賛否両論あろうかと思う。原作ファンからしてもそうだし、原作に対しても。
だが平手の演技はやはり観るものの感情を揺らす力があるのだった。そこに感ずるものがないという人はそれはそれでしょうがないのだろうとも思う。そうだとすると、演技が棒だとか、主人公が不愉快だとか非現実的だとかいう批判は当然ある。
だが基本的には無表情でいる平手が笑顔になるときの落差は、やはり観ていて胸を打たれる。それが演技としても演出としてもあざといし凡庸であることがわかっていて、なおかつ、だ。
天才の前の秀才の悲しみは『アマデウス』以来のテーマだが、小栗旬もアヤカ・ウィルソンも柳楽優弥も、それぞれに的確に表現していて、そうしたドラマは充分に描かれていた。
天才はともかく、もうひとつ、純粋でストレートな論理を社会の慣習もうひとつ押し通すことの是非、という原作由来のテーマの方が当然大きな賛否ある問題ではある。天才ならば何をしても許されるのか、なぜ謝らないのか、といった批判が原作にも映画にも寄せられる。もちろんわかる。
一方でそれが荒唐無稽であるほど痛快で面白いので、それが原作のそもそもの魅力ではあった。そんなことしちゃう!?
こういうのを「俺TUEEE系」というだと今回初めて知った。読者のある種のヒーロー願望を満たしてくれる主人公の無敵感。
だが単純にそう批判するにはもうちょっと微妙な描き方がされている。主人公の振る舞いは、単に傍若無人というだけでなく、筋の通し方が極端にストレートであるという形で描かれている。
例えば、それでも暴力が許されるわけではない、といった批判ができるかもしれない。だがそもそも彼女は言葉の暴力と肉体の暴力はどう違うのか、といった問いかけをしているのだ。彼女の傍若無人に不快を覚える「社会」の方が、一度はその固定観念に揺さぶりをかけるべきなのだ。暴力こそ用いないが河野裕の「階段島」シリーズはそうした対立がテーマであり、その終わり方は切なかった。
これはまったく、筆者自身の現実の問題でもある。社会的コンプライアンスと理想・理念のずれをどう納得するか、という問題。
例えば「上司の命令は絶対なのだ」「違法行為は悪である」というのが大抵の場合には問題ないとしても、場合に拠らず絶対の正義であるように言い募るのは勿論間違っている。上司は自己保身のために、社会的に(あるいは時には組織的に出さえ)好ましくない命令をすることもあるだろうし、法令が現実に合わないこともある。「破っていい」と無条件に言っているわけではなく、自分で考えるべき、と言っているだけだ。
だがもちろん、その是非を個人が判断すべきではなく、例えば法律が現実に合わなければ法改正をすべきなのであって、改正されるまでは遵法は絶対正義なのだ、という意見もあるだろう。難しい。
『響』というのはそういったあたりをもやもやと考えさせる作品なのだった。
ところで、天才と称される彼女の小説がどのようなものか、読者にはまるでわからないではないか、という批判があるが、これは無理ないちゃもんだ。そんなものを体現する文章がマンガの一部として描かれる必要はない。『ガラスの仮面』のマヤの演技が凄いことは観客の反応で描けばいいのだし、音楽マンガにおける演奏の凄さもそうだ。
響の小説が読み手の心を揺さぶるというのは、まあそういうことにしておこうと思えば良い。
ところで映画中にちらと映り込んだ教科書の筆者の一人であるというのは、親近感を抱かせはしたが、それで映画の評価を高くしているわけでは決してない。