2022年6月30日木曜日

『響 -HIBIKI-』-賛否

 賛否両論あろうかと思う。原作ファンからしてもそうだし、原作に対しても。

 だが平手の演技はやはり観るものの感情を揺らす力があるのだった。そこに感ずるものがないという人はそれはそれでしょうがないのだろうとも思う。そうだとすると、演技が棒だとか、主人公が不愉快だとか非現実的だとかいう批判は当然ある。

 だが基本的には無表情でいる平手が笑顔になるときの落差は、やはり観ていて胸を打たれる。それが演技としても演出としてもあざといし凡庸であることがわかっていて、なおかつ、だ。

 天才の前の秀才の悲しみは『アマデウス』以来のテーマだが、小栗旬もアヤカ・ウィルソンも柳楽優弥も、それぞれに的確に表現していて、そうしたドラマは充分に描かれていた。


 天才はともかく、もうひとつ、純粋でストレートな論理を社会の慣習もうひとつ押し通すことの是非、という原作由来のテーマの方が当然大きな賛否ある問題ではある。天才ならば何をしても許されるのか、なぜ謝らないのか、といった批判が原作にも映画にも寄せられる。もちろんわかる。

 一方でそれが荒唐無稽であるほど痛快で面白いので、それが原作のそもそもの魅力ではあった。そんなことしちゃう!?

 こういうのを「俺TUEEE系」というだと今回初めて知った。読者のある種のヒーロー願望を満たしてくれる主人公の無敵感。

 だが単純にそう批判するにはもうちょっと微妙な描き方がされている。主人公の振る舞いは、単に傍若無人というだけでなく、筋の通し方が極端にストレートであるという形で描かれている。

 例えば、それでも暴力が許されるわけではない、といった批判ができるかもしれない。だがそもそも彼女は言葉の暴力と肉体の暴力はどう違うのか、といった問いかけをしているのだ。彼女の傍若無人に不快を覚える「社会」の方が、一度はその固定観念に揺さぶりをかけるべきなのだ。暴力こそ用いないが河野裕の「階段島」シリーズはそうした対立がテーマであり、その終わり方は切なかった。

 これはまったく、筆者自身の現実の問題でもある。社会的コンプライアンスと理想・理念のずれをどう納得するか、という問題。

 例えば「上司の命令は絶対なのだ」「違法行為は悪である」というのが大抵の場合には問題ないとしても、場合に拠らず絶対の正義であるように言い募るのは勿論間違っている。上司は自己保身のために、社会的に(あるいは時には組織的に出さえ)好ましくない命令をすることもあるだろうし、法令が現実に合わないこともある。「破っていい」と無条件に言っているわけではなく、自分で考えるべき、と言っているだけだ。

 だがもちろん、その是非を個人が判断すべきではなく、例えば法律が現実に合わなければ法改正をすべきなのであって、改正されるまでは遵法は絶対正義なのだ、という意見もあるだろう。難しい。

 『響』というのはそういったあたりをもやもやと考えさせる作品なのだった。


 ところで、天才と称される彼女の小説がどのようなものか、読者にはまるでわからないではないか、という批判があるが、これは無理ないちゃもんだ。そんなものを体現する文章がマンガの一部として描かれる必要はない。『ガラスの仮面』のマヤの演技が凄いことは観客の反応で描けばいいのだし、音楽マンガにおける演奏の凄さもそうだ。

 響の小説が読み手の心を揺さぶるというのは、まあそういうことにしておこうと思えば良い。


 ところで映画中にちらと映り込んだ教科書の筆者の一人であるというのは、親近感を抱かせはしたが、それで映画の評価を高くしているわけでは決してない。


2022年6月29日水曜日

『アメリカン・スナイパー』-戦場と日常と

 イラク戦争で心を病む英雄というと『ハート・ロッカー』だが、実際印象は近い。クリント・イーストウッドは無論手堅いが、爆弾処理ほどの緊迫感が持続するわけでもないから、前半は淡々と進んで退屈でもあった。

 だが後半、派兵が繰り返される中で戦場と日常に引き裂かれていく描写が増えて、ドラマが輪郭を露わにする。戦争アクションとしても見られないわけではないが、やはり問題はそこなのだ。

