぜ話をし終えて、カットで場面転換、としないのか。
結局、映像トリックを仕掛けようとした志は悪くないとしても、その処理はうまくいっているとは言い難い。
続く。
2015年4月11日土曜日
「読み比べ」というメソッド 10 ~「グローバリズムの『遠近感』」と「『映像体験』の現在」
上田紀行「グローバリズムの『遠近感』」は、この教科書に載っている最後の評論である。ここでは、授業の様子をいささか実況中継的に記述してみよう。
一読後まず、「何が書いてあるかを一文で述べよ」と聞く。これもまた有用性のあるメソッドの一つとして多用している発問だ。この質問をするときには、教科書を閉じさせてしまう。「書いてある」ことを本文の字面に探そうとするときりがない。それよりも「自分が『分かった』ことを自分の言葉でまとめなさい」と言っておいて、次々と指名して答えさせる。最初の一人にひきずられて、三人ほどが「グローバリズムは遠近感を喪失させる」という趣旨の発言をする。悪くない。だが、そういえば題名に「グローバリズム」と「遠近感」という言葉があるので、それをなんとか文の形にまとめたのだろう。とはいえ一読後、ただちにこれがこの文章の中心思想だと捉えられるのなら上出来といっていい。
さらに二人ほど回してみると「近いことは心に響くが遠いことは心に響かない」という趣旨の「まとめ」を口にした者がいる。これは使える、と直感する。次の問いは、「この二つの文を混ぜろ」である。
続けて対比要素を挙げさせる。「日本/アメリカ」がすぐに挙がるのは「水の東西」などの経験が生きているからだと考えれば好ましいあらわれかもしれないが、安易にひきずられている、とも言える。この文章ではこの対比が必ずしも代表的な対比とは言えないからである。対比を挙げた際は、必ず更に、それがどんな要素の対比なのか、と聞く。生徒は「本土で戦闘したことがある/ない」という対比要素を挙げる。ここまでくれば、先ほどの「心に響く/響かない」の対比に重なる。つまり「遠近感がある/ない」という対比である(もちろん日本に関しては「ある世代以上」という限定がつくし、アメリカについては9.11で遠近感を知るわけだが)。
最初の対比が提出された段階で板書すると、対比軸が決定する。これ以降は「上? 下?」を聞きながら、見つかった対比を挙げさせる。前述の通り、選択肢を示した問いは、思考を活性化させる。
「工業化社会/ポスト工業化社会」「経済システム/生きられた場」などの表現は、対比であることが明示されているので、生徒にも比較的見つけやすいセットである。さらに考える時間をとっていると、最も重要な「モノ/カネと情報」という対比が挙げられ(他に「タイムラグ/瞬時」という想定外の対比を挙げた生徒がいたのには驚いた)、あとはこちらが補助的に「遠近感なし」の要因として挙げておきたい一語を頁と数を指定して探させる。この程度の限定をすると、勘のいい生徒がすぐに指摘する。「メディア・IT技術」「金融自由化」である。
遠近感あり/なし
日本/アメリカ
工業化社会/ポスト工業化社会
生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義
モノ/カネと情報
タイムラグ/瞬時
/メディア・IT技術、金融自由化
ここまでで、2時限目の途中、といったところである。ここから使うのが「読み比べ」というメソッドである。これを「『映像体験』の現在」と比較させるのである。
二つの文章で、それぞれの筆者は同じ事を言っている。どんなことか? と問うて時間をとってもいい。それで行き詰まるようなら、そこにいたるまでに、二つの文章を重ねるために手がかりになる共通点を探させる。すぐに「映像体験/実体験・現実」という対比が右の対比に重なることに気づく生徒があらわれる。さらに「『映像体験』の現在」の「反復可能・再現可能/不可能」が「グローバリズム…」の「交換可能/不可能」に似ていることに気づく生徒もあらわれる。さらに頁を指定して共通する語を探すよう指示すると、「かけがえ(の)ない」という語を探し当てる。
これだけの共通点が挙がって、さて、両者はどのような点において共通していると言えばいいのだろうか。
対比軸を揃えて一望すれば、目指す方向は定まる。
「グローバリズムの『遠近感』」
遠近感あり/なし
生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義
モノ/カネと情報
/メディア・IT技術、金融自由化
交換不可能/交換可能
かけがえない/
本物/複製
「『映像体験』の現在」
実体験・現実/映像体験
反復不可能/反復可能
再現不可能/再現可能
「読み比べ」という授業メソッドにおける典型的な展開は、上のように、二つの文章の論理構造の背骨を成す対比が同一軸上に並ぶことを見ていくという方向で構想するのが筆者の常套手段である。
だが、「比較せよ」の問いに対して、直截に「アウラ」と「遠近感」が同じものであるという直観にたどり着く生徒が現れることもありうる。その場合は、そうした直感を論証しなさいと方向付けをする。
時間をおいて全体を誘導するためのヒントを出す。本文での場所を指定して似た表現を探させる。生徒の発言を聞きながら、次のようにまとめる。
さて、これらは内容としても同じであると見なしてよいだろうか。さらに考えさせる。
同じであることの確認のために、さらに別の場所を指定して比較させる。似たような印象がないか、と問いかける。すると、「『映像体験』の現在」の、コンピューター・ゲームで遊ぶ子供たちが、「グローバリズムの『遠近感』」の、湾岸戦争をテレビで見るアメリカ人に重なることに気づくものがいるはずだ。
もちろん上のように「アウラ」と「遠近感」を相似形に並べてみせるのは、生徒には容易ではない。だが、先に述べたように前者の「反復可能・再現可能/不可能」が後者の「交換可能/不可能」に似ていること、「かけがえ(の)ない」という語が共通することは探し当てる。
さて、あとはこれをどうまとめるかである。ここは授業者の腕の見せ所である。
シンプルにまとめてみる。つまり「アウラ」とは自分にとって「かけがえない」ものであるものが具えている属性であり、それを「かけがえない」と感じられるか否かが「遠近感」である。それらが「消失」したり「喪失」したりする事態を生じさせたのはIT技術やメディアの発達である。そうした現代人の陥っている事態が「映像文化」の発達という側面から記述されているのが「『映像体験』の現在」であり、グローバリズムという側面から記述されているのが「グローバリズムの『遠近感』」なのである。
結局、グローバル化の時代にあって、交換不可能なかけがえのない「モノ」(土地への愛着や身近な人の命)へのまなざしを取り戻そうとする上田の主張は「アウラの輝きに対する繊細な感性を保持し続ける」ことを主張する松浦の主張と同じものだと言っていいのである。
このような把握は、いたずらにアクロバティックな牽強付会だろうか?
だが実は「アウラ」が「遠近感」だということは、指導書の参考資料の「『アウラ』を呼吸すること」の中で、松浦寿輝その人がはっきりと述べているのである。
「『映像体験』の現在」における「アウラ」と、「グローバリズムの『遠近感』」における「遠近感」は、それぞれの文章中の最重要キーワードだといっていい。そしてそれぞれの文章内の言葉から、それぞれのワードを説明することもは無論可能だ。だがそれは、いわば自己完結した循環に閉じ込められているとも言える。予備校や出版社の公開している大学入試問題の「傍線部を説明せよ」型の問題の模範解答を見るとしばしば感ずるもどかしさ‐間違っているとは思わないが、説明になっているとも感じない‐は、こうした、自己循環の中でのみ言葉が完結していることから生じる印象であるように思われる。
だがそれらを互いの文章中に位置づけてみるとき、なにがしか完結した輪の外に出て、その認識が生きたものになる感覚がおとずれる。「アウラ」と「花」も同じだ。「アウラ」を「花のいざない」の文脈で語ってみる。「花」を「『映像体験』の現在」の文脈にあてはめてみる。それができるとき、それらの認識はなにがしか、読み手の中に血肉化されるのである。これほど豊穣な「読み比べ」の可能な教材を配置しながら、そのほとんどが編集部によって意図されたものではない偶然の産物であるという点で、この第一学習社の「高等学校 国語総合」は奇跡的な教科書だと言っていい。
一読後まず、「何が書いてあるかを一文で述べよ」と聞く。これもまた有用性のあるメソッドの一つとして多用している発問だ。この質問をするときには、教科書を閉じさせてしまう。「書いてある」ことを本文の字面に探そうとするときりがない。それよりも「自分が『分かった』ことを自分の言葉でまとめなさい」と言っておいて、次々と指名して答えさせる。最初の一人にひきずられて、三人ほどが「グローバリズムは遠近感を喪失させる」という趣旨の発言をする。悪くない。だが、そういえば題名に「グローバリズム」と「遠近感」という言葉があるので、それをなんとか文の形にまとめたのだろう。とはいえ一読後、ただちにこれがこの文章の中心思想だと捉えられるのなら上出来といっていい。
さらに二人ほど回してみると「近いことは心に響くが遠いことは心に響かない」という趣旨の「まとめ」を口にした者がいる。これは使える、と直感する。次の問いは、「この二つの文を混ぜろ」である。
グローバリズムは遠近感を喪失させる恐らく生徒にとってこれはそれほど簡単な問いではない。生徒の解答は、いくらかの言い換えがあるものの、結局片方の趣旨しか言えていないか、二文の趣旨が単に直列されてしまうか、というものが多い。「つなげろ」ではなく「混ぜろ」だ、「代入するんだ」などと誘導しながら時間をかけて考えさせると次第に力のある者が次のような表現にたどりつく。
近いことは心に響くが遠いことは心に響かない
グローバリズムは、心に響くとか響かないとかいった感覚を喪失させるこれはこの文章の趣旨として、きわめて的確な把握である。だがくりかえすが、こうした把握を生徒に理解させることが授業の目的ではない。生徒自身が、本文をこうして把握するようになることが授業の目的なのである。把握しようとする思考過程そのものが授業の目的を実現する手段なのである。
