とある縁で伊東英朗監督によるドキュメンタリー映画を観る機会があって。
アメリカの原爆実験によって、アメリカ国民が被害を受けたという話はいわゆるアトミック・ソルジャーでも聞くが、地上で実験をやればそりゃ一般市民にも被害が及ばないはずはないよなあ、というのが素直な感想ではある。
まずもって日本への原爆投下も、戦略上の選択と言うよりは人体実験だったのだという説はいかにもありそうな話だが(そしてそれは公式には認められない「陰謀論」でもある)、それを自国の兵士に対しても行ってしまうところが、為政者の思考傾向の恐ろしいところだ。それなら白人から見た黄色人種に人体実験をすることを忌避したりはしないだろうことは無理なく信じられる。
だがこれが一般市民に対してもそうなのかというと、ちょっとためらわれる。となると、為政者・科学者からしても、まさかそんなことになるとは、という結果だったのか、想定内だったのか。これは限りなくグラデーション的な怪しさではある。想定はされていたが、因果関係を認めなければとか想定外だったとか言い逃れができるという見通しでの実験優先だったのか。
本当に知りたいのはそのあたりの「感触」なのだが、これをドキュメンタリーとして描くのは難しいことはよくわかる。
それよりもこの問題を追及する市民運動家が、ケネディからの電話を受けるために二階に上がっている間に、ミートローフが冷めてしまったと語る、今や老齢の息子の話が妙に印象的ではある。
この会の主催の一人である指田和さんの絵本を、ほぼそのまま動画にした、同監督による『ヒロシマ きえた家族』というショートムービーも、原爆「問題」を大上段に語るわけではなく、原爆で被害を受けて「消えた」一家族を残された写真で追うだけなのだが、そうした描き方でこそ「問題」が捉えられるということもある。これは徹底的に日常を描くことで戦争を描いた『この地上の片隅に』の手法でもある。
原爆開発による世界情勢の変化という大問題を、兵士や市民の生活や健康といった日常から捉える目を再認識させてくれた2本。
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