 いや、戦争アクションとしても見応えはあった。スナイパー同士の攻防戦は相当に緊張感があった。クリント・イーストウッドとしてはやりすぎじゃないの、と思うくらいには。

 そしてドラマ部分。

 戦場の戦況が難しい局面で、唐突に帰国後の場面に切り替わる。次の派兵に反対する家族とのやりとりが描かれて突然戦場に切り替わる。カットの繋ぎ方の非連続感が、引き裂かれた彼の生の感覚を想像させる。

 そして最後の場面、ボランティアで帰国兵の援助をする活動のあと、どうみても不穏な空気で夫婦の別れを描き、帰国兵の表情を映し、字幕でその帰国兵に主人公が殺されたことを観客に報せる。

 カットの長さやドア越しの画角の不自然さによって観客の不安を煽る演出のうまさは職人監督の冴えだ。

 そして、愛国にも戦争反対にも簡単には偏らない人間の描き方が、安い日本のドラマと、何という落差か。

2022年6月28日火曜日

2022年第1クール(1-3)のアニメ

もう第2クールが終わろうとしているのだが、ようやく観終わって。


『鬼滅の刃 遊郭編』

 昨年の「無限列車編」に続いて。

 昨年から放送が続いて、4半期の、いわゆる「クール」の切れ目とズレた放送期間で終了した。

 アクションシーンは時々良くできているし、CGと手書きの絵柄の合成は手間がかかっていると思わせるが、全体としてはアニメーションの楽しさで観るものでもないと思う。

 そうなるとドラマだが、兄弟鬼のドラマは悪くないし、宇髄天元のキャラクターも悪くなかったが、煉󠄁獄杏寿郎の魅力で引っ張った「無限列車編」には及ばなかった。


『ルパン三世 PART6』

 昨年第4クールから年をまたいで2クール。アニメ化50周年記念というのだが、残念ながら動画も演出もレベルは低く、面白くない。一方で脚本に湊かなえや芦辺拓ら、著名な小説家を起用した回もあるのだが、それでも面白くならない。映像作品でも、脚本が重要なことは間違いないのだが、それだけでは良い作品が成立したりはしないのだ。

 わずかに押井守のオリジナル脚本の2回だけは、幻の押井『ルパン』を惜しむ感慨とともに、奇妙な味わいが一見の価値があった。


『その着せ替え人形は恋をする』

 clover worksは相変わらずの良い仕事をしている。『ホリミヤ』以来の可愛い青春模様が毎回楽しくて、録画したものを溜めずに見られた。


『電脳コイル』

 監督の磯光雄の新作公開にあわせて全話再放送されたので、15年振りに観た。

 当時もそう思ったのだろうが、作画レベルが高いまま26話ずっと維持されているのはすごい。デッサンだけでなく、カメラワークからカット割り、編集まで、映画的に優れた演出がされていて、見事なアニメーションだとあらためて驚く。

 かつ、登場人物たちがそれぞれに魅力的なキャラクターとして描き込まれているし、ユーモアのあるくすぐりはほとんどジブリ並みだ。

 その上に、今観ても新鮮なAR描写と、物語的に比較的独立して完結した回の味わいまで、あらゆる要素が驚嘆すべき作品なのだとあらためて思い知った。

 そうした要素だけでなく、本筋であるジュブナイルとしての高揚感がこれほど達成されているのも見事。


『殺し愛』

 過去が明らかになるエピソードがなかなか感動的だったのは、現在編の主人公のツンデレの裏にある痛みが迫ってくるからだが、肝心の現在編はまだまったく何も解決しておらず、これで1クール終わってしまって、今後続編があるのやら。それほど面白かったとも言えないので難しそうではある。


『錆喰いビスコ』

 作画は1クール最後まで崩れなかった。マンガ原作ではなくライトノベル原作を映像化した作品として意欲作ではある。

 が、面白くはなかった。面白さとして何を受け取ればいいのかわからなかった。

 世界設定としては戦争に使われた兵器「テツジン」によって錆まみれに世界で、キノコ守と呼ばれる主人公たちがはやすキノコは忌み嫌われていたが、実はそのキノコは錆を浄化するはたらきをしていたのだった…、といえばまるで『風の谷のナウシカ』ではないか。おまけに復活した「テツジン」は巨神兵なのだった。

 だが巨神兵があまりに圧倒的だったのに比べて、こちらの「テツジン」が同様に巨大なのにも関わらず、主人公たちは直接生身で闘ってしまう。そうするともう例の「スーパーマン映画の不可能性」なのだ。なんでもありになってしまって、緊迫感がない。