続けて対比要素を挙げさせる。「日本/アメリカ」がすぐに挙がるのは「水の東西」などの経験が生きているからだと考えれば好ましいあらわれかもしれないが、安易にひきずられている、とも言える。この文章ではこの対比が必ずしも代表的な対比とは言えないからである。対比を挙げた際は、必ず更に、それがどんな要素の対比なのか、と聞く。生徒は「本土で戦闘したことがある/ない」という対比要素を挙げる。ここまでくれば、先ほどの「心に響く/響かない」の対比に重なる。つまり「遠近感がある/ない」という対比である(もちろん日本に関しては「ある世代以上」という限定がつくし、アメリカについては9.11で遠近感を知るわけだが)。
最初の対比が提出された段階で板書すると、対比軸が決定する。これ以降は「上? 下?」を聞きながら、見つかった対比を挙げさせる。前述の通り、選択肢を示した問いは、思考を活性化させる。
「工業化社会/ポスト工業化社会」「経済システム/生きられた場」などの表現は、対比であることが明示されているので、生徒にも比較的見つけやすいセットである。さらに考える時間をとっていると、最も重要な「モノ/カネと情報」という対比が挙げられ(他に「タイムラグ/瞬時」という想定外の対比を挙げた生徒がいたのには驚いた)、あとはこちらが補助的に「遠近感なし」の要因として挙げておきたい一語を頁と数を指定して探させる。この程度の限定をすると、勘のいい生徒がすぐに指摘する。「メディア・IT技術」「金融自由化」である。
遠近感あり/なし
日本/アメリカ
工業化社会/ポスト工業化社会
生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義
モノ/カネと情報
タイムラグ/瞬時
/メディア・IT技術、金融自由化
ここまでで、2時限目の途中、といったところである。ここから使うのが「読み比べ」というメソッドである。これを「『映像体験』の現在」と比較させるのである。
二つの文章で、それぞれの筆者は同じ事を言っている。どんなことか? と問うて時間をとってもいい。それで行き詰まるようなら、そこにいたるまでに、二つの文章を重ねるために手がかりになる共通点を探させる。すぐに「映像体験/実体験・現実」という対比が右の対比に重なることに気づく生徒があらわれる。さらに「『映像体験』の現在」の「反復可能・再現可能/不可能」が「グローバリズム…」の「交換可能/不可能」に似ていることに気づく生徒もあらわれる。さらに頁を指定して共通する語を探すよう指示すると、「かけがえ(の)ない」という語を探し当てる。
これだけの共通点が挙がって、さて、両者はどのような点において共通していると言えばいいのだろうか。
対比軸を揃えて一望すれば、目指す方向は定まる。
「グローバリズムの『遠近感』」
遠近感あり/なし
生きられた場/遠近感なき経済システム=グローバル資本主義
モノ/カネと情報
/メディア・IT技術、金融自由化
交換不可能/交換可能
かけがえない/
本物/複製
「『映像体験』の現在」
実体験・現実/映像体験
反復不可能/反復可能
再現不可能/再現可能
「読み比べ」という授業メソッドにおける典型的な展開は、上のように、二つの文章の論理構造の背骨を成す対比が同一軸上に並ぶことを見ていくという方向で構想するのが筆者の常套手段である。
だが、「比較せよ」の問いに対して、直截に「アウラ」と「遠近感」が同じものであるという直観にたどり着く生徒が現れることもありうる。その場合は、そうした直感を論証しなさいと方向付けをする。
時間をおいて全体を誘導するためのヒントを出す。本文での場所を指定して似た表現を探させる。生徒の発言を聞きながら、次のようにまとめる。
「映像文化」の時代に「アウラ」が消失した。文型を揃えてみれば一目瞭然、両者が似ていることは印象として生徒にも感得される。
グローバル化の時代に「遠近感」を喪失した。
さて、これらは内容としても同じであると見なしてよいだろうか。さらに考えさせる。
同じであることの確認のために、さらに別の場所を指定して比較させる。似たような印象がないか、と問いかける。すると、「『映像体験』の現在」の、コンピューター・ゲームで遊ぶ子供たちが、「グローバリズムの『遠近感』」の、湾岸戦争をテレビで見るアメリカ人に重なることに気づくものがいるはずだ。
コンピューター・ゲームで遊ぶ今日の子供たちは、原っぱで転げ回って風を額に受けたり、木々の香りを胸いっぱい吸い込んだりといった体験なしに、二次元のテレビ画面の中の映像とだけコミュニケーションを交わすといった子供時代を過ごしている。友達と喧嘩して体と体がぶつかり合うといった手応えある体験を知らずに大人になってゆく。「『映像体験』の現在」
勝ち続けていたときの日本と同じく、アメリカの戦争もこれまで常に自国の外部で行われてきた。だからアメリカ人は、ゲリラを一掃しようと枯れ葉剤をまいてジャングルを破壊し、村々を焼き払うという行為がベトナムの人々にどんな喪失感をもたらすかを、想像することはできなかった。空爆で都市を破壊し尽くすことが、そこに生きる人々にとってどんな苦痛をもたらすことなのかも、自分の身に同じことが起こったらどのような状態になるのかというレベルでは感じることができなかった。「グローバリズムの『遠近感』」
前者における、風の感触や木々の香り、友達との体と体のぶつかりあいが経験されないことは、後者における、土地や命が失われてしまう人々の喪失感に気づかないことに対応している。「複製・映像技術」は「メディア」に対応し、「二次元のテレビ画面の中の映像」には「遠近感」がない。「映像―対―現実という対立関係」はまだ人々の認識が「遠近感」のうちにあるということであり、「映像こそ現実的であり、いっそ現実的なのは映像だけだということにさえなってゆく」というのは「遠近感」を喪失した現代人の認識を表現しているのである。
もちろん上のように「アウラ」と「遠近感」を相似形に並べてみせるのは、生徒には容易ではない。だが、先に述べたように前者の「反復可能・再現可能/不可能」が後者の「交換可能/不可能」に似ていること、「かけがえ(の)ない」という語が共通することは探し当てる。
さて、あとはこれをどうまとめるかである。ここは授業者の腕の見せ所である。
シンプルにまとめてみる。つまり「アウラ」とは自分にとって「かけがえない」ものであるものが具えている属性であり、それを「かけがえない」と感じられるか否かが「遠近感」である。それらが「消失」したり「喪失」したりする事態を生じさせたのはIT技術やメディアの発達である。そうした現代人の陥っている事態が「映像文化」の発達という側面から記述されているのが「『映像体験』の現在」であり、グローバリズムという側面から記述されているのが「グローバリズムの『遠近感』」なのである。
結局、グローバル化の時代にあって、交換不可能なかけがえのない「モノ」(土地への愛着や身近な人の命)へのまなざしを取り戻そうとする上田の主張は「アウラの輝きに対する繊細な感性を保持し続ける」ことを主張する松浦の主張と同じものだと言っていいのである。
このような把握は、いたずらにアクロバティックな牽強付会だろうか?
だが実は「アウラ」が「遠近感」だということは、指導書の参考資料の「『アウラ』を呼吸すること」の中で、松浦寿輝その人がはっきりと述べているのである。
「『映像体験』の現在」における「アウラ」と、「グローバリズムの『遠近感』」における「遠近感」は、それぞれの文章中の最重要キーワードだといっていい。そしてそれぞれの文章内の言葉から、それぞれのワードを説明することもは無論可能だ。だがそれは、いわば自己完結した循環に閉じ込められているとも言える。予備校や出版社の公開している大学入試問題の「傍線部を説明せよ」型の問題の模範解答を見るとしばしば感ずるもどかしさ‐間違っているとは思わないが、説明になっているとも感じない‐は、こうした、自己循環の中でのみ言葉が完結していることから生じる印象であるように思われる。
だがそれらを互いの文章中に位置づけてみるとき、なにがしか完結した輪の外に出て、その認識が生きたものになる感覚がおとずれる。「アウラ」と「花」も同じだ。「アウラ」を「花のいざない」の文脈で語ってみる。「花」を「『映像体験』の現在」の文脈にあてはめてみる。それができるとき、それらの認識はなにがしか、読み手の中に血肉化されるのである。これほど豊穣な「読み比べ」の可能な教材を配置しながら、そのほとんどが編集部によって意図されたものではない偶然の産物であるという点で、この第一学習社の「高等学校 国語総合」は奇跡的な教科書だと言っていい。
2015年4月8日水曜日
間奏2 桜に雪~cero
桜の散る頃に雪とは参った。
娘の入学式に出るため、珍しくしばらく歩く必要があった(いつも自動車生活なので)こういう日に、雪が降って、恐ろしく寒い。
今日は関東圏発のブログやらツイッターやらでは、この話題がどれほどネットに飛び交ったことやら。
寒さに震え、家に帰ってからも沈鬱な空気の中で、心を奮い立たせてくれる良い音楽。
娘の入学式に出るため、珍しくしばらく歩く必要があった(いつも自動車生活なので)こういう日に、雪が降って、恐ろしく寒い。
今日は関東圏発のブログやらツイッターやらでは、この話題がどれほどネットに飛び交ったことやら。
寒さに震え、家に帰ってからも沈鬱な空気の中で、心を奮い立たせてくれる良い音楽。
2015年4月7日火曜日
「読み比べ」というメソッド 9 ~「夢十夜」と「『見る』」
漱石は「現代文」における「こころ」の採録率が圧倒的だが、「私の個人主義」や「国語総合」の「夢十夜」も、複数の教科書が採録している。第一学習社「高等学校 国語総合」も「夢十夜」の「第一夜」と「第六夜」を採っている(昔は「第三夜」が採録されていることもあったが、今はどこの教科書も「第一夜」と「第六夜」である)。
まず枕に「第六夜」を読む。ここではあえて「解釈」をする。「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことかを問うのである。
授業で小説を読むことが「解釈」を「教える」ことだ、などと思っているわけでは毛頭ない。生徒自身が「解釈」しようとするのなら、それは意味あることである。だが一般に、小説を読むことが、いわゆる「解釈」することだと考えているわけでさえない。これは後に続く授業過程の伏線である。
「解釈」への誘導として、明治という時代がどういう時代だったかを考えさせ、そこでの「自分」と運慶の違いを考えさせる。さらに、次の問いを投げかける。
こんな発問を思いついたのは、「第六夜」がしばしば芸術論として語られることに違和感を覚えたからである。運慶の仕事ぶりについて見物の若い男が語る、
それよりむしろ、この表現が意味しているのは、運慶の仕事ぶりが、熟練の職人の技だということではないのか?
