2018年6月22日金曜日

『羅生門』-映画としてすごいとドラマとしてすごいは別

 黒澤明でもとりわけ有名なこの『羅生門』が、明らかに芥川を思い起こさせる「羅生門」を題名に掲げながら、内容が「藪の中」だということは知っていたが、なるほど、豪雨の中の荒廃した羅生門は、それだけで画になる。そこにたまたま雨宿りすることになった男たちが、ある事件の話を始める。こうした舞台設定がなければ、ある事件の関係者の話を次々に聞くという「藪の中」の話の展開を映像化することは難しかったかもしれない。
 それに「藪の中」を翻訳してしまうよりは「羅生門」そのまま「Rashomon」の方が映像のインパクトとともに外国人の印象には残りやすいだろうから、ヴェネチア映画祭グランプリ受賞につながる結果的に成功だったんだろう。
 だがしかし当の「羅生門」がまるで物語にかかわらないというこの、前回の『SAW』詐欺のようなことになってしまうことについて、どう納得すればいいのか。
 にもかかわらず、映画の『羅生門』のWikipediaの紹介を見ると「人間のエゴイズムを鋭く追及した。」だそうだから、図らずも「羅生門」になってしまっている。もちろん小説の「羅生門」がエゴイズムなど描いていないのは間違いないが、なるほど「藪の中」ならエゴイズムと言えないこともない。
 芥川の「藪の中」そのものの評価については、筆者には柄谷行人の評の影響が抜きがたく、どうもシニカルになってしまう。もちろん画面構成などは映画的魅力に満ち溢れているし、心理描写もうまいには違いないのだが、なにかすごい人間ドラマを見せられたという気がしない。登場人物がそれぞれに芝居がかり過ぎていてどうも乗れない。
 その挙げ句に最後にとってつけたような救いを見せるのが「とってつけたような」と感じられてしまうところが、やはりドラマとして成功しているとは言い難いと思うのだが。

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