『平家物語』

 山田尚子と吉田玲子は『リズの青い鳥』などでも、手堅いが面白いとも言えないコンビではある。キャラクターデザイン原案に高野文子の名前を見つけて驚愕するが、それがアニメの面白さを保証するというものでもない。

 録りためてまとめて観ることになる。毎回が楽しいというわけではない。

 アニメーションとしては、作画も美術も、毎回質が高くて舌を巻く。だが、物語の進行が早すぎて、何が起こっているのかわからない。もともと「平家物語」に通じていて、各人物が元々どういうふうに描かれているかを知っていて、今状況がどうなっているかを把握して、ようやく楽しめるのかもしれないが、最後近くまで、高度なアニメに感嘆しつつも退屈で苦痛だった。

 だが最後の2回ほどで、ようやくじっくり描くことが構成上許される展開になって、『平家物語』の主題である現世のはかなさと、それを語り継ぐことで愛おしむというこの作品の主題がしみじみと感じられるようになって、1クールのアニメとして大団円。

2022年6月25日土曜日

『フロッグ』-複線の伏線

 オカルトなのかサイコサスペンスなのかわからないが、たぶんサイコサスペンスでいいんだろうな、と思いつつ、あちこちの伏線がどう回収できるのか訝っていると、いったんクライマックス風の緊迫した場面で止めて、裏設定の種明かしに進む。だがこれも容易には読める展開にならない。

 とにかく二転三転する展開に驚嘆する。

 後味がいまいち良くないというのと、無理のある展開がないでもないのだが、それでもよく考えられている脚本に感心した。複線のストーリーを想定しておいて、それぞれを伏線として小出しにしながら、どこがどう噛み合っていくのかを徐々に明らかにする。

 どうにもこういうお話を高く評価したくなる。 良い映画だった。

2022年6月15日水曜日

『OLD』-ある種のSSS

 いつの間にかシャマランの新作がアマプラに上がっている。『スプリット』をとばして観る。

 これも『VISIT』以来の低予算映画だった。『Zoom』ほどとは言わないが『メッセージ』などと比べて安上がりにできているのが見ていてわかる。

 だがもちろん脚本だ。演技は『Zoom』でさえ充分観られるレベルだ。シャマラン映画となればもちろんそこは問題なく、演出や編集も手堅い。やはり脚本だ。

 異様なスピードで老化するビーチ、という設定がどこから発想されたか全く謎だが、それがどこに決着するのやらちっともわからない。妄想・集団催眠オチなども予想の選択肢だが、そんなことはなく、そういうことが起こったとしたら、で話が進む。となればこれはビーチを舞台にしたSSSだ。

 そういう意味ではよくできていた。設定の中でいろいろなイベントが起こり、人生のメタファーのような(娘談)展開になんだかしみじみしたりもし、最後はそれなりのハッピーエンドに救われつつも取り返しのつかない喪失感もある。

 充分に面白かった。

2022年6月11日土曜日

『メッセージ』-よくできたSFではあるが

 冒頭の「娘を亡くした」エピソードがどう本筋に絡んでくるのかわからずに見続ける。

 ファーストコンタクトものとしてはむろんよくできている。宇宙船らしき物体のデザインにしろ、コミュニケーションのとりかたにしろ。ただしエイリアンが古式ゆかしいタコなのはどういうセンスなんだか。まあ人型ってわけにもいかないということか? それにしても相変わらずエイリアンに服を着せない。

 問題はコミュニケーションだ。コミュニケーションこそが地球来訪の目的であり、コミュニケーションこそが人類にとっての恩恵だという結論になる展開はSFとしてのセンスオブワンダーに満ちていて良い。認識は言語に拠っている、という中心的な命題も国語教師好みではある。それはまあ原作の価値なんだろうが。

 邦題の「メッセージ」は宇宙人から地球人類に対してなのだろうと思っていると、これは地球人から宇宙人に対してでもあり、人間同士の「メッセージ」でもあり、ということがわかるところも伏線回収なのだが、原題の「arrival」(到来)もまた同様のダブルミーニングなのだろうか。宇宙人の地球到来でもあるが、時間が顕現する、という意味でもあるんじゃなかろうか。

 

 途中の展開のハラハラにしろ伏線回収にしろ、終わりの切なさの余韻にしろ、大いに良い映画だったが、いくつか不満も。

 中国を始めとする、攻撃すべき論のばかばかしさが戯画的に感じる。そういう攻撃的な人たちがいるにしても、科学力の差が圧倒的である以上、国として攻撃すべきという決定がなされる説得力がない。