筆者の印象を言えば、この運慶は時代から突出するような形で出現する天才芸術家ではなく、むしろ伝統を形づくる職人集団の先頭に位置する者として描かれていると考えるべきだと思う。運慶と同じように仁王を彫れない理由を、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」からだと「自分」は考える。運慶の仕事ぶりが、芸術家としての創作だとしたら「明治の木には」という限定に何の意味があるのか。そうではなく、それを伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の木には」という形容が納得されるのではないだろうか。これはつまるところ、「第六夜」の主題をどう捉えるかという問題である。
もちろん、芸術家と職人を区別すること自体が近代的な発想ではある。芸術作品と工芸品に区別を付ける必要もないのかもしれない。しかし明治に生きている運慶と仁王を掘り出せない「自分」との違いは、芸術家であるか否かという点にあるのか、職人か否かにあるのか、という選択的な問いは、「第六夜」をどのような物語として読むかに大きな影響を及ぼすように筆者には思える。
だから「明治という時代はどういう時代だったか」を考えさせることも必須だ。そのうえで、運慶を芸術家として捉えることを否定するわけではないが、どちらかといえば私には、運慶は職人として描かれているように思える、と生徒には言う。それは「第六夜」の主題を「西洋文明の流入によって、それ以前の文化や伝統が失われつつある『明治』という時代」とでもいったものとして捉えるからだ、と説明する。
といってもちろん、ここでの「学習内容」としてこれを「教える」ことが授業の意義だと考えているわけではない。これは「第六夜」の「正解」なのではなく、この小説についての、私の納得のありようなのだ、と言っておくのである。これは次につながる「枕」である。
さて、問題の「第一夜」が、「第六夜」のように、どのような意味であれ、腑に落ちる「解釈」の可能な物語だとは思っていない。この物語は解釈を目的として「使う」つもりではないのだが、考えたり話し合ったりすることに前向きな生徒達であれば、「第一夜」についても、結局この結末は何を意味している? などと聞いてみたくもなる。
それが「解釈」であるうちは、まだ「枕」である。だが、しばし「枕」で遊ぼう。
生徒に、次のような問いを投げかけてみる。
だが、なぜ「自分」は百合が女の生まれ変わりであることに気づいたのか。もちろんそれは、擬人化された百合の描写によって、読者にはあっさりと看過されてしまう疑問である。その百合は女の生まれ変わりだと言われれば、疑問を差し挟む余地はない。こうした奇妙な納得のありようは、紛れもない「夢」の感触として我々にも覚えがある。
だが、にもかかわらず、本文を正確に読むと百合が咲いたからではなく、「暁の星」が瞬いているのを見て、「自分」は百年が経っていたことに気づいた、と書いてあるのである。これは何を意味するか?
この部分について考察させるために「暁」の意味を生徒に確認しておく。そのうえでこの描写の意味することを問う。
「暁の星がたった一つ瞬いていた」という描写が意味するものは「夜明け」である。これは、この瞬間に夜明けが近づいたことに気づいた、つまり、夢から覚める自覚が生じた、ということを意味しているのではないだろうか。それまでいくつも通り過ぎていく「赤い日」は、それが昼間であることを意味しているような印象をまったく感じさせない。昼に対応する夜も描かれていない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けは来ておらず、「自分」が「暁の星」を見た瞬間にそこまでの「百年」が一夜の夢として完結してしまうのである。
つまり、「百年」とは夜明け、すなわち夢の終わりまでの期間を意味しているのであり、そこから遡って、女の約束が成就した、つまり百合こそが女の生まれ変わりだったのだ、という論理的帰結(というよりむしろ捏造)が生じているのである。
この、後から遡って創作されたにもかかわらず、だからこそ強い納得を生じさせる真実の感触こそ、この小説がもつ「夢」の手触りである。
管見に拠ればこうした解釈は一般的なものではないはずである(とりあえず目にしたことがない)。生徒にはもちろんこうした解釈のあれこれを語って聞かせるだけで、それを「教える」つもりはない。つい寄り道をしてしまったが、やはりこれは「枕」である。ここでの学習課題は、「第一夜」における「描写」の問題について考えさせることである。
「第一夜」の文体の特徴は、過剰な叙景である。
意識して読んでみると「第一夜」には異様とも言える頻度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。冒頭の一段落で具体的に見てみる。
試みに、取り除いて、つめてみよう。
上に示したとおり、「取り除いてもかまわない」かどうかというのは、実は線引きの難しい問題で、この部分がそれに該当する「正解」であるかどうかを厳密に判定はできない(上の斜体と傍線も厳密な区別ではない)。だが、考えさせることで、この小説の文体の特徴を実感する手がかりにはなる。時間をおいて生徒に発表させ、「なるほど」とか「そうかな?」などと検討していく。
試みにこうした形容や映像的描写を全文から取り除いてみるとわかるが、原文を半分ほどに詰めてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、原文とほとんどかわらないような印象があるはずだ。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で盛り込まれているのである。
さて、ここまでの過程は、次の課題を提示するための前振りである。
「夢十夜」を取り上げたここまでの授業過程を、「『見る』」と比べよ、というのである。特に後半で茂木が論じていることと、ここまで「夢十夜」の授業で考えてきたことの間には、何か似たような点がないか? と問いかける。
既に明らかである。後半の「絵画を見る」ことと、ここでの「小説を読む」ことが相似形なのである。
我々がものを「見る」ということは、それを「要約」することなのだ、というのが茂木の主張の半分である。それが爪切りや小銭入れであるとか「モナリザ」であると認識することを茂木は「要約」と表現しているが、これは同時に、キャンバス上の絵の具のパターンを女の肖像と「解釈」することである。
小説を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「要約」(「第一夜」で試みたように)したり「解釈」(「第六夜」で試みたように)したりする。それをしなければ、読んだ小説の文言は、茂木の描写してみせたホテルの一室のあれこれと同じく、「掛け流」されてしまうだろう。
しかし、「モナリザ」を見る経験がそうした「要約」「解釈」といった「意味づけ」でしかないのだと茂木は言っているわけではない。後半で確認されているのはむしろ「要約」の際に切り捨てられていく「圧倒的な豊穣」もまた「モナリザ」を見るという経験の反面なのだということである。つまり「第一夜」を読むという経験は、それがどんな物語であったのかという把握(「要約」)と同時に、心の表面を流れていく「源泉掛け流しの温泉」の「圧倒的な豊穣」、つまりあの過剰な叙景によって形象され、感触される物語の中の時空間そのものを体験することに他ならないのである。
したがって、茂木の言っているのが、指導書の言うように「絵画という芸術の奥深さ」などでないことも明らかである。それは「絵画」といった限定に留まらない、我々の認識全般についての秘密なのである。
まず枕に「第六夜」を読む。ここではあえて「解釈」をする。「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことかを問うのである。
授業で小説を読むことが「解釈」を「教える」ことだ、などと思っているわけでは毛頭ない。生徒自身が「解釈」しようとするのなら、それは意味あることである。だが一般に、小説を読むことが、いわゆる「解釈」することだと考えているわけでさえない。これは後に続く授業過程の伏線である。
「解釈」への誘導として、明治という時代がどういう時代だったかを考えさせ、そこでの「自分」と運慶の違いを考えさせる。さらに、次の問いを投げかける。
ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?先の、「対比」を設定して文中の表現をどちらに位置づけるかを問う発問と同様、複数の選択肢を提示して生徒に選択させる、という発問は、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しないからである。もちろん結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのである。それが思考を活性化させる。
こんな発問を思いついたのは、「第六夜」がしばしば芸術論として語られることに違和感を覚えたからである。運慶の仕事ぶりについて見物の若い男が語る、
なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。という表現は、確かにある種の「芸術」論のようにも読める。だがむしろこのように「芸術」を捉えるのは、芸術創造についての神秘思想、神話だと思う。
それよりむしろ、この表現が意味しているのは、運慶の仕事ぶりが、熟練の職人の技だということではないのか?
