2025年9月22日月曜日

『僕達はまだその星の校則を知らない』ー愛おしい

 学校ドラマといえば今年に入って『御上先生』にがっかりしたが、これはどうか。

 最初のうち、登場人物がカメラ目線で状況を説明したりするメタな演出などにハシリ、これはどうなの、と思ったが、全校集会で壇上に上がった生徒会長(男子)がスカートをはいていて、翌日から休み続けるという謎の展開で見せるのは、これはなかなかうまいぞと思わされた。結局良い話におさまって良かったと思ったのだが、この1話、終盤で見直したら大感動してしまった。表現されているのは「友情」の一つのありようなのだが、これを安っぽかったり暑苦しかったりせずに、切実で抑制が効いていて深慮に支えられながら純真だと感じさせる脚本の力と役者陣の仕事に敬意を表したい。

 その後も、とりわけ若手俳優陣の熱演に支えられて感動的なエピソードが描かれるのは『最高の教師』以来だ。

 学校という空間を好きになれない子供はいる、という至極真っ当な事実を誠実に描いていて、一方でいたずらに学校を悪者にすることなく、といって青春の幻想にまみれた聖域として描くでもない。『御上先生』のように、教育問題を描くと振りかぶりながら完全に肩すかしになっているドラマと違って、とても愛おしいドラマだった。


2025年9月21日日曜日

『何者』-いたい

 どこでやら高評価だったので。

 原作は途中まで読んだ覚えがあるが、映画を観ながらも、まったく記憶がよみがえらなかった。一方で就職活動をする大学生の話、という枠組みからは、全く意外性のない展開ではある。

 展開はともかく、語り口は実にうまい。就職活動に奔る周囲の大学生を見下しながら、自分は何か価値のあることをやろうとしていると思っている登場人物の語ることなど、実にそれらしい。これは明らかに言葉の力のあることがわかる芸で、おそらく原作の小説からもってきたものだろう。どういう言葉遣いに、バランスの悪い過剰な自意識が表れるか、それをいかにもな例で示してみせる。

 就職活動に対する取り組み方に、それぞれの価値観が表れる。実際はどういうふうに合否が決まるのかはもうちょっと不明なはずだが、物語では必然性のある形で合否が決まっていく。それがそれぞれの心のどんな波紋を広げていくか、静かなサスペンスに満ちた描写で描かれ、それがいくつかの局面で噴出する。いたい。いわゆるイタい人物ではない誰もが、同様にいたい。それはとてもリアルだ。

2025年9月20日土曜日

『地震のあとで』-モヤモヤ

 村上春樹原作のドラマ。録画してから4話全部を観るまでに半年くらいかかった。

 評価は難しい。画面も音楽も、なんだか高級そうではある。演出の井上剛は『クライマーズハイ』『いだてん』だし、脚本の大江崇允は『ドライブ・マイ・カー』の共同脚本だ。演出が弛緩したところがあるわけではないし、出演陣は岡田将生に堤真一に佐藤浩市と超一流。

 しかしなんともモヤモヤした挙げ句に原作を読んでみた。

 原作もおんなじだった。まったく同じモヤモヤが村上春樹の小説にもある。そういう意味ではとてもよくできた映像化であり、舞台を30年後の現在に移しているからどうだということもなく、多くの人の手を借りて世に出ることの意味があるのやら。

 何がモヤモヤと言って、ひたすらに意味ありげ、なのだ。そして意味は結局確定されない。村上春樹はずっとそうだ。何かを指し示していそうな象徴やらガジェットやら言葉やら展開やら形容やらが、簡単には意味を明らかにしてはくれず、だからといって意味などないのだと棄てておけない実に微妙なバランスでちりばめられている。全編にわたって。

 それを何事かと解釈することが村上春樹の楽しみでもある。ゲーム的に、ということではなく、解釈できないこととできることの間で引き裂かれるコンプレックスに翻弄されることが。

 だがなんというか、現状は、めんどくさい。ゲームにもコンプレックス・ゲームにも。


 さて、とりわけモヤモヤするのは『かえるくん、東京を救う』だ。のんのテレビドラマ出演は喜ばしいが、この設定には大いに疑問がある。まるで『ミミズの戸締まり』ではないか。ということは、同じようにここでも、この設定には納得できない。東京で大地震が起こっていないことは、かえるくんと片桐の死闘のおかげだということになっている。ということは、阪神・淡路や東北では、誰かが仕事をサボったのだ。あるいはミミズが地震を起こすのは人々の悪意の蓄積のせいであるように言われるが、それなら、震災の犠牲者はそれらの悪意の犠牲者なのか。なぜその人々が?