 主人公カップルの一方、「理論物理学者」が専門性をまるで活かさないまま計画に参加しているのはどういうわけか。むしろヒロインの言語学的アプローチの手伝いしかしていない。

 問題のコミュニケーションが容易に過ぎる。最初苦労しているようにも描かれているが、その後たちまち成立してしまう。言語学的に翻訳の難しさが語られる場面があるにもかかわらず、それがどう乗り越えられたのかわからない。それは各国のそれぞれの言語的アプローチを照らし合わせ、かつAIによるディープラーニングを組み合わせて、ようやく解明されていく問題ではないか。それなのにそういった描写もなく、主人公が単独で解明したかのような描き方になっている。

 アンバランスな安っぽさが同居するのは不思議。

2022年6月9日木曜日

『17歳の帝国』-浅い

 NHKの土曜ドラマは、古くは山田太一作品で馴染みがあるが、最近は『今ここにある危機とぼくの好感度について』が面白かった。「ドラマ10」枠の『オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ』も驚くほど面白く、どうみても未完だったので続編の制作が決まったのは当然という気がする。

 さて本作は吉田玲子脚本ということで期待して観始めた。最初に名前を覚えたのは『デジモン・アドベンチャー』の細田守作品で、その後も、飛び抜けて面白いお話を作るとはいわないが、手堅い作品の脚本をいくつも書いている。

 AIに政治を任せたらどうなるのか、というのは最近関心を呼んでいる話題の一つだ。『ターミネーター』以来の、ロボットの反乱は、最近のAIの発達でもう一つ段階を超えた思考実験になりつつある。もちろん「スカイネット」的な反乱の予感をはらんだ設定で、そこに、AIが選んだ17祭の総理大臣という設定が、何か起こりそうな期待をもたせた。

 で、全5回を観ながら、どんどん期待が失われていき、最終的に失望で終わった。

 途中で不快を感じたのは、主人公の女子高生閣僚が、閣僚であることの必然性をまるで感じさせないまま、つまらない嫉妬から感情的に振る舞うことだった。あまりにも安手のドラマだった。本筋の思考実験が深まっていないのに、そっちで観客の感情移入を誘おうとする? しかもシンジ君的な子供っぽさで。

 そして最後まで、AIに政治をさせることがどういうことなのかはわからないままだった。例えば市議会を廃止するとか市役所の職員をリストラするとかいうことはAIが判断しなくてもそれがいいことはわかっている。だから脚本に書けるのだ。となれば、それが現実に起こるとしたら、誰か、人間の判断では実行しにくいことを「AIの判断だから」という口実で実行できたというだけのことだ。

 一方で、それはしがらみのない純粋な17歳の理想主義が実行させているようにも描かれている。だが結局それはAIが決めたことだというのと同じだ。

 思考実験としては、効率主義や理想主義に特化した政策が、実際にどのような想定外の弊害を生むのかを描かねばならないはずだ。だが描かれるのは人々の情緒的な反発だけ。


 『マリオ~AIのゆくえ~』がAIについてろくに考えていないらしいのも残念だったが、本作も同様に浅く、別に何かドラマ的な面白さがあるかと言えばそうでもない。

 こうした問題がアニメ脚本家の手に余ることは明白で、なぜそうした問題の専門家を脚本チームに加えて、構想を練らないのか不思議だ。やっているのか?


2022年6月4日土曜日

『Zoom』-層の厚さ

 続けてホラーを。

 コロナ禍で普及したZoomを使ったホラーという設定は、ありきたりとはいえ悪くない。一種のPOVでもある。低予算で済むわりに、アイデア次第では面白くもできそうだ。

 PCの画面越しという限定された視野だからこそ、そこで起こることに想像力をかきたてる。そして画面の中で起こる怪異に、高度に精密な特殊メイクの技術を必要としない。怖い物を直接見せるよりも観客の想像力で補わせるというホラーの基本を抑えている。


 だがまあ結局のところ、そこそこ、だった。起こるイベントはポルターガイストなどの見えない霊の起こす怪異だったり、参加者の錯乱だったり。突然ビックリ系が頻発するのは安いホラーの定番だとも言える。もうちょっと新奇な怪奇現象を起こすか、さらに心理的な恐怖を煽るイベントの起こし方や描写を工夫してくれたら、と思った。

 それにしても、こういう低予算映画でも、役者たちのうまさ、自然さには脱帽する。アメリカの演劇界の層の厚さ。