筆者の印象を言えば、この運慶は時代から突出するような形で出現する天才芸術家ではなく、むしろ伝統を形づくる職人集団の先頭に位置する者として描かれていると考えるべきだと思う。運慶と同じように仁王を彫れない理由を、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」からだと「自分」は考える。運慶の仕事ぶりが、芸術家としての創作だとしたら「明治の木には」という限定に何の意味があるのか。そうではなく、それを伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の木には」という形容が納得されるのではないだろうか。これはつまるところ、「第六夜」の主題をどう捉えるかという問題である。
もちろん、芸術家と職人を区別すること自体が近代的な発想ではある。芸術作品と工芸品に区別を付ける必要もないのかもしれない。しかし明治に生きている運慶と仁王を掘り出せない「自分」との違いは、芸術家であるか否かという点にあるのか、職人か否かにあるのか、という選択的な問いは、「第六夜」をどのような物語として読むかに大きな影響を及ぼすように筆者には思える。
だから「明治という時代はどういう時代だったか」を考えさせることも必須だ。そのうえで、運慶を芸術家として捉えることを否定するわけではないが、どちらかといえば私には、運慶は職人として描かれているように思える、と生徒には言う。それは「第六夜」の主題を「西洋文明の流入によって、それ以前の文化や伝統が失われつつある『明治』という時代」とでもいったものとして捉えるからだ、と説明する。
といってもちろん、ここでの「学習内容」としてこれを「教える」ことが授業の意義だと考えているわけではない。これは「第六夜」の「正解」なのではなく、この小説についての、私の納得のありようなのだ、と言っておくのである。これは次につながる「枕」である。
さて、問題の「第一夜」が、「第六夜」のように、どのような意味であれ、腑に落ちる「解釈」の可能な物語だとは思っていない。この物語は解釈を目的として「使う」つもりではないのだが、考えたり話し合ったりすることに前向きな生徒達であれば、「第一夜」についても、結局この結末は何を意味している? などと聞いてみたくもなる。
それが「解釈」であるうちは、まだ「枕」である。だが、しばし「枕」で遊ぼう。
生徒に、次のような問いを投げかけてみる。
途中で数えることを放棄した自分は、どうして「百年がまだ来ない」と思ったり、百年経っていたことに気づいたりしたのか?物語の因果関係が追える生徒は、「百年経ったらきっと会いに来ると言った女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ」と説明できる。これを裏返せば、「百年経ったことに気づいた」というのはつまり、百合を女の再来と認めたということに他ならない。
だが、なぜ「自分」は百合が女の生まれ変わりであることに気づいたのか。もちろんそれは、擬人化された百合の描写によって、読者にはあっさりと看過されてしまう疑問である。その百合は女の生まれ変わりだと言われれば、疑問を差し挟む余地はない。こうした奇妙な納得のありようは、紛れもない「夢」の感触として我々にも覚えがある。
だが、にもかかわらず、本文を正確に読むと百合が咲いたからではなく、「暁の星」が瞬いているのを見て、「自分」は百年が経っていたことに気づいた、と書いてあるのである。これは何を意味するか?
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。つまり、百合を女の生まれ変わりだと認識することによって、百年の経過に気づくのではないのである。こうした論理は転倒している。逆だ。「百年はもう来ていたんだな」と気づくことによって、百合が女の生まれ変わりであったことが認識されているのである。
「百年はもう来ていたんだな。」とこのとき初めて気がついた。
この部分について考察させるために「暁」の意味を生徒に確認しておく。そのうえでこの描写の意味することを問う。
「暁の星がたった一つ瞬いていた」という描写が意味するものは「夜明け」である。これは、この瞬間に夜明けが近づいたことに気づいた、つまり、夢から覚める自覚が生じた、ということを意味しているのではないだろうか。それまでいくつも通り過ぎていく「赤い日」は、それが昼間であることを意味しているような印象をまったく感じさせない。昼に対応する夜も描かれていない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けは来ておらず、「自分」が「暁の星」を見た瞬間にそこまでの「百年」が一夜の夢として完結してしまうのである。
つまり、「百年」とは夜明け、すなわち夢の終わりまでの期間を意味しているのであり、そこから遡って、女の約束が成就した、つまり百合こそが女の生まれ変わりだったのだ、という論理的帰結(というよりむしろ捏造)が生じているのである。
この、後から遡って創作されたにもかかわらず、だからこそ強い納得を生じさせる真実の感触こそ、この小説がもつ「夢」の手触りである。
管見に拠ればこうした解釈は一般的なものではないはずである(とりあえず目にしたことがない)。生徒にはもちろんこうした解釈のあれこれを語って聞かせるだけで、それを「教える」つもりはない。つい寄り道をしてしまったが、やはりこれは「枕」である。ここでの学習課題は、「第一夜」における「描写」の問題について考えさせることである。
「第一夜」の文体の特徴は、過剰な叙景である。
意識して読んでみると「第一夜」には異様とも言える頻度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。冒頭の一段落で具体的に見てみる。
腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。斜体部分は、取り除いて前後をつめてしまっても、ストーリーの把握の上で支障がないばかりか、日本語としても不自然ではない。傍線部もまた、除いてもストーリーの把握には支障のない描写である。こうした、前後をつめても読める形容や映像の描写に傍線をひかせる。
試みに、取り除いて、つめてみよう。
枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。
上に示したとおり、「取り除いてもかまわない」かどうかというのは、実は線引きの難しい問題で、この部分がそれに該当する「正解」であるかどうかを厳密に判定はできない(上の斜体と傍線も厳密な区別ではない)。だが、考えさせることで、この小説の文体の特徴を実感する手がかりにはなる。時間をおいて生徒に発表させ、「なるほど」とか「そうかな?」などと検討していく。
試みにこうした形容や映像的描写を全文から取り除いてみるとわかるが、原文を半分ほどに詰めてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、原文とほとんどかわらないような印象があるはずだ。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で盛り込まれているのである。
さて、ここまでの過程は、次の課題を提示するための前振りである。
「夢十夜」を取り上げたここまでの授業過程を、「『見る』」と比べよ、というのである。特に後半で茂木が論じていることと、ここまで「夢十夜」の授業で考えてきたことの間には、何か似たような点がないか? と問いかける。
既に明らかである。後半の「絵画を見る」ことと、ここでの「小説を読む」ことが相似形なのである。
我々がものを「見る」ということは、それを「要約」することなのだ、というのが茂木の主張の半分である。それが爪切りや小銭入れであるとか「モナリザ」であると認識することを茂木は「要約」と表現しているが、これは同時に、キャンバス上の絵の具のパターンを女の肖像と「解釈」することである。
小説を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「要約」(「第一夜」で試みたように)したり「解釈」(「第六夜」で試みたように)したりする。それをしなければ、読んだ小説の文言は、茂木の描写してみせたホテルの一室のあれこれと同じく、「掛け流」されてしまうだろう。
しかし、「モナリザ」を見る経験がそうした「要約」「解釈」といった「意味づけ」でしかないのだと茂木は言っているわけではない。後半で確認されているのはむしろ「要約」の際に切り捨てられていく「圧倒的な豊穣」もまた「モナリザ」を見るという経験の反面なのだということである。つまり「第一夜」を読むという経験は、それがどんな物語であったのかという把握(「要約」)と同時に、心の表面を流れていく「源泉掛け流しの温泉」の「圧倒的な豊穣」、つまりあの過剰な叙景によって形象され、感触される物語の中の時空間そのものを体験することに他ならないのである。
したがって、茂木の言っているのが、指導書の言うように「絵画という芸術の奥深さ」などでないことも明らかである。それは「絵画」といった限定に留まらない、我々の認識全般についての秘密なのである。
2015年4月5日日曜日
「読み比べ」というメソッド 8 ~茂木健一郎「『見る』」を読む
「『映像体験』の現在」と「花のいざない」を括る単元はただ「随想」と名付けられているだけであり、次の茂木健一郎「『見る』」と高階秀爾「『間』の感覚」は「評論三」という単元である。だが、そもそも現在の国語科教科書は「単元」という枠組みにほとんど意味を見出していない(現場の教師も同様である)。昔の「単元」とはある種のテーマ的な括り方がされていたものだったが、今では「小説」とか「詩歌」とか、単に文章のジャンル名を指し示しているだけである(若い教師は「単元」とはそういうものだと思っているかもしれない)。
そして「随想」と「評論」は、それほどはっきりした境界などない。だから「絵はすべての人の創るもの」が「評論一」で、「『映像体験』の現在」が「随想」に収められてしまうという、何とも奇妙な括り方も、まあ目くじらをたてるほどのことはない。
ともかく、「花のいざない」を捲って次に現れる茂木健一郎の「『見る』」はどう「使う」ことが可能か。
「絵はすべての人の創るもの」について、指導書には、
もちろん、そうした「読み比べ」をすることにはそれなりに意義がある。両者を比較して気づくのは「人間の目/カメラ」という比較によって、人間の「見る」という行為の独自性を説明しようとする、という論理操作が共通していることだ。といって、この「読み比べ」は、読解過程の全体に渡るほどの射程はない。比較することで認識が深まるような関連性が見出せないのだ。「絵は…」の方は、先に述べたようにいわば受容理論や読者論などに通じる、作品を受け取る側に注目する芸術享受理論を語っているのに対し、「『見る』」は認知心理学的水準が問題にされているからである。
だがそれを確認するだけでも意味はあることだ。ただ、そうした「読み比べ」に導かれて読解が進むと言うより、読解が進んでからの総括として考察することが可能な「読み比べ」だと言った方がいいだろう。
そういう意味で「絵は…」と読み比べるならば、使用頻度の高い教科書教材としては清岡卓行の「ミロのヴィーナス(「失われた両腕」「手の変幻」とも)」が手頃だろうか。「芸術」という観点で共通性を考察させることで、両者の文章の核心を捉えることができそうである。
例えば次の一節などは、「読み比べ」ることが可能である。