 この話は片桐の選民意識的優越感をくすぐるという意味で、きわめてラノベの心性に似ている。

 いいのか。ノーベル賞候補になろうって人の小説が。

 だが一方で、この作品に引きつけられる人が多いという話も聞く。なぜだ。


『メイキング・オブ・モータウン』-アメリカ現代音楽史

 モータウンレコードについての基礎知識をこの際だから仕入れようと、…などというさもしい期待をはるかに超えて面白い映画だった。

 創始者のベリー・ゴーディが、盟友スモーキー・ロビンソンと、豊富な逸話を面白く語っていくのだが、それだけでなくドキュメンタリー映画としての構成が実に見事だった。歴史を語りつつ、そこに起こる出来事が生き生きと語られていくだけでなく、モータウンレコードの果たした役割がアメリカ現代史として語られる。もちろん現代音楽史でもあるが、人種問題としてのアメリカ現代史だ。

 そして、モータウンの成功がそのシステムにあると語られるところが面白い。ベリー・ゴーディはフォードの自動車工場に勤めていた経験を活かして、音楽制作に、確固たるシステムを構築しようと意図する。利益を追求する効率重視の制作体制。

 だがもちろん、そこに個人の才能が不可欠であることも、同時にいたいほど感じられる。スモーキー・ロビンソンはもちろん、マービン・ゲイにスティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソンといった天才が、しかもとびきりのパフォーマンスで画面に登場する。

 日本の音楽制作では、しばしば、レコード会社対、良い音楽のために、音楽のわからない会社員の硬直した体制と闘うアーティストという構図が語られるが、本作では才能を持った集団が、良い物を作るという目的のためにしのぎを削りつつも集団として力を発揮していく姿が語られ、なおかつそこから飛び出ようとする巨大な才能のありようも語られる。制作が単なる個人の芸術的発露にとどまらない。そうした「場」の力が印象づけられる。

 ドキュメンタリーとしては、ベリー・ゴーディとダイアナ・ロスの恋愛が、危機からのロマンスとして劇的に語られるところも実にうまい。 

 モータウンの曲をライブでやりたくなった。


2025年9月19日金曜日

『真・鮫島事件』-怖さよりカタルシス

 口にしただけで呪われる噂が伝染するというアイデアは『リング』のパクリだが、思えば『リング』はビデオテープを再生するという手間がかかるところが時代だった。そこにネットの普及を前提にしてしまえば、もうパンデミックは避けられない。そのわりには少人数に災厄がふりかかるだけで終わる。

 演出は良い。怖い。ホラーだと思って観ると、にわかに画面の隅々が想像力によって怖さの源泉になる。緊張がとぎれない。ジャンプスケアを使ってくるかどうかわからないので(たぶん使うんだろうとは思って観る)。

 展開はまるで『Zoom』で、これもパクリレベルでほぼ既視感がある。 

 ただ呪いを解くためのアクションを起こす(兄弟に頼んで、部屋の中の展開の外に出る)という展開がオリジナルだが、そこに突然絡む「七つの大罪」は意味不明だし、そこら中で飛び出してくる悪霊は「伽椰子」だし、その末にせっかくはたらいてくれた兄の努力が無駄になるのは誰得なんだ。その絶望感がホラー? いや、怖さよりカタルシスだろ。

 突然、呪いの場所は柏だという設定が語られてびっくりした。


2025年9月18日木曜日

『川を越えた先』-地味なホラー

 イタリア産ホラーだが、こういうのがスタンダードかどうかは全く不明。展開もなく、情報量も少ない、実に地味な映画だった。

 森のあちこちにカメラを仕掛けて動物の生態を調べている動物学者が、狐に仕掛けたカメラの映像に導かれて「川の向こう」の廃村に赴き、そのまま川の氾濫で戻れなくって廃村で寝泊まりするうちに怪異に遭う。川を越えると異界、という設定はとても民俗学的。