翻って、では「『見る』」をどう読むか。「疑問形」を使ってみよう。これも題名を使うと容易である。「『見る』とはどういうことか?」である。もちろん、題名を見ただけでこの変換を考えさせるわけではなく、一読したあとで問うのである。こうした変換は、それが妥当なものであるという感触と相互に支え合って可能になるからだ。つまり、こうした「疑問形=問題提起」を想定するときには、その疑問・問題の答えが文中から見つかるはずだという予想ができているということである。漠然と読むことに比べて、こうした疑問を心に留めながら考えることの間には大きな差がある。問題意識が明確であれば、この文章のキーセンテンスが次の一文であることは、比較的容易にわかる。
さて「対比」はどうだろう。本文を読み進めると、すぐに「脳(に視覚的な記憶を蓄積するメカニズム)/ビデオカメラ(がテープなどの記憶媒体に映像を記録する機構)」という対比がみつかる。「人間の目/カメラ」もしくは「見る/録画する」である。この文章は「『見る』とはどういうことか?」という問題の答えを提示するものであるから、つまり「録画する」にはなくて「見る」にあるものを明らかにすることで論が進んでいくことが予想されるわけである。途中まではこの対比を意識することで、筆者が何を明らかにしようとしているかは読みとれる。
半ば近くまで読み進めると上の一文が登場する。ここから「視覚的アウェアネス/要約」という対比が読みとれる。これは最初の「見る/録画する」という対比と同一軸上に並ぶか、と問う。並ばない。「視覚的アウェアネス/要約」は対立ではなく、二つ揃って「見る」という体験を成立させているからである。
「対比」には「対立」「類比」「並列」の三種類があると、しばしば生徒に言う。「見る/録画する」は「対立」、「視覚的アウェアネス/要約」は「並列」による対比である(ちなみに「読み比べ」によって併置される対応関係は「類比」である)。
対比が提示されたら、「源泉掛け流しの温泉」「贅沢な空間性、並列性」「圧倒的な豊穣」「豊穣な喪失」などの表現も、どちらの対比の上下どっち? と聞くことによって、受け止める構えをつくることができる。これらの文言は、教師にとって、恐らく生徒にはわかりにくいはずだ、と感じられる表現であり、だからそうした文言が指し示す「内容」を「教え」なければならないと考える教師はその「説明」に頭を悩ませることになる。
だが何度か触れたように「わかる」とは、情報の、何らかの位置づけができたということである。だから「どっち?」という選択肢の示された問いの形式は、生徒の思考を活性化させる上で有効である。「どういうこと?」という問いは、それを包括的に考えることこそ高度な要求として学力の高い生徒には投げかけたい問いなのだが、現実にはしばしば、生徒にとって思考の方向が定まらずに無為に流れてしまう。
それに比べて、座標軸が定まると、考えるべき方向がはっきりする。上下どちらかを考えることは、この対比がどのような要素の対比なのかを考えさせ、同時に該当の表現が何を意味しているかを考えさせる。これらは再帰的に相互に根拠づけられるような思考である。もちろん生徒はそのことを自覚してはいないが。
例えば「源泉掛け流しの温泉」は文脈上、対比の上項「見る」の側に位置づけられるが、それは「見る/録画する」という対比の対立要素のうち、上項の何らかの属性が「源泉掛け流しの温泉」と表現されることを意味している。そして「源泉掛け流しの温泉」と対比的な表現を考えるならば、例えば「沸かし直しの風呂」とでもいったような比喩になるだろう。こうした思考が、対比の意味と「源泉掛け流しの温泉」という比喩の意味を相互に往還しながら明瞭にしていく。
さて、読解における「対比」の有用性をもうひとつ。
「『見る』」の最初の4頁は、「見る」という体験の本質を、認知心理学的水準で明らかにしている、と捉えることができる。では、「モナ・リザ」を題材にした後の2頁は何を言っているのか? 指導書の言うように「絵画という芸術の奥深さ」について述べているのだろうか?
もちろんそれは間違ってはいない。だがそれでは、前半から後半にかけての展開の様相は、充分に必然のあるものとは感じられないはずだ。後半を読んで、「なるほどそうか、芸術というのは奥深いものなのだな」などと納得することが、「『見る』」を読んだことになるのか?
そこで「視覚的アウェアネス/要約」という対比(並列)によって、前半と後半の関係捉え直してみる。すると、次のように表現することができる。
まず「見る」という体験が「視覚的アウェアネス/要約」という二つの要素によって成立していることを明らかにしたうえで、最初の4頁は二つのうちの「要約」について重点的に述べ、後の2頁は「視覚的アウェアネス」も重要だということを言っているのである。こんなふうに表現してみると、「『見る』」全体の論理構造が一掴みにできる。
これは、もう一つの読解ツールである「疑問形」からも納得できる捉え方だ。「絵画という芸術の奥深さ」といった捉え方は「芸術とは何か?」という疑問形に対応している。だが、文章全体の問題提起は「『見る』とはどういうことか?」と考えた方が妥当だろう。とすれば、上記「対比」による捉え方の方がそうした問題提起に的確に対応していることは明らかである。
国語科授業のメソッドとしての「読み比べ」は教材理解にも有用だが、それのみを目的としたメソッドではない。つまり「読み比べ」をすると文章の内容が理解しやすくなる、と言っているわけはないということだ。そうではなく、有効な国語学習のためのメソッドとして、あるいは授業を構想する際のメソッドなのであり、その過程で余録のように、そこでとりあげた教材文の理解にも有用だと言っているのである。
したがって、取り上げる文章を教科書収録教材に限定する必要などない。先の「ミロのヴィーナス」についての言及もそれを想定している。
だが、第一学習社「高等学校 国語総合」には志村史夫「科学の限界」という文章が収録されている。この文中には次のような一節がある。
残念ながら、それほど有用な「読み比べ」は期待できない。その点は「絵はすべての人の創るもの」同様である。
「科学の限界」では「見る」ことは次のように説明されている。
「『見る』」と「読み比べ」ることが可能な評論教材としては、例えば大森荘蔵の「見る-考える」(『流れとよどみ』所収)などが想起される。この文章は、「『見る』」と「科学の限界」双方と読み比べると興味深い文章である。茂木「『見る』」と志村「科学の限界」の「読み比べ」がそれほどの有用性を見出せないにもかかわらず、茂木「『見る』」-大森「見る-考える」-志村「科学の限界」と並べてみると、面白いことにそこには濃密な関連性(比較可能性)がありそうには見えるのである。
もう一つ、思い出すのは小林秀雄の「美を求める心」である。脳科学者である茂木が、全体として「要約」の方に多くの紙幅を割いて論じているのに対し、小林ははっきりと「視覚的アウェアネス」の方を称揚していると言える(もちろん茂木が小林のこの文章を知らないはずはない)。例えば、
「当麻」の有名な一節、
ここまで書いてきて、ここで小林が言う「花」が、世阿弥の「花」であることに突然思い至った。とすれば、これは観世寿夫「花のいざない」につながるはずだ。「花のいざない」―「美を求める心」―「『見る』」とつなげてみれば、そこには「花のいざない」と「『見る』」の「読み比べ」の可能性が浮上してくる。観世寿夫が「花のように舞台に立ちたい」というとき、小林の「美しい花」が念頭に置かれていた可能性は大いにあり得る。
だがここではこれ以上の考察はしない。
もう一つ、この教科書内で「『見る』」と「読み比べ」たい文章は、夏目漱石の「夢十夜」である。
そして「随想」と「評論」は、それほどはっきりした境界などない。だから「絵はすべての人の創るもの」が「評論一」で、「『映像体験』の現在」が「随想」に収められてしまうという、何とも奇妙な括り方も、まあ目くじらをたてるほどのことはない。
ともかく、「花のいざない」を捲って次に現れる茂木健一郎の「『見る』」はどう「使う」ことが可能か。
「絵はすべての人の創るもの」について、指導書には、
「見る」を学習する際に、もう一度立ち返って読ませたいと書かれていて、ある種の「読み比べ」が想定されているのだが、実際のところどういった授業展開を想定しているのかは不明である。一方「『見る』」の方には「絵は…」を受けた記述はない。こうした一方通行は、恐らく指導書の執筆担当者が別々であるためだろうが、惜しいことだ。
もちろん、そうした「読み比べ」をすることにはそれなりに意義がある。両者を比較して気づくのは「人間の目/カメラ」という比較によって、人間の「見る」という行為の独自性を説明しようとする、という論理操作が共通していることだ。といって、この「読み比べ」は、読解過程の全体に渡るほどの射程はない。比較することで認識が深まるような関連性が見出せないのだ。「絵は…」の方は、先に述べたようにいわば受容理論や読者論などに通じる、作品を受け取る側に注目する芸術享受理論を語っているのに対し、「『見る』」は認知心理学的水準が問題にされているからである。
だがそれを確認するだけでも意味はあることだ。ただ、そうした「読み比べ」に導かれて読解が進むと言うより、読解が進んでからの総括として考察することが可能な「読み比べ」だと言った方がいいだろう。
そういう意味で「絵は…」と読み比べるならば、使用頻度の高い教科書教材としては清岡卓行の「ミロのヴィーナス(「失われた両腕」「手の変幻」とも)」が手頃だろうか。「芸術」という観点で共通性を考察させることで、両者の文章の核心を捉えることができそうである。
例えば次の一節などは、「読み比べ」ることが可能である。
ふと気づくならば、失われた両腕は、ある捉え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。「ミロのヴィーナス」
鑑賞がどのくらい多種多様であり、どんなに独特な姿を創り上げるか。それは、見る人数だけ無数の作品となって、それぞれの心の中で描き上げられたことになります。この、単数でありながら無限の複数であるところに芸術の生命があります。「絵はすべての人の創るもの」芸術が、受け取る側によってさまざまに姿をかえること、そこに芸術の価値を見出すこと。「花のいざない」にも共通したテーマをここに認めることができる。
翻って、では「『見る』」をどう読むか。「疑問形」を使ってみよう。これも題名を使うと容易である。「『見る』とはどういうことか?」である。もちろん、題名を見ただけでこの変換を考えさせるわけではなく、一読したあとで問うのである。こうした変換は、それが妥当なものであるという感触と相互に支え合って可能になるからだ。つまり、こうした「疑問形=問題提起」を想定するときには、その疑問・問題の答えが文中から見つかるはずだという予想ができているということである。漠然と読むことに比べて、こうした疑問を心に留めながら考えることの間には大きな差がある。問題意識が明確であれば、この文章のキーセンテンスが次の一文であることは、比較的容易にわかる。
「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。
さて「対比」はどうだろう。本文を読み進めると、すぐに「脳(に視覚的な記憶を蓄積するメカニズム)/ビデオカメラ(がテープなどの記憶媒体に映像を記録する機構)」という対比がみつかる。「人間の目/カメラ」もしくは「見る/録画する」である。この文章は「『見る』とはどういうことか?」という問題の答えを提示するものであるから、つまり「録画する」にはなくて「見る」にあるものを明らかにすることで論が進んでいくことが予想されるわけである。途中まではこの対比を意識することで、筆者が何を明らかにしようとしているかは読みとれる。
半ば近くまで読み進めると上の一文が登場する。ここから「視覚的アウェアネス/要約」という対比が読みとれる。これは最初の「見る/録画する」という対比と同一軸上に並ぶか、と問う。並ばない。「視覚的アウェアネス/要約」は対立ではなく、二つ揃って「見る」という体験を成立させているからである。
「対比」には「対立」「類比」「並列」の三種類があると、しばしば生徒に言う。「見る/録画する」は「対立」、「視覚的アウェアネス/要約」は「並列」による対比である(ちなみに「読み比べ」によって併置される対応関係は「類比」である)。
対比が提示されたら、「源泉掛け流しの温泉」「贅沢な空間性、並列性」「圧倒的な豊穣」「豊穣な喪失」などの表現も、どちらの対比の上下どっち? と聞くことによって、受け止める構えをつくることができる。これらの文言は、教師にとって、恐らく生徒にはわかりにくいはずだ、と感じられる表現であり、だからそうした文言が指し示す「内容」を「教え」なければならないと考える教師はその「説明」に頭を悩ませることになる。
だが何度か触れたように「わかる」とは、情報の、何らかの位置づけができたということである。だから「どっち?」という選択肢の示された問いの形式は、生徒の思考を活性化させる上で有効である。「どういうこと?」という問いは、それを包括的に考えることこそ高度な要求として学力の高い生徒には投げかけたい問いなのだが、現実にはしばしば、生徒にとって思考の方向が定まらずに無為に流れてしまう。
それに比べて、座標軸が定まると、考えるべき方向がはっきりする。上下どちらかを考えることは、この対比がどのような要素の対比なのかを考えさせ、同時に該当の表現が何を意味しているかを考えさせる。これらは再帰的に相互に根拠づけられるような思考である。もちろん生徒はそのことを自覚してはいないが。
例えば「源泉掛け流しの温泉」は文脈上、対比の上項「見る」の側に位置づけられるが、それは「見る/録画する」という対比の対立要素のうち、上項の何らかの属性が「源泉掛け流しの温泉」と表現されることを意味している。そして「源泉掛け流しの温泉」と対比的な表現を考えるならば、例えば「沸かし直しの風呂」とでもいったような比喩になるだろう。こうした思考が、対比の意味と「源泉掛け流しの温泉」という比喩の意味を相互に往還しながら明瞭にしていく。
さて、読解における「対比」の有用性をもうひとつ。
「『見る』」の最初の4頁は、「見る」という体験の本質を、認知心理学的水準で明らかにしている、と捉えることができる。では、「モナ・リザ」を題材にした後の2頁は何を言っているのか? 指導書の言うように「絵画という芸術の奥深さ」について述べているのだろうか?
もちろんそれは間違ってはいない。だがそれでは、前半から後半にかけての展開の様相は、充分に必然のあるものとは感じられないはずだ。後半を読んで、「なるほどそうか、芸術というのは奥深いものなのだな」などと納得することが、「『見る』」を読んだことになるのか?
そこで「視覚的アウェアネス/要約」という対比(並列)によって、前半と後半の関係捉え直してみる。すると、次のように表現することができる。
まず「見る」という体験が「視覚的アウェアネス/要約」という二つの要素によって成立していることを明らかにしたうえで、最初の4頁は二つのうちの「要約」について重点的に述べ、後の2頁は「視覚的アウェアネス」も重要だということを言っているのである。こんなふうに表現してみると、「『見る』」全体の論理構造が一掴みにできる。
これは、もう一つの読解ツールである「疑問形」からも納得できる捉え方だ。「絵画という芸術の奥深さ」といった捉え方は「芸術とは何か?」という疑問形に対応している。だが、文章全体の問題提起は「『見る』とはどういうことか?」と考えた方が妥当だろう。とすれば、上記「対比」による捉え方の方がそうした問題提起に的確に対応していることは明らかである。
国語科授業のメソッドとしての「読み比べ」は教材理解にも有用だが、それのみを目的としたメソッドではない。つまり「読み比べ」をすると文章の内容が理解しやすくなる、と言っているわけはないということだ。そうではなく、有効な国語学習のためのメソッドとして、あるいは授業を構想する際のメソッドなのであり、その過程で余録のように、そこでとりあげた教材文の理解にも有用だと言っているのである。
したがって、取り上げる文章を教科書収録教材に限定する必要などない。先の「ミロのヴィーナス」についての言及もそれを想定している。
だが、第一学習社「高等学校 国語総合」には志村史夫「科学の限界」という文章が収録されている。この文中には次のような一節がある。
視覚的に、我々に〝ものが見える〟というのはどういうことなのだろうか。この、「『見る』」で提起されているのとあまりに似た「問題」は、「読み比べ」に使えないのだろうか?
残念ながら、それほど有用な「読み比べ」は期待できない。その点は「絵はすべての人の創るもの」同様である。
「科学の限界」では「見る」ことは次のように説明されている。
物体から反射された〝可視光〟が、我々の視神経を刺激し、その刺激を大脳が認知することで物体が〝見える〟ということになる。これは言わば生理学的な水準で「見る」ことを捉えている。先述の通り、「絵は…」は読者論などのような芸術受容理論的水準、「『見る』」は大脳前頭葉における情報処理のような認知心理学的水準が問題にされているのだといえる。そしてそれぞれの文章は相互の水準にまで議論を広げることを目的としていない。そこでは共通した話題が扱われていながら、筆者の関心はほとんど重なっていないのである。両者を重ね合わせることで双方が「腑に落ちる」、という、「『映像体験』の現在」と「花のいざない」のような劇的な体験は期待できない。したがって、そうした考察はそれなりに意味はあるが、授業展開全体にわたる「読み比べ」は構想しにくい。
「『見る』」と「読み比べ」ることが可能な評論教材としては、例えば大森荘蔵の「見る-考える」(『流れとよどみ』所収)などが想起される。この文章は、「『見る』」と「科学の限界」双方と読み比べると興味深い文章である。茂木「『見る』」と志村「科学の限界」の「読み比べ」がそれほどの有用性を見出せないにもかかわらず、茂木「『見る』」-大森「見る-考える」-志村「科学の限界」と並べてみると、面白いことにそこには濃密な関連性(比較可能性)がありそうには見えるのである。
もう一つ、思い出すのは小林秀雄の「美を求める心」である。脳科学者である茂木が、全体として「要約」の方に多くの紙幅を割いて論じているのに対し、小林ははっきりと「視覚的アウェアネス」の方を称揚していると言える(もちろん茂木が小林のこの文章を知らないはずはない)。例えば、
見ることはしゃべることではない。言葉は目の邪魔になるものです。などという一節は、茂木の用語を使うなら、「要約」に拠ってではなく「視覚的アウェアネス」そのものを味わうことが「美を求める」ことだと言っているのである。
「当麻」の有名な一節、
美しい花がある、花の美しさという様なものはない。も、「美しい花」が「視覚的アウェアネス」に対応しており、「花の美しさ」(=「観念」)が「要約」に対応しているのである。
ここまで書いてきて、ここで小林が言う「花」が、世阿弥の「花」であることに突然思い至った。とすれば、これは観世寿夫「花のいざない」につながるはずだ。「花のいざない」―「美を求める心」―「『見る』」とつなげてみれば、そこには「花のいざない」と「『見る』」の「読み比べ」の可能性が浮上してくる。観世寿夫が「花のように舞台に立ちたい」というとき、小林の「美しい花」が念頭に置かれていた可能性は大いにあり得る。
だがここではこれ以上の考察はしない。
もう一つ、この教科書内で「『見る』」と「読み比べ」たい文章は、夏目漱石の「夢十夜」である。
2015年4月3日金曜日
間奏
連日の投稿がなかなかハードでちょっとお休み。だがこの連載も春休みのうちに決着をつけたいものだ。
ところでgoogle chromeを開くと、時々ある種のお知らせが届いているのに気づく。同じアカウントで投稿しているしている動画に対するコメントやチャンネル登録を知らせてくれるのだ。
今日も例の動画についてのコメントが書き込まれたことを知らせてくれたのだが、いわく、
今日現在で再生数は57,088回で、そのうち732人が「高く評価」してくれている。海外の方のコメントがあったりもして、なんだか不思議だ。
ところでgoogle chromeを開くと、時々ある種のお知らせが届いているのに気づく。同じアカウントで投稿しているしている動画に対するコメントやチャンネル登録を知らせてくれるのだ。
今日も例の動画についてのコメントが書き込まれたことを知らせてくれたのだが、いわく、
感動しました。今日は嫌な日だったんですが貴方達が歌った歌で元気になりました。頑張ってください(「あは、オメガ」さんより)。こういうのは嬉しいなあ。
今日現在で再生数は57,088回で、そのうち732人が「高く評価」してくれている。海外の方のコメントがあったりもして、なんだか不思議だ。
2015年4月1日水曜日
「読み比べ」というメソッド 7 ~観世寿夫「花のいざない」を読む
「『映像体験』の現在」と同じ単元に観世寿夫の「花のいざない」が収録されている。これは、言ってみれば奇跡的な単元構成である。だが、指導書の記述を見る限り、編集部がそのことに自覚的であるような気配はない。単元は「広い意味での文化に関わる」といった括り方が示されているだけである。
だがこの二つの文章は、読み比べ、参照しあうことでこそ、その最も抽象的で、なおかつそれぞれの文章の中心的な概念について理解できる、取り合わせの妙をなしているのである。
「花のいざない」は、含みの多い言い回しが多く、一読して何を言っているのかわかりにくい部分の残る文章である。本当なら、何度も読み返して、体に馴染ませる必要のある文章である。
だがここではやはり「読み比べ」というメソッドが、この文章を読むことにどのような効果を発揮するか、という点から論じたい。
例えば導入部においては、先に触れた「『間』の感覚」の「花」を題材にした一節が対応することに触れてもよい。
だが「花のいざない」を「日本人の自然観」といった主題によって、「水の東西」などと「読み比べ」ることにはそれほどの実りはないように思える。共通するのは「自然への親和性」くらいのありきたりの日本人論に過ぎないからである。
「花のいざない」は、最初の1ページを過ぎると早々に、話題の中心が植物の「花」から世阿弥の「花」論に移ってしまう。問題はここからだ。この、高校生にはきわめて捉えにくいであろう「花」という概念をどう考えさせるか。
「花のいざない」は難しい。平易な語り口であるにもかかわらず、結局のところ何を言っている文章なのかピンとこない(この感じは内山節に似ている)。これは、この文章の「仮想敵」がはっきりしないことに因る。文章は、それについて考えたことのない人か、反対する人に対して述べられたものだ。だが「花のいざない」は、そうした対象とする読み手が想定しにくく、どんな考え方に対置されるような考え方が提示されているのかが把握しにくいのである。「対比」を読み取ることが読解のための強力なメソッドとなるように、「対比(対立)」を形成しない言説は理解するのが難しい。
そこで先述の、文章のテーマをまず疑問形で表現してみる、という方法を用いてみる。「『花のいざない』とは何か?」が安直な変換であるが、これはだたちに「『花』とは何か?」「誰をいざなっているのか?」などに変形できるから、こうして問題が明確に意識されれば筆者の主張をどういった方向で捉えればいいかが考えやすくなってくる。問題となる「花」とは、世阿弥の「花」論における「花」である。この「花」とは何だろう?