 相手は幽霊なのかと思っていると、何か物理的な力も使ってくる。どうも法則がわからない。どういう描き方をしたいのかが読めない。こういうホラーは困る。

2025年9月13日土曜日

『日本の大人』-設定の持つ可能性

 大学の劇研の公演にお誘いを受けて。

 娘の大学時代もそうだったが、大学というのはサークル棟に小さな演劇スタジオが備え付けであり、それは完璧な遮光を実現できるから、こういう公演を開くにはまことに便利なのだった。もちろんステージの裏手を移動できる通路はむろん、今回は奈落まであった。

 その奈落をそのまま舞台の真ん中に見せているから、危ないなあと思っていたのだが、ちゃんと演出に使われていた。場面ごとの小道具を次々と投げ込むのは珍しい演出だと思っていたら、クライマックスでそれがタイムカプセルに模せられ、登場人物がそこから表れるという、まことに正しい奈落の使い方をしていた。

 さて、劇作家の柴幸男という人は初めて知ったのだが、これ一作ではどうかな。

 主人公は小学6年生男子。そのクラスに32歳の「小学26年生」が転校してくる。大人になるってどういうことか、永遠に終わらない子供時代なんてあるのか、というのがテーマなのだが、となると予想されるメッセージは、子供はいつか大人になるという常識にゆさぶりをかけることと、それでも終わるしかない子供時代に対する喪失感を受け入れる痛みを描くことだと思われる。その予想があたっているのかどうかさだかではないが、その予見で観てしまったことが十分に満足しきれなかったという感触につながっているのかもしれない。

 演劇的には面白いところはある。小学生を演じている演者たちが突然大人っぽく喋りだし「仕事に行く」などと言い出す。32歳の「現在」が描かれる。この場面転換が唐突なのが面白い。これが成立する演劇空間の自由度が面白いのだ。

 小学6年生の主人公が突然32歳になって、かつてのエイリアン、32歳の小学生、熊野君と同じ立場になる。大人は働くものだと正論を語っていた主人公が、32歳の今、無職でいる。

 そう、設定は主題に対して極めて明確に見える。

 とすれば、熊野君を迎える小学6年生の主人公は、不本意に大人になることを強いられた子供であるはずだ。そういう設定は確かにある。父親が家を出て、看護師の母親は夜勤があったりして、幼い妹の食事の支度をしなければならない。そうして子供時代を失いつつある主人公が、ずっと子供でいて何が悪いと開き直る熊野君との出会いで、その固定観念を揺るがされる、という展開になるはずだ。

 確かに最初は嫌っていたはずの熊野君を家に招いて一緒に遊んだりする。だが残念ながらそれが唐突に見える。その必然性が見えるほどには、主人公の「大人を強いられること」の苦しさが描かれているようには見えないし、熊野君の自由が魅力的にも見えない。これは脚本的な弱さに見えるのだが、演出や演技がそれを補うほどに自覚的でもないように見える。大学生が子供を演じる面白さの方に重点が置かれてしまっているように見える。もちろん「大人になることを強いられた子供」を大学生が演ずるという課題が相当に難しいことは確かだが。

 「大人になることを強いられた子供」が、32歳現在、無職で、小学生から観るとかつての熊野さんのように見えているという描写はとても意図的な構図を作っているのだが、例えばその言動に相似性をもたせ、子供がそれをやる(言う)ことと大人がやることのギャップを見せるとかいう工夫は、もっとされてもいいのに、などと、この設定の持っている可能性(がゆえの不足)がどうも見えてしまって、手放しで面白かった、満足したと絶賛するわけにもいかないのだった。

2025年9月1日月曜日

この1年に観た映画 2024-2025

  ブログを開設して10年だった昨年は、それまでで最も観た映画が少ない1年だったのだが、そこから1年の今シーズンの47本は、それに次ぐ少なさ。50本を下回っているのはここ2年だけだ。忙しさの昨年度の忙しさはもうないのだが、さりとて努力をしないと映画を観る時間はとれない。観たい映画は(アマプラのリストも録画してあるのも)溜まっていくのに。