端的に「本文ではどう説明されているか」と聞く。「『花』はどう定義づけられているか」などと言い換えもする。本文から、この問いに対応する部分を探させるのである。
本文では「すなわち演技者の肉体を通して発顕するあらゆる魅力」という定義が最初になされている(しばらく後で「舞台での生き方、舞台での美しさの現れ」と表現されているのもほぼ同じ定義だ)。ここからが植物としての「花」ではなく、能楽における「花」のことが話題になっているのだ、と確認して先を読み進む。
次に「しかし」と逆接によって再定義されるのは「観客が反応するもののこと」という概念である。「花」とは、舞台上にあって役者が発顕しているにもかかわらず、それは「観客」の「反応」において捉えられるというのである。
この構図は見覚えがある。すなわち「絵はすべての人の創るもの」や「旅する本」で作者が提示して見せた思想である。「花のいざない」と「絵は…」の頁を指定して共通する表現を探させると、生徒はすぐに「十人(いれば)十色」という表現を見つける。
だが、まだ十分とは言えない。「花」が「花」であるための条件である「自然」=「偶然でもあり必然でもあること」という表現は、難しい言葉を使っているわけでもないのに、ちっとも掴めている手応えが得られない。精読を通して少しずつ実感させていく必要のありそうな概念なのだが、本文を繰り返し読み込むことがそれをどれほど可能にするかは心許ない。
「旅する本」で「私」がそれぞれの年代で出会った「本」をそのような「本」としてあらしめた「偶然・必然」を考えるとき、ここでの「本」はそれぞれの「私」にとっての「花」だったのだ、などと言えなくもない。
だがこれも、生徒に対して問いを発して考えさせるには、恐らく掴み所がない。語って聞かせれば、感じる生徒は何事かを感じるかもしれないが、多くの生徒にはまるでピンとこないはずだ。
そこでさらに、「『映像体験』の現在」との「読み比べ」を試みる。
「『映像体験』の現在」と「花のいざない」を「読み比べ」せよ、というのは、もちろんかなり高度な思考を必要とする課題である。「水の東西」と「『間』の感覚」のように、その対比構造が共通するとか、上のように題材が共通する、といった、並置するためのとっかかりがみつからない。そもそも話題も語り口もあまりに違いすぎて、それらを「読み比べ」ようという発想が浮かぶとも思えない(編集部がそうであるように)。
したがって生徒が考えるための誘導的なはたらきかけをする必要もある。たとえば、それぞれの筆者の主張を端的にまとめてごらん、と言う。もちろん「筆者の主張を端的にまとめる」などという操作自体が高度である。
それでも「文中からそのまま抜き出せ」と言い添えれば、「花のいざない」では、次の一節などが挙げられるかもしれない。
つまり「花」とは「アウラ」のことなのだ。
重要なのは、こうした結論を「正解」のように教えることではなく、こうした発想に生徒自身がたどりつくことであり、そうした発想に基づいて本文を読むことである。あるいはそうした発想に共感しないものに(共感しているものにすら)どう説明するかである。
この直観を確かめるために、とにかく本文を読むように指示する。
確かめてみよう。こうした直観はどのように裏付けられるのか?
「『映像体験』の現在」によれば、「アウラ」とは「自分にとってかけがえなく貴重な視覚的映像」が「まとって」いるものである。一方の「花のいざない」では「花」とは「観客が反応するもののこと」である。これは前述の通り「絵はすべての人の創るもの」における「芸術作品」、「旅する本」における「本」の捉え方と同じものである。「失恋の直後に見た夕焼けの海」というのは、その「夕焼けの海」の光景が単に「アウラ」を発しているというのではなく、それを見た「失恋の直後」であった自分との「一期一会」においてそれが「アウラ」をまとったということである。「イメージがいくらでも反復可能・再現可能になってきたとき、映像から失われていったのはこの『アウラ』である。」ということは、翻して言えば「アウラ」をまとったイメージは「反復不可能・再現不可能・複製不可能」であるということであり、これはつまり、その場限りでの観客との出会いにおいて「偶然・必然」に舞台上に生まれるものだということである。「夕焼けの海」に「アウラ」があったのは、それが「失恋の直後」であったという「偶然・必然」に拠っているのである。
これはまさしく、「観客」の「反応」において捉えられる、「偶然でもあり必然でもある」ような「花」そのものではないか。
つまり「『映像体験』の現在」で松浦が主張するのは、イメージの氾濫の中で「花」を見いだす感性を失わないでいたい、ということであり、「花のいざない」で観世が述べているのは、「アウラ」を発する存在として舞台に立ちたいということなのである。「アウラ」と「花」はほとんど同一の概念として右の文で交換可能である。
この、それぞれの文章の中で最も中心的であるにもかかわらず、抽象的でピンとこない「アウラ」「花」という概念は、それらを重ねてみることによって俄にくっきりとしてくるように思える。少なくとも、それを捉えようとする思考において、こうした方法が有効であることは確かである。
だがさらに、こうして語られる世阿弥の「花」が、やはり植物の「花」の類比によって語られていることを忘れてはならない。植物としての「花」と能舞台における「花」は、単に断絶しているわけではなく、一連の論理の中で捉えられている。「花」は「アウラ」であり「芸術作品」であり「本」である。そしてやはり「自然に咲いている花」でもある。
「花のいざない」の前半部、植物の「花をめづる心」から、日本人の自然観を読み取って、それを「水の東西」と読み比べることにはそれほどの実りはなさそうだと先ほど述べたが、後半の能舞台における「花」のありかたを捉えようとしたとき、再び「水の東西」との「読み比べ」の可能性が浮上してくる。
こうして、「花のいざない」を読むことによって、ここまでに読んできた「絵はすべての人の創るもの」「旅する本」「水の東西」「『間』の感覚」「『映像体験』の現在」までを一つらなりに捉えることが可能なのである。
驚くべきことではないだろうか?
だがこの二つの文章は、読み比べ、参照しあうことでこそ、その最も抽象的で、なおかつそれぞれの文章の中心的な概念について理解できる、取り合わせの妙をなしているのである。
「花のいざない」は、含みの多い言い回しが多く、一読して何を言っているのかわかりにくい部分の残る文章である。本当なら、何度も読み返して、体に馴染ませる必要のある文章である。
だがここではやはり「読み比べ」というメソッドが、この文章を読むことにどのような効果を発揮するか、という点から論じたい。
例えば導入部においては、先に触れた「『間』の感覚」の「花」を題材にした一節が対応することに触れてもよい。
洋の東西を問わず、太古の昔から人間の心には、花に寄せる、ある感性のようなものが持ち続けられてきたのではなかろうか。は、「『間』の感覚」の
日本人は自然の美しさを愛する民族としてよく知られているが、西欧世界においてもたとえば華麗な花の美を愛好することは(…)明らかである。とよく似ている。そしてその差異を語ることが中心的なテーマとなる「『間』の感覚」に比べて「花のいざない」では東西の対比は強く表面化しないものの、筆者の、東西の差異に対する認識が、おそらく無意識に表出している記述もないわけではない。例えば次のような一節。
自然と協調して生きるにせよ、自然と闘い、征服しつつ生きるにせよむろん前者が「東洋」で後者が「西洋」である。
だが「花のいざない」を「日本人の自然観」といった主題によって、「水の東西」などと「読み比べ」ることにはそれほどの実りはないように思える。共通するのは「自然への親和性」くらいのありきたりの日本人論に過ぎないからである。
「花のいざない」は、最初の1ページを過ぎると早々に、話題の中心が植物の「花」から世阿弥の「花」論に移ってしまう。問題はここからだ。この、高校生にはきわめて捉えにくいであろう「花」という概念をどう考えさせるか。
「花のいざない」は難しい。平易な語り口であるにもかかわらず、結局のところ何を言っている文章なのかピンとこない(この感じは内山節に似ている)。これは、この文章の「仮想敵」がはっきりしないことに因る。文章は、それについて考えたことのない人か、反対する人に対して述べられたものだ。だが「花のいざない」は、そうした対象とする読み手が想定しにくく、どんな考え方に対置されるような考え方が提示されているのかが把握しにくいのである。「対比」を読み取ることが読解のための強力なメソッドとなるように、「対比(対立)」を形成しない言説は理解するのが難しい。
そこで先述の、文章のテーマをまず疑問形で表現してみる、という方法を用いてみる。「『花のいざない』とは何か?」が安直な変換であるが、これはだたちに「『花』とは何か?」「誰をいざなっているのか?」などに変形できるから、こうして問題が明確に意識されれば筆者の主張をどういった方向で捉えればいいかが考えやすくなってくる。問題となる「花」とは、世阿弥の「花」論における「花」である。この「花」とは何だろう?
端的に「本文ではどう説明されているか」と聞く。「『花』はどう定義づけられているか」などと言い換えもする。本文から、この問いに対応する部分を探させるのである。
本文では「すなわち演技者の肉体を通して発顕するあらゆる魅力」という定義が最初になされている(しばらく後で「舞台での生き方、舞台での美しさの現れ」と表現されているのもほぼ同じ定義だ)。ここからが植物としての「花」ではなく、能楽における「花」のことが話題になっているのだ、と確認して先を読み進む。
次に「しかし」と逆接によって再定義されるのは「観客が反応するもののこと」という概念である。「花」とは、舞台上にあって役者が発顕しているにもかかわらず、それは「観客」の「反応」において捉えられるというのである。
この構図は見覚えがある。すなわち「絵はすべての人の創るもの」や「旅する本」で作者が提示して見せた思想である。「花のいざない」と「絵は…」の頁を指定して共通する表現を探させると、生徒はすぐに「十人(いれば)十色」という表現を見つける。
一枚の絵を十人が見た場合、その十人の心の中に映る絵の姿は、それぞれ全く異なった十だけのイメージになって浮かんでいるとみて差し支えありません。…同じように好きだといっても十人十色、その好き方はまたさまざまです。(「絵はすべての人の創るもの」)
だが、いかに単純な「花」にしても、観客は種々雑多、十人いれば十色のものなのだ。(「花のいざない」)舞台に咲く「花」が観客によってそれぞれ別なものであるように、「絵」の価値はそれを見る者が「創るもの」だと岡本太郎は言う。ここから、「花のいざない」の「花」を、「絵はすべての人の創るもの」で語られる「芸術作品」との類比から捉えることができる。
それ(芸術作品)は、見る人数だけ無数の作品となって、それぞれの心の中で描き上げられたことになります。(「絵は」)
一つの花を誰かが見ている。見る人の心々にさまざまな思いが生まれる。(…)花によってその色香はまちまち、見る人の描く夢もまちまちなのだ。(…)観客一人一人がさまざまなイメージを育み持てる、ひともとの花…(「花の」)つまり、岡本太郎は芸術家として、芸術の裡に「花」を見出すのは鑑賞者自身であると説いているのに対し、観世寿夫は役者としての立場から、観客と「一期一会」の出会い方をする覚悟を述べているのである。
だが、まだ十分とは言えない。「花」が「花」であるための条件である「自然」=「偶然でもあり必然でもあること」という表現は、難しい言葉を使っているわけでもないのに、ちっとも掴めている手応えが得られない。精読を通して少しずつ実感させていく必要のありそうな概念なのだが、本文を繰り返し読み込むことがそれをどれほど可能にするかは心許ない。
「旅する本」で「私」がそれぞれの年代で出会った「本」をそのような「本」としてあらしめた「偶然・必然」を考えるとき、ここでの「本」はそれぞれの「私」にとっての「花」だったのだ、などと言えなくもない。
だがこれも、生徒に対して問いを発して考えさせるには、恐らく掴み所がない。語って聞かせれば、感じる生徒は何事かを感じるかもしれないが、多くの生徒にはまるでピンとこないはずだ。
そこでさらに、「『映像体験』の現在」との「読み比べ」を試みる。
「『映像体験』の現在」と「花のいざない」を「読み比べ」せよ、というのは、もちろんかなり高度な思考を必要とする課題である。「水の東西」と「『間』の感覚」のように、その対比構造が共通するとか、上のように題材が共通する、といった、並置するためのとっかかりがみつからない。そもそも話題も語り口もあまりに違いすぎて、それらを「読み比べ」ようという発想が浮かぶとも思えない(編集部がそうであるように)。
したがって生徒が考えるための誘導的なはたらきかけをする必要もある。たとえば、それぞれの筆者の主張を端的にまとめてごらん、と言う。もちろん「筆者の主張を端的にまとめる」などという操作自体が高度である。
それでも「文中からそのまま抜き出せ」と言い添えれば、「花のいざない」では、次の一節などが挙げられるかもしれない。
自然に咲いている花みたいに、舞台にいたい一方「『映像体験』の現在」については、先ほどの、本文中の「抽象的でわかりにくい」一節がそのまま最終的に「筆者の主張」である。例えば次の一節。
『アウラ』の輝きに対する繊細な感性を保持し続けるこんなふうに必要な誘導を可能な限り織り込んで、そこにたどり着く生徒が現れるのを期待していると、そうした直観に至る者は、きっと表れる。
つまり「花」とは「アウラ」のことなのだ。
重要なのは、こうした結論を「正解」のように教えることではなく、こうした発想に生徒自身がたどりつくことであり、そうした発想に基づいて本文を読むことである。あるいはそうした発想に共感しないものに(共感しているものにすら)どう説明するかである。
この直観を確かめるために、とにかく本文を読むように指示する。
確かめてみよう。こうした直観はどのように裏付けられるのか?
「『映像体験』の現在」によれば、「アウラ」とは「自分にとってかけがえなく貴重な視覚的映像」が「まとって」いるものである。一方の「花のいざない」では「花」とは「観客が反応するもののこと」である。これは前述の通り「絵はすべての人の創るもの」における「芸術作品」、「旅する本」における「本」の捉え方と同じものである。「失恋の直後に見た夕焼けの海」というのは、その「夕焼けの海」の光景が単に「アウラ」を発しているというのではなく、それを見た「失恋の直後」であった自分との「一期一会」においてそれが「アウラ」をまとったということである。「イメージがいくらでも反復可能・再現可能になってきたとき、映像から失われていったのはこの『アウラ』である。」ということは、翻して言えば「アウラ」をまとったイメージは「反復不可能・再現不可能・複製不可能」であるということであり、これはつまり、その場限りでの観客との出会いにおいて「偶然・必然」に舞台上に生まれるものだということである。「夕焼けの海」に「アウラ」があったのは、それが「失恋の直後」であったという「偶然・必然」に拠っているのである。
これはまさしく、「観客」の「反応」において捉えられる、「偶然でもあり必然でもある」ような「花」そのものではないか。
つまり「『映像体験』の現在」で松浦が主張するのは、イメージの氾濫の中で「花」を見いだす感性を失わないでいたい、ということであり、「花のいざない」で観世が述べているのは、「アウラ」を発する存在として舞台に立ちたいということなのである。「アウラ」と「花」はほとんど同一の概念として右の文で交換可能である。
この、それぞれの文章の中で最も中心的であるにもかかわらず、抽象的でピンとこない「アウラ」「花」という概念は、それらを重ねてみることによって俄にくっきりとしてくるように思える。少なくとも、それを捉えようとする思考において、こうした方法が有効であることは確かである。
だがさらに、こうして語られる世阿弥の「花」が、やはり植物の「花」の類比によって語られていることを忘れてはならない。植物としての「花」と能舞台における「花」は、単に断絶しているわけではなく、一連の論理の中で捉えられている。「花」は「アウラ」であり「芸術作品」であり「本」である。そしてやはり「自然に咲いている花」でもある。
「花のいざない」の前半部、植物の「花をめづる心」から、日本人の自然観を読み取って、それを「水の東西」と読み比べることにはそれほどの実りはなさそうだと先ほど述べたが、後半の能舞台における「花」のありかたを捉えようとしたとき、再び「水の東西」との「読み比べ」の可能性が浮上してくる。
自然の花は、見せるために咲いているのではない。(…)役者も見せようと思って舞台に上がってはだめだ。という「花のいざない」の一節は、「水の東西」の
日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造型する対象ではなかったと重なってくる。つまり「見せようと思」うのが、水を「造形する」、西洋流の「噴水」なのである。
「自然」は動くものなのだ。宇宙の法則に従って動き、しかも予見できない。無常観もこれにつながる。常ならず流動する、その動き去り、動き来たるところに、存在の真理を観ずる。(「花の」)は、
水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。(…)それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。(「水の」)と重なる。
演者は黙ってじっと座り、地謡が主人公について(…)語るのである。舞台中央に正面を向いて、ただ黙って動かずにいるそのかなり長い時間、いったいどんな心持ちで、どう演じようとして座っているのかと、能の役者は時々きかれることがある(「花の」)。と語られる能役者の佇まいは
見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも引き立てるだけである。と語られる「鹿おどし」のごとしである。
こうして、「花のいざない」を読むことによって、ここまでに読んできた「絵はすべての人の創るもの」「旅する本」「水の東西」「『間』の感覚」「『映像体験』の現在」までを一つらなりに捉えることが可能なのである。
驚くべきことではないだろうか?
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