 とりあえず10本。


10/5『対峙』-赦す

10/6『Fall』-脚本作りのお手本

10/12『プラットフォーム』-社会の隠喩としての穴

12/3『素晴らしき哉、人生』-多幸感に満ちた

1/14『型破りな教室』-「型破り」という危険

2/15『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』-それぞれの論理

2/28『マイ・インターン』-ハートウォーミングなコメディという枠組み

3/11『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』-揺れるカメラ

6/24『新・感染半島 ファイナル・ステージ』-おそるべし

8/20『スクリーム4.5.6』-堂々たる


 突出した1本を選ぶことはできない。ようやく観た坂元裕二の『初恋の悪魔』に比肩しうる強い映画体験はなかった。

 邦画は1本。『MONDAYS』のみ。

 ビッグバジェットの派手な映画ではない。比較的狭い範囲で緊密な描写が成功している映画だ。もちろん脚本がよくできているからこそこれが成立する。おそらくみんなでよってたかってアイデアを出している。一人の脚本家が独りよがりで書いてはいない。

 いや、本当にすごい物語は、小説にしろマンガにしろ、一人が真摯に考えたものに多いのかもしれないが、映画は一人で書かれた浅はかな物語に多くの人の手と予算が費やされる無残がイタいので、やはりチームでなんとかしてほしいものだと思ってしまう。


 以下、「50本を下回る」この1年の映画。


9/15 『サイダーのように言葉が湧き上がる』-アニメ的演出

9/16 『桐島、部活やめるってよ』-映画人の自己愛

9/19 『エコーズ』-標準点

9/22 『プリズン13』-弛緩した

9/24『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』-クドカンに求めるもの

10/05『対峙』-赦す

『エスター ファースト・キル』-前作再評価

10/6 『Fall』-脚本作りのお手本

10/8 『鬼太郎の誕生 ゲゲゲの謎』-アクション

10/12 『プラットフォーム』-社会の隠喩としての穴

11/2 『ノマドランド』-不安と自由と孤独と連帯

12/3 『素晴らしき哉、人生』-多幸感に満ちた

12/14『呪術廻戦0』-サプリメント

12/27 『ザ・デッド2 インディア』

12/28『君のためのタイムリープ』-愛おしい

『善き人のためのソナタ』-娯楽映画として

12/30『アイの歌声を聴かせて』-AIを描く困難

1/4『ターミネーター ニューフェイト』―自然なAI

1/14『型破りな教室』-「型破り」という危険

2/10『赤毛のアン』-尺だけ

2/15『ペイ・フォワード』-そんなにうまく

2/15『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』-それぞれの論理

2/16『ビリーバーズ』-凡作だが

2/28『マイ・インターン』-ハートウォーミングなコメディという枠組み

3/6『チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』-演説の功罪

3/10『人狼ゲーム デスゲームの運営人』-運営の裏側を描く

3/11『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』-

3/15『ダンケルク』-間然するところないが

3/15『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』-言葉のスパーリング

4/04『cocoon』-もやもや

4/26『鳩の撃退法』-藤原竜也

5/3『まともじゃないのは君も一緒』-まとも

5/5『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』-わかりにくい

5/8『彼女のいない部屋』-現実と虚構のあわい

5/17『ラストシーン』-エンタテインメント短編

5/22『MEG ザ・モンスターズ2』

5/24『エクス・マキナ』-自意識と自己保存

5/25『アンキャニー』-どんでん返し

6/22『アポカリプスZ』-終末感

6/24『新・感染半島 ファイナル・ステージ』-おそるべし

6/29『プロメテウス』-のれない

7/14『青春ブタ野郎はおでかけシスターズの夢を見ない』『青春ブタ野郎はランド

7/27『Silent Fall Out』-日常と地続きの「問題」

8/12『スクリーム(2022)』-満足の新作

8/14『コラテラル』-驚くべき

8/19『恐怖のメロディ』-今となっては

8/20『スクリーム4.6』-堂々たる